23話 少女はまだ、それを恋とは知らず その5
みんなの願いは受け取った。
あとは任せてくれ。
湯船に肩まで浸かると、全身からあらゆる緊張感が抜けていく。
「極楽……」
泉質は弱酸性で、ほんのり硫黄の香りが漂う。色は透明で、温度は高め。檜の湯船というのがまたいい。
露天風呂も併設されているのだが、今日は使用できないらしい。雨はだいぶ収まっているが、さっきまでが酷すぎた。
息を吐く。
やっと、いろんなことを受け容れられるようになってきた。落ち着いてくると、まあ、しゃーないか。とも思える。疲れているだけなのかもしれない。
のぼせる前に立ち上がって、大浴場を出る。
髪を適当に乾かして、浴衣に着替え、入り口にあった自販機でコーヒー牛乳を買う。
ここで待っていようかとも思ったが、あんまり目立つのもな。大人しく部屋で待っていることにしよう。一気に飲み干して瓶を回収箱に入れた。
部屋に戻って、テレビをつける。夕方六時に流れるのはどれも無害なもので、風呂上がりにちょうどいい。ポットに入っていたお湯を使ってお茶を淹れ、ほっと一息。
なんか、馴染んできたな。
案外なんとかなるのかもしれない。
ぼんやりとした安堵が生まれてきたのと同じくらいに、ノックの音。氷雨が戻ってきたのだろう。
「今開ける」
大丈夫。自分に言い聞かせて、ドアを開ける。
「いいお湯だったわ」
「…………おう」
大丈夫じゃないかもしれない。
俺としたことが、女子の湯上がりを甘く見ていた。最後にそれを見たのは中学生の頃だったから、完全に頭から抜けていたのだ。
まだ乾ききらない、艶やかな漆色の黒髪。白い肌はまだ熱を帯びていて、頬がほんのり赤い。目も心なしとろんとして、いつもより無防備だ。
おまけに浴衣なのがよくない。地味な柄であるがゆえに、純粋な和風美人の氷雨によく合っている。いつもは見えないような首元やうなじも外に出ていて――
「ふんっ」
ゴスッ! 鈍い音を立てて壁にぶつかる。なにが? 俺の頭が。
「なにやってるの!?」
「ちょっと脳細胞を選別した」
じんじん広がる痛みのおかげで、冷静さを取り戻すことが出来た。
なにが浴衣だ。たかが浴衣。その程度で動揺するなんて、まだまだ俺も未熟だな。
浴衣――ん?
「帯、ちゃんと結べてなくね」
腰の前で結んではいるのだが、てろーん、と垂れ下がっている。
指摘すると、氷雨は余った帯を手に取る。
「阿月くんはできているのね」
「まーな。適当だけど。氷雨さん、温泉は初めてか?」
「二回目よ。でも、ずいぶん昔に行ったきり」
「なるほどなぁ」
どうりで。下手くそすぎるとは思ったけど。
どうしようか。悩んでいると、おもむろに氷雨は帯を解き始めた。するすると畳の上に落ちていく。
「なにやってんの!?」
胸元を押さえた氷雨は、なにごともなさそうに拾った帯を渡してくる。
「結んでくれるかしら」
「結んでくれるかしら、じゃねえよ! 心臓止まるかと思ったわバカ!」
「私、バカじゃないわ」
「学力の話じゃねえ!」
あくまで不思議そうな顔をしている氷雨。こいつ……っ。
おかしいのは俺なのか? いちいち反応してしまうこっちに非があるのか?
多数決を採りたいのに、この場には俺と氷雨しかいない。どんな意見を述べても半々だ。ふざけてやがる。
「帯……」
「わかったから! やるから!」
俺が抵抗すると、氷雨はしゅんとしてしまった。帯もしていない状態で。このままではいろいろダメというか、全部ダメなのでやるしかない。
「ほら、貸して」
帯を受け取る。
感情を殺せ。俺はなにも感じない。
「まずは帯の半分を見つけてな、その中心を体の正面、真ん中に合わせる。で、後ろに持っていって交差させて――」
できるだけ触らないよう、イライラ棒でもやるような丁寧さで帯を回す。
それがあまりにも簡単すぎて、氷雨の腰はやたら細くて、柔らかくて、脆そうで。近いし、いい匂いするし――
「あとはこうやってこう!」
神がかり的な速度で残りを片付ける。自分でもどうやったかわからない。
ただ、形はちゃんとしている。正面での蝶々結び。
「女性はこれでよかったはず。あとは知らん」
「上手なのね」
「妹にやったことがあるんだよ」
「妹?」
「凛って名前の、わっけわからんやつがいてな。あいつは札幌だから、しばらく会ってないけど」
氷雨は目をぱちくりさせる。
「なに考えてんだよ」
「いえ、……その、もしも私が阿月くんの妹だったら、どうだったのかなって。思っていただけよ」
「俺の妹? 氷雨さんが?」
また突拍子もないことを。
「妹さんには、どんなふうに接しているの?」
「格ゲーで泣くまでボコボコにする」
「そう。大切にしているのね」
「聞いてた? ねえ、俺の話聞いてた?」
「泣くまで付き合ってあげるんでしょう? 立派なことだと思うわ」
「やめて! 俺を強引に美化しないで!」
心苦しくて死んでしまう。
泣くまでやるのは、一向に諦めない凛のせいでもあるけど。俺はただゲームやってるだけだし。
「っつうか、急にどうしたんだよ。俺の妹になりたいのか?」
冗談めかして聞くと、氷雨は緩く首を振る。
「そうじゃないわ。ただ少し、羨ましいと思っただけよ」
「…………」
「でも、家族じゃなくても助けてくれるのが阿月くんなのよね。だから、妹になる必要はないわ」
「そうかい」
別に、誰だって助けるわけじゃない。たまたま目の前にいて、放っておけなかっただけだ。そこには間違いなく偶然が存在している。
ヒーローじゃないから、俺はパトロールなんてしない。目に映らなかった誰かの苦しみは、俺には届かない。
「さっきお母さんに電話したのだけど」
「お母さんに電話!?」
「ええ」
「そ、そうか……そうだよな。するよな……。どうだった?」
氷雨は微笑んでいる。わくわくしている無邪気な子供のように。
「楽しんできなさいって。だから阿月くん。今夜は、思いっきり楽しみましょう」
…………。
変なため息が出る。安堵と、笑いと、呆れとが混ざったものだ。
「なあ、氷雨さん」
彼女は否定するだろうけど、言わずにはいられない。
どうかこれからも、その純粋さが穢れないように。胸の中で祈りながら。
「やっぱり、お前はバカだ」