16話 なにも知らない者同士
来週から暑くなるらしい。そんな話を、氷雨としたっけな。
ベッドの上から動けないまま、天井を睨みつける。
ああ、これはダメなやつだ。
動けない。やばい。一人暮らしの体調不良、絶望感しかないんだよな。風邪薬はあるけど、風邪じゃないし。水分。とりあえず、水分取らないと。
台所まで這っていき、冷蔵庫から取り出した麦茶を飲む。立っているのもしんどい。
テストは午前中だけ。午後には治っているだろうか。
ひとまず、ルリ先生に電話しとくか……。時計を確認する。七時五十分。いつもならもう、学校にいる時間だ。
ベッドに戻ってスマホを拾い、電話帳から直接かける。しばらく待っていると、繋がった。
「おはようございます。阿月です」
『あんたどうしたの。……まさか、風邪?』
「熱中症っぽいです」
『はあ? この暑いのにクーラーつけてなかったの?』
「扇風機もタイマーで止まってたらしく」
『バカじゃないの』
「バカかもしれないです……」
ぐうの音も出ないとはこのことか。
「治ったら行こうとは思ってるんですけど」
『自宅待機。これは命令よ』
「今日は大事な用事が、」
『テストが終わったら行ってあげるから。それまで生存してなさい』
一方的に切られてしまう。とりつく島もない。
動ける気力もない。クーラーをつけて、ぶっ倒れる。
どうにか手を動かして、氷雨にもメールを送る。
『体調崩した。明日にしてほしい』
学校自体は金曜日まである。
ルリ先生との約束の期限まで、残り三日。
どうせ返信は来ないだろうけど、見てはいるだろう。見られてなかったら、そんときはそんときだ。
寝よう。今はとにかく、回復しないと。話にならん。
◇
玄関チャイムの音が鳴る。
それでやっと、自分が眠っていたことに気がつく。身体を起こしてみる。辛いけど、朝よりはずっとマシだ。
時間は一時半。想像よりずっと早かったな。
ルリ先生、学校のこととか、いいのかよ。
「はーい、今開けます………………え?」
ドアを開けた先にいたのは、氷雨小雪だった。
長い髪に、真っ直ぐな瞳、雪のように汚れのない肌と整った容姿。ピンと伸びた姿勢。見慣れた姿の彼女が、そこに立っていた。
「なんでここに」
「住所は菱崎先生に聞いたわ。ちゃんと合法よ」
「そうじゃなくて」
「呼んだのは、阿月くんのほうよ」
「…………」
「これでも一応、看病しに来たんだから。中に入ってもいい?」
「……わかった」
氷雨は真っ直ぐに俺のことを見ていた。譲らない意志を感じて、通す。
ルリ先生が言っていたのは、このことだったのか。だったら先に言っておいてほしかった。心の準備がまるでできていない。
「狭いけど」
「一人暮らしなのね」
「まあな」
氷雨には椅子に座ってもらって、俺はベッドに腰を下ろす。
「阿月くんは横になって。辛いんでしょう?」
「気にすんな。別に、これくらい大丈夫だから」
「本当?」
すっと手が伸びてくる。額に冷たい感触。
椅子から身を乗り出した氷雨の顔が、目の前にあった。
「熱はなさそうね」
「――ッ、あ、ああ。……風邪じゃないから、な。ただの熱中症だし」
「そう」
驚いた拍子に頭痛がしたけど、これはノーカン。体調が崩れたわけじゃない。
氷雨は鞄を開けると、中からペットボトルを出す。
「飲んで」
「ありがとう」
話すためにいろいろ考えていたはずなのに、なにを言えばいいのかわからなかった。
こういうときのスポドリ、めっちゃ美味いよな。冷えてるのじゃなくて、常温の。なんか落ち着く。身体に沁みるのがよくわかる。
「どうして一人暮らしなの?」
「こっちの高校に進学するため。俺、中学までは他県なんだ」
氷雨が聞いているのは、そういうことではないのだろう。俺のことを見る目は不満げで、責めるような色をしていた。
「……親との関係は、悪くないよ。むしろいいほうだと思う。まあでも、逃げたのは事実だ。俺は人間関係から逃げるためにここに来た。だから、逃げることの必要性も、そうすることで楽になることも、俺は知ってるんだ」
「そうだったのね」
氷雨はどう思っただろうか。
俺は黙って、彼女が口を開くのを待った。
「お腹、空いてる?」
「え?」
「お腹が空いているんじゃない?」
「まあ、朝も食べれてないからそろそろ――ってそうじゃなくて」
「台所借りるわね」
「ええ……」
くるりと背を向けた少女は、迷うことなく冷蔵庫を開け、調理器具を取り出す。こっちのことなんてお構いなしだ。
包丁のリズムが心地よく響く。音だけでわかる。彼女がどれだけ練習したのか。俺にはあんなふうにはできない。
どうせ止めても無駄だから、ベッドに横たわる。
本当に。
母親のことが大好きなんだろうな。氷雨は。
だからあんなに美味い料理を作れる。自分が食べるだけの料理と、誰かのために作る料理では根本が違う。
一人暮らしを一年していれば、なんとなくその違いはわかってくる。
彼女の母親だって、氷雨のことをちゃんと大切に想っているのだろう。
大切に想っていない娘に、「可愛い服を買ってきなさい」なんて言わない。
だから、原因は一つに絞られる。
氷雨が振り返った。ぼんやり背中を見ていたので、目が合う。
「もうすぐできるわ」
「早いな」
「そうめんがあったから、お吸い物に入れたのよ」
お椀に箸を乗せて、テーブルに載せてくれる。
ベッドから立ち上がって、椅子に座る。立ち上る湯気がいい匂いで、食欲が湧いてくる。
「自分で食べられる?」
「さすがにな」
あーんしてもらうわけにはいかんだろ。道徳に反している。
「いただきます」
お椀を持って、傾ける。温かいお吸い物が胃に流れていく。
体の奥からほっとする味だ。
材料もそれほど多くない。シンプルで、だからこそ作り手の腕が出る。
「やっぱ美味いなぁ……うん。料理が美味すぎる」
「よかった」
料理を褒めると、口元が小さく緩むのは癖らしい。顔を背けてしまうのも。
それを見ると、落ち着かない。これでいいはずがないと、心が訴える。
笑っていてほしい。無理矢理でも、嘘を隠すためでもなく。自信を持って笑ってほしい。
「ありがとな。来てくれて助かった」
氷雨は首を横に振る。
「大したことはしてないわ」
「助けられたと思ったのは、俺の主観だ」
「…………そうね」
驚いた顔をして、彼女は頷く。今の会話を思い出したのだろう。
あれから、まだそれほど経っていない。
「私、自分はもっと阿月くんのことを知っているものだと思っていたわ」
「俺もだよ。結局、氷雨さんのことをなにも知らない」
どれだけ推測しても追いつけるはずがない。たとえ答えを聞いても、違う人生である以上は限界がある。
そんな当たり前のことを、忘れそうになる。
「ごめんなさい。……この間は、私ばっかり偉そうなことを言って」
「いや、俺のがひどかった。最悪だ。本当に。……ごめん」
結局、最初から俺にできることなんて一つしかなかった。その一つがなければ前に進めないのに、飛ばそうとした。
俺はなにも知らない。知らなくていい。そんなことは当然だ。
だけど、たった一つ確かなことがある。伝えなくてはならないことがある。
「無責任だとは思うし、理屈は通ってないのはわかってる。だけど、俺は君に、側にいてほしい」
他の誰かが言ったなら、きっと愛の告白になってしまう。そうすれば氷雨は受け取らないだろう。
だけど、俺の言葉ならきっと届く。彼女はきっと、受け取ってくれる。
「――どうして、」
氷雨は言葉に詰まる。その目は潤んでいた。
「どうして阿月くんは、…………私は、あなたなんかに会いたくなかったのに!」
大粒の涙がこぼれ落ちる。
「あなたのせいで、あなたがくれた場所のせいで、私は逃げるのが怖くなるのよ! 前まではなにも怖くなかったのに、今は、すごく怖いの……だから、」
赤くなった目で、俺のことを真っ直ぐに見つめてくる。睨みつけるように。
「今日で終わりにしたかったのに…………」
「大丈夫だよ。氷雨さん」
「大丈夫なんかじゃない!」
震えた声で、氷雨は叫んだ。なにかに怯えているようだった。
「父親が帰ってくるのよ。再婚するかもしれないって、言っていたの。傷つけられても、お母さんにはあの人が必要なのかもしれない。わからないの。なにもわからないのよ。ただ、私はあの人が怖い。好きだと言ってくる男の人が、いつかああなるんじゃないかと思うだけで怖いのよ。その気持ちが、阿月くんにはわかるの? 他の誰かがわかってくれるの?」
こんなに苦しんでいる人を、俺は見たことがない。
自分の感情と、環境に板挟みにされて、どうしようもなく生きてきた。
彼女の雨は止まない。俺は傘を差す。だけどいつか、その雨すらも止ませたいと願ってしまう。
「お母さんにさ、やめてくれって言ったのか?」
「言えるはずがないじゃない。そんなこと……私は――」
「そうだよな。幸せになってほしいんだもんな」
氷雨小雪は母親の幸せを望んでいる。
だから家を出て行く理由にさえ、嘘を吐くのだ。父親のせいにはせず、母親が嫌いだからと。嘘を吐くのだ。
再婚したことに、母親が後悔しないように。
本当に。この世界はどうかしている。
いつだって傷つくのは、優しい人だ。
「俺もさ、親のこととかよくわかんないよ。子供が一番とか言われたって、それが当たり前じゃないとも思う。だけど――」
腹の底から苛立ちがこみ上げてくる。
こんなに誰かを憎いと思ったのは、いつ以来だろう。
「そんなものは、君が不幸になっていい理由にはならないんだよ!」
「――っ」
「嫌なら嫌って言えよ。ちゃんと伝わるから。それをやる前に、諦めないでくれ。なんかあったら、俺が聞くし。力になるし。小日向も一輝も、味方なんだから。だからもう、一人で泣くな」
氷雨は涙を拭う。何度も何度も。頷きながら、止まらない涙を拭う。
長い時間が必要だった。十分、二十分。待ち続けた。それを面倒だとは、思わなかった。
「わかったわ。言ってみる。……だから、一つお願いがあります」
顔を上げた氷雨は、瞳に強い意志を宿していた。
俺は頷く。当たり前だ。
「私に、勇気をください」
恐る恐る、氷雨が手を伸ばしてくる。小さくて細い、簡単に壊れてしまいそうな手。
どうすればいいかほんの一瞬だけ考えてから、両手でそっと包み込む。傷つけないように。大丈夫だと、言い聞かせるように。
「俺がついてる」
「……不思議なものね。今なら、全部が上手くいきそうな気がするわ」
そうなればいいと、心から思う。
どうか最後の策が、唯一残った裏技が、彼女の力になりますように。