1話 どうやら噂は本当だったらしい
「四組の氷雨小雪は知ってるよな、テツ」
唐突に切り出してきたのは、前の席に座った佐藤一輝。
氷雨小雪なら知っている。というか、この学校で彼女の名前を知らない人などいないだろう。
長い漆色の髪の毛に、すらりと伸びた手足。綺麗にくびれた腰回りに、制服のブラウスを押し上げる胸。人形のように綺麗な顔のパーツ。
テレビの向こうから出てきたような、圧倒的美人。
彼女の外見に心を奪われない男はいないとまで言われた女子生徒。
確か、こんな呼び名があったはずだ。
「【氷雪の女王】だっけ」
「そ。誰にも笑顔を見せない、近づけない、男嫌いで有名な氷雨」
「それがどうした?」
「いや、『どうした?』じゃなくて。お前、あいつとなんかあったのか?」
「……?」
読みかけの本から顔を上げる。
一輝が言っていることはよくわからなかった。そもそも、俺と氷雨の関係をこいつが知っているはずないのだが。
というか、関係というほどのものですらないし。
偶然が重なって、ほんの少しお節介をしただけの相手。
だから本当になにもない。なのにどういうわけか、真剣な顔で一輝は口にする。
「実はお前ら、付き合ってるとか」
「どういう経緯でそんな話がでてきたんだよ。俺に浮いた話がないことは知ってるだろ」
「そうか?」
「そうなんだよ」
なにが気に入らないのか、腕組みして口を尖らせている。
「テツってわりと女子と仲良いような気もするけど……」
「どうして俺と氷雨のことなんか気にするんだ?」
「いや、氷雨ってモテるじゃん。だからテツもこっそり、みたいな」
「だったら、そういうお前はどうなんだよ」
佐藤一輝。サッカー部の次期主将候補にして、文武両道を体現する男。それでいてフットワークは軽く、かといってちゃらさはなく、顔もいい。
この学校で最も有名な佐藤にして、最もイケメンな男子生徒である。
俺よりもむしろこいつのほうが、よっぽど氷雨と噂を立てられそうなものだが。
「こっちのことは置いといてだ。最近らしいんだけどな――」
――どうやら氷雨は告白してきた男子に対して断るとき、『阿月くん』とかいう名前を使っているらしい。
阿月。
阿月哲。
アヅキテツ。
つまり、俺のことだ。
…………え、俺のことじゃん。
◇
放課後。担任から頼まれた雑用をこなして、他の人よりも遅く帰路につく。
この時間帯の校内が一番静かだ。部活は始まったばかりで、帰宅部ならとっくに帰っている。
だからこそ、だろうか。
「氷雨さん! 俺と付き合ってください!」
「嫌」
静まりかえった階段の踊り場。
手を差し出して頭を下げる男子生徒と、蔑んだ目を向ける氷雨小雪。
バレちゃまずいと思って、咄嗟に引き返す。
マジか。マジで告白されてんじゃん。っていうか秒で断ってるし。すごいな。さすが【氷雪の女王】の名はだてじゃない。
「じゃ、じゃあ友達に」
「嫌」
男子生徒も負けちゃいない。
最初に極端な条件を見せてから、次に本命の小さな条件を提示する。人間の断ることへの罪悪感などを利用した心理テクニック。
しかし、それすらも通さない氷雨の冷酷なNO。誰もいない階段に、冷え切った声が反響する。
「はぁ……。友達でいいなら他の友達で満足して。私、あなたみたいな気色の悪い人と関わるのはごめんなの」
めちゃめちゃ言うじゃん。
「なっ――」
「早く消えて。それとも通報されたいの?」
言葉の暴力が止まらねえよ。心の傷害罪だよ氷雨さん。
さすがに苛立ったのか、男子生徒が声を荒げる。
「なんで阿月なんかがいいんだよ! 俺のほうが絶対マシだろ!」
「は?」
一段と冷えた氷雨の声がした。
「ねえ、あなたって自分の価値観を人に押しつけるタイプでしょ? 特につまらなかったとか、マズいとか、そういうネガティブな共感を求めてきそう。自分が周りの空気を冷やしているのにも気がつかないで、よくのうのうと生きてこられたわね。恥知らず――っ、なによ。どういうつもり……!」
嫌な予感がして、飛び出した。やっぱりだ。
男子生徒は手を振り上げていた。
腹の底から振り絞って、大声で怒鳴る。
「おい!」
氷雨はそれを、相変わらず冷えた目で見つめて。けれど確かに彼女の足は小さく震えている。
振り返った男子は俺に気がつくと、怯えた目をした。自分がなにをしようとしたのか。そしてそれを、他人に見られてしまったこと。
「帰れ。頭、冷やしたほうがいい」
睨みつけると、男子は慌ててその場から逃げ出した。
残った氷雨は、驚いた表情で俺のことを見上げてくる。あまりに整った表情で、反省の色はちっともない。
そのすがすがしさに、ため息がこぼれる。
「で、お前はなに挑発してるんだよ」
階段を降りて、同じ踊り場に立つ。それでも俺のほうが目線は高い。
スタイルがよくても、氷雨は女の子だ。華奢で脆く、きっと簡単に壊れてしまう。
体の前で腕を組んで、彼女はそっぽを向く。気まずさはあるらしかった。
「いたのね」
「たまたまな」
「人のプライベートを覗いて、楽しかった?」
「あれはお前のプライベートじゃない。さっきの男子のだ」
「そうね」
屁理屈を指摘すると、むっと唇を突き出す。ガキか。
「私、イライラしてるわ」
「なんでだよ」
「阿月くんのこと、バカにされたから」
「つーかなんで、俺の名前が出てくるんだよ。おかしいだろ」
「…………確かに」
「ん?」
「どうして私、阿月くんの名前を出したのかしら」
心底不思議そうに、氷雨は俺を見てくる。
いや、そんな顔されても知らんがな。
「具体的にどうやって断ったんだ?」
「……『阿月くんを見習ってほしいわ』、とは言ったことがあるわね」
「ほんとにどういうことだよ!?」
「なんでかしらね。でも、理由を説明しろって言われると……阿月くんのことが浮かんだのよ」
「…………」
視線を下に向けた氷雨は、頬をほんのり赤く染めている。
え、あの、それって。
もしかしてなんだけど。自意識過剰かもしれないんだけどさ。
「もしかして、俺のこと好きなのか?」
「は? べ、別に、そんなことないんだけど。勝手に決めないでくれる?」
「ごめんなさい」
物凄く怖い顔をされてしまった。咄嗟に謝ってしまうくらいには。
氷雨さん怖いって。あまりに整った顔は、一周回って威圧感がある。
「怒ってないわよ。別に。……勝手に名前を使ったのはごめんなさい。阿月くんに迷惑をかけるつもりはなかったの」
「お、おう」
「用事があるから、もう帰るわね。さよなら」
「気をつけろよ」
ひらひらと手を振って、漆色の髪の毛が去って行く。
まったく。女心ってのは難しい。
なにがあったのかは2話で!