19話 少女はまだ、それを恋とは知らず その1
目覚めの気分は最悪だった。
太陽がやっと顔を出した五時半。意識は覚醒してしまい、これ以上は眠れそうにない。
体を起こし、電源を落としていたスマホを起動。
眉根を揉んで、視界のピントを合わせる。
メールが一件来ている。氷雨からだ。俺が電話を終えてすぐに送ってきたらしい。
『いつでもいいのだけど、丸一日空いている日はないかしら』
ほぼ毎日なんだよなぁ。
帰宅部の夏休みは基本的にずっと暇だ。そろそろ一輝や小日向の予定もでるから、いろいろ詰まってくるだろうけど。
少なくとも、当面はなにもない。
『割といつでもオッケー。なんなら今日でも』
送信して、シャワーを浴び、歯を磨く。心に溜まっていたモヤモヤは、だいぶ薄まっていた。
まだ食欲はないので、テレビに繋いであったゲーム機の電源をオンにする。画面が明るくなって、やりかけのRPGが表示される。
だいたいのRPGがそうであるように、この作品も主人公は世界を救う。「あー、俺も世界救いてー」なんて思いながらコントローラーを弄る。
六時半になって、そろそろ腹が減ってきた。セーブして電源を落とし、ついでにスマホを確認する。
返信は来ていた。
『じゃあ、今日でもいいかしら』
早起きだな。と思ったが、まだ夏休み一日目だ。学校に通う習慣が抜けていないのだろう。かくいう俺も五時半に起きてるし。
『おう。何時にどこに行けばいい?』
返信はすぐに帰ってくる。メールの速度とは思えない。
『早くても大丈夫かしら』
『今すぐとかじゃなければ』
『八時に駅でいい?』
『おっけ。遅れないように行く。持ち物は?』
『特にはないわね。必要な物は、こっちで準備できるから』
『了解。それじゃ』
『ええ。ありがとう』
あと一時間半か。
朝食は昨日の残り物のおかずと、インスタント味噌汁、炊飯器に米もある。
よし。
もうちょっとゲームできるな。
◇
集合時間の十分前に到着。駅舎の中にあるコンビニでお茶を買って、日陰のベンチに腰掛ける。
ネットニュースを流し読みしつつ、時間を潰す。
八時を回っても、氷雨はやってこなかった。立ち上がって辺りを見回しても、それらしい人影はない。
あいつが遅刻するようなタイプじゃないのは、なんとなくわかる。遅れるには理由があるはずだ。無事ならいいけど。
もうしばらく待とう。十分経っても来なかったら電話してみるか。
十分待った。
電話をかけようかと思い始めた頃に、視界に見覚えのある服装が映る。
白いブラウスに、ベージュのロングスカート。白に近い色の麦わら帽子。歩きにくそうなサンダル。肩からは可愛らしいポーチを提げている。
横断歩道の向こう側。彼女は赤信号を恨むように、じっと睨んでいる。こちらには気がついていないようだ。
信号が青に変わる。少女は小走りで渡ろうとする。
「走らなくていいから」
氷雨のところまで歩きながら、止める。
「サンダルで走ったら痛いだろ」
「あ、阿月くん……ごめんなさい。遅れてしまって」
申し訳なさそうに見上げてくる氷雨。
その上目遣いが、思わず見蕩れそうなほど綺麗で、「お、おう」と言葉に詰まる。
いつも綺麗だとは思っているが、今日はなにかが違った。詳しくないけど、たぶん、化粧だ。ナチュラルで薄く、だが確かに、彼女の魅力を引き立てている。
「いいよ。いろいろ準備があったんだろうし」
女子の遅刻に文句を言うわけにはいかんよな。男みたいに服着れば終わりじゃないし。やることが多ければ、計算も狂う。
「それで、今日はどこに行くんだ」
「行けるところまでよ」
「ほう」
急に面白そうなことを言う。そういうの、嫌いじゃない。
「店長に言われたのよ。『君が思っている以上に、人はどこにでも行けますよ』って。それでね、辞めるとき、お給料の代わりにこれをくれたの」
氷雨はポーチの中から、切符を取り出す。
それは見慣れない、けれど聞いたことのある切符。
青春18きっぷ。
どこまでも行ける、自由の証だった。
「食えない人だな」
「そうね」
苦笑いしてしまう。どうせ、お金を渡すと問題になるから。別のなにかで対価を払おうとしたのだろう。最悪、この切符は売ることも出来る。
切符は五枚ある。一枚につき一日乗り放題。
「日帰りで、行けるところまで。付き合ってくれる?」
「もちろん」
「飲み物とお昼ご飯が必要ね。先にコンビニに寄ってもいい?」
「次の電車はまだっぽいし、そうするか」
◇
諸々の準備を済ませて、改札を抜ける。
プラットホームに流れる空気が肌に纏わり付く。この不快感にも夏を感じられて、嫌なのにふとした瞬間に恋しくなる。
黙っていてもいいのだが、なんとなく話しかけてみる。
「その服、この間買ったのだよな」
「そう。阿月くんが可愛いと言った服よ」
「やめて! その言い方、なんかすごい恥ずかしいから!」
「でも事実よ」
「言っていい事実と言わなくていい事実があるんだよ」
「言わなくていい程度なら、言うわ」
「確固たる決意!」
要所要所、絶妙に嫌なところで頑ななやつだよなぁ。
「お母さんも似合ってるって言ってくれたのよ」
「……よかったな」
「今日のお化粧も、しつこいくらいに教えてくれたの」
「そりゃ、遅れても文句は言えないわな」
「料理も、作ってほしいって言って。食べてくれたのよ。美味しいって」
「…………」
答える言葉は思い浮かばない。そんなものは存在しない。
「私はなにも知らないけれど、きっとあなたが、なにかをしてくれたのよね。それがなにか、聞くのも野暮なことだと思う。だから、これだけは言わせて。ありがとう」
ルリ先生に頼んで、氷雨の担任から彼女の母親へ伝えてもらったことがある。
調理実習で、すごく手際がよかったです。料理をたくさん練習していたんだと思います、と。
もちろん嘘だ。
うちの学校の調理実習は一年生までしかない。俺は同じクラスになったことがないから、知るよしもない。
ただ一つ、一生懸命に練習をした部分だけが真実だった。
悪人は最後に一つ、彼女に追い風を吹かせることができたらしい。
ホームに電車が入ってくる。この時間帯の車内は空いているようだ。
「足下、気をつけて」
列車に乗り込む。
氷雨は微笑んで、俺の後についてくる。