10話 たとえば、あなたに好きだと言われたら。
夏用の服を二、三着買ったところで満足いったらしい。
ぐったりした俺に反して、氷雨はやけに上機嫌だった。ちょっと目を離せば、鼻歌を歌っていたりする。
「ノルマクリアよ」
「もう一回遊べるどん?」
なんて会話をしながら、昼食をどうしようか考える。もう一時だ。腹も減る。
フードコートをうろうろして、空いている席を見つけ、座る。疲れと、なんとかなった安心感でため息がこぼれる。
「あらためて、今日はありがとう。助かったわ」
「おうおう。満足してくれたなら願ったりだ」
氷雨が持ってきてくれたお冷やを飲み、半日を振り返る。
「ま、俺も楽しかったっちゃ楽しかったし」
その場その場ではふざけんなと思うことも、思い返せばただの笑い話だ。嫌な気はしない。
「ならよかった。楽しめたのは、私だけじゃなかったのね」
「氷雨さんは見るからに楽しそうだったよなぁ」
表情には出ていなかったが、あっちへこっちへ試着祭り。新しい服を着ては、可愛いと言わせ(これがちゃんと可愛いから困る)、どういう遊びだよ。
ずいぶん贅沢な遊びだな、と思う。
本当に、悪くなかった。
だけどそれも終わりだ。ここから先は、答え合わせの時間。
昼食のサンドイッチとコーヒーを買って、座席に戻る。入れ違いで氷雨が買いに行く。
待っている間に、頭を整理する。
今日に決めていた。
もう一歩、俺は彼女に踏み込む。それで関係性が変わるかもしれない。今みたいに純粋ではあれなくなるかもしれない。
それでも、目を逸らすことはできない。
俺と氷雨はこのままいけば、近い将来、終わりを迎えてしまうだろうから。
離さないと決めたのだ。一度差し伸べた手は、なにがあっても離さない。
氷雨が戻ってくる。彼女はホットドッグを買ってきたようだ。
揃ったところで、食べ始める。
しかし……どのタイミングで話したものか。場所もタイミングも、今ではない気がする。
「この後、ちょっと行きたい場所があるんだけど。付き合ってもらえるか?」
「いいけど、どこなの?」
「屋上」
不思議そうな顔で氷雨は頷く。
俺は考え事をしながら、サンドイッチを口に運んだ。味のことを考えている余裕はなかった。
◇
エレベーターを使って屋上へ上がると、夏の風が吹き込んできた。
眼下に広がるのは海。絶景とまではいかないが、開放感のある場所だ。
人はまばらで、日陰もある。
「綺麗ね」
「海は好きなのか?」
「ええ。小さい頃に何度か遊びに行ったわ」
そんな時代があったのだ。氷雨小雪も、海で走り回るような時代が。
今この状態で生まれてきたわけではないのだから。そんな当たり前のことを、時折、見失いそうになる。
氷雨は柵に体重を預け、海を眺める。長い髪が風に吹かれる。
その横顔が、あまりに儚かったから。
慎重に切り出そうとした言葉は、いとも簡単にこぼれ落ちた。
「氷雨さんはさ、いなくなるのか?」
「…………本当に、阿月くんには隠せないのね」
風は止んだ。世界は静寂で包まれる。
俺たちは向き合って、言葉を交わす。
「どうしてそう思ったの?」
「俺は探偵じゃないから、説明するのは苦手だ」
「気にしないから、聞かせて」
彼女が望むのなら、そうするのが義務なのだろう。
一つずつ丁寧に、繋げていく。
「最初、君がアルバイトをしていたとき。俺は生活に不自由しているのかと思った。そうしないと生きていけないから、仕方なくしているのだと」
「……続けて」
「でも、そうじゃなかった。少なくとも氷雨さんには、料理を練習するような余裕があった。あれだけ丁寧な味は、苦しい生活とは不釣り合いだ」
小さな違和感ならいくつもあった。
俺にとって氷雨小雪は、蜃気楼の向こう側にある謎ではなかった。近くにいるのに、実体の掴めない、つぎはぎの謎だった。
「一つ聞きたいことがある。俺に渡してくれた弁当箱。あれは元々、誰のものだった?」
「母のものよ」
「お母さんとは、上手くいってないんだな」
これは迷わなかった。気を遣って曖昧な言葉を使うのは、氷雨に対して不誠実な気がしたから。
「そうね。でも、まだ私がいなくなる理由には繋がらない」
「最後まで言わなきゃダメか?」
「お願い」
「服を買いに行くって言ったとき、『服を買わなければならない』って言ったよな。だから元々、これは君の意思じゃない。強制されていて、それを心苦しいと感じている」
「……ええ」
「それで、ここはただの推測なんだけど。氷雨さんの男嫌いは、父親が原因なのか?」
「……思い出したくもないわ」
「なら、繋がったよ。君がお金を貯めているのは、いなくなるためなんだ。家出じゃない。もっと決定的に、自立するために」
ここではないどこかへ。
誰も、氷雨小雪を知らない場所へ。
家に居場所がなく、学校でも一人で、男子からは言い寄られ、女子からは疎まれ。
自然な帰結なのだろう。
そして、ありふれた悲劇なのだろう。
俺はもう、この世界が望むほど理想的ではないことを知っている。
人は人を楽しんで傷つけるし、涙は笑顔で簡単に隠せる。助けを求めても答えがないこともあって、助けを求めてもらえないこともある。
一つ息を吐いて、肩の力を抜く。
「こんなところかな」
「概ね正解。でも、阿月くんの推理には欠陥があるわ」
「欠陥? まあ、証拠不十分なところはあったけど」
「確かに、私は貧しくて苦しんでいるわけではないわ。だけどもしかすると私は、服を買いたくてアルバイトをしているのかもしれない。ぜんぶ言葉の綾で、本当はただの不良なのかもしれない」
「相手が君じゃなかったら、当然それも考慮したさ」
「じゃあ、どうして?」
無条件に誰でも信じるほどアホじゃないし、美人だから騙されていいと言える男気もない。
「俺の知ってる氷雨小雪は、俺のことを傷つけない」
少しの沈黙が生まれた。
風が吹く。長い黒髪がなびいて、氷雨の表情を一瞬だけ覆い隠す。
風が止んだとき、彼女は笑っていた。目を細めて、小さく唇を緩めて。本当に少しだけ、笑っていた。
「バカね、あなたは」
「氷雨さんには言われたくない」
「……そうね」
「いなくなるなとは言わないよ。もし本当に、それ以外の方法がないならそうしてもいいと思う。逃げることは大事だ。けど、俺にできることが残っているなら、力にならせてほしい。
俺は、君の力になりたい」
こくりと、氷雨は頷いてくれた。
「そうするわ。もう少し、考えてみる」
ほっとして、またため息が出る。今日で何回目だろう。数えるのはやめた。逃げていった幸せの数より、拾う方法を考えたい。
「ねえ、阿月くん」
「ん?」
「今ね、答えが見つかったわ」
波の音はここまで届く。
だけどそれは、少女の声をかき消すほどではなかった。
「あなたに好きだと言われたら、きっと私は、ありがとうって言うわ。生まれて初めて、他人からの好意に感謝できると思う」
そんな日は来ないけれどね、と氷雨は笑う。
そうだなと言って、俺も笑った。
ここらへんで一区切りです。
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自分のタイミングで、ゆっくり楽しんでください!!!!!!!