13話 だから、阿月哲は思考する。
俺の家は、最寄り駅から歩いて十五分のところにある。
賃貸のワンルームで、築十五年。一月の家賃は三万円プラス光熱費。
世の高校生が憧れる、一人暮らしである。
まあ実際のところは、炊事洗濯などの家事一式をやらなくちゃいけないし、大変だというのが先に来るもので、羨むようなものではない。
友達と一緒に深夜までゲームとかは、大学生にならないとできそうもないし。唯一のメリットと言えば、テレビの奪い合いが起きないことくらいだ。
真っ暗な部屋に灯りをつけると、いつもの景色。ベッドと机と、テレビにゲーム機。干しっぱなしの洗濯物が、生活感を全力で表現している。早めに畳まないとQOLが地に堕ちてしまう。
冷蔵庫を確認して、ほとんど空になっていることに気がつく。
若干ブルーな気分になりつつ、エコバッグを持って家を出る。
近くのスーパーに向かっていると、後ろから声を掛けられた。
「学校外で会うとは珍しいじゃないか、阿月っち」
パンツスーツ姿のルリ先生がいた。珍しく白衣を着ていない(学校外では着ないのだろう。さすがに)。
「仕事終わりですか?」
「そゆこと」
鼻歌交じりにカゴを取って、店内に入っていく。俺はそれについていく。カゴは別のもの。同居しているわけではないので。
ただ、俺とルリ先生の関係はかなり特殊だ。
「一人暮らしは最近どうなの。ちゃんと食べてる?」
「一汁三菜バッチリです」
「そ。ならいいわ」
事情があって俺は、県外から今の高校へ進学している。ルリ先生はいわゆる保護者のようなもので、ゆえに普通の教師と生徒ではない。
その結果が過剰な雑用と、数多の悪事に繋がっているわけだ。
店内を移動しながら、会話は続く。
「氷雨の件、本当にあれでよかったの?」
「大丈夫……だと、思います」
ルリ先生にした頼み事。いわゆる裏技のことだった。
たった一つ、俺のような子供には手を出せない場所がある。そこに布石を打ってもらったのだが、改めて聞かれると、どうも躊躇ってしまう。
「断言しなさいよ。情けない」
「そこは人生経験の不足といいますか……予測には限界があるというか」
「自信がないの?」
「いや、氷雨さんの料理は美味いです」
「なんでそんなこと知ってるのよ。気持ち悪っ」
「事情があるんですよ! 海よりも深くて山よりも高い事情が」
「ストーカー?」
「信用して! 俺のこと、もうちょっと信用して!」
「わかったわ阿月。落ちてるのを食べたのね」
「妖怪なの!? ルリ先生の中の俺って、そういう化物だったの!?」
「そうよ」
「ついに言い切りやがった……っ」
「で、本当は?」
遊びは終わりだと、急に真剣な顔になる。
この緩急がルリ先生の、大人らしさだと思う。空気の替え方を知っていて、話しづらいことも引き出されてしまう。たぶんこの人、尋問とか向いてる。
仕方なく、氷雨から弁当をもらったことについて話す。
「――ということがあったんですよ」
一連の話が終わる頃には、会計も袋詰めも終わって、店の外に出ていた。
生ぬるい空気に混じった排気ガスの臭いが、妙に夏らしい。
ルリ先生は大して表情を変えることなく聞き終え、頷いた。
「ふうん。じゃあ大丈夫ね」
「そうなんですか?」
「わざわざお礼に料理を持ってくるのよ。自信があるか、ちゃんと練習したかに決まってるじゃない」
「確かに、……そうか」
「阿月はどう。自分の料理を誰かに、お礼として出せる?」
「無理ですね」
軽く笑って肩をすくめる。なるほど。ルリ先生の理屈は筋が通っている。
「それじゃ、引き続き頑張りなさい」
「了解です。また明日」
家の前で別れる。
俺とルリ先生は近くに住んでこそいるが、同じアパートではない。家に帰れば、やっぱり一人だ。
さっきまで話していたから、氷雨のことを考えてしまう。
俺がどうして、こんなに彼女に介入するのか。こうも見ていられないのか。
彼女の行く先にあるものが、今の俺だからだろう。
いくつもの後悔と、取り返しのつかない失敗をした。中学まで積み上げた人間関係はゼロになり、居場所を失い、ここにいる。
逃げることを間違いだと言う資格は、俺にはない。
ないけど、彼女はまだ間に合う。やり直せる場所にいる。失ってほしくないと願ってしまう。
上手くいくはずだ。すべてが順調に進んでいる。誤解は必ず解ける。だから上手くいく……よな?
頭の中でぐるぐると、氷雨小雪の人物像が描き出される。それを元にして、ひたすら推測を重ねる。何度もやったことだ。
なのに、ここに来て。
強烈な違和感が襲うのだった。
◇
なにかを見落としている気がする。致命的で、どうしようもないことを。
整えていた盤面が、それ一つで崩れるような爆弾が。ある気がする。
「どうした、テツ」
「ああ、いや……なんでもない。ちょっと難問に遭遇した」
一輝の声に引き戻され、繕うようにペンを回す。すぐ横では、氷雨と小日向が顔を突き合わせている。
「だからね、ここはこの活用形で……」
「ふむふむ。なるほど難しいね」
「高校レベルなら、この単語しか出ないから。暗記すればいいわ」
「そうなの?」
「ええ。それより小日向さん。数学、この問題なんだけど……」
「あー、そこはこの公式の導出方法を使った考え方でね――」
なんだかんだ上手くやっていた。
っていうか、想像の百億倍くらい円滑に進んでいる。
氷雨が古文を教え、小日向が数学を教える。お互いの得意と苦手が噛み合っているらしく、ずっと二人で話している。男子は蚊帳の外だ。
こっちはこっちで、勝手にやっている。極めていつも通りに。
「テツ先生ー、全教科教えてクレメンス」
「地理は一輝の担当だろうが」
「なんか書いたら当たる!」
「ぶっ飛ばすぞ」
なにが悲しくて俺、こんな体育会系とじゃれているのだろう。
深々とため息を吐く。
それでどうにか、胸に巣くう不安感も忘れたかった。だけど拭えない。じわじわと浸食する毒のように、全身を蝕んでいく焦燥感。
ならばこれは、正しい直感なのだろう。
「すまん一輝。ちょっとコーヒー買ってくる」
次回 『始まりの場所で、君に問う。』