18話 初恋は朽ちた花のよう
夏休みの中で一番興奮するのは、終業式が終わってからの数時間だと思う。
その時間帯の心の中は「夏休みじゃおらぁあああ!」「学校教育がなんぼのもんじゃあああ!」「ウリィイイ」みたいに荒れ狂い、恐ろしいほどの全能感に襲われる。
来たる長期休暇になにをしようか。希望に満ちた結果だ。
まあ、実際に始まれば暑さで引きこもり、無為な日々を過ごすうちに宿題のリミットだけが迫ってくる。というのがリアルで、家に帰る頃にはだいぶ落ち着いている。
いつも通り家事を済ませれば日は暮れる。
7時半を回った頃、家を出た。
ひんやりした風の吹く道を、ゆったり歩く。軽く回り道をして、8時頃に到着。
暗い路地で一軒。暖かな光を宿すカフェ。森本珈琲。
「こんばんは」
「お待ちしていましたよ。阿月さん」
店じまいをしていた店長が出迎えてくれる。招き入れられるまま店内に入る。
示されたカウンター席に座る。
「お疲れさまでした。君のおかげで、小雪さんはここを辞めることができました」
「やっぱり、最初から辞めさせる気だったんですね」
「避難場所になればと思っていました。彼女の抱える問題に気がつく人が現れるまで」
同じ学校の誰かに見つかって、教師に報告がいく。それでもよかったのだと。店長は穏やかな表情で言う。
食えない人だ。
きっとその時はその時で、丁寧に対処したのだろう。俺よりもずっと深く、遠くまで物事を見ている。失敗のその先にさえ、ちゃんと手を打ってある。
「注文をどうぞ。今日はこちらからのサービスです」
「…………」
条件反射でコーヒーを頼みそうになって、こらえる。いい加減にカフェインの取り過ぎだ。寿命が削れてしまう。
「コーヒー以外のおすすめはありますか?」
「もちろん。森本珈琲という名前ですが、実のところ売れているのは別の商品だったりします」
「複雑ですね」
「コーヒーは大人の男性が飲むもの、というイメージは強いですからね」
「うっ」
「どうされました?」
「いや、大人の真似をして飲み始めたので……今は普通に好きなんですけど」
恥ずかしいことを思い出してしまった。
店長はほっほっほ、と貫禄のあるフクロウみたいに笑う。
「レモネードはいかがでしょう?」
「レモネード?」
「はい。この夏の新商品です。まだ店頭には出していないので、ご意見をいただけるとありがたいです」
試作品ということか。テンション上がるな。
注文すると、滑らかな手つきで準備をしてくれる。洗練された所作を間近で見ることができるのは、カウンター席の醍醐味なのだろう。
円錐型のグラスに透明な液体と氷。縁にはレモンを差し、最後にミントの葉を浮かべる。オシャレで清涼感もあり、女子ウケもよさそうだ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
あまりの上品さに目がくらみそうだ。映え映えだろこれ。写真を撮りたくなる気持ちもわかる。撮らないけど。
慣れない手つきで一口。
すっと透き通った酸味と、レモンの風味が鼻を抜ける。舌で感じた甘さは風のように軽やかで、すぐになくなる。
「――ッ、これは」
「いかがですか?」
「スイーツにも合いそうですね」
「こちらの意図をくみ取って頂けるとは。さすがは阿月さん」
「いやいや、こんなすごいものを飲んだら誰でもわかりますって」
甘すぎず、コーヒーのような癖もない。口直しにも使えて、食後ゆっくりするにもちょうどいい。無駄を極限までそぎ落とし、必要なものだけを兼ね備えている。
「こちら、日向夏のゼリーになります」
「その組み合わせは――っ」
絶対合うに決まってる。
ほっほっほ、と笑う店長は、誘惑で人をダメにする悪魔のようだった。
◇
絶品スイーツに骨抜きにされ、薬物の切れた人みたいな状態で家に着く。
スマホを確認すると、数分前に親からの着信が来ている。夏休みだから、いつ帰省するか相談しないとな。
ベランダに出て、家の固定電話にかける。
コール四回。真っ先に聞こえたのは、想像よりも高い声だった。
「もしもし、阿月です」
「お、凛か。久しぶりだな」
一個下の妹。阿月凛。
「もしかして、あにぃ?」
「あにぃ?」
「兄貴じゃ可愛くないから、あにぃ」
「お兄ちゃんでいいんだぞ」
「それはちょっと恥ずかしいよ」
「あにぃのが百倍恥ずかしいと思うんだが」
俺の感覚がズレてるのか、凛がおかしいのか。向こうは現役JK。すごいよな現役JKって。肩書きだけでマジョリティの風格がある。
「なにぃ?」
「ちょっと面白い略し方をすんな」
「どうして電話かけてきたの? 早く言わないと切るよ」
「唐突に塩対応! もっと優しくして!」
「だってえ、今からみたい夢があるんだもん」
「眠いの? それともイタいの?」
相変わらずふざけたやつだ。誰に似たんだか……まったく。
さっさと用件を済ませて終わりにしよう。凜と喋っていると脳が冴えて眠れなくなる。
「お盆の時期に帰るって、父さんと母さんに言っといてくれ。それだけ」
「りょーかい。あ、そだそだ」
「どうした?」
電話の向こうで、凛は無邪気に言う。
きっと、俺が喜ぶと思って。手に入れた情報をくれたのだろう。
「花音さんも、お盆には帰ってくるって」
「…………」
「あにぃ?」
「いや。ありがとな。知っておいてよかった」
明るい声を作って、礼を言う。
「それじゃ、おやすみ」
「え、うん。おやすみー」
電話が切れるのと同時に、深いため息がこぼれる。
新島花音。
もう二度と、その名前を聞くことはないと思っていた。嘘だ。聞きたくないと願っていた。それだけだ。
スマホの電源を落として、空を見上げる。
街灯に負けなかった星たちが、憎らしいほど輝いている。
その夜空の下で、初恋の記憶に蓋をする。
何百回と繰り返したことだから、それはとても簡単なことだった。