21話 少女はまだ、それを恋とは知らず その3
電車は知らないうちに栃木県へと入っていたらしい。
見知らぬ駅名だなと思っていたら、どうりで。
北海道歴のほうが圧倒的に長いので、関東地方のことはあまり詳しくない。
今住んでいるのは茨城県だが、昔は納豆のイメージしかなかった。今も納豆のイメージしかない。
じゃあ栃木にどんなイメージがあるかというと、日光東照宮しか出てこない。あとはそう、餃子の消費量が最近、静岡の浜松市に負けているんだとか。
素晴らしき無駄知識。俺の人生、こんなのばっかだ。
「今日の最終目的は、そのスイーツか?」
「そうよ。遠いところに行って、美味しいスイーツを食べて帰る。ずっと夢だったのよ。――っていうのは、さっき思いついたのだけどね」
「思いつき?」
「目的がほしくなったのよ」
「なるほどな」
頷くと、氷雨は満足そうにして、立ち上がる。
「美味しいといいわね」
電車は速度を落として、ホームに入っていく。ここで降りるらしい。
「そうだな」
降りたのは、田舎とも都会とも言えない、中規模の町だった。駅前には進学塾とコンビニがあって、タクシー乗り場も整備されているような。普通の町。
なにを食べるのだろうか。栃木、スイーツ。ちっとも思い浮かばない。
改札を出たところで、ちらっとレモン牛乳なる文字が見えたけど、……あれじゃないよな?
しかしレモン牛乳ってなんだ。一体なにがレモンなんだ? レモンを食べさせた牛から絞った牛乳で、ちょっと爽やかになっているのか?
ヤバい。心が完全に奪われている。気になってどうしようもない。
だが、今は氷雨が楽しみにしているスイーツのほうが大切。自分に言い聞かせて、冷静さを取り戻す。
「すぐに見えるわ」
「駅から近いんだな」
レモン牛乳への執着をどうにか抑えつつ、氷雨の横を歩く。なんか意識していると思われそうで嫌だけど、道路側をキープ。
「あまり混んでいないといいけど」
ぼそりと氷雨が言うのと、人の集まりが見えたのは同時だった。
お祭りかと疑うほどに大量の人が、巨大な列を成している。その列の先は、だいぶ先にある一軒のお店らしい。
「…………」
「…………」
二人揃って閉口してしまった。
さっきの口ぶりからして、氷雨はある程度の混雑を予想していたのだろう。だが、予想を遙かに超えてきたらしい。
俺はというと、シンプルに長蛇の列に驚いていた。すげえ、ニュースで見るやつじゃん! みたいな。我ながら脳天気だと思う。
氷雨は、気まずそうに口を開く。
「ええっと、ここまでとは思わなくて。阿月くんを待たせるのは申し訳ないから、――」
「並ぼう」
「え?」
「並んでみよう。食べたいものがあるんだろ?」
「……いいの?」
上目遣いで聞いてくる。無意識でやっているんだろうけど、それは卑怯だ。
肩をすくめて、軽く笑う。
さて、なんと返したもんか。
ちらっと頭をよぎったのは、最近聞いた大人の言葉だった。
「いいよ。待つのは好きだから」
あんな風に自然には言えないけど。少し大きめの靴を履くような気持ちで。
「店長みたいね」
「…………言うなよ。恥ずかしい」
顔を逸らすと、明らかに氷雨が面白そうにしている。見なくてもわかる。っていうか顔をのぞき込んでくる。
話題を逸らそう。
「で、なにを食べるんだ」
「かき氷よ」
「かき氷? かき氷って、あのかき氷?」
「そうよ。氷を削った伝統的なスイーツよ」
「おおっ。ということは、もしやあれか」
わざわざ遠方まで来て食べるからには、祭りのやつとは違うのだろう。
でっかい氷をゴリッゴリに削って、これでもかとシロップをかけたやつ。あれはあれでザ・不健康って味がして好きだけど。
「そう――この先にあるのは、ふわふわかき氷よ」
キラーンと氷雨の目が光る。
物理的には光っていないが、やっぱりこいつ、目がやたら雄弁なんだよな。
「ふわふわかき氷って、あれだよな。真っ白で雪みたいな」
「ここのお店はね、シロップも自家製なのよ」
「なんと」
そりゃあ行列も出来るわけだ。
氷雨はネットで見つけた画像を見せてくれる。
確かに、いちごシロップなんかはジャムのようだし、カフェオレ味なるものもあるらしい。他では見られないものがずらりと並ぶ。
その中に。
「れ、レモン牛乳味!?」
出会ってしまった。これを運命と呼ばずに、なにを運命と呼ぶのだろう。俺たちはどうしようもなく惹かれ合っていたのだ。お互いに。
「決めた。俺、これにする」
「それは……なに?」
「俺もわからん」
「そう。私はこの、とちおとめシロップにするわ」
「美味しそうじゃん。いちご、好きなの?」
「ええ。とても好き」
なにげなく氷雨が言った、好きという言葉。耳元で囁かれたそれが、妙になまめかしくて、動揺する。
スマホの画面を一緒に見ていたから、自然と顔も近くて。
「そ、そうか……」
距離を取る。できるだけ自然に見えるよう、スマホを取り出す。自分のほうでも調べてますよと。明らかに不自然だ。
なにやってんだ、俺。
ため息をつく。
なにか氷雨に言われそうな気がしたけど、そっぽを向いてスマホに食いついていた。なにか面白いものでも見つけたのだろう。
列は思ったよりも早く進む。前を見れば、店内だけではなく持ち帰りもやっているらしい。かき氷を受け取った人が、場所を見つけて座っていたりする。
列は進む。俺たちはなにも話さなかった。
列は進む。たまに、「疲れないか?」「平気よ」くらいの会話をする。
そしてようやく順番が回ってくる。どれくらい待ったのだろうか。時計を確認したいとは思わなかった。
「こちら、とちおとめです。こちらが、レモン牛乳です」
だが、その疲労も渡されたかき氷によって吹き飛ぶ。
見慣れたものとは明らかに違う、真っ白な氷の結晶。同じ削るでも、鰹節を削るような状態に近いのだろう。一つ一つが薄い塊として積み重なっている。
結局、店内には入れず、外で食べることにした。適当な木陰を見つけて入る。周りにも同じようにしている人がいて、本当にお祭りのようだ。
「じゃあ、食べるか」
「ええ」
氷雨は真剣そのものだった。手に持ったスプーンでそっと、丁寧にすくって一口。
そのまま固まった。
「…………」
その目が、なにかを俺に訴えてくる。口をむずむずさせて、言いたいことを堪えているようだ。
よくわからないまま、俺も一口。
「…………」
氷雨の表情の意味がわかった。俺も固まって、じっと彼女の目を見つめ返す。
絞り出すように、一言。
「美味いな」
「美味しいわね」
ふわふわな氷は、舌に触れた瞬間に溶ける。使っている水がいいのだろう。氷自体が美味しいと思うし、さらにこのシロップ。レモン牛乳とか、完全にネタだろと思っていたがそんなことはなかった。レモン風味の練乳のような、まったりした爽やかさがある。
「レモン牛乳も美味しいの?」
「ああ。一口いるか?」
「いいの?」
頷く。氷雨は躊躇いがちにスプーンですくって、一口。
「美味しい……っ。これを注文したとき、阿月くんの味覚を疑いかけたけれど、そんなことはなかったのね」
「地味に毒を混ぜるな」
ネタ枠扱いだったけどさ。
「とちおとめも美味しいわよ」
「…………じゃあ、一口もらおうかな」
一瞬だけ間接キスの文字がよぎったが、別にあーんしてるわけじゃないし。いまさら気にするのも恥ずかしいし。どうせ氷雨は気にしてないし。アホらしい。
味は、なんつうか。甘酸っぱい。美味しいんだけど、よくわからなかった。
「どう?」
「美味しいな。栃木のいちごは格別だ」
うまいこと誤魔化す。
あとはそれぞれが、自分のぶんを楽しめばいい。また一口、口に運ぶ。
ちらっと氷雨のほうを見れば、やはり彼女は、どこか遠くを見るような目をしていた。今日一日、ずっとそんな感じだ。
俺との時間を通して、俺ではないなにかと向き合っている。
おそらくは、父親と。
涼やかな風が吹いた。暑い夏には似合わない、クーラーのような一吹き。
氷雨がぶるっと体を震わせる。嫌な寒さだ。
「……降るな」
呟いたのと、最初の一滴が落ちてくるのは同時だった。
晴れた空から、滝のように雨が降ってくる。
頭上にあった木が運良く雨宿りの場所になってくれる。空は一気に暗くなって、さっきまでの晴れが嘘のようだ。
「ゲリラ豪雨ってやつだろうな。運が悪い」
止むまでここにいたいが、高いところでもない。すぐに足下が濡れてしまう。
氷雨はサンダル……服も濡れさせるわけにはいかないし、風邪を引かせるなんてもってのほかだし。
しゃーない。
残りのかき氷を食べ終える。
「傘とか買ってくるから、ここで待っててくれ」
「え、この雨なのに……」
ついでにカップとスプーンをお店で捨ててもらって、雨の中を走る。大粒の雨が、あっという間に全身をびしょ濡れにする。
最悪だ。でも、雨の中を走るのは嫌いじゃない。後悔するけど。着替えもないし。
駅前のコンビニに入って、傘とタオルを買う。
外に出て、傘を差して気がつく。既にずぶ濡れの俺。傘、意味ねーじゃん!
それでも傘は差して戻った。この雨の中、差さずに走っていたら完全に不審者だ。
戻る頃には、周りに誰もいなくなっていた。車に避難したり、どこかへ移動したようだ。
氷雨に傘を渡す。
彼女は困惑した顔をしていた。不思議そうではなく、ただ戸惑っていた。
「ほい、傘。そんでタオル。とりあえず移動するぞ」
「ずぶ濡れじゃない」
「いいんだよ、俺は。そのうちここも水没しそうだし、早く」
「よくないわ。風邪を引いたらどうするのよ」
「そんときは治せばいい」
「阿月くんって、時々なにを考えているのかわからないわ。ここで待っていればよかったじゃない。なのにどうして――」
どうしてこいつは、こんなことに突っかかってくるのだろう。
どうしてこんなに、必死になっているのだろう。
俺が濡れているから? 俺が風邪を引くから? わからない。だとしたら、ありがとうなんだろうけど。そうじゃなくて。なにもかもが違っていて。
イライラする。
どうしてこんなに無自覚なんだろう。
あれだけ告白されておいて。自分がどう見られているのか、ちっともわかってない。
もちろん、俺は氷雨小雪に恋をしていない。恋愛感情なんてものはない。だけどそれ以前に、俺は男で、男としてのプライドもあって――
「せっかくオシャレして来てくれた女の子を、泥だらけにできるかよ。その服、気に入ってるんだろ? 化粧だってしてる。氷雨さんがどう思うかは知らないけど、それは俺にとって、俺が濡れることより大事なことなんだよ」
一気にまくし立てる。
また柄にもなく熱くなってしまった。こういうのは得意じゃない。冷静になると恥ずかしくて、逃げたくなる。
いっそ晴れろ。晴れてしまえ。
それで全部、笑い話になってくれ。
だけど雨は止まない。
周りの音もふさがれて、世界に二人だけ取り残されたようだった。
「行くぞ」
「……うん」
氷雨はそれ以上なにも言わなかった。それだけが救いだった。
◇
『――駅付近で土砂崩れが発生し、現在線路の復旧作業を行っております――お急ぎのところ大変ご迷惑をおかけしますが、今しばらくお待ちください』
…………は?
「いやいやいや」
「……た、大変なことになったわね」
運転見合わせが一時間ほど続いて、運休の文字に変わった。
俺たちは、帰れなくなった。




