29話 太陽に咲く花 その2
小日向ひまりには、いつも助けられている。
あいつが笑顔でいてくれることで、声を掛けてくれることで、俺がどれほど救われるか。
誰よりも明るい少女に、俺は憧れに似た感情を抱いている。それは友情の範疇をでないものだけれど。俺の胸に宿る勇気は、彼女がくれたものだ。
だから。
今から語るのは、俺が彼女を助けるまでのことではなく。
小日向ひまりが、阿月哲を救うまでの物語だ。
◇
札幌から引っ越してきて一ヶ月。茨城の高校に進学した俺は、当初の目標通りパーフェクトぼっちライフを確立していた。
誰にも近寄らず、かといって浮かない程度には立ち振る舞う。単独行動も不自然に見えないよう、堂々と。
人間関係、百害あって一利なし。
少なくとも俺にはもう、誰かと関係を結ぶなんてことは考えられなかった。人の抱える地雷原に突っ込む勇気も、受け容れる度量もない。
だからその体育の授業も、早く終わればいい。くらいにしか思っていなかった。
種目がシャトルランだった。というのもある。
そこそこの速さで走って体を温め、全体に混ざって体操をして、擬態するみたいに列に並ぶ。目立たないよう、九十回後半で落ちる。
二回に分けて行われるから、後半は暇だ。話し相手もいないので、壁に同化してやり過ごす。周りではキツかったとか、まだいけた、体力落ちてる。みたいな会話が繰り広げられる。
俺は空気だ。意識してみる。ぼんやりと周りを見るだけ。そわそわしない。自然にしろ。
そうしていれば、だんだん慣れてくる。
シャトルラン、見てるだけなら楽しいかもしれない。速いやつはターンが綺麗だし、目立ちたがりは派手だし、やる気のないやつは一回ごとにため息を吐いている。
そんな中でふと、目を奪われる。
女子側で走る一人。
短めのポニーテールを揺らしながら、先頭を走る姿に――違和感を覚えた。
名前は知っている。小日向ひまり。明るくて人気があり、目立っているから。
ちらっと走っていない男子を見れば、何人か彼女に釘付けになっている。けれどその中の誰も、気がついている様子はない。
…………まあ、どうでもいいことか。
俺の人生と、小日向ひまりの人生は別物だ。たまたま同じクラスになっただけ。重なることも交わることもなく、もちろん同じ場所も目指さない。
「阿月も小日向推しなのか?」
「…………」
唐突に声を掛けられたので、反応できない。
横を見ると、妖怪みたいに音も立てず座っている男がいる。
目が合う。逸らしたら負けだと、直感的に思った。
「話すのはこれが初めてかもな。俺は佐藤一輝。一般的な佐藤に、一番輝くで一輝だ。よろしくな」
不覚だった。
想像よりも長く、小日向のことを見ていたらしい。幸いなことに、こいつ以外には気がつかれていないようだが。
……いや、むしろ好都合かもしれない。
佐藤一輝は男子の中でもリーダーシップがあり、女子との仲もいい。学級委員長もやっているようなやつだ。
こいつを介せば、小日向のことについて本人に伝えられるかもしれない。
「俺は阿月。阿修羅の阿に、空に浮かんでる月」
「下の名前は?」
「哲学の哲」
「っぽいな。いい名前だ」
「で、なんだよ急に」
「揺れるポニーテールに惹かれるのはわかるが、小日向は恋愛禁止してるらしいから。ドンマイって言いに来た」
「そうじゃねえよ」
「そうじゃないよな」
否定すると、余裕のある笑みを浮かべている佐藤一輝。こいつは本物の妖怪なのかもしれない。得体の知れなさがある。
「阿月の目は、そうじゃなかった。だから話しかけてる」
「何者だよ」
「サッカー部の未来のエースにして主将候補、この学校で最も有名な佐藤になる男。お前は何者?」
「俺は……」
「普通じゃないよな。自己紹介のとき、一人だけ出身中学を言ってない」
喉の奥で言葉が詰まる。こいつ、そんなこと覚えてるのかよ。
ため息がこぼれる。ひとまず、こいつには敵わなそうだ。大人しく応じよう。
「ここじゃ話しづらい」
「わかった。今日の放課後、部活ないから空いてる」
「……わかった」
ひらひら手を振って、佐藤一輝は元の居場所へ。俺は内心で舌打ちした。
見透かしてくるような態度が、気に食わない。
◇
もう痛まないはずの右肘を、ふとしたときに庇ってしまう。
握らなくていいはずの白球を、指先が求めてしまう。
もし、二年前に怪我をしていなければ。俺はあのグラウンドに立っていたのだろうか。
頭を振って、思考を捨てる。たらればなんてキリがない。
自販機でコーヒーを買い、カフェインを摂取。苦味がいらない考えを追いやってくれる。
「おう。悪いな阿月。ちっと部活の先輩に拉致られてた」
やってきた佐藤にちらっと視線を向け、逸らす。
放課後の非常階段は誰もいなくて、こういうときにはうってつけだ。
「で、言えなかった話ってなんぞ?」
「…………」
缶を振って、コーヒーの残量を確かめる。
言うべきか、言わないでおくか。そんな単純なことを、今更になって考え直す。
余計なお世話だ。それは間違いない。
けれど見なかったふりができるかと言われれば……。つくづく、自分は愚かだと思う。
「小日向ひまりは、たぶん足をやってる」
「やってるって、……怪我か? でも、あいつ今日は普通に走って――」
「そうだな。百十回だっけか。すごいよな」
女子でその回数はぶっちぎりの一番だ。男子を含めても上位に食い込む。
「後半はほとんどわからなかったけど、前半の走りは明らかに不自然だった」
「そうか?」
佐藤は首を傾げる。
「まあ、……正直に言うと俺の勘違いかもしれないけど」
できればそうであってほしいと願う。だけど、勘違いではないという確信もある。あれを見るのは、初めてじゃない。
そして最悪の場合。
小日向はまだ、その怪我を問題視していない。
「そこまで言うってことは、あたりはついてるんだよな?」
佐藤の問いに、頷く。単語だけで答える。
「シンスプリント」
放置すれば疲労骨折につながる、面倒な怪我だ。