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踊る死者と夢見る黄金  作者: 堤明文
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第六話「狂気の果てと金色の救い」



 西暦一五二〇年六月三〇日の真夜中。

 アステカ帝国の都テノチティトランで、熾烈な殺し合いが繰り広げられていた。都からの脱出を図るスペイン軍と、その背を討たんとするアステカ軍の争いである。

 この事件について語るには、そこに至るまでの経緯から説明せねばならない。

 遡ること約八ヶ月――西暦一五一九年の十一月二日に、エルナン・コルテス率いるスペイン軍がテノチティトランの土を踏んだ。無論彼らの目的はアステカを征服しその富を奪い取ることだったのだが、即座にアステカとの全面戦争という運びにはならなかった。時のアステカ皇帝モテクソマがスペインとの宥和政策をとったからである。

 彼はスペイン人達を賓客として迎え入れ、豪壮な宿舎を与えた上で長期滞在を許可した。進んだ文明を持つスペインを敵に回すのは不利と考えた故だろうが、その判断は誤りだったと言うしかない。

 彼は知らなかったのだ。海の彼方から来た蛮族の強欲さと、手段を選ばない非道さを。

 皇帝モテクソマとの謁見を願い出たスペイン人は、宮殿に踏み入った途端に本性を表し、モテクソマの身柄を拘束。帝都の中心で皇帝を人質に取るという暴挙により、帝国運営の実権を握ってしまう。

 それからの行動は、最早暴挙と言うのもおこがましいほどのものだった。

 モテクソマにスペイン王への服従を誓わせ、宝物庫に蓄えられていた財宝を根こそぎ奪い取り、さらには帝都の象徴たる大ピラミッドの上にキリスト教の礼拝所を作ったのである。これらの行いがアステカ人の心に深い怨嗟を植え付けたのは言うまでもない。当然の流れとして、恥知らずな異人共を駆逐すべしとの声が高まっていった。

 そんな中、スペイン軍の指導者であるエルナン・コルテスはキューバ総督ディエゴ・ベラスケスに帰還を命じられてしまう。元々両者は不仲であり、ベラスケスは独断専行が目立つコルテスという男を疎ましく思っていた。そのためコルテスを逮捕し、軍の指揮権を掌握することを画策したのである。

 その目論見を読んだコルテスは、命令に従うふりをしてテノチティトランを出た後、自分を捕えるために差し向けられた部隊に奇襲をかけ、これの撃破に成功する。そして多数の敗残兵を味方に引き入れてテノチティトランに戻ったのだが、ここで思いがけない大事件が発生していた。

 留守を任せていたアルバラードという男が、コルテス不在の間にアステカ人の宗教儀式を妨害した挙句、多数の首長を殺害してしまったのである。当人はスペイン軍にとって脅威となる陰謀を打ち砕くためにやったと弁明したが、それは結果として破滅的な事態を招いた。

 一言で言うなら、復讐だ。それまで怨嗟の念を抑え続けていたアステカ人が、ついに復讐の雄叫びを上げて立ち上がったのだ。彼らはモテクソマの弟クイトラワクを新たな皇帝として担ぎ上げ、宮殿に陣取るアルバラード達と、戻ってきたコルテス達に総攻撃をかけた。

 スペイン軍は必死に応戦したものの、彼らの武装と戦術をもってしても圧倒的な数の差は覆せない。残された道は、夜陰に乗じての退却しかなかった。

 かくして、後に「悲しみの夜」と呼ばれる大脱出劇が始まった。

「は……はぁ……! はあっ……!」

 月と星の明かりが降り注ぐ真夜中。湖に築かれた長い堤道の上。エルナン・コルテスは多くの部下達と共に、必死の形相で駆けていた。

 アステカ人の怨嗟の叫びと、逃げ遅れた味方の悲鳴を、その背に浴びながら。

「は……あっ……ぐうっ……!」

 息を乱し、汗を流し、こみ上げてくる吐き気を堪えて、脇目も振らずにコルテスは走る。そうしなければ生き延びることの叶わない状況だった。アステカ征服という事業に着手してから初めて、彼は絶体絶命の窮地に立たされていた。

 テノチティトランは湖に浮かぶ島の上に築かれた都市だ。従って、脱出するには舟を使うか堤道を渡るかしなければならない。コルテス達は後者を選んだ。舟の多くはアステカ人に握られていたため、そうせざるをえなかった。

 夜陰に乗じたとはいえ、千人規模の移動を完全に隠し通すことなど出来ない。結局堤道を渡り終える前に多数の追手を差し向けられ、こんな状況に陥ってしまっていた。

 現在、湖岸へと伸びる狭い堤道の両側から小舟に乗ったアステカ人が大挙して押し寄せ、逃亡者達の背中めがけて容赦なく武器を投じている。矢や投げ槍、大小の石礫等が、豪雨のように降り注いでいるのだ。その猛攻は、堤道の上を走るスペイン人を次々と無惨な屍に変えていた。

 コルテス率いるスペイン軍は、既に軍としての機能を失っている。誰もが我先にと逃げるばかりで、統制など全くとれていない。仮にここでコルテスが何か指示を飛ばしたとしても、従う者は皆無だろう。

 瓦解した軍の将は、走りながら密かに思う。

 疲労に喘ぎ、死の恐怖に怯えながら、それでも心の何処かで思う。

 自分は、何をしているのだろう――

 何故今、こんな所で、こんな事をしているのだろう――と。

 自分はただ、偉くなりたかっただけだ。家格の低い貧乏貴族の出身で、故郷にいても末端の役人にしかなれないと分かっていたから、人生を変えるために海を渡った。実力だけがものを言う世界でのし上がって、人生の成功者になりたかった。

 そんな自分の下に集った連中も、大体同じような境遇だ。農夫や鉱夫、職にあぶれていた船乗り等、スペイン社会の底辺にいる者ばかり。それが一攫千金を夢見て、新大陸への入植という危険で困難な事業に参加したのだった。

 そんな部下達に親近感を抱き、彼らのためにもこの事業を成し遂げようと奮い立ったこともある。未開の地を踏破した英雄として、歴史に名を残そうと志していた時期もある。

 今にして思えば、何と浅はかな夢だったのだろう。

 あの頃の自分は、幼稚な思い違いをしていた。征服という行為を、雄々しくて華々しい、英雄的な行為だと思っていたのだ。

 実際に自分達がしたことは、野盗のそれと変わらない。いや、ある意味それより遥かに下劣だったと言えるだろう。

 殺した。女も、子供も、老人も、数えきれないほど殺した。

 奪った。金細工から食糧に至るまで、ありとあらゆるものを掠奪した。

 踏み躙った。彼ら先住民の文化を、伝統を、信仰を、野蛮極まりない方法で蹂躙した。

 だから今、こうして命を狙われている。多くの人間から罵声を浴びせられ、石を投げつけられている。故郷から遠く離れたこの地で、敗走の憂き目に遭っている。

 ほんの少し偉くなりたかっただけなのに――何処で、何を間違えてしまったのだろう。

 いや、きっと最初から間違えていたのだ。征服の意味も知らずに海を渡ったことが、そもそもの間違いだった。

 とはいえ、もう後には引けない。既に戦争は始まっている。今更争いは止めようなどと言ったところで、誰も聞く耳を持たないだろう。

 それに、自分はもうキューバの総督に盾突いてしまっている。このまま戻れば反逆者として断罪されることは確実だ。それを免れるには、成果を上げるしかない。独力でアステカ征服を成し遂げ、その功績で罪を帳消しにする以外に、自分が生き延びる道は無い。

 つまり、続けるしかないのだ。

この凄惨な戦いを、どちらかが滅びるまで。

 そう思い、苦汁の表情を浮かべた時だ。一本の流れ矢が、彼の左足に突き刺さった。

「うぐっ……!」

 痛みのせいで体勢を崩し、転倒する。そんな彼の元に、一人の男が駆け寄ってきた。

 ジャガーの毛皮を纏った大男――アステカ人の戦士だ。

「う……ああっ……」

 コルテスは倒れたまま、ひきつった顔で悲鳴を洩らした。

 駆け寄ってきた男の両眼には、燃えるような殺意が宿っている。彼は倒れたコルテスに止めを刺すつもりでいるのだ。その手に握る、黒曜石の刃が付いた棍棒で。

 数秒前まで周囲にいた筈の味方は、一人残らず走り去ってしまっていた。指揮官が倒れたことにさえ気付かなかったのか、気付いていながら放置したのか――いずれにせよ、現状においてコルテスを庇う者が一人もいないということだけは確かだ。

 そのことを悟り、コルテスは心底から絶望した。

 アステカの戦士がその両腕に力を込め、棍棒を高く掲げる。そして積年の恨みと共に、掲げた棍棒を振り下ろす。

「オオオオオオオオ――ッ!」

「ひっ――」

 二人の男の、怒号と悲鳴が重なった時――

 眩い光が、夜闇を裂いて奔り抜けた。

 一瞬、コルテスの視界が金の一色に染まる。その後に彼が目にしたのは、血を吐きながら仰向けに倒れるアステカ人の姿だった。

 死んでいる。自分を殺す筈だったアステカの戦士が、何故か絶命している。

 その胸に、拳大の穴を開けて。

「これは……」

 全く状況を理解出来ず、目を見開いたまま固まるコルテス。

 そんな彼の背を叩くように、高い声が飛んできた。

「エルナン!」

 長い堤道の先――スペイン人達が逃げ去っていった方向から、息を切らせて駆けてくる者が一人。

 それが誰なのか、すぐに分かった。

 この大陸に渡ってから出会った、先住民族の娘。

 いつも傍にいて、力になってくれていた、心優しい少女。

「……マリーナ」

 駆け寄ってきたマリーナは男の死体を痛ましげに見つめて、唇を噛む。

 しかし、それも一瞬のこと。素早く身を屈めた彼女は、コルテスの脇の下に腕を通した。

「危なかったわね、エルナン…………ほら、立って。わたしが肩を貸すから」

「マ、マリーナ……その……」

「早く立って! すぐに追手が来るわ!」

 マリーナは呆けているコルテスを一喝し、強引に立ち上がらせる。その華奢な体でコルテスの体を支えながら、彼女は懸命に走り出した。

 この死地を、二人で乗り越えるために。

「き、君がやったのか……? さっきの、あれは……」

 傷の痛みも、多くの敵に追われていることも忘れて、コルテスは問う。

 その問いに、マリーナは答えない。辛そうに歯を食いしばったまま、真っ直ぐに走り続けるだけ。

 その横顔を見て、コルテスは確信した。

 あの眩い光は、この少女が放ったものに違いないと。

「マリーナ……君は……」

 洩らした声は、夜闇の中に吸い込まれていく。

 数限りない罵声を浴び、石と矢の雨をかいくぐりながら、二人は延々と走り続けた。

 暗く、長い、血塗れの道の上を。





 エルナン・コルテスという男がいたこと。

 エルナン・コルテスが率いる遠征隊に加わり、その征服事業に協力したこと。

 エルナン・コルテスと愛し合い、子を成したこと。

 それをマリーナは、今まで失念していた。いや、漠然と憶えてはいたものの、その記憶を深く掘り下げることを無意識の内に避けていた。

 エルナン・コルテスと共に過ごした日々――彼女の人生における最後の八年間は、破壊と、殺戮と、悲劇を抜きには語れないものだから。

「エ、エルナン……」

 震える声で、呼ぶ。儀式の場の中心にいる怪物が、命ある人間だった頃の名を。

「あなた……エルナンなの……?」

 問いかけに、軍装の男は答えない。

 その瞳は泥沼のように澱んでいて、どこを見ているのかも定かでない。口をだらしなく開けたまま涎を垂らすその顔からは、知性も理性も感じられない。

 外で見た二人の眷属とは、明らかに違う。

 人間味や、人間らしさといったものが、致命的なまでに失われている。

「マリーナ……お前、こいつを……」

 知っているのか、とシュラが言いかけた時だった。

「誰、だ……誰だ、お前……」

 軍装の男――エルナン・コルテスの口から、くぐもった声が洩れる。

 マリーナは自分の胸に手を当て、胸中で渦巻く感情を抑えつけながら言葉を紡いだ。

「わたしよ……マリーナよ! 昔、あなたの遠征隊にいた……あなたの隊で、通訳を任されてた……」

 彼女が記憶を辿りながら絞り出す言葉を聞いて、シュラも大方の事情を察した。昨晩加賀見が語っていたことを、思い出したのだ。

 マリーナはエルナン・コルテスという男が率いる遠征隊にいたということを、彼は語っていた。

「マ、マリー……ナ……」

 鸚鵡が人の声を真似るように、マリーナの名を発声するコルテス。一瞬だけ、その虚ろな顔に微細な変化が生じた。

 彼の澱んだ目が、浴場の入口に立つ少女に焦点を合わせる。

「知ら、ない……誰、だ……?」

 思い出せないのか。

遠い過去のことなど、全て忘れ去ってしまったのか。

 彼は澱んだ目をしたまま、疑問を口にするばかりだった。

「思い出せないの……? わたしは……」

「よせ」

 懸命に語りかけようとするマリーナを、シュラが制した。

「何言っても無駄だ。見りゃ分かるだろ? 何でか知らねえがあれは正気を失ってて、まともに会話出来るような状態じゃねえんだよ」

「で、でも……」

 その時、靴底を床に叩きつけるようにして、コルテスが動いた。

 一歩、一歩、重い足取りで、浴場の入口に立つ二人に歩み寄っていく。

「知らない、知らない……お前なんか、知らない……知らない奴が、俺の名を呼んでる……邪魔だ、邪魔だ……」

 その声が、しだいに怒気と殺気を帯びていく。

 血生臭い息を吐いて、彼は告げた。

「死ねよ」

 床のタイルを蹴り砕き、エルナン・コルテスは猛牛の如く突進した。駆けながら腰に吊るしていた片刃の剣を抜き放ち、マリーナの頭蓋を断つために振りかぶる。

 マリーナは愕然とした顔のまま固まっていて、その攻撃に全く反応出来ていない。反射神経の問題以前に、精神面で戦う態勢が整っていなかった。

 シュラは舌打ちして、襲いかかるコルテスと立ち尽くすマリーナの間に割って入る。そして振り下ろされる片刃の刀身を、自らの曲刀で受け止めた。

 重い衝撃が、彼の矮躯を軋ませる。

「マリーナ!」

 敵と鍔迫りをしながら、余裕の無い声で叫んだ。

「戦わなくていいから下がってろ。そんな様のお前を守りながらじゃ戦いにならん」

 彼は肉体的には普通の少年だ。巴のような剛力は持ち合わせていない。相手の力をいなす受け技を身に付けてはいるが、それとて限度というものがある。今のように相手と正面から武器を打ち合わせる戦いは不得手だった。

 マリーナが早く安全圏に退避してくれなければ、このまま押し込まれてしまう。

「早く下がれ! 邪魔だ――」

「があああああああっ!」

 シュラの叫びを掻き消す絶叫を上げ、コルテスは剣を握る腕に全力を込める。その力に抗いきれず、シュラの矮躯は後方に突き飛ばされた。

 すぐ後ろにいたマリーナもそれに巻き込まれ、二人はもつれあいながら脱衣場の端まで転がっていく。

「死ね……死ねぇ!」

 体を重ねる形で倒れた二人を抹殺するため、コルテスは腰に差していたもう一つの武器を抜き放つ。

 それは、原始的な火器。鍛造の銃身と木製の銃床、そして火縄を用いた着火機構から成る、五百年前の小銃だった。

 それを目にしたシュラは、マリーナを庇うため即座に上体を起こす。

 一方マリーナは、顔面を蒼白にして叫んだ。

「シュラさん! あ、あれは……!」

 言い終える前に、銃声が轟く。火縄が火皿に落ちて火薬を燃焼させ、その火を銃身内に伝えて球状の鉛玉を撃ち放つ。盛大な音響と白煙を伴って、球状の鉛玉が目視不可能な速さで飛んでいく。

 それは狙い違わずシュラの胴体に着弾し、皮一枚貫くことなく弾き返された。

「……昨日今日生き返ったわけじゃねえんだ。鉄砲くらい知ってる」

 いつの間にか、シュラの体は青白い光を帯びていた。被弾する直前、彼は自らの全身に縛鎖の術をかけたのだ。飛来する弾丸から、自分とマリーナを守るために。

 束縛した対象を硬化させるという性質を利用した防御法。術を行使している間は一切身動き出来なくなる代わりに、銃弾をも弾き返す防御力を得られる。

 その状態を長時間維持出来ないという欠点もあるため機関銃などは防ぎきれないが、幸いコルテスの銃は原始的な単発銃だった。一発撃つごとに銃口から弾薬を詰めなければならない先込め式であるため、連射性など全く無い。

 コルテスは苛立たしげに銃を捨て、再び剣を振りかぶって襲いかかる。対するシュラは縛鎖の術を解いて立ち上がり、構えをとる。右手で曲刀の柄を握り、左手を刀身の峰に添えた奇妙な構えだった。

 彼が会得したインド武術の構えではない。彼独自の構えであり、二千年前に聖仙から授かった秘術を最大限に生かすための構えだ。

 猛然と突進してきたコルテスが、力任せに剣を振るおうとする。それより一瞬早く、シュラは脳内で術式を組み上げ、気を練り、もう一つの秘術を行使した。

 曲刀の刃が、爆ぜるように奔る。火薬の炸裂で推進力を与えたとしか思えない勢いで、鋼鉄の刃が横薙ぎの弧を描く。

 圧倒的な、常識外れの剣速。

 その一太刀の速さは、ヨハンネス・リヒテナウアーや巴のそれをも遥かに上回っていた。

 切り裂かれたコルテスの胸板から、赤い血が噴き出す。思わぬ反撃を受けたことによる驚愕と、肉体を深々と切り裂かれた激痛で、その顔が大きく歪む。それでも狂気の力で痛みを抑え込み、彼は今度こそ剣を振り下ろした。

 しかしその剣は、板張りの床を無為に叩くだけ。そこにシュラはいない。彼は再び秘術を行使し、一瞬にしてコルテスの左側面に移動していた。

 そして、再び斬撃。鋭利な曲刀が、無防備な脇腹を切り裂く。

「がっ――おがああああああ!」

 胸と脇腹から大量の血を流しながら、コルテスは後方に跳ぶ。そして人外の存在ならではの脚力で高速移動し、浴場の端まで退避していった。

「……浅いか」

 僅かに乱れた呼吸を整えながら、シュラは呟く。

 マリーナを守るために止むを得なかったとはいえ、最初の一撃を受け止めてしまったのがまずかった。あれのせいで腕が痺れてしまい、刀を上手く操れなかったのだ。その結果、二度も斬りつけながら致命傷を与え損ねた。不覚と言うしかない。

 とはいえ、どうにか危機は脱した。今の短い攻防で、敵の力量も大体把握出来た。

 あれは、邪神の眷属の中でも弱い部類だ。力も速さも眷属としては並以下。狂乱しているせいか、元々大した腕前ではないのか、動きも雑で隙だらけだ。

 故に、倒せる。マリーナが使い物にならなくとも、ヨハンと巴が助けに来てくれなくとも、自分一人の力で問題なく倒せる。

 そう確信して、彼は敵との間合いを詰めるため、再び浴場内に踏み入った。

 その背に、マリーナが切羽詰まった声を浴びせる。

「待ってシュラさん! あれは……あの人は、わたしの知り合いなの……!」

 シュラは振り返らず、冷たい声で応じた。

「んなことはもう分かってる。お前が何でそんなに動揺してんのかも、大体想像がつく。だがそれはお前の事情であって、俺には関係ねえ。あいつは俺の敵で、俺はあいつを殺すためにここにいるんだ。お前が何を言おうとも、俺はあいつを斬る。それに変更は無い」

「で、でも……! せめて、話……」

「話くらいさせろってか? 無茶言うなよ。あんな訳分からんことのたまいながら斬りかかってくる馬鹿野郎と、話なんか出来るか」

 その辛辣な断言を、マリーナは否定出来なかった。

 今しがた殺意を向けられ、刃と銃弾で殺されかけたばかりだ。あの狂った男とまともに会話出来るとは到底思えない。

 いや、そもそも、仮に会話が成立したとしても――何を話せばいいのだろう。自分の何を打ち明けて、彼から何を訊き出せばいいのだろう。

 あの男は、敵なのに。

 かつて自分は、あの男に殺されたのに。

「けど……けど……待って! 待ってよ! わたしは、わたしはあの人に……」

「マリーナ」

 シュラの声は落ち着いていた。少なくとも、怒りや苛立ちを含んだ声ではなかった。

 にもかかわらずその声は、マリーナの身を竦ませる何かを帯びていた。

「文句なら後でいくらでも聞いてやる。これが終わった後は俺を罵るなり蹴り飛ばすなり好きにすりゃあいい。だが……今は黙ってそこにいろ」

 振り返り、剣呑な目でマリーナを一瞥する。

「でなくば、斬るぞ」

 静かだが、重い恫喝だった。

 マリーナは言葉を詰まらせ、硬直する。喉元を鷲掴みにされたように、声を発することが出来なくなっていた。

 そんな彼女に背を向けて、シュラが歩き出そうとした時――

『ふっ……くく……』

 笑い声が、聞こえた。

『くくく……くはははははははは』

 陰湿な笑い声。抑えた声音でありながら、悪意と嘲りを多分に含んだ、不気味で不穏な笑い声。

 それは、浴場の端に立つエルナン・コルテスの口から洩れていた。

『敵陣の真っ只中で……いや、既に敵と相対している状況で……痴話喧嘩のような真似をするなよ、お前等。笑えるぞ』

 マリーナとシュラは、揃って顔をひきつらせた。エルナン・コルテスの口から洩れている声が、エルナン・コルテスの声とは全く違うものだったからだ。

 若い男の声。澱んだ狂気ではなく、理性と知性と悪意を感じさせる声。

 完全に、別人の声だ。

『それにしても……お前は心が広いな、少年。そんなお荷物にしかならん小娘、俺なら迷わず切り捨てている』

 姿を見せない何者かは、他人の目を借りてシュラを見据え、楽しげな様子で語りかける。

 シュラは張り詰めた表情で、探るように問いかけた。

「……誰だ、てめえは」

『号は、ロキ』

 何者かは、さらりと名乗った。

『この出来損ないの飼い主だ。こいつらが死食開門で呼ぼうとしていたのが、俺だよ』

 マリーナが瞠目し、静かに息を呑んだ。シュラはその表情を、さらに張り詰めたものへと変えた。

 コルテス達三人の眷属が、死食開門で召喚しようとしていた存在。

 それは即ち、邪神。

 神の如き力を持つ、死の世界の支配者ということだ。

『食事がてら調べ物をしようと思ったので死食開門をやらせたが、どうにも上手くいかんものだな。今は我が部下達の軟弱さを嘆くばかりだ。お前等が手練なのは認めるにしても……一矢報いることも叶わんのでは、やはり情けないと言うしかない』

 その口振りから、シュラは察した。

 この男は――ロキと名乗る邪神は、全てを見ている。自分とエルナン・コルテスの戦いだけでなく、他の二人の眷属とヨハン達の戦いまで、全て。

 おそらく、自らの眷属と視覚や聴覚を共有しているのだろう。本人は夢獄にいながら、部下達の目と耳を使って一部始終を傍観していたというわけだ。

 それが今、傍観を止めて自分達に語りかけてきた。

腐臭を放つ邪念を、その声に滲ませて。

「あ……うおあぁ……!」

 コルテスが苦しそうに身をよじり、呻き声を上げた。どうやら、意識までロキに乗っ取られていたわけではないらしい。

「ロキ……ロキィ……ロキイィィィ!」

 罅割れるほど歯を食いしばり、血と涎を零しながら、怪物に堕ちた男は叫ぶ。憤怒と怨嗟の塊を、魂の底から吐き出すように。

「で、出ていけ! 出ていけよぉ……! 俺の体から、早く……早く……!」

『やかましい。主人が喋っているのだから、しばらく石になっていろ』

 無情に告げられた直後、魂切る絶叫がコルテスの口から迸った。

 指先から内臓に至るまで、その肉体の支配権を主であるロキに奪われたのだ。抗おうとする意思は、夢獄の深層から流れてくる強大な力によって封殺される。

 主に反抗した罰か、磔刑に処されたような姿勢にさせられ、そのまま彼は声を発することさえ出来なくなった。

『失礼、見苦しいものを見せてしまったな。これでも結構手間をかけて調教したのだが、ちと手綱を緩めただけで暴れ出す面倒な奴なんだよ、この馬鹿は。不出来な部下を持つと俺まで恥ずかしい思いをするから困る』

 飼い犬の不出来を嘆くように、それでいてどこか愉快げに、ロキは言う。

 その物言いに、マリーナは激しい憤りを覚えた。

「あなたは、何……? 何なの……?」

『さっき名乗っただろう。こいつの飼い主のロキだ』

「違う! そんなことを訊いてるんじゃない……!」

 声を荒げて、激情をぶつける。

「何であなたは、そんなことをしてるの……? 何でその人を、そんな……家畜みたいに……」

『喋るなとは言わんが、喋る前に言いたいことを頭の中で整理しておけ。でないと馬鹿に見えるぞ』

「……っ!」

 奥歯を噛み締め、両眉を吊り上げるマリーナ。しかし彼女の口から怒声が飛ぶ前に、ロキは言葉を続けていた。

『そう怒るな、忠告しただけだ。問いには答えてやるから安心しろ』

 コルテスの血走った眼球で少女を見据え、邪神は語る。

『どうせお前が想像しているのは、こんな感じだろう? 俺が何らかの理由でこいつを俺達の世界に引っ張り込んで、何か妙な術でも施して理性を奪い、不当に虐げた上で馬車馬のようにこき使っている、と…………まあ、ありがちな話だな。だが違うぞ。こき使っているのは否定せんが、それ以外は完全な誤解だ。こいつが死後に俺達の世界に墜ちてきたのも、喰うことと暴れることしか出来ない獣に成り下がったのも、全てこいつの自業自得。俺はそれに何も関与していない』

 それは、本当のことだった。

 ロキという悪辣な邪神は、この時、一片の嘘も混ぜずに真実を語っていたのだ。

『詳しいことは知らんし、本人がこの様なので知りようもないが……どうもこの愚図、生前におかしな儀式に手を染めたようでな、それが原因で俺達の仲間入りする羽目になったらしい。まったく愚かなことだ。普通に生きて普通に死ねば、墓の下で永眠出来ただろうに』

 儀式という単語を耳にして、マリーナは瞠目した。

 思い当たる節があったのだ。

『死後に俺達の世界に来て俺達のような存在になるには、それ相応の資格が要る。だがごく稀に、こいつのように生前の行いが原因で資格も無いのにやってきてしまう馬鹿がいる。そういう奴らの末路は皆同じだ。死の世界で受ける洗礼に魂が耐えきれず、食人衝動に駆られて暴れ回るだけの獣と化す』

 それが、この無惨な姿。

 理性も品性も失い、食欲に駆られるまま暴れ回り、死食開門を執り行うための装置として酷使されている姿だと、邪神は無情に告げていた。

『分かるか? こいつの今の境遇は不幸でも何でもなく、こいつ自身の過ちと脆弱さが招いた結果だ。不幸と言うなら、こんな愚図を引き取る羽目になった俺の方だな。こいつを曲がりなりにも使い物になるようにしてやるために、大分手間をかけさせられた』

 マリーナの神経を逆撫でするような発言だったが、当のマリーナは無反応だった。

 それどころではなかったのだ。

 時を越えてエルナン・コルテスと再会することになった理由が――彼を醜悪な怪物に変えてしまった原因が、分かってしまったから。

『さて……俺はお前の問いに誠意をもって答えたぞ。今度はお前が、俺の問いに答えてもらおうか。誠意をもって、な』

「え……?」

『実に素朴な疑問なんだが……五百年前から俺に仕えているこいつを、何故お前が知っている? さっき遠征隊が何やらと喚いていたが、あれはどういうことだ?』

 エルナン・コルテスは五百年近く前に没した人物。

 アステカを滅ぼした征服者として歴史に名を残しているが、その実像を知る者は現代にいない。いるわけがない。

『マリーナ、だったか? お前は何者だ?』

「わ……わたし、は……」

「よせ」

 困惑しながら答えかけたマリーナを、シュラが制した。

「あれは、敵だ。それも……一番厄介な類の敵だ。迂闊にこっちの情報を洩らすな」

 その顔は、先ほどまでとは比べ物にならないほど険しい。ロキという邪神に対して、彼は警戒心を剥き出しにしていた。

『そう警戒するなよ。こっちは興味本位で訊いているだけだ。それに、この語らいはお前等にとっても有意義だと思うぞ。俺は正直者な上に話し好きだからな、訊かれれば何でも――』

 言葉を遮る形で、曲刀が閃く。秘術を使い瞬時に間合いを詰めたシュラは、喉笛を狙う一太刀を繰り出していた。

 ロキはコルテスの体を操り、真横に跳躍して致命傷を免れる。その移動を目で追いながら、シュラは刺すような声で言い放った。

「生憎だが、俺はお喋りが嫌いだ」

 敵と語り合う気も無ければ、訊き出したい情報も無い。

故に、為すべきことは一つだけ。一切の無駄を省き、油断も容赦もせず、速やかに敵を抹殺する――それだけだ。

『やれやれ……これは相手を間違えたか。あのとち狂った怪力女にでも話しかけるべきだったな』

 溜息混じりに苦笑してから、ロキはコルテスの眼球でシュラを見据える。

 その視線に宿るのは、底無しの悪意。

『まあよかろう。速やかな決着がお望みなら、そうしてやる』

 死食開門のせいで澱んでいた空気が、一瞬にして変質した。より重く、よりおぞましく、肺を腐らせそうなほど汚らわしいものに。

 マリーナとシュラは、強烈な悪寒を覚えた。

 これから何かが始まることを、直感的に悟ったのだ。

『さっきも言ったが、この出来損ないを部下として用いるためには、色々と手を加える必要があってな。いざとなればこいつの意思を封じ込め、俺の意思で遠隔操作出来るようにしてあるんだよ。例えるなら……何だったかな、あの玩具…………ああ、ラジコンだ。そう、カメラの付いたラジコンみたいなものなんだ』

 奇怪な音が、二人の耳に届く。

 エルナン・コルテスの体内で、筋肉と骨格が絡み合いながら蠕動する音。悪夢の如き変化の前触れだ。

『だから、こいつの体は俺の体も同然……いや、どうとでも出来るという意味では自分の体以上だな。その気になれば、こいつの心臓を止めることだって出来る。こいつに施された封印を解くことも、容易く出来る』

 その言葉の意味を理解したシュラは、戦慄せずにいられなかった。

「てめえ、神装を……」

 封印を解くとは、秘められた力を解き放つということだ。

 夢獄に墜ちた者が例外なく授かる、強大で破滅的な力。それを制御可能な域まで抑え込むために施されている封印を、ロキは取り払う気でいる。

自らの眷属であるエルナン・コルテスを、奈落に突き落とすつもりで。

「……や、めろ……やめろ……やめろぉ……!」

 体の自由を奪われたまま、必死に叫ぶコルテス。

 彼もまた、恐れ慄いているのだ。今まで己の体内に潜んでいた力が如何なるものかを、誰よりもよく知っているために。

『何故嫌がる? お前は終わりを欲していたのだろう? 苦痛の生からの解放を望んでいたのだろう?』

 弄ぶような口振りで、ロキはコルテスに語りかける。

 他者の破滅を嘲笑う、歪な心を露わにしながら。

『今からそれをくれてやるというんだ。泣いて喜べ』

「が……あがあああああああああああああ!」

 ついに、目に見える形で変異が起こった。

 赤い紋様――血化粧のような何かが、体表に浮かぶ。次いでその身の各所が、衣服を破りながら激しく隆起する。まるで、体内から幾本もの木々が生えてくるように。

 やがて皮膚と筋肉をも突き破り、血塗れになりながら露出したのは、鋭く尖った灰色の物体だった。

 骨格が変じたものだろうが、その形は最早骨とは言い難い。

 規格外に巨大な角。あるいは、杭だ。

『我が号はフェンリル』

 ロキは代弁する。コルテスに施されていた封印を解き、悪夢に実体を与える呪文を。

『神を喰らう狼也』

 杭のような角を全身から生やした、人型の獣。

 死の世界の魔獣が、今ここに、完全なる姿で顕現した。





 畳の上に、木製の盤が置かれていた。

 四本の脚を持ち、上部に細かい枡目が描かれた四角い盤――要するに碁盤だ。その碁盤を挟む形で配された座布団に、二人の男が腰を下ろしている。

 一人は、眼鏡をかけた細身の老人。

 もう一人は、加賀見だ。

 平日の朝に、庭園に面した広い座敷の中で、彼らが何をしているのか。そんなことは言うまでもない。

 碁を打っているのだ。

「はぁ……ったく……」

 加賀見は深い溜息をつきつつ、白い碁石を盤上に置く。その様を見て、対局相手の老人が顔をしかめた。

「あんだよ、景気の悪そうな面しやがって……何か不服でもあんのか?」

「不服っつーか何つーか……俺は来月の件の打ち合わせに来ただけだってのに、何でまた碁の相手なんかさせられてんスかねえ……」

 加賀見とて、好き好んで朝から碁を打っているわけではない。彼はただ、早急に話し合いたいことがあったから、この家に足を運んだだけだ。

 朝早くから人の家を訪問するのはどうかと思わなくもなかったが、相手は暇を持て余している爺様なので構うまいと結論付けて、呼び鈴を押した。

すると、案の定暇を持て余していた老人が「こんな朝っぱらから来るんじゃねーよ、タコ」と言いつつ現れ、「まあいいや、ちょっと待ってろ」などと言うので座敷で大人しく待っていたら、何をトチ狂ったのか老人が碁盤を抱えて戻ってきた。

 そういう訳の分からない流れの結果が、現在のこれなのである。

「あぁ? んな下らねえことでぐちぐち言ってんじゃねえよ。打ち合わせなんぞ碁やりながらでも出来るだろうが」

「時間かかるじゃんよ、碁は……」

「別にいいだろうが、時間かかったってよ。どうせ暇だろ、てめえ」

「暇じゃねっての。こう見えて結構あちこち飛び回ってんスよ、俺っちは」

 嘘ではない。加賀見はそれなりに多忙な日々を送っている。何故か彼と関わる人間の多くは、彼のことを暇人と思っているのだが。

「おめえ、まだもぐりの医者やってんのか? いい加減足洗えよ」

「もぐりじゃねえって何度言わせんだよ……こう見えてもちゃんとしたとこで医術学んだのよ、俺は。その道じゃ名医で通ってるしさ……免許は持ってねえけど」

「ハッ、馬鹿が。そういうのを世間じゃもぐりっつーんだよ、タコ」

 老人は鼻で笑った後、煙草をくわえつつ黒の碁石を盤の隅に打った。

 今年で七十三になる男だが、その口調は未だに若い。張りのある声や皺の少ない顔、ぴんと伸びた背筋など、口調以外の面でも多分に若さを残している。

 かつては美男子だったと思しい顔立ちで、知的に見えなくもない風貌なのだが、この男に知的などという印象を抱く者は皆無だろう。老眼鏡の奥にある二つの目は、血気盛んな悪童のように鋭いのだから。

「へいへい、どうせもぐりっスよ、もぐり。パクられたらブタ箱行きの犯罪者っスよ……つーか先生、あんた禁煙してたんじゃねえのかよ?」

「禁煙してんぞ、棗の前ではな」

 老人は、煙と一緒に愚痴を吐いた。

「……ったく、あのガキ……煙草の一本や二本でごちゃごちゃと面倒臭え……老い先短い爺からささやかな楽しみを取るんじゃねえっつーんだよ」

「そりゃ一本や二本じゃ済まねえからだよ、あんたの場合…………あの子も大変だな、こんな爺様が同居人で」

「俺が気に食わねえならいつでも出てっていいぞって言ってある。それで出て行かねえなら、口噤んで大人しくしてやがれって話だ」

「そんな簡単に出て行けるわけねえだろ、高校生の女の子が……つーかここ、あんたの家じゃねえだろ、厳密に言うと」

「いいんだよ、俺が家主面してても誰も文句言ってこねえんだから。そりゃ俺が家主で問題ねえっつうことだろ?」

「すげえ論法だな、おい……こんな厚かましい居候初めて見たぜ」

 このじじいと同居している連中は本当に大変だな、としみじみ思う加賀見だった。

 今目の前でとんでもない暴論をのたまっている老人とは長い付き合いなのだが、その大人げなさは何年経っても一向に変わらない。むしろ、年を経るごとに悪化している節さえあるから困りものだ。

 しかも残念極まりないことに、そんな男が教団の代表なのである。よって、会いたくなくても時々こうして会わなければならない。そして会う度に、話し相手にさせられたり碁の相手をさせられたりして時間を浪費する羽目になる。無益なことこの上ない。

 とはいえ、いつまでも無駄話をしてはいられない。今日は遊びに来たわけではないのだから、そろそろ本題に入るとしよう――と思いかけたところで、ふと時間が気になり、腕時計に目を落とした。

「……遅えな」

「何がだ?」

 小さく洩らした呟きに、老人が反応する。

「いやね……連絡来るのが遅えなぁ、って……ほら、あれっスよ。シュラ達を開門の現場に向かわせた件。終わったら俺に連絡してよって言っといたんで、そろそろかなって思ってたんスけど……」

「……あの連中、電話とか使えんのか?」

「使えますよ、そのくらい。巴なんかパソコンまで使いやがります。そりゃもう、使わせちゃいけねえレベルで」

「女ってのはすげえな……順応性がありすぎるぜ。俺がもし未来に飛ばされたって、未来のメカなんぞこれっぽっちも使える気がしねえよ」

「あんたは電卓さえ使いこなせてないじゃないスか」

「あんなもん存在意義自体がねーんだよ、タコ。そろばんがありゃ充分だ」

 老人は毒づいてから、くわえていた煙草を灰皿に押し付けた。

「まあ……んなことはどーでもいいとして、だ……大丈夫なのかよ、あいつらは。こんなとこでいきなり全滅しました、なんてのは勘弁だぜ」

「ん……あー……まあ、大丈夫っしょ。多少時間食ってるみてえだけど、問題なく勝ちますよ、きっと。何だかんだであいつら強えし。今回の敵って、ぶっちゃけ雑魚だし」

 連絡が遅いことを口にした加賀見だが、実はそれほど心配していなかった。彼はシュラ達の実力をよく知っており、信頼もしている。そうでなければこんな所で暢気に碁を打ってなどいない。

「ロキとかいう奴の手下だったか? 相手は」

「ええ、ロキの取り巻きやってる三馬鹿です。何で今まで生きてられたのか分かんねえくらいしょぼいのが二匹と、それより更にしょぼい眷属もどきが一匹」

「もどき?」

 老人が眉をひそめる。

「何だ、そのもどきってのは?」

「邪神の眷属にもなれなかった、雑魚中の雑魚ってことですよ。例えるなら、そうっスね……選考の結果が不合格だった筈なのに、何故か合格扱いにされちまった奴……ってとこか」

 加賀見はサングラスの奥にある目を、僅かに細めた。

「夢獄ってのは基本的に、優秀な奴が行くとこです。喧嘩が強くて、タフで、頭も切れて、我慢強くて、才能に溢れてる感じの……まあ要するに、並外れてすげえ奴だけを選んで連れて行って、邪神とかその眷属とかに仕立て上げるように出来てるんスよ、俺達が夢獄って呼んでるシステムは。そうしなきゃいけない事情があるんでね……けど、何事にも例外はある。いや、この場合は間違いって言った方がいいか。何の取り柄もねえ平凡な奴が、死んだ後に夢獄に行っちまうこともあるんです」

 つまらなそうな顔で碁を打ちながら、平坦な声音で、加賀見は語る。どうでもいい瑣末な事を、面倒臭がりながら説明する風を装って。

 だが、老人は見抜いていた。

 加賀見と名乗る男が――自分より遥かに年上の男が、胸に溜め込んでいる黒い感情を。

「悲惨ですよ、そういう奴の末路は。何せそもそも、能力が合格の基準を満たしてねえんだから。夢獄の過酷な環境に耐えられるわけがねえし、神装なんか封印状態でも制御しきれねえ。けど夢獄ってシステムは、そんなことはお構いなくそいつに神装を着せちまう。だから……」

 一拍の間を置いて、切り捨てるように締め括る。

「魂を蝕まれて、狂う。そんで狂ったまま酷使され続けるんです。潰れるまでね」





 杭状の物体が、散弾のようにばら撒かれていた。ロキにより封印を解かれ、魔獣と化したエルナン・コルテスの攻撃だ。

 砕け散る硝子戸。抉られる床板。穿たれる天井。魔獣の体から際限なく生え、次々と放たれる灰色の杭が、建物を瓦礫の山に変えていく。

 その猛攻から逃れるため、マリーナとシュラは走り続けていた。

「振り返るな、走れ!」

 何度も後ろを振り返るマリーナに、シュラが並走しながら叱声を飛ばす。武士でも騎士でもないシュラは、戦いに意地や美学やこだわりといったものを一切持ち込まない。戦うべき時は戦うが、逃げるべき時は躊躇なく逃げる。どんな状況でも常に最善手を選択し、それを冷静かつ迅速に実行出来る男だ。

 だが彼の隣を走る少女は、そこまで冷静にはなれなかった。

 彼女は振り返る。どうしても振り返り、凝視してしまう。狂乱しながら自分達を追い駆けてくる男を。苦悶の叫びを上げながら杭を放ち続ける怪物の姿を。

 そのせいで、前方への注意が疎かになった。別の棟に続く階段を駆け上がろうとした際、足を踏み外して体勢を崩す。

「あぐっ……!」

 転倒し、無防備な姿を晒すマリーナ。その背中めがけて、巨大な杭が襲来する。

「マリーナ!」

 シュラが足を止めて叫ぶ。突然のことだったため、さしもの彼も対処が間に合わない。無論転倒したマリーナに、自力で攻撃を避けることなど出来はしない。

 最早どうにもならないと思われたが、ここで救援に駆けつけた者がいた。

 十字型の剣が鋭く奔り、杭と衝突して火花を散らす。

「ヨハンさん!」

 階段から飛び降りざまに剣を振るい、飛来する杭を弾いたのは、ヨハンネス・リヒテナウアーだった。

 彼は続いて放たれた二本の杭もその剣で防ぎきった後、僅かに顔をしかめる。

「何だこれは……どうなってる? 死食開門は阻止出来なかったのか?」

 戸惑うのも無理はない。

 前方にいる異形――耳障りな奇声を上げながら近寄ってくる男は、あらゆる意味で常軌を逸しているのだから。

「話は後だ。今はとにかく逃げに徹する。お前が殿を務めろ」

 そう言って、シュラはマリーナの手を取り走り出す。ヨハンは前方の敵を見据えつつ、静かに頷いた。

「……分かった」

 平時なら文句の一つくらい言うところだが、生憎と今は平時ではない。一瞬の隙が命取りになる非常時だ。故に無駄口など叩かない。シュラの状況判断能力を信じて、与えられた役割を冷静にこなすだけだ。

 それに、彼は悟っていた。前方の敵が休む間もなく放ってくる攻撃は、自分の腕をもってしても長く防ぎ続けられるものではないことを。

「ぐっ……ごああああ! あごあああああああああああああ!」

 獣の如く咆哮し、狙いも定めない出鱈目な射撃を続けるエルナン・コルテス。

 敵意や殺意を杭と一緒にばら撒いているようにも見えるが、実際は違う。彼はただ、苦しんでいるだけ。魂を蝕む邪悪な力に抗いながら、苦悶の叫びを上げているだけなのだ。

 その叫びが、逃走するマリーナの胸を締め付けた。

 彼女は思う。何故、こんな事になってしまったのか――何故、彼はあのような存在に成り果ててしまったのか、と。

 いや、理由は分かる。分かるのだ。さっきロキが語っていた。エルナン・コルテスは生前に何らかの儀式を執り行ったせいで、死者の世界に堕ちたのだということを。

 儀式。

 人の魂に深い業を背負わせる、邪悪な儀式。

 それが何なのか、知っている。彼が何故、そんなものに手を出したのかということも。

「エルナン……あなたは……」

 彼は、黄金に魅せられていた。

 本物の黄金ではなく、アステカの祭司が代々伝えてきた神秘の黄金に魅せられていた。その力を、心底から欲していた。黄金の力を手に入れれば、人間を超えた存在になれると信じていたから。

 そんな誤解を生んでしまった原因は、この自分――マリーナという愚かな女にある。

 自分が、彼に見せてしまったから。

 秘密にしておかねばならなかった力を、彼に知られてしまったから。

 彼は狂った妄想に取り憑かれ、決して手に入らないものを欲して暴走した結果、あんな姿に成り果ててしまった。

 だからこれは、間違いなく、自分の愚行が招いた結果。

 自分の罪だ。



 攻撃を避けながら廃墟内を走り続けた三人は、やがて厨房だった場所に行き着き、そこで一旦足を止めた。敵との距離をとることに成功したからだ。

 ヨハンとシュラの二人だけなら、ひたすら走り続けて追跡を振り切ることも可能だったが、体力の無いマリーナと一緒ではそうはいかない。そのためシュラは、ここに行き着くまでに何度か縛鎖の術を使っていた。

 縛鎖の術をかけられた物体は、例外なく硬化して可動性を失う。その効果を利用して、彼は数箇所の扉を不動の鉄壁に変えたのだ。簡単に言うなら、コルテスの追跡を阻むために扉を封鎖したのである。

 それが功を奏し、三人はこうして足を休められる時間を手にしていた。

「……何故逃げる? 見た限り、俺とお前の二人がかりで太刀打ち出来ないほどの相手とは思えんが……」

 厨房の壁によりかかって息を整えているシュラに、ヨハンは最初に抱いた疑問をぶつけた。

「あれは、倒すべき敵じゃないのか?」

「倒す必要は、もうなくなった」

 シュラは、きっぱりと答えた。

「放っておけばあれは勝手に死ぬ。だから無理に戦うよりも、逃げて時間を稼ぐ方が得策だと判断したまでだ」

「な――っ!」

 驚愕の声を上げたのは、疲労のあまり座り込んでいたマリーナだ。彼女は自分の耳を疑いながら、限界まで見開いた目をシュラに向ける。

「シュラさん……それって……」

「長々と喋ってる場合じゃねえから簡単に言うぞ。あいつら夢獄の住人は、神装という目に見えない鎧を纏っている。それが奴らの強さの源だ。加賀見達が魂の汚染って表現してたのは、要するにそれのことだ」

 畳み掛けるような早口で、シュラは説明した。

「神装は装着者に怪力と強靭な生命力を与える便利な代物だが、難点もある。それ自体が一種の生き物……というより暴れ馬みたいなもので、制御が難しいんだ。だから普段は見えない鎖で縛ってその力を抑え込んでるんだが、その状態でも易々と御せるものじゃない。神装を装着しても平気でいられるのは、あらゆる意味で並外れた奴だけなんだ」

 そこまで言った時、少し離れた所で何かが砕け散る音がした。コルテスがどこかの壁か扉を破壊したのだろう。

 音のした方角に視線を向けながら、シュラは言葉を続けた。

「そうでない奴が神装を纏えばどうなるか……あいつがそのいい例みたいだな」

 ロキとの会話で、あのコルテスという男の事情は大体分かった。あの男は、神装を使いこなす器量も無い身で邪神群に紛れ込んでしまった異物なのだ。

 だから、狂った。神装の圧迫に耐えかねて、自我が崩壊した。

 そんな男が今、封印から解き放たれた神装に魂を蹂躙され、悲痛な叫びを上げている。

「ロキって邪神は、あいつの神装を縛っていた鎖を外した。そんな真似をすればああなるってことを承知の上でな。何を考えてるのか知らねえが、奴があれをここで使い潰す気なのは確かだ」

 ロキを召喚するための死食開門は、既に続行不可能な状況だ。三人いた眷属の内の二人が倒され、残る一人も暴走状態になってしまったのだから当然と言えよう。儀式を執り行う者がいなくなったのだから、続けようがない。

 つまり、死食開門の阻止という自分達の目的は既に達成されている。だから後は、暴れ回るコルテスが勝手に死ぬのを待つだけ。戦って勝つことも出来なくはないが、放っておいても死ぬ相手と無理に戦うのも馬鹿らしい。それに、コルテスの目を介してこの戦いを見ているロキに手の内を晒したくない。

 そう考えて、シュラは抗戦ではなく退避を選んだ。

 けれどマリーナは、そこまで冷静になれてはいなかった。

「どうにか……どうにかする手は無いんですか……?」

「無い。諦めろ」

 シュラは、無情に告げた。

「あそこまで浸食が進んだ以上、あいつを操っているロキでさえ再び封印を施すことは出来ないだろうな。完全に手遅れだ。俺らの手で殺すか、死ぬまで暴れさせておくかのどちらかしかない」

「そんな……」

 希望を打ち砕かれたマリーナは、愕然とした顔のまま項垂れた。

 深い嘆きと、自責の念が、彼女の心を埋め尽くす。

「わたしのせいで……」

 言葉が血のように、心の傷口から零れ落ちる。

「わたしに……わたしなんかに関わったから、こんなことに……」

 五百年前のあの日。テノチティトランから脱出した夜。

 自分は、人を殺した。エルナン・コルテスを死なせたくなかったから、黄金の力でアステカの兵士を殺した。

 それが、全ての発端。コルテスを狂気に走らせたきっかけ。

 彼の前で黄金の力を使った後は、もう後戻り出来なくなった。自分はそれまでよりもずっと重用され、頼られ、助力を乞われるようになった。

 今は戦争中だから、自分達は窮地に立たされているから、アステカとの戦いに勝たなければ生きて帰れないから、どうか力を貸してほしい。その黄金の力で、自分達を救ってほしい。

 そう言われて、何度も何度も言われて――ついに自分は、首を縦に振ってしまった。

 命じられるがまま、人を殺した。

 何人も、何十人も、この手で殺した。

 戦争なのだから仕方がないと自分に言い聞かせて、愛する人を救うにはこうするしかないと無理矢理思い込んで、浅ましい言い訳で自分自身を騙しながら、殺し続けた。

 それがどれほど罪深いことなのか、本当は知っていたのに。

「う……あぁ……」

 その過ちの結果が、これだというのか。

 自分の罪が、愚かさが、愛する人をあんな姿に変える結果を招いたというのか。

「……そろそろ移動しよう。奴が来る」

 徐々に近付いてくる敵の気配を感じながら、ヨハンが言った。

彼はマリーナの苦悩に気付いていたが、あえてそれには言及せずにいた。今が非常事態だということを弁えていたからだ。

「マリーナ、行こう」

 床に座り込んでいるマリーナに目を向け、落ち着いた声で立つように促す。

 しかし、マリーナは腰を上げない。

「マリーナ」

 もう一度呼びかけても、反応は無い。マリーナはぶつぶつと独り言を呟くばかりで、一向に動く気配を見せない。

 ヨハンはほんの少しだけ顔をしかめた。

「マリーナ……何があったのか知らないが、今は……」

 その言葉を手で制したのは、シュラだった。彼は平静な面持ちでマリーナを見下ろし、淡々と言う。

「思い出したぜ、エルナン・コルテス……昨日加賀見が言ってたな、お前をさんざん利用した挙句に殺したろくでなしだってよ」

 マリーナが独り言を止め、微かに息を呑む。シュラは構わず続けた。

「だが……お前の様子を見る限り、その事で奴を恨んでるってわけでもなさそうだな」

 彼は全てを見透かしている。マリーナの心の中を、彼女が苦悩している理由を、全て。

「昔あいつとの間に何かあって、それが原因であいつがあんな化け物になった。少なくともお前はそう思っている。だから今、それを死ぬほど悔いている……そんなところか?」

 マリーナが、ゆっくりと顔を上げる。

 見下ろす視線と見上げる視線が、静かに交わった。

「誤解するなよ。俺は別に、お前の悩みが下らねえとか馬鹿らしいとか言いたいわけじゃない。そもそも俺に、そんな偉そうなことをのたまう資格はねえからな」

 シュラは膝を曲げ、マリーナと目の高さを同じにする。

「後悔なんてするもんじゃないって言う奴はいる。過去のことをいつまでも引き摺るのは馬鹿馬鹿しいし、意味がねえってな……ああ、確かにその通りかもな。それが正論なんだろうよ。だがな……そんな簡単に割り切れるようなら苦労しねえよ。俺達は機械じゃねえんだ。どっかの部品取り換えりゃ不具合が解消するってほど単純には出来てねえよ。生きてる限り嫌なことは忘れられねえし、何度も何度も思い出して悔いる……それは仕方のないことだ。人である以上、どうしようもない心の作用だ。良いとか悪いとかの問題じゃない」

 静かに紡ぐその言葉と、マリーナを見つめる瞳の奥には、確かな熱がこもっていた。

 炎のような、情念の熱だ。

 普段とは全く違う様子のシュラに――彼の口から放たれたものとは思えない言葉に、マリーナは戸惑う。視線が左右にぶれる。

「聞け、マリーナ。目を逸らさずに、最後まで聞け」

 シュラは強い口調で、真摯に訴えかけた。

「俺もお前と同じだ。いつも馬鹿やってる巴の奴だって同じだ。遠い昔の過ちを未だに引き摺ってる。とっくの昔に終わっちまったことを……今となってはどうしようもないことを引き摺って、女々しく後悔し続けてる。だから今、こんな所でこんな事をやってるんだ」

 荒れ果てた廃墟の中で、少年の放つ言葉が響く。

 マリーナの胸の中にも、響いていく。

「後悔するのに疲れたからだ。もういい加減、過去を引き摺るのを止めにしたいからだ。頭の中に詰まってる重たいものを、どうにかしたいと思ってるからだよ」

 何故、彼はこんなことを言うのか。自らの心情を吐露するのか。

 決まっている。

 涙を流して震えている少女に、教えたいからだ。辛いからといって立ち止まっていては、何も解決しないことを。一歩も前に進めないことを。

「悔いるのはいい。それは仕方がない。だがなマリーナ、悔いるのはいくらだって出来るぞ。生きてる限り、この先いくらだってな……」

 過去に囚われ、長きにわたり悔い続けてきた男は、自らの経験を元にして語る。

 そして、少女と向き合ったまま、言葉をぶつける。

「分かるか? お前が今やるべきことは過去を振り返って悔いることじゃない。行動することだ。過去を清算するために、自分の手で何かをすることだ。それが出来るのは今だけだぜ、残念ながら時間は止まってくれないからな。このままここに座りこんでいたら、お前が奴に殺されるか、奴が勝手に死ぬかのどちらかしかない」

 破滅の時は、もう間近。迷っている暇は無い。

「だから選べ。今すぐ選べ。生き延びるために俺達と一緒に走るか、それとも――」

 戦うか、と彼は続けた。

 マリーナの黒い瞳を覗き込みながら、はっきりと告げたのだ。

「わたし……は……」

 震える唇から、か細い声が洩れる。

ぶつけられた言葉を噛み締めて、自分自身の心と向き合って、少女は懸命に声を絞り出す。

「わたしは――」





 宴会場と中庭に挟まれた、長い板張りの廊下。

 巴はそこで、コルテスと対峙していた。

 マリーナ達と合流するため廃墟内を歩き回った結果、仲間より先に敵を見つけてしまったのである。

「……何です? これ」

 狂乱する異形の男を目にして、彼女は細い眉を八の字に曲げる。

 見た目も挙動も尋常ではない男が目の前にいるが、何者なのだろうか――そんなことを思った矢先、杭状の物体が絶叫と共に放たれた。

 顔面に向かってきたそれを、彼女は左手一本で払い除ける。

 皮膚が破れ、派手に出血した。

「あらあら……手の皮が剥けちゃいました。やな感じの攻撃してきますね、ブ男のくせに」

 赤く染まった手の甲を一瞥して、僅かに顔をしかめる。

 払うのではなく掴み取る形で防げば無傷で済んだだろう。とはいえ、そんな真似が出来るほど鈍い攻撃ではなかったことも事実。どういう原理で何を飛ばしているのか知らないが、侮れない速さと威力を備えた攻撃だ。もう少し近距離で放たれていたら危なかった。

「で……結局何なんですかねぇ、これ……見たところ、話の通じない系の人っぽいですけど」

 顔を合わせるなり問答無用で攻撃してきた男は、こちらを全く見ていない。落ち着きなく首を振り乱し、充血した眼で八方を睨みつけながら、杭のような物体を無節操にばら撒いているだけ。その口から迸る絶叫は、全く言葉になっていない。

 明らかな異常者。脳味噌が機能不全に陥っている狂人だ。

「ま……いいですけどね、何でも」

 何処の誰だか知らないが、いきなり攻撃してくるような手合いなのだから、敵の一味と見て間違い無いだろう。少なくとも味方ではない。

 なら、ぶった斬るだけだ。

 さっき仕留めた木偶の坊よりは幾分かましな相手のようだし、丁度いい。往年の勘を取り戻すための練習台にするとしよう。

「全然好みのタイプじゃありませんけど、まあいいでしょう。その首刈り取って――」

「待って、巴さん」

 背後から声をかけられて、巴は振り返る。

 そこにいたのは、見知った顔の少女だった。

「マリさん……」

 その姿を見て、巴は目を丸くした。

 マリーナが背後にいたことに驚いたのではない。彼女の醸し出す雰囲気が普段とあまりに異なるものだったから、少しだけ目を疑ってしまったのだ。

「ごめん……その人の相手はわたしにやらせて。お願い」

 マリーナは澄んだ目で、狂乱する男を見据えていた。

 その面持ちは毅然としていて、迷いや怯えを一片も表していない。それどころか、固い芯のようなものさえ感じさせる。

「これだけは、誰にも譲れないの」

「え……? その……」

 戸惑いを見せる巴の脇を通り過ぎて、因縁の相手と向き合う。揺るぎない決意を胸に宿し、その掌に日輪の紋を描く。

 シュラに選べと言われて、彼女は選んだ。

 戦うことを。コルテスを救うために、彼の苦しみを一分一秒でも早く終わらせるために、彼の命を断つことを。

 自らの手で、この戦いに決着をつけることを。

「我儘言って、本当にごめんなさい……でも、心配しないで」

 前を向いたまま、背中越しに言う。

 光輝く右手を、眼前にかざして。

「必ず、勝つから」





「そんなに気に食わねえのか? その、出来損ないってのが」

 老人が言うと、加賀見は僅かな間を置いてから問い返した。

「……何で、そう思うんです?」

「てめえの面に書いてあんだよ。そのアホをぶち殺したくてたまらねえ、ってな」

 老人と加賀見は長い付き合いだ。本当に、長い付き合いなのだ。

 だから、彼らは互いのことをよく知っている。知らないことなど何も無いと言い切れるほどに。心の内まで見通せると言うほどに。

「別に、そこまでむかついてるわけでもないですがね……」

 そう言ってから、加賀見は黒の碁石を盤の隅に打った。

「まあ、少しばかり思うところがある野郎なのは否定しませんが、今となっちゃあどうでもいいことです。ぐちぐち文句言っても仕方ねえし、面倒臭えから関わり合いたくもねえ。もういいからさっさと成仏してくれよ、ってのが正直な気持ちですね」

「……で、そいつを成仏させる役がマリーナってわけか」

「別にマリーナがやると決まってるわけじゃ……」

「いいや、そうなるな。絶対そうなる。だからこそ、てめえはそんなにむかついてんだろ?」

 指摘された、その瞬間――加賀見の顔が、彫像のように固まった。

 サングラスの奥の瞳に、鋭く険しい光が灯る。

 しかしそれはすぐに消え失せ、冴えない中年男の気だるげな顔だけが残った。

「そうっスね……ええ、その通りだ。我ながら悪趣味だって思いますよ。反吐が出る」

 件の眷属もどきの正体がコルテスであることを、彼は知っていた。

 コルテスと対面したマリーナが何を思い、どんな行動に出るか――それも充分に予想がついていた。

 全て承知の上で、マリーナを戦地に放り込んだのだ。

「軽蔑しますか?」

「安心しろ。てめえのことなんざとっくの昔に軽蔑してる。てめえが俺を救いようのねえ糞ったれだと思ってんのと同じようにな」

 老人は笑い、白い碁石を盤上に打つ。加賀見は憮然とした面持ちで、碁笥から石を摘み上げる。

 形容し難い奇妙な空気が、広い座敷を包んだ。

「しかしなぁ、あの娘さんには少しばかり同情するぜ。目覚めて早々、ろくな準備もなしに戦場に放り込まれた挙句、悪趣味な糞野郎のせいで因縁の相手と殺り合う羽目になってんだからよ。しかも聞いた話じゃ、虫も殺せねえような性格らしいじゃねえか」

「心配いりませんよ、その辺は」

 加賀見は即答した。さも当然のことを告げるように。

「確かにあの子にゃ悪いことしたと思ってますよ。今頃すげえ打ちのめされてるだろうし、暗い顔して帰ってくんのも容易に想像がつく。けど……件の眷属もどきにぶち殺されちまうんじゃねえかとか、そういう心配はしなくていいです。ありえませんから」

「何で、そう言い切れる?」

 老人は怪訝な顔で問いかける。加賀見は碁石を打ってから、答えた。

「例えば、の話……今目の前にヘビー級のボクサーとかがいて、そいつと殴り合うことになったとして……勝てる気します?」

「んなもん無理に決まってんだろ。七十二のジジイだぜ、俺ぁ」

 若くたって無理だろ――と言おうとしたが止めて、加賀見は例え話を続ける。

「じゃあ、マシンガンとか持ってたら?」

 一瞬、老人は固まった。

「撃ち方知らねえよ、あんなもん」

「ああ、そうっスね……じゃあ、撃ち方とかの基礎は一通り知ってたとして、です。丸腰の相手に負ける気しますか? しないでしょ?」

「……まあ、そりゃあな」

「そうっスよね、普通は負けない。負けようが無い。相手のガタイが良かろうが喧嘩慣れしてようが血の気が多かろうが、んなもん関係ねえ。しっかり握って、しっかり構えて、安全装置外して引き金引く……こっちはそんだけ知ってりゃいいんです。狙いなんてテキトーでいい。相手のいる方に銃口向けてぶっ放せば、後は勝手に死んでくれる。そういうもんでしょ?」

 老人は反論しなかった。それは自明の理と言うべきものであり、反論の余地がないくらい当然のことだったからだ。

「こんなこと言うとどっかの大剣豪はブチ切れそうですが、人間同士の力の差なんてそんなもんですよ。いや、相手が猛獣だろうと何だろうと同じことだ。火力の差は、腕力や技術の差なんて簡単にひっくり返しちまう」

「つまり……それだけ持ってる力が違うってことか?」

「そういうことっス。あの子は確かにズブの素人で、戦闘技術も経験も無いに等しいけど、それを補って余りあるほど強力な武器持ってるから、問題無し。はっきり言って、火力が桁違いすぎる」

 腕力の差も、技術の差も、経験の差も、火力の差に比べれば些細な問題に過ぎない。女子供でも銃を持てば大男に勝てる。強力な武器を持った弱者は、素手の強者より遥かに恐ろしい。加賀見が言っているのは、そういうことだ。

「しかもあれ、弾切れが無いんですよ」

「あ?」

「いつまででも撃ち続けられる、ってことです。その気になりゃ何年でも、何十年でも……一生かけてぶっ放し続けることだって出来る。ま、敵がいねえとこで無意味にぶっ放す馬鹿はいませんけどね」

 加賀見が何を言っているのか分からず――というより、言っていることの内容が信じられず、老人は暫しの間放心した。

「信じられねえかもしれねえけど、マジなんスよ、これ。あの子の技は鉄砲なんかと違って、使いすぎて撃てなくなるってことが絶対に無い。何の代償も無く、何の消耗もせず、いくらでも好き放題撃ち続けられるっていう、死ぬほど都合のいい代物なんです。何でそんな馬鹿げたことになってるかっつーと……そうだな、今度は水道の蛇口に例えてみましょうか」

 加賀見は、座敷と隣接する板張りの廊下に目を向けた。

「そこの洗面所の蛇口捻って水を出したとする。で……ここん家のボケた爺様は手ぇ洗った後、水止めるのを忘れてどっか行っちまったとして……」

「喧嘩売ってんのか、コラ」

「例え話っスよ。で……そのまま水出しっぱなしにしといたら水道料金すげー取られるけど、別に水道水が枯れたりはしないでしょ?」

 加賀見に言われ、老人は言葉に詰まった。

「水道水だって無限にあるわけじゃないですけどね、一軒の家で消費する量なんて水道水全体に比べたら微々たるもんです。どんだけ無節操に使ったってなくなりゃしねえ」

 それもまた、自明の理。家の中で水をどのように消費しようとも、それが水道水全体に影響を及ぼすことは絶対にありえない。

 蛇口が吐き出す水の量など、全体の中では微々たるものに過ぎないのだから。

「ああそうだ、まずこれを説明しとかなきゃいけなかった。マリーナの……あの子が黄金って呼んでるアレね、ぶっちゃけて言うと邪神を呼ぶ開門と同じなんです。いや、比喩じゃなくってね、原理とかまで本当に同じなの。違いは、門を開けた後に出てくるのが化け物か光かってことだけ」

 開門と黄金。一見何の関係も無いかのようなその二つは、本質的な意味でなら同じもの。

 世界に小さな穴をあけ、世界の外側にあるものを取り出す術なのである。

「分かりますか? あれはね、あの子の体の中にある魔力だか霊力だかをぶっ放してるわけじゃないんですよ。黄金の光は、どっか遠いところにダムの水みたいな感じで蓄えられてる。あの子がやってるのは、そこに繋がる門を作って、開ける。ただそれだけ。それだけだから消耗なんてしない。いくらだって撃ち続けられる」

 汲めども尽きぬ泉の如き、無限の力。

 たとえ理屈の上では有限であろうとも、一生かけても使いきれない貯蔵量があるなら、それは無限とほぼ同義だ。

「アホみたいに都合が良くて、反則じゃねえかってくらい強大な力」

 僅かに目を細め、碁石を指先で弄びながら、加賀見は呟く。

 揺るぎない確信と、畏敬の念を込めて。

「無敵の、力だ」





 魔獣が吼える。その肉体が剣山と化す。骨に硬質化した皮膚を被せて作った杭が、筋肉の収縮力によって銃弾の如く発射される。

 マリーナはそれを、一歩も動かずに迎え撃った。

「拡散」

 彼女の白い掌に浮かび上がる三重の日輪。それが今、光の粒子を放射状に振り撒く。巨大な円盾を形成するために。

 マリーナに向かって突き進んでいた五本の杭は無数の粒子を浴び、瞬く間に磨り減っていった。そしてマリーナの身に触れる寸前に、跡形もなく消滅する。

 彼女の技を、加賀見は水道の蛇口に例えた。それは、無尽蔵の力を蓄えているということだけが理由ではない。

 蛇口は、水の出し方を変えられる。捻り加減で水の量や勢いを調節出来る。器具を取り付ければシャワーにもなる。ホースを使って狙った位置に水を撒くことも出来る。

 マリーナの技も同じことだ。その原理は邪神を呼ぶ開門と全く同じであるが、精度という面では比較にならないほどの高性能であり、門の規模や形状、数や出現位置さえも自由自在に変えられる。

 故に、彼女の黄金は千変万化する。必要に応じて矢にも剣にも盾にもなり、敵を討つ。

『ようやくやる気になったか、面白い』

 コルテスの口がロキの声を発した。封印を解かれて狂乱の極致に達した今も、コルテスはロキの支配下にある。

 だからこそ戦えるのだ。神経が焼き切れるほどの激痛に苛まれながら。

『豆鉄砲は通じんようだが、こいつはどうだ?』

 右腕から、それまでよりも遥かに大量の杭が生える。そしてそれらは身を寄せ合うようにして重なり合い、絡み合い、一本の巨大な杭となった。その威容は、中世の騎兵が用いた突撃槍を思わせる。

 ロキに操られ、床を踏み砕きながら突進するコルテス。その速度と体重を乗せた穂先が、真っ直ぐに突き出される。

 それにマリーナは、冷めた声で応じた。

「黙って」

 コルテスの右腕に形作られた突撃槍を、光輝く網が包み込む。

 否、網ではない。網のように見えたものの正体は、無数の細い閃光だ。三重の日輪から放たれた無数の光が、それぞれ異なる軌跡を描き、あらゆる角度からコルテスの右腕に襲いかかったのだ。

 その威力は、先程放射した粒子の比ではない。貫通力を限界まで高めた極細の光が、巨大な骨の塊を瞬時に切り刻む。

「あなたの声は聞きたくない」

 ロキという邪神の存在など、今はどうでもいい。ただ不快な鳴き声を上げるだけの害虫としか思えない。

 彼女は今、降魔師として邪神と戦っているわけではないのだ。

「わたしは……」

 そこで言葉を区切り、眼前の怪物をじっと見据えた。

「エルナン……あなたの声が聞きたい」

 呼びかけに、怪物は応えなかった。彼の瞳は狂気の色に染まったままで、本質的な意味では何も見ていない。

 エルナン・コルテスは盲目だ。

 彼の目は五百年前から、苦痛と、恐怖と、己の抱いた妄想しか見ていない。





 エルナン・コルテスという男は、どこまでも凡庸な男だった。

 清廉潔白な人格者ではなかったが、悪魔と呼べるほど歪な性根の持ち主でもなかった。野心はあったが、それとて彼の生きた時代においてはありふれたものに過ぎない。

 彼はただ、病んでいただけ。長く続いた過酷な戦いのせいで、精神が磨り減っていただけなのだ。

 アステカとの戦いは――テノチティトランから命からがら脱出した後の日々は、苦難の連続だった。心休まる時間など、一時たりとも無かったと言っていい。

 アステカの追撃部隊から逃れるため、ろくな食糧も持たないまま未開の山林に足を踏み入れた。道らしい道など全く無い中を、血塗れの足で歩き続けた。

 飢えをしのぐため、荷役の馬を食べた。それでも足りない時は、力尽きた仲間の遺骸を食べた。

 仲間割れは、数えきれないほど起きた。勝手に離脱する者、命令を無視する者が後を絶たなくなった。意見の対立が、殺し合いに発展することさえあった。多くの者が命を落とした。彼自身も、幾度となく命を落としかけた。

 そんな日々の中で、彼は心を病み、狂い、そして切望するようになった。

 悪夢の終わりを。

 苦難からの解放を。

 何故こんなに苦しまなくてはならないのか。何故こんなに怯えなくてはならないのか。決まっている。弱いからだ。立派なのは肩書きだけで、それを剥ぎ取った後には何も残らないからだ。自分の身を守ることさえままならない、無能で貧弱な男だからだ。

 だから――そう、だからこそ、思ったのだ。

 力が欲しい、と。

 強大な力。あらゆる脅威をはねのける力。マリーナのような――彼女が生み出す金色の光のような、人智を超えた力。

 そんな力が自分にあれば、辛く苦しい日々は終わる。

 敵の襲撃や、暗殺や、味方の反乱に怯えながら過ごすことは、もうなくなる。

 一度そう思ってしまうと、妄想に歯止めが利かなくなった。寝ても覚めても、強くなった自分の姿を思い描くようになった。力が欲しいという思いが抑えつけられなくなった。戦況が好転しても、アステカを滅ぼしても、数多の財宝を手に入れても、その思いは消えてくれなかった。

 そして、ある時――思い悩む彼の前に、一人の女が現れた。

 何処の誰かも定かでないその女は、愛を囁くような甘い声音で、力を欲するコルテスに告げたのだ。

 あなたの願いを叶えましょう、と。

 それは、俄には信じ難い、夢物語のような話だった。マリーナと同じ黄金の力をいとも容易く手にする方法を、その女は教示したのだから。

 まともな者なら、まず取り合わなかっただろう。けれども心身ともに磨り減っていたコルテスは、そんな程度の判断力さえとうに失っていた。彼は女の話に聞き入り、その内容を鵜呑みにし、これは自分の元に舞い降りた天啓の類なのだと妄信してしまった。

 黄金を手にするための代価は、ただ一つ。

 幼い息子、マルティン・コルテスの命。

 銀貨を払って物を買うように、我が子の命を躊躇い無く差し出して、彼は禁断の邪法に手を染めた。





「あ……が……あぁ……」

 コルテスは狂っている。ロキによって神装の封印を解かれる前から、知性と理性と記憶の大半を失い、苦悶の叫びを上げるだけの怪物と化している。

 それは、報いだ。邪法に手を染めた報いなのだ。

 彼が悪魔の囁きに従い、我が子を犠牲にして執り行ったのは、黄金の力を手にする秘儀などではなく、人の心身を汚染する邪法だった。

 穢れてしまったその魂は、真っ当な死を迎えることさえ許されない。世界の理が死を許さない。

 非情な世界は罪人を奈落の底に縛り付け、永劫の責め苦を課す。

「ぐご……おああぁ……」

 かつて愛した男の言葉にならない声を聞いて、マリーナは奥歯を噛む。かつての自分の過ちを悔いる。

 どうして、自分はあんなに愚かだったのだろう。好いた男に黙々と付き従い、求められたら差し出すだけの、安くて軽い女だったのだろう。

 言うべきだった。訴えかけるべきだった。

 彼の頬をはたいてでも、彼に殴られることになってでも、伝えなくてはならなかった。

 大切な――本当に大切な、誰もが胸に刻まなければならないことを。

「我等は皆、死すべき定め」

 唄う。澄んだ声音で、粛々と。

「絵のように、我等は消えていく。花のように、この地上で枯れていく。サクアン鳥の羽根の衣のように、我等は散る」

 それは、故郷の唄。遠い昔から伝わる唄。

 世界の無常を嘆く唄。世界の在り様を尊ぶ唄。

 生きとし生けるもの全てに贈る、命の唄。

「王侯よ、戦士よ、民よ、このことを忘れるな」

 掌の日輪が回る。高速で回りながら、輝きを増す。

「翡翠で創られても、金で創られても、お前達はやがて、肉の削げ落ちた者の地に往く」

 詠唱が進むほど、その輝きは増していく。そして詠唱が終わる時、その力は極限に達する。

「誰も地上に留まれない」

 命は儚い。

 人はいずれ死ぬ。

 どんなに強い力を身に付けても、山ほどの財宝を手に入れても、たとえこの世の頂点に立とうとも、その運命からは逃れられない。

 永遠に生きる神にはなれない。終わるのだ。命は、やがて。

 だから――

「この世に永遠はあらじ」

 だから、歩いていこう。

 この過酷な大地の上を、二本の足で歩いていこう。

 幻想の檻に囚われた怪物ではなく、儚い命を抱えた人間として、力の限り生きていこう。

 互いに支え合って、笑い合いながら、懸命に。

 命が尽きる、その時まで。

「五百年前に、伝えればよかったね……こんなこと」

 寂しげに笑って、少女は呟いた。

「馬鹿な女で、本当にごめんなさい……」

 零れる涙を振り解き、その掌を床に叩きつける。三重の日輪が床に転写され、刹那の内に爆発的な広がりを見せた。

 通路の床、壁、そして天井にまで描かれる光芒の線。太陽を表す紋様。

 規格外に巨大な門が、今ここに形作られた。

「開門・広域展開」

 コルテスを囲む牢獄の如き門は、マリーナが全力を注いで作り上げた極大の砲門だ。それは起動した瞬間、全方位からの一斉掃射によって術者以外の存在を抹消する。

 そう、消すのだ。エルナン・コルテスという男を、髪の毛一本、血の一滴たりとも残さずにこの世から消し飛ばす。

 その行為の残酷さに、マリーナは震えた。自虐の念が波濤のように押し寄せた。

 けれども、彼女は躊躇わない。軋む心を必死に支え、挫けそうになる足に鞭を打ち、光を放てと己に命じる。

 日輪の門が、開放。

 怪物と化した男の肉体を、黄金の輝きが包み込んだ。



 光が満ちる。

 漆喰が剥がれ落ちるように、コルテスの体から皮と肉が剥がれ落ちる。眩い光の中で、その身が瞬く間に崩壊していく。

 不思議と苦しみは無かった。むしろコルテスは、どこか安らぎにも似た解放感を覚えてさえいた。

 だからだろうか。彼は最期に、疑問を抱いた。

 目の前で、涙を流しながら立つ少女――あれは、誰なのだろう。

 知らない顔だ。見覚えのない姿だ。あんな娘は知らない。誰だか分からない。

 なのに、知っている気がする。誰だか分かるような気がする。遠い昔に出会った誰かに、少しだけ似ているような――

「き……み、は……」

 喉から声が洩れる。問いが零れる。

「きみ、は……だれ、だ……」

 消えゆく男の問いかけに、少女は答えた。相手の目を、真っ直ぐに見つめて。

「……マリーナ」

 自身の名を、発声する。

「わたしは、マリーナ」

 嗚咽を噛み殺して、言う。

「遠い昔……あなたがくれた、名前」

 コルテスが目を見開く。その魂に理知が戻る。

 この時初めて、本当の意味で、コルテスはマリーナを見つめた。マリーナという存在と真正面から向き合った。

 五百年の時を経て、ようやく。

「そう、か……そうだったな……」

 微かな呟きだけを残して、彼は光の中に消えていった。





 戦いは終わった。

 戦いの舞台であった通路が、そこにいた男と共に跡形も無く消滅する形で。

 それを為した少女は、深々と抉られた大地の上に立ち尽くし、灰色の空から降りしきる雨を浴びている。

 何も言わず、何をするでもなく、ただ雨粒に打たれている。

「……終わったようだな」

 いつの間にか背後にいたシュラが、声をかけてきた。彼の傍にはヨハンと巴もいる。

 三人に背を向けたまま、マリーナは答えた。

「……ええ、終わりました」

 その声に含まれる微かな震えを、誰もが感じ取っていた。

 けれど、誰も、何も言えない。

 ただ、時間だけが無為に過ぎる。

 そんな重い沈黙を破ったのは、シュラだった。

「気の利いたことは何も言えんが……詫びよう。悪かったな、さっきは」

 少女の小さな背を見つめながら、謝罪する。

「偉そうに説教じみた真似をしたが、ありゃ詭弁だ。混乱してたお前に色々吹き込んで、無理矢理その気にさせたってだけの話だ。許せなんて虫のいいことはとても言えんが、悪いとは思ってる」

 騙そうとしたわけではない。熱を込めて語った想いは、決して嘘ではない。

 しかしながら、マリーナを戦わせる意図があったという点では、詭弁であったこともまた事実。

「その事で俺にむかついてんなら、後は好きにしてくれて……」

「怒ってませんよ」

 シュラの言葉を遮り、マリーナは言った。

「怒ってなんかいません。わたし、シュラさんに感謝してるんです」

 コルテスという男の最期。

 消え失せる寸前、光の中で、彼が一瞬だけ見せた顔。

 僅かな語らい。

 脳裏に刻んだその瞬間を思い返しながら、マリーナは振り返り、微笑んだ。

「少しだけ……あの人の声が聞けたから……」

 その声は、やはり少し震えている。目の端には小さな雫が浮かんでいる。

 それでも彼女は笑っていた。

 気丈に、小さな幸せを噛み締めるように。

「……そうか」

 シュラは静かに目を瞑り、頷く。

 雨は未だに止まない。

 罪深い魔女を洗い清めようとするかのように、ただ延々と降り続けていた。




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