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14話 始まりの場所で、君に問う。

 空き缶をゴミ箱に投げ入れても、素晴らしいアイデアは浮かんでこなかった。

 ここらへんが、現状の限界か。


 本当はもう少し様子見したかったが、打つ手がないのでは仕方がない。


 胸の中で覚悟を固めつつ、図書室に戻る。


「のんびりだなテツ。さては余裕か?」

「いつもやってるからな。テスト時期だから苦しいってことはないぞ」


「ぐっ、……」

「そういう一輝は進んでるんだろうな」


「やってらぁ」

「ほんとだ」


「ほら、さっさと続きやろうぜ。こっちは質問が溜まってんだ」

「へいへい」


 椅子に座り、問題集に目を落とす。

 だいぶ落ち着いたからか、さっきよりは集中できた。


 一輝はきっと、俺が悩んでいることをわかっていた。その上で、気がつかないフリをしてくれているのだ。本当に必要になったら、俺は迷わず一輝を頼るから。まだ、その時ではないのだろうと。


 ノートの上でシャーペンを動かす。その早さをなぞるように、時計の針は回る。




 六時になって、校舎が閉まる。片付けて昇降口から出て、そこで俺たちはバラバラになる。一輝と小日向は電車通学ではないのだ。


「小雪ちゃんありがとー。また明日ねー」

「ええ」


 お互いにひらひら手を振る女子たち。

 男子二名は驚きに目を見開く。おまけにハモる。


「「めっちゃ仲良くなってるやんけ」」


 それに対して小日向は口を緩ませ、首を傾ける。


「小雪ちゃん、優しいからねえ」

「そんなことないわ。……小日向さんが話しかけてくれるからよ」


 ふいっと氷雨が目を逸らしたのは照れ隠しからだろう。音は小さかったが、彼女の透き通った声はちゃんと聞こえる。

 ますます表情を緩ませる小日向。


「昼休みもいっぱいお話しよう! うん。あたし、小雪ちゃんと仲良くなりたい」

「え、……ええ。じゃあ、そうしましょう」


「やった!」


 満面の笑みで喜びを表現する小日向。

 その裏で一輝は、俺の横にすっと近づいてくる。耳元でぼそり。


「俺たち、いる意味あったのか?」

「やめろ」


 ほんとにやめろ。





 改札を抜けて、ホームに着くまで俺と氷雨は他愛のない会話をした。

 他愛のない会話がどれくらい他愛ないかと言うと、「今日の授業、どうだった?」とか「来週は暑いらしいな」とか、そのレベルだ。


 初対面の相手ならまだ仕方ないものの、相手は氷雨である。片想いの相手でパニクっているわけでもない。


 我ながらコミュニケーション能力を疑うね。

 それでも、適当な話題でなんとなく会話は続く。続かなくても、黙っていればいい。ここらへんが楽なところだ。


 本題を切り出したのは、電車に乗って、自宅の最寄り駅に着き、改札を抜けたところだった。


「なあ、氷雨さん」

「どうしたの?」


 立ち止まることなく、会話は続く。


「前に言ってたことなんだけど、聞かせてくれないか。氷雨さんのことについて」


 コツコツと革靴の音が鳴る。

 沈黙の最中も、足は止まらなかった。迷っていたわけではないのだろう。


 元からある答えを、口にするだけ。そんな調子だった。


「明後日、空いてるかしら」

「木曜?」


「ええ。働くのは少しだから、阿月くんに来てもらうつもりはなかったのだけど」

「森本珈琲か。わかった。そうしよう」


 俺と氷雨が出会った場所。それ以上にふさわしいところはないだろう。


 こくりと小さく、しかしはっきりと氷雨は頷く。準備はできていたらしい。彼女もなにかを察して、あるいはなにかを決意したのかもしれない。


 胸がざわつくのは、氷雨の横顔が、悲しいほどに綺麗だったから。







 木曜の授業は、ほとんど頭に入らなかった。考え事をしているうちに時間は過ぎ、あっという間に放課後になる。

 あらかじめ一輝と小日向には、予定があると伝えている。今日の勉強会はなし。


 氷雨と合流し、一緒に森本珈琲まで行く。道中での会話はほとんどなく、その沈黙には息苦しさがあった。


 店に入ると、カウンター越しに店長が「いらっしゃいませ」と微笑む。会釈して返すと、いつも座っているテーブル席へ案内してくれた。その間に氷雨は奥に入って、働く準備をする。


 夕方のこの時間、カフェにはゆったりした時間が流れる。客はまばらで外はほの暗く、店内にはスローペースのジャズが流れる。


 コーヒーを頼んで、鞄から文庫本を取り出す。

 健全な学生としては教科書でも読むべきなのだろうけど、頭に入る気がしなかった。気を紛らわすには物語がいい。本当はそれだけで、人生のすべてが完結すればいい。


 ページをめくる音が、少しずつ意識を現実から切り離してくれる。文字は頭に流れ込んで、他のことを考える空白をなくしてくれる。


 だいたい半分まで読み終わったところで、陶器の硬質な音。顔を上げれば、目の前にもう一人分のカップが置いてある。


「お待たせ」

「おう」


 本を閉じて鞄にしまう。


「今、いいところだったんじゃない?」

「大丈夫。まだちっとも盛り上がってないから」


「半分くらい読んでいたのに?」

「ミステリーってそういうもんだから。もちろん全部じゃないけど」


「そう。なら、いいのね」


 頷くと、氷雨はすっと背中を伸ばす。習うようにして俺も姿勢を正す。


「全部話すのは物理的に難しいから、聞いてくれると助かるわ」

「わかった」


 聞きたいことは、一つに絞ってある。


「氷雨さんが家を出たいと思った、その経緯を聞かせてほしい」


 彼女は頷くことも、反応を見せることもなかった。

 どんな問いでも答えるつもりだったといわんばかりに、落ち着いていた。


 ティーカップを口に運び、静かに話し始める。



「最初に言っておくと、私の家は母子家庭よ。父親は暴力を振るう人で、中学生からは別居しているの。だからもう、何年も会っていないわ。会いたいとも思わないけど。

 母親は、……冷たい人よ。

 知っているでしょう? 世間体のためにお金だけ渡して、服を買ってきなさいと言うような人よ。

 それだけじゃないわ。

 阿月くんに渡したお弁当箱、あれが元々母親のものだった。というのは半分嘘ね。だってあの人は、一度しか使わなかったんだから。

 まだ純粋だった頃の私はね、母親の力になりたかったの。負担を減らしたかった。だから、料理を作ることにした。けれど、渡したお弁当にはほとんど手をつけてもらえなかった。

 仕事が忙しいのはわかるわ。

 だけどあの人の目には私が映っていない。もしかすると、嫌いな父親の面影が浮かぶから、遠ざけたいのかもね。

 そんなところよ。

 そんな生活だから、こんな人生だから、私は逃げたいのよ」



 陶器の高音だけが、現実感を持った音だった。

 淡々と語る氷雨の声は、異国の言語のように聞こえて。ふわふわと耳をすり抜けてしまいそうだ。


 それもそのはず。


「嘘つきだな。お前も」


 氷雨小雪は笑っていた。ひどく自然に、普通の少女がそうするように。そんな笑い方、するはずがないのに。


 だから、今の話は嘘だ。

 そして同時に、なによりも明確な真実への手掛かりだった。


 皮肉なもんだ。嘘のほうが本当のことよりずっと、役に立つことがある。


「納得いかなかったんだ。やっとわかったよ」


 これまでの氷雨を見ていれば、おのずと繋がってくる。

 そうして導かれた結論は――


「わかったら、阿月くんになにかできるの?」


 俺にはどうしようもない場所にあった。もちろん、氷雨にも。


「…………っ、」


 どうしようもない現実と、氷雨小雪の意志。その二つが、揺るぎない壁として塞がっていた。


 解決法なんてあるはずもない。


 あと三年遅ければいいという問題ですらなかった。子供でも、大人でもなにもできやしない。

 誰にも触れられない、彼女自身の問題だから。


 否。問題ですらない。向こうからやってくる障害は、問題とすら呼ぶことはできない。


 机の下で拳を握った。俯いて、顔を上げられなかった。


「なにもできないでしょう。でも、そのことを責めているんじゃないのよ。阿月くんには感謝してるわ」


 うるさい。

 黙ってくれ。

 今、考えてるから。どうにかする方法。なんとかなる道を。魔法みたいな奇跡を、考えてるから。


「あなたは優しいけど、優しさは万能ではないのだと思うわ」


 知っている。そんなことは、俺が誰よりも知っている。


 優しさなんかゴミ以下だ。なんの役にも立たない。だから俺は、悪人になった。


 まだ……足りないのかよ。

 守りたいものを守るには、救いたい人を救うにはどうすればいいんだ。わからない。結局、なにもわからない。


「もうすぐ夏休みね」


 なにも言えない俺に、氷雨は話し続ける。聞いたことがないほど柔らかい声で。そっとなぐさめるように。


「短い間だったけど、あなたに会えてよかった」


 誰よりも優しい女の子は、いつも一人で泣いている。


 誰もそれに気がつけない。

 俺もそれに、気がつけなかった。


「さよなら。阿月くん」


 ベルの音が鳴る。


 顔を上げたとき、正面の席は空白だった。

 胸の中を締める虚無感。冷めたコーヒーの苦みが、今日はやけに不愉快だ。

 背もたれに体重を預ける。ため息すら出てこない。ぼんやりと天井を見上げる。


 帰ろうか。どうせいたって、なにもない。


 鞄を持つ。伝票を持って立ち上がる。それで気がついた。

 店の中に客がいない。まだ営業時間は続いているはずなのに。


「今日はもう、店じまいです」


 初老の店長がトレーを持ってやってくる。慣れた手つきでテーブルを片付けると、そこに新しいカップを二つ。


「少しお話をしましょう」


 今更言えることなんて、なにもない。


 さっきまで聞きたかったことも、すべてが無意味になった。たった一つの現実は、積み上げた理想のすべてを容易く砕く。

 ハッピーエンドなんてもの、ここにはない。


 なのに。

 店長は穏やかに言う。


「大丈夫。君はちゃんと、間に合ってくれましたから」

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