25話 少女はまだ、それを恋とは知らず その7
卓球場は少し混雑していて、近くのベンチで待つことにした。
心地いいリズムが部屋全体に響いている。台は四つあって、ゆったりしたペースで交換が行われている。
「卓球って、なんかいいよな」
のんびりした気分で、中身のないことを言ってみる。
「阿月くんは経験者なの?」
「部活は入ってないよ。中学までは野球部だったから」
「野球部」
じっと見つめてくる。
「見えないわ」
「だろうよ。もうやめて久しいからな」
中二の冬に辞めてから、もう三年近く経つ。髪型も、焼けた肌も、体格も。とっくにあの頃の面影はない。
今となってはただの帰宅部だ。
「私は卓球部だったわ」
「ちゃんと経験者か……。ボコボコにされそうだな」
「たいしたことないわよ。県大会に出るのでやっと」
「強いよな、それ強いよな?」
「二年前の話よ」
あっさり言ってのける。本当に大したことではないのだろう。氷雨の中では。
「続ければよかったのに。高校でも」
「いいのよ。別に、卓球が好きでやっていたわけではないから。他に入る部がなかったから、消去法で入っていたのだし」
「全国の卓球部の二割が抱える問題じゃん」
「でも、あの頃は卓球があったから救われていたのだと思うわ。なにかに打ち込んでいる間は、辛いことを考えなくてよかったから」
台が一つ空き、氷雨は立ち上がる。
「それにね、阿月くん。ルールの中でなら、いくら嫌がらせをしても合法なのよ」
「キラキラした目でなんてことを言いやがる」
頼むから温泉卓球でガチにになるなよ?
◇
さっき話したせいで、変に思い出してしまうな。
野球。
もうずいぶん昔のことだけど、あの経験があると他のスポーツもなんとかなったりする。少なくとも、体育の授業では困らない。
卓球なんてのは特に、野球部が謎に強い種目なんじゃないだろうか。
カンコンカンコン、一定のリズムを刻みながらラリーは続く。お互いに打ちやすい場所を狙っているし、俺のミスは氷雨がカバーしてくれる。
「上手ね」
「卓球にはイレギュラーがないからな」
「イレギュラー?」
「野球ってグラウンド競技だろ? だから下が荒れると、変なバウンドをするんだよ。それのこと」
特に中学生が扱うゴムボールだと顕著に出る。
あれを知っていると、卓球の平らな台がありがたくて仕方がない。
「どこを守っていたの? といっても、ピッチャーしか知らないのだけど」
「二番手ピッチャー。そうじゃないときは外野っていう、外側にぽつんと三人いるやつ」
「二番手……」
「エースじゃないってことさ」
素晴らしき脇役。少なくとも、当時の俺はそうあれたのだと思う。
多彩な変化球と綺麗なストレートを持つ一個上の先輩エース。その裏で、試合を繋ぐのが俺だった。失点をしても、試合を壊さない。必ず後ろに繋ぐ。
あの頃は本当に楽しかった。
俺は自分の平凡さに、脇役具合に満足していた。持ち堪えれば応えてくれる先輩たちがいたから、無敵になった気分だった。
だからきっと、主人公にはなれなかったのだ。
所詮は虎の威を借る狐。
虎にはなれやしない。狐一匹になれば、無残に喰われるだけだ。
「どうして続けなかったの?」
「……。限界、感じたからかな」
「らしくないわね」
「そうか?」
「阿月くん、不可能なんて言葉を知らなそうだから」
「知ってるさ」
きっと、年齢以上に。俺は自分の限界を思い知らされている。打ちのめされた回数は数え切れない。
まあ、でも。
「できることを不可能だとは言いたくない、かな」
強めに叩く。当然のように氷雨は返してくる。さっきよりも鋭い打球。返すのが精一杯で、高いバウンドになる。
さすがにこれは、見逃してくれないよな。
「そうね――」
爽快な音と共に、俺のコートへ叩き込まれる一撃。反応もできない。やっぱり、卓球と野球ではものが違う。
肩をすくめる俺に、氷雨がラケットを向けてくる。アップは終わりらしい。
「11点マッチでどう?」
「ハンデは?」
「もちろん、なしよ」
「おっけ。やろうか」
負けず嫌いそうだよな。勝負事とか、したことないけど。いや、そういえばしりとりも凄かったな。
ま、楽しんでやりますか。
「――っと、その前に一つ。浴衣なんだから、あんまり大きく動くなよ」
注意すると、氷雨はきゅっと胸元を押さえる。やっぱり頭になかったらしい。
危なっかしいなぁ。ほんと。
「ほれ、いくぞ」
俺からのサーブで始める。
結果は11―8で俺の負け。
まあ、善戦したんじゃないか?
◇
十分楽しんだ。楽しみすぎた。
火照った身体。隣を歩く氷雨の頬はまだ赤く、顔の前で手をぱたぱた仰いでいる。
あまりに暑いもんだから、宿を出てあたりをふらつく。雨は止んで、しんと静まった夜道には虫の声が鳴る。気温も下がって、さっきまでの嵐は嘘のようだ。
けれど、俺の頭にあるのは「夜風の心地よさ」なんて高尚なものではなかった。
部屋、戻りたくねえな。
マジで戻りたくねえ。
きっと氷雨は気がついていないし、見たとこで気にしない可能性もあるけど。
どうしたもんかな。つらつら歩きながら、考えを巡らせる。どうしようもない。これこそ不可能ってやつだ。
ずいぶん忙しい夏休みになってしまった。まだ始まって一日って嘘だろ。
「ねえ、阿月くん」
そっと袖を引かれる。
「?」
振り返れば、氷雨は空を見上げていた。
その横顔に、言葉が詰まる。
彼女の目に映り込んだ星が、この世のものとは思えないほど美しくて。泣いてしまいたくなったから。
綺麗なものを見ると、優しい人に出会うと、心が折れそうになる。その清廉さが、いつか穢れてしまう気がするから。俺が汚してしまいそうな気がして。
そうか。
だから俺は、小日向ひまりを友達と呼ぶのだ。
だから俺は、氷雨小雪を友達と呼ぶことができなくて、息苦しいのだ。
名前のない関係性は、否応なく自分の内側に入ってくる。そこが居場所だと疑うこともなく、気がつけば隣にいる。不思議そうな顔をして、無垢な瞳で見つめてくる。
「月が綺麗ね」
「雨上がりだからな」
「……ええ」
不思議な沈黙があった。
ただ星空だけが幻想的で、しばらくの間立ち尽くす。現実逃避のようだ。
だが、それも長くは続かない。冷たい風が思い出させる。
「……戻ろう。そろそろ冷えるだろ」
風邪を引いたら元も子もない。いい加減、現実と向き合う時間だ。
食事中に敷かれていたであろう、二枚の布団と。
月が綺麗と言ったのは、月が綺麗だったからです。