31話 太陽に咲く花 その4
「ほいご苦労さん、阿月っち」
放課後、いつものように押しつけられた雑用をこなす。
職員室のルリ先生へ報告すると、回転椅子をコロコロ動かして奇妙なダンスを始めた。
足だけ固定して、腰を回す。この既視感……バランスボールを使ったヨガに似ている、
白衣を着た女性教師が、不可解なダンスをするのを見せられている。
なんだこの地獄は。
「帰っていいですよね」
「あんたね。この〝なにか言いたげなムード”を察しなさいよ」
「そんな独特な方法で示さないでくれませんか?」
「疲れてるから無理に決まってるでしょ」
「そうか……」
もう、そうか。としか言いようがない。
疲れたら変な踊りをする世界線、改変してえ。
「で、なんですか。俺に言いたいことって」
「小日向となにかあった?」
「なんでそれを知ってるんですか」
「あんなバカ騒ぎになってれば気づくでしょ。で、付き合うの?」
「仮にそういう展開だとしても、そんな直球で聞くことじゃないでしょ」
「つまんない男ね」
ルリ先生は席を立ち、机に置いていたタバコケースを白衣に押し込む。
横目でちらっと俺のほうを見て、
「来なさい」
「了解です」
近くのコンビニまで。
仕事に行き詰まったとき、あるいは話があるとき、ルリ先生は俺をそこに呼び出す。どうせやることもないので、いつも従っている。
この学校で一番関わっている相手は、間違いなく彼女である。
◇
もはやなんのために買っているのかわからないタバコ。
ルリ先生はそれに火もつけず、指先で回し、たまに咥え、すぐに捨てる。捨てる際にもなにかを真似るよう、先端を灰皿に押しつけて。
その隣で俺は、買ってもらったアイスコーヒーを口にする。缶コーヒーじゃないちょっといいやつで、違いがわからないとは言えなかった。実際、ペットボトルのとなにが違うんだろう。
「意外と大人しい生徒なのね。阿月っちって」
「どういう意味ですか」
「そのまんまよ。なにもしてないでしょ、高校に入ってから」
「……失敗を、繰り返したくないので」
茨城の五月は、もう夏の匂いがする。札幌とは大違いだ。目に映る緑の主張が激しくて、むさ苦しさを感じる。
「怖いのね。要するに」
「まあ、そういうことです」
ルリ先生の要約は、ほとんど完璧だった。
俺は人を恐れている。佐藤や小日向のような一個人レベルのことではない。集団になったときの人をだ。
集団と関わることを恐れ、自らが集団の一部になることを恐れている。
「そ。なら無理をしろとは言えないわね」
ルリ先生が優しい声を出すのは、珍しいことだった。
だからため息交じりに、本心を口にしてしまう。
「わかってるんですよ。いつかまた、俺も誰かと関わらなきゃならないってのは」
「わかってるなら、それで十分」
「いいんですかね」
一人で生きていたい。それは紛れなく本心だ。けれどやっぱり、一人では生きていけないとも思う。
孤独と孤高は違う。
俺はただ、孤独なだけだ。
「次はもっと上手くやんなさい」
「……そうですね」
その言葉は胸の奥にすとんと収まった。
終わったことはどうしようもなくて、それでも俺は進むしかないのだから。
明日は明日の風が吹く。俺が望まなくたって、日は昇る。雨は止む。
そんな単純な理屈を、ずいぶん遅れて思い出す。
「それで、ぶっちゃけ小日向のことはどう思ってるのよ」
「どうも思ってませんって」
つまんない男ね、とルリ先生は呟く。
その横顔はどこか楽しげだった。
◇
荷物を片付けて、教室を出る。電車までの時間を潰すために図書室に寄って、うっかり面白い本と遭遇。読み進めるうちに見回りの先生が来てしまった。
すっかり日は落ち、各部活動も終わりを迎える。
失敗した。この時間帯の電車は混むのだ。
ややブルーな気分で昇降口を出る。
そこで後ろから呼び止められた。
「あ、阿月くん。ちょっと待って!」
ハイトーンのよく通る声。溌剌としていて、元気という言葉がよく似合う。
振り返れば、やはり小日向だった。
「昼休み話したこと、まだちょっとしか考えられてないけど――」
彼女の琥珀色の瞳は、淡い電柱の下、なにより強く輝いて見えた。
困惑も、不安もない。
なにかを決意して、ここにいる。
周りにいる他の生徒のことなんて、まるで気にしていないようだった。今、小日向の世界には彼女と俺しかいない。
「あたしは、走りたい。もうすぐ大会があって、先輩たちはそれが最後で、だから頑張りたい」
「お、おう……じゃあ、頑張って」
「だけど、走れなくなるのは嫌だよ。怪我からも目を逸らしたくない」
強欲だ。
怪我をして走るか、走らずに治すか。
その二択に対して、小日向は最悪の答えを持ってきた。そんなものを選べたら、誰だってそうする。
だけど、不思議と悪い気はしなかった。それはきっと、彼女が本気だったからだ。
本気で全部を拾おうとしているから。どうしようもなく、惹かれた。
「じゃあ、どうするんだ?」
「調べてみるけど、あたしはそんなに頭が良くないから不安です。だから阿月くん。力を貸してくれないかな」
目を見て真っ直ぐに、躊躇いなく力を求めてくる。
「俺でいいのか」
「他の人には言えないよ。こんなこと」
笑みを浮かべると、目が少し細くなる。白い歯が覗いて、それが眩しい。
格好いいな。
こんなふうに望んだことを言えるのは、格好いい。
まるで主人公だな。
全員が主人公なんだという言葉が横行する青春で、彼女は偽りなく本物だ。
じゃあ、脇役未満の俺はどうする?
答えは決まっている。
「わかった。俺が知ってる範囲で、手伝わせてもらうよ」
「ほんと!?」
「ああ。約束する」
俺たちは、誰かを引き立てるために存在している。それでいい。それくらいがちょうどいい。
何者にもなれないのなら、せめて誇り高い脇役であろう。
「ねえ、連絡先交換しようよ。訊きたいこと、いっぱいあるし」
「どうやるんだっけ。実はあんまり、詳しくないんだよな」
次はもっと上手くやる。
心の中で言い聞かせ、スマホを取り出した。