15話 止まない雨に傘をさすということ
俺が落ち着くまでの時間を、店長は静寂で繋いでくれた。流れるジャズはそのままで、和らいだ空気の店内はゆりかごのようだった。
「もう大丈夫です。すみません、取り乱して」
「いえ。待つのは好きですから」
初老の紳士が言うと様になるなと思う。そんなことを考えられるくらいには、気持ちを立て直していた。
店長は柔らかな笑みを浮かべている。生まれた時からこの表情なのだと言われたら、信じてしまいそうになるほど自然に。
「小雪さんの手を取るのが、君で良かったと思います」
「結局、なにもできませんでしたけどね」
「そんなことはありませんよ。さっきも言ったとおり、君は間に合ったんです」
なにを根拠にそんなことを言っているのだろうか。
返す言葉は見つからなくて、目を逸らす。
「私は、君よりもほんの少しだけ長く生きています。だから、世の中にはどうしようもない問題があることを知っています。人の力ではどうしようもない、解決の手段がないことだってあることを。そんなものが特別ではなく、ありふれたものだということも」
理不尽は存在する。
誰の身にも平等に、降りかかりうる。
だけどそれを認めてしまえば、幸福は確率論だ。たまたま理不尽にあわなかったから幸せで、理不尽にあったから不幸になる。
それを認めることが、大人になることなら。
俺はまだ、子供でいたかった。愚かでいたかった。
「無理なんですかね。どうにかするのは」
「君が解決を求める限り、太刀打ちできない問題はいくらでもあるでしょうね」
「…………」
窓の外では、雨が降り始めていた。
「人は雨を止ませることはできません。ですが、傘を差すことはできます。これはそういう話です」
「雨、ですか」
そのたとえを聞くたびに、思うことがある。
「もし、その雨が止まないものだとしたら……俺は、どうすればいいんですか?」
「晴れた場所を目指すんです。傘は雨宿りの道具ではなく、雨の中を歩くためのものなのですから」
コーヒーの湯気の向こう側で、店長は俺のことを見ている。
「君の手には、なにがありますか?」
傘に値するものが、残っているのだろうか。
弄した策はすべて崩れ、引き留めるための正当な言葉もなく。
たった一つ、本当に伝えたい想いだけがある。
それは歪んでいて薄汚い、エゴの塊だ。胸の奥にしまって、絶対に表に出さないと誓った、間違った言葉。
「見つかったみたいですね」
「…………感情論は嫌いなんです」
「なぜですか?」
「頑張れとか、なんとかなるとか、意味がないじゃないですか」
「耳が痛いですね。そういう言葉は、つい使ってしまいます」
叫んですべてがどうにかなるなら、今頃世界を支配しているのはニワトリだ。俺たちは人間で、だから考えて、適切なことを選ばないといけない。
だけど、今俺がこねている理屈は屁理屈だ。
頭ではもう、店長が言っていることを理解していた。理解しているのに、逃げようとしているだけだ。
「ですが、君の想いはありふれたものではないのでしょう?」
「――、はい」
たぶん、この世界で俺だけが氷雨小雪に抱いている感情。
それは恋愛感情ではなく、ゆえに特別となりうる。かつて恋を失った俺だから持つことのできる、特別なたった一つ。
わかっている。
あとは勇気の問題だ。
「苦手なんですよね。昔っからこればっかりは」
相手が大人で、それほど深い関わりがないから言えることだ。身近にいる人には、こんなに情けない姿は見せられない。
「怖いんです。拒絶されるのが……でも、それじゃダメなんだよなってのも、頭でわかってて。後悔したくないし……やります。やってみます。だから――」
顔を上げる。
精一杯の努力をして笑う。ガッチガチの表情筋で、きっと、あの日の氷雨と同じくらい下手くそに。
まだ理想を振りかざしていたいなら、このくらいで折れるな。
格好つけろ。前を向け。
俺は――阿月哲は、まだやれる。
「もしフラれたら、コーヒーでも淹れてもらえませんか」
◇
メールを送った。氷雨に、ほんの一文。
『来週のテストが終わった後、言いたいことがある』
返信は来なかった。
金曜になって、土曜になっても。受信ファイルに増えるのはスパムメールだけだった。
もちろん、日曜日になっても。
週が明けて学校に行く。月曜から三日連続のテストは、水曜日が最終日だ。
教室に行くと、さっそく勘のいい奴が近づいてきた。
「テツ~、氷雨となんかあった?」
「お前は面倒臭いな」
「もうちょっと言い方ってもんがあるだろうが!」
「すまん。つい本音が」
「本音だからまずいんだろうが! もうやだ、テツ鬼!」
「なんだよ、その弱そうな鬼」
なっはっは、と豪快に笑う一輝。
教室に人が少なくて助かった。こいつの声は大きくて、たまに周りに申し訳なくなる。
「困ってたら、このカズキチに頼ってもいいんだぜ」
「アヅキチみたいなのはやめてくれ。キャラが被る」
アヅキチのキャラも立っていないのに、なんの心配をしているんだか。
背もたれに体重を預け、余裕ぶった調子で言ってみる。
「今回は俺がなんとかする。一輝は温存だな」
フリだけでも、本当になんとかなる気がするから不思議だ。
「そうか。なら頑張れ。俺は見てる」
「見てんなどっか行け」
そんな感じで、一輝は氷雨との距離を取ることになった。元々、積極的な関わりがあったわけでもないが。
気になるのは小日向のほうだった。何度か話したが結局、向こうから氷雨について話題が振られることはなかった。俺のほうから聞くようなことも、なかったけれど。
月曜と火曜のテストを淡々と済ませ、家に帰る。やることが決まった以上、無駄に悩むことはない。
ただ、誤算があった。
今週に入って、いよいよ暑さが本格的になった。悩んでいなくとも、一日に二度は、来るはずのないメールを確認する。夜中の小さな物音が、氷雨からの着信ではないかと思ってしまう。
精神は緩やかに削れ、眠りは浅く、そして最後にツケは回ってくる。
水曜の朝、目が覚めたときに感じたのは寒気だった。それに加えて異様な倦怠感と、激しい頭痛。
「……そんなの、ありかよ」
朝の七時。室内の気温は、三十度を超えていた。
明日、一章を完結させます。
二人の結論を見届けて頂ければ幸いです。