32話 太陽に咲く花 その5
小日向は電車を使わないみたいで、正門前で別れた。
「あとで電話してもいい?」
「ん。わかった。何時くらい?」
「八時とかかな」
「おっけ」
電話。まあ、そうしないと話せないか。
物事が厄介なほうに転がっている気がしなくもないが……いいだろう。軽く頷く。
それまでにいろいろと調べたり、思い出しておくか。
◇
シンスプリント。先輩たちの中にもなっている人がいて、その時にいろいろ訊いたのを覚えている。マッサージやテーピングも、手伝ったのを覚えている。
家に帰って調べ物をしつつ、家事を一通り終わらせる。
一人暮らしも一ヶ月経って、だいぶ手抜きの方法がわかってきた。
八時までに風呂まで終わらせて、落ち着いて待つ。
時間通りにメッセージが飛んでくる。
『今、だいじょうぶかな』
『いつでも』
返信すると、一呼吸の間を置いてスマホが震える。
ボタン一つで応答。
「はい、もしもし」
『あ、もしもし。……こんばんは』
「こんばんは」
『変な感じだね。学校でもあんまり話したことないのに』
「それ」
『っていうか、阿月くんが誰かと話してるの見たことないよ』
「友達、いないからな」
『そうなんだ』
あはは、と困ったように小日向は笑う。
リアクションの難しい受け答えをしてしまった。そのあたりには触れないよう、俺のほうで進めるのがいいか。
「足、どんな状態?」
『ウォームアップからしばらく痛いかな。でも練習終わりにはわかんなくなってる』
「なるほどな」
『はい。質問です』
「どうした」
『結局、シンスプリントってどこの問題なんでしょうか』
電話の向こうで小日向が背筋を伸ばす気配。声のトーンも変わりやすいから、表情が音だけで読み取れる。
「骨膜っていう、筋肉の友達みたいなのが炎症を起こすんだ」
『こつみゃく?』
「こつまく。骨の膜って書いて骨膜な」
それは足の骨にぴったりとついていて、普通にしていれば存在すら気がつかない。
「小日向さんって、短距離ランナー?」
『うん。よくわかったね』
「瞬発系の動きが多いとなるやつだから。シンスプリントは」
なりやすい部活動を一つあげるならバドミントン部。固い地面を何度も蹴ることで、骨膜は疲労する。
「名前の通り、骨についた膜なんだ。だから固くなると骨を引っ張って、最終的に骨が欠ける。これが疲労骨折な」
『うわっ……痛そうだねそれ』
「他人事か?」
『自分事でした!』
「疲労骨折までいったら完全にアウト。だから、そうならないようにケアをするぞ」
『……治るかな?』
不安げな問いに、甘いことを言いそうになる。
きっと大丈夫だ。なんて。
それこそ、小日向に失礼だというのに。
「治りはしない。けど、延命はできる」
『そっか。そうだよね。うん。わかった』
大会が終わったら、しばらく練習を軽くするべきだ。
だけど、終わりはいつなのだろう。最後の大会。県大会を抜ければ関東があって、それを越えれば全国で――わからない。
小日向のレベルも、結果がどうなるかも。
俺はただ、俺に出来ることをするだけだ。
「つーわけで、最初にやること」
『はい!』
「アイシング」
『あ、アイシング……遂にあたしも、やるときが来たんだ』
「どういうリアクション?」
『腰痛が本格化したおばあちゃんと同じ気持ちだと思う』
なんて悲壮な。
そんなこと言ったら、野球部のピッチャーは全員高齢者だぞ。
『アイシング……アイシング……クラウチング』
「走るな」
『本音が出ちゃった』
「感情表現がトリッキーすぎないか?」
走り出しの姿勢でなにを伝えようとしたのだろう。難問すぎる。
東大生でもわからねえよ。
『氷水を使えばいいんだよね』
「いや、氷だけ。水入れるとずれるから。冷たいのはタオル挟めば解決する」
『ふむふむ。なるほど』
なにかを開ける音。冷凍庫の扉か?
電話の向こうから、「どうしたの?」と別の女性の声。小日向のお母さんだろうか。挨拶したほうがいいかもしれない。いや、必要ないか。
どうなんだろう。
クラスの女子が、親の前で自分と電話しているという状況。もうわかんねえな。
『ここに大量の氷があります』
「大量にはいらないな」
『レジ袋に入れました』
「二枚重ねにしたほうがいいぞ。あと、空気はなるべく入れないように」
『ふむふむ。……こう、かな。こうだよね? 合ってるよね? どう?』
「いやわからんて」
電話越しだもの。
ドタドタと忙しない様子が伝わってくる。本当に大丈夫か? 不安になっても、なにもできない。これならコンビニで氷を買って、やってみせればよかった。
『ええっと、ここをこうやって――どう、見える?』
「いやだから電話じゃ見えない……ああ、なるほど」
音質が微妙に変わったので気がついた。ビデオ通話か。そういう機能もあったな。
画質は荒いが、向こう側の様子がちゃんと見える。
フェアじゃない気がしたので、こっちのカメラもオン。壁を背にして顔を写す。
目が合うと、微妙な雰囲気になった。
なにせ両方とも風呂上がりだ。視線が泳ぐ。
「ええっと……その、なんだ。こんばんは?」
『は、初めまして?』
滅茶苦茶な会話。両方とも混乱しまくっていて、おかげで助かった。
深呼吸して心を整え、話題を戻す。やや強引に。
「氷袋、どんな感じ?」
『あ、こんな感じです。どうかな?』
「いい感じ。あとはそれを患部に当てて冷やす。ぐるぐる巻きにして放置でもいいし、自分で当ててもいいから」
『なるほどなるほど』
スマホの小さな画面では見えないが、後のことは簡単だ。
安心して一息つく。
ふぅ。まったく、なんでこんなことになった。
『んっ――つめたっ、んっ……あっ』
悶えるような声が聞こえた。
ゴスッ!
反射的に後頭部を壁に叩きつける。
なにかよくない反応をしかけた脳細胞を滅ぼし、平静を保つ。
『あのっ、ごめん! つめたいの、ちょっとにがてで……』
小さく震える小日向の声。
よくない。本当によくない。
じんじん痛む後頭部に意識を集中して、他のことは考えないようにする。
機械になったつもりで、淡々と言う。俺はペッパー君。おーけい。
「頑張って耐えてくれ。それじゃ、もう遅いからおやすみ」
『うん。……おやすみ、また明日ね……つめた』
電話を切る。スマホを置く。ジャージに着替える。外に出る。
なにも考えずに突っ走った。
ほら、小日向陸上部だし。だから感化されて走りたくなった的な。
そういうことにしておこう。
ひまテツはいいぞ!
※お知らせ※
活動報告にもあげたとおり、そろそろガガガ大賞の締め切りが迫ってヤバいので毎日更新を一旦辞めます。二日に一回とか、三日に二回とか。そんなもんになる予定です。
十月になったらまた毎日なるはず。
引き続き楽しんでください! 自分も楽しんでいきます!