第七話「廻る世界と少女の安息」
世界という枠の外側。
命ある者は踏み入ることの許されない、死の領域。
死者を束ねる者達が築いた、奈落の魔宮。
幾重にも連なる城壁のように、あるいは整列する兵士のように、木製の書架が延々と並ぶ場所があった。
書庫だ。それも城郭が丸ごと収まるほど広大な、非現実的としか言いようのない規模の書庫である。
高々と聳え立つ書架には、無数の書籍が背表紙を向けた形で隙間無く詰め込まれている。蔵書の種類は極めて多岐にわたっており、医学、薬学をはじめとして、化学、物理学、生物学、天文学等の自然科学や、言語学、宗教学、歴史学等の人文科学、さらには錬金術や風水等の擬似科学について記されたものまである。それらは全て、一人の男が己の知的探究心を満たすために集めたものだった。
その男は今、広大な書庫の一隅で、備え置かれた肘掛け椅子に腰を下ろしている。
白色人種の若い男だ。銀糸のように輝かしい頭髪をしており、二つの瞳はサファイアのように青い。細面で、白く滑らかな肌には沁み一つ無く、その顔立ちは女でさえも羨むほどに美しい。
男性的な凛々しさと女性的なしなやかさ。相反する二つの要素が見事に調和した、稀有な美貌の持ち主である。
「……戦闘用に簡略化された開門」
今しがた目にしたものを思い返し、男は――邪神ロキは独り言を洩らす。
その顔に笑みは無い。コルテスを人形の如く操っていた時は愉快げに笑っていた彼だが、今は引き締まった硬い面持ちで思索に耽っている。
彼は外道であり、鬼畜であり、極悪人であり、大罪人であり、人格破綻者であり、ある種の快楽殺人者であるが、多くの学問に精通した賢者でもある。
その知識の広さと深さ、観察眼の鋭さは、人類史を紐解いても並ぶ者が見つからない、と言っても過言ではないだろう。
「マヤ……いや、アステカの……」
賢者は思考し、看破する。マリーナという少女が操っていた、黄金の光の正体を。
「アストランの黄金、か」
彼の頭脳に蓄えられた膨大な情報の中でも、該当するものはただ一つ。
遠い昔に失われた、世界の深奥に至る術。
「――楽しそうね」
静かな声音と共に、微かな靴音が鳴り響く。
忍び寄るような足取りで書架に挟まれた通路を歩んできたのは、異様な人物だった。
異様というのは、その装いのことだ。何しろ、肌を露出している部分が一箇所も無い。飾り気の無い灰色の仮面を被っており、そこ以外の全身を闇色の長衣で覆い隠している。
背丈は低い。子供か、あるいは女のような矮躯。
仮面の下から零れる声もまた、女か子供のように澄んだものだった。
「ヒルコか……」
ロキは仮面の人物に視線を向け、その名を――邪神としての号を呼ぶ。
黒衣を纏う仮面の邪神。
号は、ヒルコ。
ロキと同格の存在であり、死の世界を支える八柱の内の一柱である。
「本当に楽しそうね、ロキ。そんなに楽しそうなあなたを見るのは初めてかも」
「楽しそう、とは妙なことを言うな。お前は、仏頂面でブツブツと独り言をのたまっていた俺が楽しそうに見えるのか?」
「見えるよ。あなたは、本当に楽しい時ほど真剣な顔をする人だから」
ヒルコは抑揚の無い声音で即答する。
成程、と呟いてロキは苦笑した。
「一応訊くけど、何をしていたの? また何か悪巧みしてたみたいだけど」
「ヨルムンガンド達に死食開門をやらせていた。現地人の後援者がいるので労せず儀式は済むという話だったが……失敗したよ。何処の馬の骨とも知れん連中に阻止された。いやはや、外出も満足にさせてもらえんとは、悲しいものだな」
「嘘」
ヒルコは見抜き、指摘する。ロキの言葉の中にある嘘を。
「最初から、こうなるって知ってたくせに」
二人の視線が交わる。
鬩ぎ合うような沈黙が、数秒間続いた。
「買い被るな。俺はアガスティアのような予言者ではない。未来のことなど全く分からん」
「でも、予想はしてたんでしょ?」
「していなかった、とは言わんが……」
そこで言葉を濁し、ロキは眉間に皺を寄せる。
「少し、気になることがあった」
その双眸は刃のように鋭く、剣呑な光を宿している。重く熱く濃密な感情が、そこに込められていた。
「十七年前から気になっていたことだ。違和感と言った方がいいか。ともかくそれの正体を確かめるため、俺は部下達に死食開門を命じた。俺自身が現地に出向いて色々と調べる必要があったからな。だが、もし……俺の覚えた違和感が気のせいでないのなら、今回の死食開門は阻止されるかもしれんと思っていた。そして事実、そうなった」
予想通りと言えば予想通り。しかしだからといって、それを喜ぶ気になどなれない。彼にしてみれば、最悪の予想が的中してしまったことになるのだから。
「こんな答えで満足か?」
「ええ」
ヒルコは頷いた後、仮面の下で微かに嘆息した。
「捨て駒になることも承知で部下を送り出すあたり、あなたらしいね」
「気に食わんか?」
「別に非難はしない。ただ、あなたらしいと思っただけ」
ヒルコは淡々と言い、ロキは笑う。性格も思想も正反対と言っていいほど異なる両者だが、不思議とその関係は良好だった。
ヒルコはロキを非難しない。軽蔑しない。
ロキはヒルコを嘲らない。弄ぶ対象にしない。
打ち解けた関係と言うほど親密ではないにせよ、彼らの間には彼らなりの友愛が存在している。
死の世界に棲む者同士の、少し歪な友愛が。
「……で、お前はここに何をしに来たんだ? ここの蔵書でも借りに来たのか?」
「伝えに来たの。命令を」
ロキの軽口に付き合わず、ヒルコは率直に用件を述べる。
「この数ヶ月で異常なほど開門が頻発している事実と、同胞達の死が続いている現状について、皆と意見を交わしたい。各宮の主は本殿第二層、九曜星の間に集結するように……だってさ」
ロキの表情が、僅かに変わる。
薄い笑みを浮かべつつも、少しばかり感慨深げに、彼は呟いた。
「召集命令か……十七年ぶりだな」
「そう。十七年と二ヶ月ぶりの、召集命令」
召集命令――それは即ち、八柱の邪神が一堂に会するということ。
十七年と二ヶ月ぶりに、夢獄を統べる神々が、組織として動く。
「……いいだろう。丁度あの阿呆共の面を拝みたくなってきた頃だ。本殿まで出向くとしようか」
神々の中で最も邪悪な男は、静かに椅子から立ち上がった。
マリーナ達の戦いが終わってから、数時間後。
緑葉園という名の廃墟は、戦場跡と呼ぶにふさわしい姿となっていた。建物の大半が虫に食われたように穴だらけで、内部はまさに瓦礫の山。宴会場脇の通路に至っては丸ごと消失している。
激戦の爪痕が残るその場所で、村上雅之は灰色の曇り空を見上げていた。瓦礫の上に腰を下ろし、降りしきる雨粒に打たれながら。
「終わった、か……」
微かな声で、呟く。その声音と雨雲を見つめる目には、一欠片の生気も無い。
気絶から目を覚ました後、彼は自身の計画が失敗に終わったことを悟った。建物はこの有様で、邪神の眷属は一人残らず姿を消しており、死食開門はその痕跡さえ見えない程に消し去られていたからだ。
もうどうしようもないくらい、全てが終わってしまっていた。
「何もかも無駄だったな、結局……」
我が子の命を救うため、死の世界の怪物に縋り付いた。死食開門を手助けすることと引き換えに、奇跡の力を恵んでもらう約束を取り付けた。
けれど、無駄だった。突如として現れた少年達によって、計画は完膚なきまでに叩き潰された。
敗れたのだ、自分は。
絶望的な実力差を見せ付けられ、無様に叩きのめされ、我が子のために行ってきた非道を徹底的に否定されて。
そして今の自分には、そのことを恨む気力さえ残っていない。敗北と絶望が、心を支えていた芯をへし折ってしまったのだ。感情さえまともに働かないほど消沈している。
邪神の眷属を召喚して死食開門をさせるには、かなりの時間と手間が要る。今からもう一度試みたのでは、絶対に間に合わない。それに、またあの連中によって阻止されてしまうのだろう。同じ事を繰り返すだけだ。
どう足掻いても自分の願いは叶わない。遠からず、娘の命は病魔に蝕まれて潰える。
それを止める手は無い。自分に出来ることは、もう何も無いのだ。
本当に、何も――
「……」
苦難に直面したなら自力でどうにかしろ。それで無理なら諦めろ。化け物が恵んでくれる奇跡なんかに縋りつくな。
あの少年は、そう言っていた。
その言葉を叩きつけられた時、馬鹿を言うなと心底から思った。あの少年の言ったことは正しいのだろうが、綺麗事だ。そんな簡単に割り切れるようなら誰も苦労しない。ままならないのだ、子を持つ親の心は。
だから声を荒げて反論した。目を剥いて、獣のように吼えた。
そんな自分を険しい目で見据えて、あの少年は言い放った。
だったら、そいつが死ぬまで傍にいてやれよ――と。
「……馬鹿馬鹿しい」
死ぬまで傍にいて、何だというのか。そんなことで病気は治らない。延命も出来ない。死ぬことに変わりないではないか。
馬鹿馬鹿しい。意味が無い。ただの自己満足以外の何者でもなく、気休めと言うのもおこがましいほど無駄な行為だ。
けれど――
今の自分に出来ることは、そのくらいしかないらしい。
「…………行くか」
長い――本当に長い逡巡を経て、村上は立ち上がった。馬鹿馬鹿しくて無意味だと思いながらも、娘の元に行くと決めたのだ。
計画は失敗に終わった。奇跡の力は手に入らなかった。遠からず娘は死ぬ。病に蝕まれて苦しみながら死を迎える。その結末はもう変えられない。
ならば、せめて自分に出来る限りのことをしたい。傍にいることでほんの少しでも娘の苦しみが和らぐなら、そうしてやりたい。死別が避けられないなら、そうなる前に少しでも言葉を交わしておきたい。
絶望し、疲れ果てていた彼を動かしたのは、そんな思いだ。
罪を悔い改めたわけではなく、奇跡を欲する心を捨て去ったわけでもない。けれども人の親として、一人の人間として、苦しむ子供のために出来る限りのことをしたいと思い、過酷な現実と向き合うと決めた意志だけは、嘘偽りの無い本物だった。
だからこそ、運命は非情だったと言うべきだろう。
人の決意を嘲笑いながら台無しにする悪魔を、彼のすぐ傍に配置していたのだから。
「……あ?」
初め、村上は自分の身に生じた異変を正しく認識出来なかった。何の前触れも無く、あまりにも不可思議な事が起きたからだ。
立ち上がった筈なのに、立ち上がれていない。歩こうとしているのに、一歩も動けない。どういうわけかうつ伏せの姿勢で、湿った土に口付けしている。
何だこれは、と疑問に思う。どうして自分は、こんな所で伏せているのか。
何かに躓いたのか。地面が濡れているから滑ったのか。いいや、どちらも違う。そんな感覚は一切無かった。躓いたわけでも滑ったわけでもなく、ごく自然に、体が地面に向かって落ちていったのだ。まるで、支えを失ったかのように。
そこまで考えたところで、彼は痛みを覚えた。下半身が――というより、足が痛い。両足の膝より下から、かつて経験したことのない類の痛みがじわじわと襲ってくる。それが、異変の正体を彼に気付かせた。
地面に手をついて上体を起こし、振り返り、そして絶句する。彼の両足は、倒れてなどいなかったのだ。それらは大地に根を張る大木のように、しっかりと立っている。膝から上を失った姿で。
「な……あ……」
突然の異変に理解がまるで追いつかず、村上は震えた。痛みと恐怖と困惑が綯い交ぜになった呻き声が、喉から止め処なく溢れた。
そして、彼の耳は聞き届ける。泥を踏み、雨水を跳ね飛ばしながら、しだいに近付いてくる足音を。
どことなく軽快で、だからこそ不気味な足音を。
破滅をもたらす者の足音を。
「あらら……負けちゃったんですね、村上さん。情けないなぁ」
足音がぴたりと止んだ後、頭上から降ってきた声は、聞き覚えのある声だった。
若く、美しく、しかし何かが歪な女の、毒を含んだ声だ。
「……なーんて言ったりするキャラなんですけどね、僕。見ての通り性悪ですから。でも今は言いませんよ。ええ、言いませんとも。村上さんが娘さんのために頑張ってたのはよーく知ってますし、そもそも、肝心な時に雲隠れしてた僕に文句を言う資格なんてありませんものね」
ソフィア・カールフェルト。
スウェーデン人の女。少年のような口調の女。
邪神を現世に招く方法を村上に教授し、儀式の場をも提供した女。
それが今、地に這い蹲る村上の数歩前に立ち、彼を見下ろしている。麗しくもおぞましい、奇怪な笑みを浮かべながら。
「むしろ、一言お詫びしとかなきゃいけないなって思ってたくらいです。お役に立てなくて申し訳ありません、ってね。でもあえて弁明させてもらうなら、僕だって別に悪気があって村上さんをほったらかしにした訳じゃないんですよ。ただ、お前は戦闘に参加するなって厳命されてたものだから、泣く泣く身を隠した次第でして……」
白々しく言いつつ、肩を竦める。
「ま……あなたにしてみれば、そんな言い訳で納得できるかって話でしょうね。立場が逆だったら僕だって絶対納得できません。なので今は、どんな罵詈雑言も甘んじて受け入れることにしますよ。どうぞどうぞ、お気の済むまで僕を罵って下さい」
奇妙な言い方になるが、彼女の様子は不自然なほど自然だった。その饒舌さも、軽薄な口調も、ふざけた態度も、何もかもが普段通り。何らかの手段で両足を切断されたことによりもがき苦しむ村上を前にして、全く動揺していないばかりか、面白がっている節さえある。
それはつまり、彼女が加害者である証だ。たった今村上の身に起きている異常が彼女の仕業であることは、最早疑いようがない。
だからこそ、村上は歯を食いしばりながら疑問をぶつけた。
「な、ぜ……?」
「ん?」
「何故……俺を、殺す……?」
この女がまともでないことなど、最初から知っている。
何か裏があるに違いないとも思っていた。無償で開門の手助けをする者などいるわけがないのだから。
だが、今のこれは理解出来ない。
自分の足を切断した方法も不明だが――それ以上に、何故今になって自分の命を奪おうとするのか、その動機が分からない。
死食開門が成功した後、用済みになった自分を殺して邪神のもたらす恩恵を我が物にするというなら、まだ分かる。だが開門が失敗に終わった今、自分を殺すことに何の意味があるというのか。
「次の予約が入ってるからですよ」
「つ……ぎ……?」
意味の分からない返答をされ、村上はさらに混乱した。
次の予約とは何だ。どういう意味だ。
「こう見えても僕ってすっごく忙しいんですよ。本業では薄給で毎日こき使われてるし、この副業だってしょっちゅういろんなとこ行かなきゃいけないし、変な人とか危ない人とも会わなきゃいけないし……ま、うちって人手が足りないし交渉役に適任なのは僕くらいしかいないんで、仕方ないとは思いますけど……って、話が逸れましたね。まあ要するに、僕がお世話してるお客さんはあなた以外にもいるってことです」
秘めていた真実をさらりと明かして、ソフィアは笑いかける。
次なる儀式を執り行うための資材に。
「次の人はあなたほどお金持ちじゃないんでね、生贄用の肉の確保とかも僕が手伝ってあげなきゃいけないんですよ。ま……生贄なんてのは誰でもいいんですけどね……誰でもいいから、別にあなたでもいいやってことで」
彼女にとって、村上という男の価値などそんなものだ。
死食開門を執り行うために利用した。そして用が済んだ今、放っておくのはもったいないから次の仕事のためにその肉体を利用する。ただそれだけの話。
扱いとしては、実験用のモルモット以下だ。使い回しの利く部品――あるいは、たまたま手近にあった石材や木材も同然のものと見なしている。
「別に構わないでしょう? 村上さんは希望が潰えて生きる気力を失くしてる状態なんだし、娘さんはどうせあとちょっとしか生きられないんだし」
「な……に……?」
おかしな台詞が出た。聞き捨てならないことを聞いた。
この女の言っていることはおかしい。文脈が変だ。いったいどうして、今ここで、娘の話が出てくるのか。
「待て……待て、貴様……待て……」
最悪の想像が浮かんでくる。動悸が早まり、顔面から血の気が引いていく。
「何故……何故そこで娘が出てくる……? お前……お前まさか……」
ソフィアの笑みが、ほんの少し深みを増す。
その瞬間、彼女の背後で何かが大きく隆起した。黒と灰の色彩が入り混じり、奇怪なほど混沌とした名状し難い何かは、一瞬にしてソフィアの背丈の倍ほどに膨れ上がり、その威容を見せつける。
土や岩といった天然の物ではない。機械のような人工物でもない。そしておそらく、生物でもない。
既存の言葉では表現出来ず、いかなる分類も不可能な何かだ。それはかろうじて巨人のような形をとっているが、当然ながら人ではなく、輪郭さえも定かでない。目も鼻も皮膚も体毛もありはしない。
突如として現れた異形に圧倒され、暫しの間呆然となった村上は、やがて気付いた。
巨人めいた何かの上部。人でいうなら胸にあたる部分に、明らかな異物が見える。巨体を構成する黒と灰の色ではなく、人の肌の色をしたものが、そこに埋め込まれている。
あれは何だ。あれは何だ。あれは何だ。村上は頭の中でそんな問いを繰り返す。理解してしまったのに、懸命に理解を拒もうとする。
けれど、自分自身は騙せない。現実からは目を背けられない。
あれは、あの肌色の物体は――
「離れ離れになるのはかわいそうだから、一緒に逝けるようにしておきました。僕って優しいですよね」
無慈悲な悪魔の、舌なめずりするような声が耳に届いた時、村上雅之の理性は崩壊した。
「あ……あぁ……うおああああああああああああああ!」
絶叫する。悲鳴とも怒号ともつかない叫びを上げて、必死にもがく。怒りの炎を燃やし、憎悪を剥き出しにし、這ってでも前に進んで目前の女を噛み殺そうとする。
しかし、それは叶わない。
彼の肉体は、既にどうしようもないほど壊れていたから。
「辛いですか? 悲しいですか? 僕を殺さなきゃ気が済まないくらい、痛くて苦しくてたまらないですか? 何で自分がこんな目に、って嘆いていますか? ……でもね、それって贅沢ですよ」
ソフィアは笑う。嘲笑う。
肉体を内部から食い破られていることにも気付かず、必死にもがきながらも全く前進出来ずにいる、哀れで愚かな男を。
「普通に生まれて真っ当な人生を送り、結婚して子供を作った男。親の愛を一身に受けながら大事に育てられてきた娘……どちらも、この上なく幸せじゃないですか。病気で早死にするからかわいそう? 早死にする子供を持った自分は不幸? 馬鹿言っちゃいけない」
ソフィアの足首を掴もうと、村上が手を伸ばす。その腕は、ソフィアに触れる前に肩から千切れた。
怒りと憎しみの言葉を吐く。すると顎がぼとりと落ちて、発声さえも出来なくなった。
ソフィアは何もしない。背後の巨人も動かない。にもかかわらず村上の体は、瞬く間に分解されていく。
「あなた達は幸せだ。それはもうこの上なく、羨ましいくらい幸せだったんだ。なのに悲しいだの苦しいだのと嘆くなんて…………ああ本当に、磨り潰したくなっちゃいますね、幸せ過ぎて呆けた豚共は」
ソフィアは身を屈め、村上に顔を寄せる。
そして、吐息を吹きかけながら言い放った。微笑みの裏に潜んでいた、食虫植物のように醜い本性を曝け出して。
「本当に、贅沢だ」
村上の頭が縦に割れる。首から下も幾つもに分割され、血塗れの肉塊と化す。村上雅之の人としての命は、そこで終わった。
ソフィアの背後にいた何かが巨人としての形を崩して不定形になり、まるで津波のように村上だった肉塊を飲み込んでいく。そしてそのまま、地中に沁み込むように消えていった。
残ったのは、ソフィアという女だけ。
救いようがないほど腐って歪んで捻れて壊れた、骨の髄まで醜い女だけだ。
「……ふぅ、すっきりした。ストレスの多い仕事なんだし、たまにはこういう潤いも必要だよね」
優雅なひとときを楽しんだ後のように気持ち良さそうな顔をして、差していた雨傘を少しだけ傾ける。
空を覆う灰色の雲を見据えて、独り言を零す。
「さてさて……これから忙しくなるなぁ。仕事が多くなっちゃうなぁ。あれやれこれやれってたくさん言われるんだろうなぁ、きっと。あーやだやだ」
言葉とは裏腹に、彼女はこの状況を歓迎していた。
悲願の成就に向けて一歩一歩進んでいる実感を、幸せな心地で味わっていた。
「忙しくって、大変で……恥ずかしくなるくらい、心が弾んじゃうじゃないか」
壊れた女は、空に祈る。
雨雲よりも濁った心で、祈りを捧げる。
ああ、どうか、一日でも早く、この糞みたいな世界が崩れ落ちますように――と。
一夜明けた後、空は前日の雨から一転して、眩しいほどに晴れ渡った。
伏鉢型の小山の中腹にて、白い外壁を淡く輝かせている御門ヶ原福音教会。その裏手に広がる雑木林の手前で、マリーナは一人佇んでいた。
たった今自らの手で設えたもの――角材を釘で打ち合わせただけの簡素な十字架に、物憂げな視線を落としながら。
「ようマリーナちゃん、久しぶりー、そんなとこで何してんのー…………って感じで声かけると、なんか女好きのチャラい奴みてえだな……俺みたいなオッサンが使っていい台詞じゃないね、うん。自分でやっといて何だけど、マジでキモいと思ったわ」
無言で佇むマリーナに背後から歩み寄り、ふざけた調子で語りかけてくる黒服が一人。
加賀見だ。
「ま……んなこたぁどうでもいいとして……昨日はご苦労さん。色々大変だったろうけど、無事に帰ってきてくれて何よりだよ」
労いの言葉をかけられると、マリーナは背を向けたまま冷たい声で応じた。
「ええ、本当に大変でした。誰かさんが敵の情報を意図的に隠してたせいで」
「うっ……」
痛いところを突かれ、加賀見は顔をひきつらせる。それは、悪戯を母親に咎められる子供のような顔だった。
「いや、それは、ほら……あれだよ、事前に話しちゃったら君の決心が揺らぐかなーとか思ったから話さなかっただけで、別に悪気とかは……」
「要するに、わたしをその気にさせるために都合の悪いことは隠してたんですね。分かります」
あくまで平坦な声のまま平然と毒を吐くマリーナは、普段の大人しさが嘘のように刺々しくて禍々しい。しかも背を向けたまま言い放ってくるので、余計に怖い。
これは素直に頭を下げるしかないな、と加賀見は思った。
下手な言い訳は逆効果だろうし、それに元々、今日ここに足を運んだのはそのことを詫びるためでもあったのだ。
「あー……ごめん。その件については本当に悪かった。この通り謝罪する」
悪気はなかったが、辛い思いをさせてしまったという負い目はあった。
戦場に放り込まれるだけでもかなりの心的負担だった上に、因縁深いコルテスと戦う羽目になったのだ。彼女がこちらに怒りの矛先を向けるのも無理はない。むしろ当然と言える。
詫びて済む問題ではないかもしれないが、だからといって詫びない訳にもいかないだろう。示すべき誠意というものがある。
そう痛感したからこそ、加賀見は深々と頭を下げた。
するとマリーナはようやく振り返り、硬くしていた表情を和らげる。
「冗談です」
「え?」
「確かに大変だったし、あの時はすごく混乱しましたけど……もう落ち着きました。本気で怒ってるわけじゃないから、そんな頭下げてくれなくてもいいですよ」
「そ、そっか……」
「一昨日の昼に敵のふりして襲ってきてわたしを蹴っ飛ばしたことは、一生許さないって固く誓ってますけど」
「……すみませんでした。ごめんなさい。この通り土下座しますんで、そんなゴミを見る目で見ないで下さいお願いします」
額を地面に擦り付けるほどの土下座をして、少女に許しを乞う中年男。悲劇的なまでに格好の悪い構図が、ここに出来上がった。
「反省してるなら、お花買ってきて下さい」
「は、花……?」
加賀見が目を丸くすると、マリーナは自らの足元に視線を落とす。
「ええ……墓前に添える、綺麗な花を」
地面に突き立てられた、木製の簡素な十字架。
それを見て、加賀見は理解した。マリーナがこの場所で何をしていたのかを。
「……それ、あいつの……コルテスの墓か?」
「そうですけど、何か?」
何か文句でもあるのかと言いたげに、マリーナは加賀見を見返す。加賀見は暫しの間苦い顔をした後、低い声でぽつりと言った。
「……あんたのせいじゃねえよ」
小さな十字架を、鋭く睨みつける。
「そいつがまともに死ねなかったのは、あんたのせいじゃない。全部そいつの自業自得だ。根っからの悪人じゃなかったかもしれねえが、馬鹿で、弱かった。自分の命を自分で背負える強さが無かった。だから夢獄なんかに落ちて、苦しんだ。それだけの話だ」
容赦の無い物言いは、今まで溜め込んでいた暗い感情の表れだったのかもしれない。
しかしたとえ私情が含まれていたにせよ、それは誰にも――当事者であるマリーナでさえも、否定することの出来ない正論だった。
「あんたが気に病んだり、責任を感じたりする必要は無いんだよ。これっぽっちもな」
「……そうかもしれませんね」
マリーナは小さく頷いてから、遠くを見るような目で言葉を続ける。
「でも、あまり好きじゃないです。そういう言われ方するのって」
加賀見の言うことは正論かもしれないが、その正論で擁護してもらいたいとは思わない。自分の過ちから目を背けたくないと、彼女は思う。
「仕方なかったとか、お前は悪くなかったとか……そんな風に言われると、なんだかその言葉に甘えちゃいそうです。都合の悪いことから目を逸らして……わたし自身は一歩も前に進めなそう」
仕方がないという言葉で自分を納得させられたら、どんなに楽だろうか。自分は悪くないと心から思えたなら、どんなに幸せだろうか。
けれど、彼女にそれは無理だ。無理なのだ。だって彼女は、自分自身を決して許せないくらい、多くの命を奪ってきたのだから。
「わたしね、みんなを幸せにしたかったんです」
日溜りのような微笑みを浮かべて、静かに語る。
遠い昔、胸に秘めていた想いを。
「そんなこと無理だって分かってたし、みんなが幸せでいられる世界なんて無いって知ってた。でも、そうしたいって気持ちはあったんです。だから少しでも傷つく人を減らして……一人でも多くの人を救おうとしながら生きてきました。結果は、知っての通りですけど」
人々を救う筈の力は戦争の道具として利用され、多くの命を奪う結果になった。
築いたのは屍の山だけ。
誰も――本当に、誰一人とて救えなかった。
「あの頃のわたしは力も勇気も足りなくて、何もかも上手くいきませんでした。たくさんの人を不幸にしたし、誰も……自分の家族さえ守れなかった。そのことは本当に後悔してます」
コルテスを葬り、その苦しみを終わらせたからといって、心が晴れたわけではない。
後悔の念は、今も胸の奥で燻り続けている。
「分かってます。それはもう遠い昔の出来事で、いくら後悔してもやり直せないって…………でも、それでも、やれることはあるって思うんです。今わたしは、こうして生きているから」
自らの胸に、そっと手を当てる。
「だからわたし、もう一度頑張ってみようと思うんです」
過去は変えられないけれど、今の自分には未来がある。今この時からやれることだって、きっとある。
そう、強く信じられるから――
「今度は間違えないように……今度こそ、みんなを幸せにできるように」
その時のマリーナは、美しかった。
少なくとも、加賀見の目には――マリーナという人間を誰よりも深く知る男の目には、その儚げな笑顔が、かけがえのないほど美しいものに見えた。
そして、だからこそ、加賀見は密かに拳を握る。
波濤のように去来する複雑怪奇な感情を、鉄の自制心で押し殺して。
「……そっか」
口にしたのは、小さな呟き。
「じゃ……がんばりな」
静かに告げて踵を返し、その場から去ろうとする。
しかしそんな彼を、ちょっと待てお前、とでも言いたげな目でマリーナは睨んだ。
「がんばりな、とか……微妙に上から目線でイラっときますね、その発言」
「え……? い、いや……そんなつもりじゃ……」
まさかそんな指摘をされるとは思っていなかった加賀見は、ぎょっとした顔で固まる。
「だいたい何でそんな偉そうなんですか、加賀見さんは。こう見えてもわたし、あなた達の代わりに体張って戦ってたりするんですけど」
「は、はぁ……仰る通りです。すんません。自分調子こいてました。反省しますんでお許し下さい」
「分かったならさっさとお花買いに行って下さい。ちゃんと綺麗なの買ってきて下さいね。変なの買ってきたらもう一度買いに行かせますから」
「そんなに言うなら自分で行けばいいんじゃ……」
「何か言いました?」
「いえ、すんません。何でもないっス……」
結局――何をどうやっても格好がつかず、ひたすらマリーナに頭を下げ続けるしかない加賀見だった。
「酒盛りしましょう!」
夕食の時間、この日の食事当番だった巴がそんなことを言い出した。
既にやる気満々なのだろう。いかにも高そうな洋酒の瓶を大事そうに抱えている。
「さ、酒盛りですか……」
「はい、酒盛りです。宴会です。戦に勝った後にやる祝勝会的なアレです。下品な野郎共が下品に騒ぐ下品なイベントです。馬鹿騒ぎしてるところを敵に夜襲されたりして壊滅するまでがテンプレですね」
呆気にとられているマリーナに向かって説明になっていない説明をする巴は、いつにも増して楽しそうだった。既に酩酊しているかのような口調と無駄に張りのある声が、それを如実に表している。
そんな彼女に、彩花は慈母の如き微笑みを浮かべたまま絶対零度の視線を向けた。
「素晴らしい提案ですね、巴さん。ところでその高そうなお酒の数々を購入する費用はどこから捻出したのでしょう?」
「巴貯金からです」
「そんな口座はありません」
御門ヶ原福音教会の経営状態は常に火の車であり、その原因が約一名の浪費癖にあることは周知の事実である。勿論本人にも自覚はあるが、残念ながら自覚の有無と改善の意思の有無は別問題だ。完全な確信犯であるため手の施しようが無い。
「しかしまた派手にやりやがったな……このやたら豪勢な料理もどっかから仕入れてきたのか?」
驚きつつも呆れた様子で、ヨハンが食卓に目を向ける。
いつの間にどうやって用意したのか、五人分にしては些か多過ぎる料理がそこでひしめき合っていた。しかもその内容は和洋折衷どころではないほど混沌としており、あたかも統一感という概念そのものに喧嘩を売っているかのようだ。そして用いられている食材は、普段食卓に上る物のそれとは明らかにランクが違う。
「失礼ですね、それは私が自分で作りました。普段は隠してますけど実は料理とか超得意な子なんですよ、私」
「ええ、知ってますよ。巴さんが何でも出来る器用な人だってことは。本気でうちを潰しかねない破滅的な金銭感覚の持ち主なことも」
「お金なんてあるところにはあります。なくなったら獲ってくればいいんです」
「そんな乱世の価値観で物を言わないで下さい」
彩花は未だに笑顔だが、その笑顔がどこまで保たれるのかは誰にも分からない。
このままでは酒盛りより先に殴り合いが始まるのではないかと、マリーナはわりと本気で心配してしまった。
「確かにそのアホの浪費癖は問題だが、今日くらいは大目に見てやれ」
そう言って彩花を宥めたのは、何とシュラだった。彼はそのまま自分の席につき、取り箸を使って大皿から自分の使う小皿に料理を移していく。
「たまにはいいだろ、こういうのも。せっかく生きて帰ってきたわけだしな」
その場がしんと静まる。
ヨハン、巴、彩花、マリーナの四名は、狐につままれたような顔をして、何とも言い難い種類の視線をシュラに集めた。
「何だお前ら、その目は」
「いやだってお前……基本的に付き合い悪いだろ? “下らねえ、勝手にやってろ”とか言ってどっか行っちまうだろ、こういう場合……」
ヨハンが言うと、他三名も首を上下に振る。皆考えていることは同じだった。
「……普段ならそうだが、今日は別だ」
シュラは憮然とした顔で言う。
「戦に勝ったらそれを祝う。生き延びられたことを喜びながら互いに労をねぎらい合う……当たり前のことだろうし、大切なことだ。いくら俺でも、それにいちいちケチをつけるほど野暮じゃない」
彼が語るのは、戦の世の常識。
平和で豊かな時代のそれとは違う。戦いと死が身近にあり、傷つくことや失うことが当たり前であり、だからこそ誰もが懸命に生きていた時代の価値観だ。
生まれた国は違えど、似たような環境で生き抜いてきたヨハンと巴には、その意味が充分に理解出来た。
「……ま、確かにそうだ。お前もたまにはいいこと言うな」
「てゆーか、普段はいろんなことにケチつけてばかりの野暮で痛い子っていう自覚はあったんですね、びっくりです」
「うるせえよ、酒盛りやるならさっさと仕切れ。でなきゃ勝手に飲むぞ」
「はいはーい、わかってますよ。じゃあみんな席ついて下さい。乾杯やりますからねー、乾杯」
そういう流れで、ささやかな宴――ではなく、無駄に金のかかった宴は始まった。
何だかんだ言いつつ食事になると和気藹々とした雰囲気を作ってしまうのが、この教会で暮らす面々である。
笑顔の裏で渋い顔をしていた彩花も、乾杯の後は観念した様子で溜息をついた。
「仕方ありませんね……昨日はみなさんよく働いてくれたので、特別によしとしましょう。作られちゃったものは食べないわけにいきませんし……」
「そうですよー彩花さん、今日は細かいことは言わない約束です。それに私の本気の手料理が食べられるのなんて今日くらいですよ。何気にレアな体験ですよー」
「普段はすげえ適当なもんしか作らんからな、お前」
「野郎共に食わせる飯なんて真面目に作る気しません。あ、でも今はマリさんがいるから別ですよー。ご要望とあらば毎日作ってもいいくらいです」
「え、あ……はぁ……ありがとうございます」
巴の言葉に応じつつ、マリーナは隣に座るシュラをちらりと覗き見た。
いつも通り全く会話に加わろうとしないが、この人はこの人なりにこの酒盛りを楽しんでいたりするのだろうか。
あとこの人、どこからどう見ても子供にしか見えないのだが、お酒とか飲んで大丈夫なのだろうか。
――などと考えていると、シュラの方から話しかけてきた。
「お前からすると、こんな酒盛りは不謹慎ってやつに思えるかもしれんが……今くらいはあの阿呆のノリに付き合ってやれ」
かろうじて聞き取れるくらいの小声で言い、楽しそうに笑っている巴を一瞥する。
「大方、派手に騒いで嫌なこと忘れさせてやろうとでも考えてんだろ。あいつもあいつなりにお前に気を使ってんだよ。その辺りを汲んでやれ」
そこで、マリーナはようやく気付いた。巴が酒盛りをしようなどと言い出した理由と、シュラが宴は大切だと言ったことの真意を。
精一杯強がってはみたけれど、昨日の件で自分が気落ちしていることは一目瞭然だったのだろう。だから巴は酒盛りの準備をしてくれたし、シュラはそれに乗ってくれたのだ。自分を少しでも元気づけるために。
自分がどれほどの優しさに囲まれていたのかを、今更ながらに思い知る。そしてだからこそ、自分は笑顔でいなければいけないと改めて思った。
「――はい」
口許を綻ばせて、頷く。
隣に座る少年は無表情のまま酒を呷るばかりで、笑顔を返してきたりはしない。けれど何も文句を言ってこないあたりからして、自分の作った笑顔はそんなに悪くなかったのだろう。
そう思い、少しだけ安心した時――巴が手を打ち鳴らす音が聞こえてきた。
「はいはーい、それじゃあ皆さんお待ちかね、シュラさんの恥ずかしい秘密暴露大会のはじまりはじまりー!」
「――ぶっ!」
呷っていた酒を盛大に吹き出し、苦しそうに咳き込むシュラ。
その様を見て、マリーナは驚き、巴はひどく邪悪な笑みを浮かべた。
「あらぁ、どうしたんです? さっきまでクールにキメてたのに、急にそんな取り乱しちゃって」
「お、おい……おいちょっと待て! 何でいきなりそんな話になってんだよ、おい!」
「えー? だってあの廃墟に乗り込む前に言ったじゃないですかぁ。マリさんのこと、ちゃんと守ってあげないと駄目ですよ。もし怪我とかさせたら後でシュラさんの恥ずかしい秘密暴露大会やりますからね、って」
マリーナとシュラの脳裏に、あの時の会話が蘇る。
そう、確かに言っていた。
あの時確かに、この女は、そんな戯言をほざいていたのだ。
「あれだけ言っておいたのに、ばっちり怪我させましたよね? 本当ならグーパンチをくれてやりたいとこですけど、巴は心の広い淑女なので、そういう暴力的なことはしません。その代わり、シュラさんを精神的に追い詰めてガチ泣きさせることにします」
「お、俺はちゃんとこいつの面倒見てただろうが! いつ怪我させたってんだよ!」
シュラが食卓から身を乗り出し、今にも掴みかからんばかりの勢いで声を荒げる様からは、ある種の悲壮感さえ漂っていた。
有体に言えば、気の毒なくらい取り乱している。普段の冷静さは見る影もない。
「あの変なのから逃げ回ってる時、階段で転んだっていうじゃないですか。あの後しばらくの間、マリさん膝のあたりを痛がってましたよ」
「怪我ってほどのもんじゃねえだろそんなもん! つーかてめえ、俺がこいつを守るためにどれだけ苦労したと……」
「はい、駄目です。その手の言い訳は一切聞きません。今回のシュラさんが女の子一人守りきれないヘタレだったのは紛れもない事実ですからね。見た目がお子様だからって容赦してあげません」
「ふ、ふざけんなてめえ! そもそもお前がちんたらやっててなかなか助けにこねえから……」
「はいはい、無視して始めちゃいましょうね。では最初に、風邪ひいて寝込んだシュラさんを私が看病してあげた時の話から――」
「よせ馬鹿てめえ! ぶっ殺すぞ糞女!」
巴が意地の悪さを全開にして語り出す。それを阻止しようと暴れ出したシュラを、彩花が宥めて、ヨハンが取り押さえる。
そんな、微笑ましいというにはやや過激な――けれどもやはり微笑ましい一幕の中で、マリーナは笑った。
一時の安らぎと、ささやかな幸せを、心に深く刻みつけながら。
とりあえず以前執筆したのはここまでです。
続きもそのうち書きたいとは思っていますが……