第五話「至高の技と無双の力」
忌まわしい儀式が、一昼夜に渡り続いていた。
かつては浴場として使われていた、コンクリート造りの部屋の奥。今やカビの温床となった丸い浴槽の中に、三人の男がいる。彼らは三角形を描くようにして佇立し、力ある呪言を唱え続けている。
部屋中が、いや空間全体が、濁った黒色に染まり始めていた。それに伴い粘り気を帯び始めた空気は、蜜を含んだように甘く、獣の吐息のように汚らわしい。その変容はどこか、果実が腐りゆく様に似ていた。
死食開門の儀。
人の命を供物として捧げ、邪悪なる神を招く大儀式。
それは夢獄に通じる門を築く儀式であり、死者の王を生者に変える儀式であり、儀式の形をとった虐殺であった。
邪神群という呼称で一括りにされているが、今この場で儀式を執り行っている三名は邪神に仕える下僕でしかない。無論彼らとて怪物であり、一騎当千の兵であるが、それでもまだ、人の範疇に踏み留まっている。神の域には程遠い。
人の範疇から完全に逸脱し、神に等しき存在にまで上り詰めた死者は、たった八人しかいないのだ。その八人――否、八柱こそが夢獄の王であり、多くの眷属を従える邪神である。
眷属とは比較にならないほど強大な八柱の邪神は、それ故に夢獄という領域と深く結び付いている。あるいは、沈没していると表現した方が適切かもしれない。
軽い物は水面に浮く。重い物は水底に沈む。それと同じようなものだ。死者の世界の深奥に沈んだ彼らの魂は、生者の世界から遠すぎる。通常の開門では、彼らのいる場所まで通じる門を作れない。
だからこそ、死食開門という邪法が編み出された。多くの生者を殺め、その死が生む力を以って極大の門を築くという、鬼畜の業が。
「連中め……いつまで続ける気だ」
浴場の入口に立つ村上は、苛立たしげに呟いた。
邪神の眷属を人間として数えないなら、今この場にいる人間は彼一人だけだ。彼が引き連れてきた者達は建物の外で見張り役を務めている。大事な通訳兼交渉役であるソフィアは、夜までには戻るなどと言って勝手に姿を消していた。
村上とて暇な身分ではないのだが、止むを得ないと観念してこの場に留まり続けていた。死食開門を最後まで見届け、邪神群の指導者と会い、悲願を成就させる。それ以上に優先すべきことなど、今の彼には一つも無かったのだ。
まだ終わらないのかと思いながら、忌まわしい儀式を傍観し続ける。そうやって見れば見るほど、胸を焦がすような苛立ちと、胸を締め付けるような罪悪感が募った。
この浴場は、血の臭いに満ちている。多くの人間が、ここで死んだからだ。儀式を執り行うための生贄として、多くの命を捧げたからだ。
彼らの死に様と断末魔が、まだ目と耳にこびり付いている。この先何十年生きたとしても、それはきっと拭い去れないだろう。
生贄を用意したのは、他ならぬ村上自身だ。大枚をはたいて生きた人間を海外から密輸し、この場に運び込ませた。そして、手足の自由を奪った上で化け物の餌にした。
断じて許されることではない。まさに鬼畜の所業であり、万死に値する罪だ。
そう自覚し、罪の重さを認めながらも、彼は計画を断行した。愛する娘を救うためには、そうせざるをえなかった。
村上雅之には娘がいる。今年で十二歳になる一人娘だ。
その娘が今、父より先に逝こうとしていた。
老衰で。
「…………ぐっ」
プロジェリア症候群という、早老症疾患の一種だ。新生児において四百万人に一人、幼児期において九百万人に一人の割合で発症するとされ、皮膚の老化、脱毛、骨格の形成不良等をもたらす。症状が進むと重篤な心機能障害や脳血管障害をも招き、やがて死に至る。
患者の平均寿命は約十三年。残された時間は、あまりにも少ない。
だから、欲しかった。娘を死の運命から救ってくれる奇跡が、不治の病をも癒してくれる奇跡が、何を犠牲にしてでも欲しかった。
そんな都合のいい奇跡など無い、と人は言うだろう。それが常識であり、現実の厳しさというものだ。しかし村上は知っていた。人の世界の倫理に背を向け、尊厳を捨て、人外の者共に縋りつけば、恵んでもらえる奇跡もあるということを。自分の祖先は、それを手にしたいがため魔道に手を染めていたのだということを。
そんな祖先の浅ましさを嫌い、彼は魔道に背を向けながら生きてきた。だが今は、祖先の残した技術を頼りに怪物共を招き、媚びへつらっている。奇跡を恵んでもらうために。
「早く……早くしろ……」
死食開門が終われば、あの三人を束ねている邪神に会える。そして、大導師とやらを――邪神群の指導者を呼んでもらえる。
そうなれば、娘を救える。救える筈だ。人に不老の肉体を与えるという、邪悪なる黒耀石の力ならば。
「……ん」
ふいに、延々と続いていた儀式が中断された。三人の内の二人、金髪の男と鉄腕の大男が、詠昌を止めて何か囁き合っている。
いったい何だと疑問に思った直後、異様な音が聞こえてきた。
砲撃の音だ。
「なっ――!」
何の前触れもなく響き渡った轟音に、村上は狼狽した。
そして気が付くと、目の前に二人の男が立っていた。今しがた何かを囁き合っていた、金髪の男と鉄腕の大男だ。
「な、何だ! 何が起きた!」
夢獄の言葉を修得していない村上は、この二人と会話出来ない。しかしそれでも、問わずにいられなかった。
その慌てぶりから、言いたいことを察したのだろう。金髪の男が薄い笑みを浮かべて、律義に答えた。
「お客様がお見えになったようだ。どうやら、あなた方には荷が重い相手のようだね」
彼の口から出たのは夢獄の言葉であったが、その微笑の意味を村上は察した。
来たのだ、敵が。
邪神の召喚を阻止しようと目論む、降魔師共が。
約十五分前。
目的地まであと数百メートルという所で、マリーナ達は車から降りた。ここから先は用心深く徒歩で進むべきだということで、全員の意見が一致したからだ。
空は厚い雲に覆われ始めていた。じきに一雨降りそうな空模様だ。
「それじゃあ私は帰りますから、終わったら歩いて帰ってきて下さいね。みなさん」
運転席の窓から顔を出す彩花は、にっこり笑ってそう言った。しかしながら、その目は全く笑っていない。
「あと、今度から戦場には徒歩で行くようにして下さい。私は送り迎えしませんから、絶対」
絶対という部分を強調して、きっぱりと言い切る。運転中に吐瀉物を撒き散らされるという大惨事は彼女に深い心的外傷を与えたようだ。二度とこの死者共を乗せないと固く誓ってしまっている。
「いやー、はは……彩花さんのお怒りはごもっともだけどさ……こいつだってほら、反省してるみたいだし……許してやってくれないかな……?」
巴の頭を強引に押し下げながら、ヨハンは彩花を宥めようとしていた。流石の巴もあの大失態の後では普段のふてぶてしさを保てないのか、無抵抗のまま頭を下げさせられている。
それでも、被害者の怒りは収まらなかった。
「駄目です。許しません。今度からは歩いて行ってもらいます。それが嫌なら自転車買ってあげますから、それに乗って行きなさい」
「いや、その……あれに乗って戦いに行くってのは、ほら……何ていうか、絵面的に……」
「だったら歩きなさい。もしくは加賀見さんのポンコツ車にでも乗せてもらいなさい。とにかく私はもう運転しませんからね。それじゃ」
情け容赦なく言い捨てて、彩花はアクセルを踏む。怒気と排気ガスを撒き散らしながら、被害者と被害車が去っていく。そうして、その場――雑木林に挟まれた細い未舗装路の上に、捨てられた子犬のような風情の四人が残された。
「戦う前にこんなに疲れたのは初めてだ……人生何があるか分からんもんだな」
ヨハンが肩を落として深い溜息をつくと、シュラも苦い顔で言った。
「奇遇だな、俺もちょうど似たような心境だ」
こんな時だけ気が合う二人だった。
そして、口にこそ出さないものの、マリーナも彼らと似たような心境だった。朝から晩まで肉体労働に従事した後のように疲れ切っていた。
巴の車酔いが破滅的な結末を迎えた後のことは、もう思い出したくもない。悪臭が充満し、悲鳴と怒号が飛び交う車の中で、神経を大分すり減らされた。戦う決意とか闘志とか集中力とか緊張感とかを木端微塵に砕かれたような気分だ。正直なところ、目的地に着く前に帰りたくなってしまった。
その元凶である巴はと言えば、まだ車酔いによるダメージから回復しきれていないらしく、青い顔でふらふらしていた。あれを介抱してやらないといけないのかと思うと、物凄く憂鬱になる。
「まあいい……ここでうだうだやってても仕方ねえ。行くぞ」
シュラがそう言って歩き出すと、他の者らも後に続いた。
出立前に目的地周辺の地図を渡されているため、道に迷うことはない。四人は口を噤んだまま、小石の散らばる坂道を登っていく。
最後尾を歩くマリーナは、目的地が近付くにつれて高まる鼓動を実感しながら、前を行く三人を見つめていた。正確には、その得物を見つめていた。
先頭を行くシュラは、細身の曲刀を鞘に納めたまま持っていた。非常に反りが強い刀で、その形は三日月を思わせる。片手用のためか、柄は短い。金属製の柄頭は、小さな皿のような形をしていた。
ヨハンの得物は剣。彼は腰のベルトに金具を付け、革の鞘に納まった剣を吊るしている。シュラの曲刀とは対照的な直剣で、柄も長い。まるで十字架のような形をした剣だった。
そして巴の得物は、他の二人の得物よりも遥かに長い。携帯性を重視してか、三つに分解出来る構造になっていたそれは、車の荷台から取り出して組み立てると見事な長柄武器に変貌した。柄の前端部に付いた刃を含めると、その全長は持ち主の身長を上回る。
一見すると槍のようだが、よく見ると違う武器のようだった。まず、刃の形が違う。両刃ではなく片刃であり、しかも曲刀のように反っている。柄の形も妙だ。普通、槍の柄は断面が円形になるように作られている。それが、手の内で回転をかけながら突き出すのに最も適した形だからだ。しかしながら、巴の得物の柄はまるで刀剣類のそれのような楕円形。突きよりも薙ぎ払うことに重きを置いた武器であることが窺い知れる。
この三人と共に戦うのは、これが初めてだ。皆かなりの実力者らしいが、その実力の程は知らない。別に信頼していないわけではなく、むしろ信頼したいと思っているのだが、やはりどうしても気になってしまう。
それに、気になる事がもう一つ。
「……帰りはどうするんだろ」
彩花が去ってしまった以上、帰り道が徒歩になることは確定的となった。
こんな仰々しい武器を携えた一団が往来を歩くというのは、この時代の常識的にどうなのだろうか。少し――いや、大いにまずいのではなかろうか。
これから命懸けの戦いが始まると知りつつも、ついそんなことを考えてしまうマリーナだった。
目指す廃墟が間近に迫ったところで、四人は道の脇に広がる雑木林に踏み入った。用心のため、突入する前に木々の陰から様子を窺うことにしたのだが、その判断は正しかった。建物の入口を取り囲むような形で、何人もの哨兵が配備されていたのだ。
全員が同じような黒い服を着ており、一目で現代人と分かる。周囲に目を光らせているようだが、雑木林に潜む四人に気付く者はいなかった。
「八人か……」
呟いた後、ヨハンはシュラに囁きかけた。
「伏兵はいると思うか?」
「十中八九いない。あそこで馬鹿面並べてんのはどう見ても素人だ。仮に見えないところに何人かいたとしても、そりゃ交代か何かで休んでるだけで、伏兵なんて気の利いたもんじゃねえだろうよ」
冷静に分析した上で、断言する。
相手の力量や性格、特徴を見抜く観察力において、シュラは非凡なものを持っていた。肉体的な面でも心理的な面でも、彼は決して人を見誤らない。
もっとも、廃墟の周りを固めている連中が素人であるという点については、ヨハンや巴も同意見だった。あの連中は誰かに命じられて哨戒の任に就いているようだが、万一のことなどまず起きないと高を括っているのだろう。遠目からでも弛んだ空気が伝わってくる。
「じゃ、さくっと片付けましょうか」
「待て」
動き出しかけた巴を、シュラが制した。そして、横目でマリーナを見る。
「マリーナ」
「あ、はい!」
「馬鹿、でかい声出すな」
「す、すみません……」
「まあいい……加賀見の奴から聞いたが、お前の芸は飛び道具なんだよな?」
聖なる黄金のことを言っているのだろう。どういう意図で今それを訊いてくるのかと訝みつつ、マリーナは答えた。
「はい、遠くまで届く技です」
「それは、目立つか?」
「え……?」
「でかい音とか激しい光とかを発して、人の注意を引く類のものか?」
マリーナは少し考えてから、神妙な顔で答える。
「音はあまり出ませんけど、激しく光ります。目立つかどうかと言われると……すみません、すごく目立ちます」
「謝らなくていい。むしろ、目立つ方がいいんだ」
シュラの褐色の指が、建物の入口付近を指し示した。
「あの入口付近の、二人並んで立ってる所の手前あたり……あの石が真っ直ぐ敷いてあるあたりだ。あそこを狙って撃てるか?」
「えっと……地面を撃つんですか? あの見張りの人達を撃つんじゃなくて?」
「そうだ、地面を撃てばいい。出来るな?」
「……はい、出来ます」
「なら、今から六十数えろ。数え終わったら撃て。その後は俺達がやるから、お前は何もしなくていい」
そこまで言われて、マリーナはようやくシュラの意図を察した。
要するに彼は、敵の注意を引けと言っているのだ。激しい発光とともに破壊をもたらす黄金の一閃が地面に撃ち込まれれば、あの八人の視線はそちらに集まる。その隙に、死角から襲いかかって仕留める算段なのだろう。
ならば、自分が下手を打つわけにはいかない。マリーナは深く息を吸い込んでから、心の中で一秒二秒と数え始めた。
そして、約一分後。
「呆気ないですね……ていうか、別に小細工しなくても倒せたと思いますよ」
「侮るな、今の時代の人間はどんな武器持ってるか分からん。邪神とは違った意味で怖い」
「どう見ても素人だ、とか言ってたのはシュラさんじゃないですか」
「別に矛盾したことは言ってねえよ。こいつらは素人丸出しの雑魚だが、持ってる武器は馬鹿に出来ねえって話だ」
「確かに、ど素人でも猛獣を殺せる時代だからな……嫌な時代になったもんだ」
敵の掃討を終えた三人は、廃墟の玄関先で益体もない会話をしていた。ほんの数秒前までその場に陣取っていた男達は、皆地面に倒れ伏している。
まだ雑木林の中にいたマリーナは、棒立ちになったまま呟いた。
「すごい……」
あの後、言われた通り六十数えてから撃った。黄金の閃光は狙った位置に命中し、敷石を貫いてその破片を撒き散らした。
廃墟の周りを哨戒していた者達は、目を剥くほど驚いたのだろう。叫び声を上げながら一箇所に集まり、地面に穿たれた穴を強張った顔で凝視していた。そんな彼らの死角から、シュラ達三人は飛矢のような速さで襲いかかった。
その後の出来事は、一瞬だった。一瞬すぎて、傍から見ていても何が何だか分からなかったくらいだ。シュラが手刀と肘打ちで最初の一人を倒した――と思った時には、もう全部終わっていた。八人もいた男達が、一様に昏倒していたのだ。
驚くべき早業だが、本当に驚くべきは誰も武器を使っていないことだろう。彼らが使ったのは己の拳足だけ。不意討ちとはいえ、格闘術だけであんなにも速やかに人を倒せるものなのかと思い、マリーナは我が目を疑った。
あの三人は、本当に強い。心底からそう思い、その手並みに感心した。
そして同時に、少しだけ安心した。
何故、人ではなく地面を撃てと言ったのか。何故、あんな回りくどい方法で襲撃したのか。彼らが武器を使わずに敵を倒したことで、その意味がようやく分かったからだ。
彼らは強いが、血も涙もない殺人者ではない。だからこそ、今も相手を昏倒させるだけで命までは奪わなかった。
討つべき相手とそうでない相手を、きちんと見定めてから行動しているのだ。
「ぼさっとすんな、行くぞマリーナ」
「あ……はい!」
シュラに言われ、マリーナは小走りで三人の下に向かう。そして、おずおずと口を開いた。
「あの……みんな、強いんですね……」
「弱かったら生き返らせられてねえよ」
シュラは素っ気なく言ってから、微かに表情を険しくした。
「だが、こいつらに任せておけば安心……なんて風には絶対思うなよ。今は相手が弱過ぎただけだ。この先にいる連中は、こんな簡単にはいかねえぞ」
邪神の眷属のことを言っているのだろう。
夢獄に堕ち、魂を汚染された死者の集団。人喰いの悪鬼。それがここに転がっている男達と同じようなものだと思うほど、マリーナも楽観的ではない。
「……分かってます。油断はしません」
「ならいい」
シュラは踵を返し、建物の中に踏み入ろうとする。
それを遮ろうとするかのような声が、遥か頭上から降ってきた。
「おやおや、随分と若いお客様だ。斬り捨てるには忍びない……が、致し方あるまいな。こればかりは」
全員が、反射的に頭上を仰ぐ。瓦葺きの屋根を足場にして立ち、玄関先の四人を見下ろしていたのは、金髪碧眼の青年。
美男と呼んで何ら差し支えない容貌の持ち主だ。時代錯誤な装いをしているものの、それが奇妙なほど様になっている。まるで絵画の世界から抜け出してきたかのような男だった。
その足が、屋根を蹴る。右手に携えていた両刃の片手剣を振りかぶりながら、弾け飛ぶような勢いで急降下する。
標的は、マリーナ。しかし彼女は反応出来ない。急降下する男の速さに、彼女の反応速度はまるで追いつかない。
斬られる――そう思った瞬間、真横から伸びた白刃が彼女を救った。すぐ傍に立っていたヨハンが抜剣し、その刃で金髪の男の一撃を跳ねのけたのだ。
迅速で、流麗な迎撃だった。
「見事! いい剣捌きだ!」
飛び降りざまの一太刀を防がれた男は、空中で反転しながら賛辞を投げる。そして軽やかに着地してから、好戦的な笑みを四人に向けた。
「どちら様か知らないが、我々に堂々と挑んでくるだけはある。感心したよ。これなら退屈せずに済みそうだ」
そこでようやく、マリーナは気付いた。男の口から出ている言葉が、日本語とは全く異なる言語であることに。
スペイン語でもない。マヤ語やナワトル語とも違う。それらとは発音も文法も違う、未知の言語だ。
にもかかわらず、正確に聞き取れる。男の言っていることが理解出来る。
これも、加賀見達の教団に頭の中を弄られたせいだろうか。
いつの間にか、異界の言語まで話せるようになっていたのか。
「邪神の眷属、か……」
ヨハンはマリーナを庇うようにして前に踏み出し、剣の柄を腰の近くに引き寄せた構えをとる。その口から出た言葉も、やはり夢獄の言葉であった。
「ほう、やはり言葉も通じるか。勉強熱心で何よりだ。最近は我々の言葉も話せんような輩が多くて、意思疎通も一苦労でね……いや失礼、感心する前に答えておくべきだったな」
男の視線が、マリーナ達から僅かに逸れる。
「眷属とかいう呼称はあまり好きではないが、お察しの通りさ。私と彼は、死の国の王に仕える身だよ」
「彼?」
巴が怪訝な顔をした時だった。
「あたしのことよ」
巨大な人影が、巴の背後に現れる。それは巴に振り向く暇さえ与えず、大木のように太い足を無防備な背中に叩き込んだ。
強烈な衝撃を受けて、細い体が宙に浮く。そして投石が水面を跳ねるように、何度も地面にぶつかりながら飛んでいく。
最後には雑木林に立つ木に頭から激突し、木の葉の雨を降らせた。
「あらごめんなさい。隙だらけだったんで、つい蹴っちゃったわ。派手に飛んでいっちゃったわね」
現れるなり巴を蹴り飛ばしたのは、鉄腕の巨漢だった。
金髪の剣士と同じ、邪神の眷属。並外れた巨躯の持ち主であり、分厚い板金鎧に身を包んだ戦士だ。
その禍々しい風貌に気圧されかけたマリーナは、我に返って叫びを上げた。
「巴さん!」
そうだ、呆けている場合ではない。巴はこの男の太い足に蹴り飛ばされたのだ。今はまず、彼女の安否を確かめねばならない。
あんな一撃を受けて無事でいるわけがないと思いながらも、マリーナは木の根元で横たわる巴に駆け寄った。
その背中に、巨漢は嘲笑を浴びせかける。
「いいのが入っちゃったから、死んだんじゃない? 運が良ければ生きてるかもしれないけど、むしろ半端に生きてた方が可哀想かもね」
骨折と内臓破裂はほぼ確実。体の中身が飛び出ていてもおかしくない。彼の蹴りは、それだけの破壊力を持っている。
事実、巴は地面に横たわったまま起き上がる気配を見せない。マリーナがいくら呼びかけても、ぴくりとも動かない。
「これは失礼。彼は気のいい男なのだが、些かせっかちなのが玉に傷でね……だが先に仕掛けてきたのはそちらだ。まさか文句は言わないだろう?」
その場から動かないヨハンとシュラに、金髪の男が笑いかける。するとシュラが、淡々と応じた。
「別に文句ねえよ。今のは簡単に後ろをとられてるあいつが間抜けなだけだ」
怒りや焦り、あるいは動揺といったものを、彼は欠片ほども見せていない。巴が蹴り飛ばされたことなど、どうでもいい些事としか思っていない様子だった。
同じく平静を保っているヨハンが、シュラの言葉を引き継ぐ。
「だが……間抜けと言うならお前らも同じだ。どうせやるなら確実に仕留めろ。手を抜いた不意討ちほど無意味なものは無い」
その発言の意図をはかりかねて、人外の二人は共に怪訝な顔をする。
澄んだ声が彼らの耳に届いたのは、その直後だった。
「相変わらず上から目線で物言いますね。このおじいちゃん達は」
むくりと、地面に横たわっていた巴が起き上がる。何事もなかったかのように平然としながら、少しばかり残念そうな顔をして。
「ま、偉そうなのはいつものことだからいいんですけどね。そんなに早くネタバレしないで下さいよ。私のことを心配してくれるマリさんを、もうちょっと愛でていたかったのに」
「「うるせえ、さっさと起きて戦え」」
ヨハンとシュラの台詞が、一字一句違わずに重なった。
「と、巴さん……大丈夫、なの……?」
「ええ、へっちゃらです。巴は頑丈ですから」
呆然としているマリーナに、巴はにっこり笑いかける。その笑みはあまりにも自然で、苦痛を堪えているようには到底見えない。
つまり、効いていないのだ。体が宙を舞うほどの衝撃を受け、木の幹に頭から突っ込んだにもかかわらず、傷一つ負っていない。
「へぇ……ちょっとだけ驚いちゃったわ。なかなか頑丈なのね、女のくせに」
凶暴かつ嗜虐的な笑みを浮かべて、巨漢が歩み寄ってくる。巴は相手の顔を見上げながら、夢獄の言葉で挑発を返した。
「あらあら、汗臭いお猿さんがいますね。それとも、鎧を着た豚さんかしら? 目に毒なんで、畜舎に帰ってくださいませんか?」
「……言うじゃない。いいわ、その綺麗な顔、ぐちゃぐちゃにしてあげる」
濃密な殺気を至近距離から浴びせられても、巴は全く怯まない。
その得物――黒漆塗りの大薙刀を緩く握ったまま、構えようとさえしなかった。そんな必要は無いと断言するかのように。
「ヨハン、巴」
シュラは、二人の名を呼んだ。
「そこの二体はお前らに任せるが、構わないな?」
問われた二人は、それぞれの相手を見据えたまま応じる。一人は真剣な面持ちで。一人は軽い調子で。
「ああ。お前はマリーナを連れて先に行け」
「マリさんのこと、ちゃんと守ってあげなきゃ駄目ですよ。もし怪我とかさせたら後でシュラさんの恥ずかしい秘密暴露大会やりますからね」
二人からの返答を受けて、シュラの次なる行動は決定した。彼はマリーナに視線を移して、告げる。
「つーわけだ、行くぞマリーナ」
「え……で、でも……」
「いいから来い!」
まごつくマリーナの腕を引っ張り、建物の中へと消えていくシュラ。その背中に、金髪の剣士は鋭い眼差しと嘲笑を飛ばす。
「話がまとまったところで申し訳ないが、そう簡単に行かせるわけには……」
そう言って、動き出しかけた時だった。疾風の速さで間合いを詰めてきたヨハンが、その剣を横薙ぎに一閃する。
金髪の男はとっさに後退。間一髪で斬撃の軌跡から逃れ出る。しかし完全に躱しきることは出来ず、首の皮を僅かに掠め斬れられた。
首に刻まれた一筋の傷。そこから流れる少量の血液。それを指先で拭い取ってから、男は瞠目した。
いかに隙を見せていたとはいえ、彼に剣先を当てられる人間など普通はいない。
そんな真似は不可能、と言ってもいいほどだ。
「悪いが、行かせてもらう。お前ら如きに手間取っているわけにもいかないんでな」
剣を振り抜いた筈のヨハンは、既に剣を構えた姿勢に戻っていた。
その気配は冷厳そのもの。氷の冷たさと鉄の硬さを併せ持った眼差しで、相手を射抜くように見据えている。心身共に一分の隙も無い。
平時は普通の若者のように振舞う男だが、本性は老練な武芸者だ。一度剣を抜けば、すぐさま真の姿に立ち戻る。
「お前の相手は俺がしてやる。来い」
剣先を相手の眉間に向け、厳かに告げる中世の騎士。
邪神の眷属は人喰いの牙を剥き出しにした笑みで、それに応じた。
「……面白い」
シュラに手を引かれながら、マリーナは薄暗い廊下を進んでいた。しかしながら彼女の意識は、未だ前を向いていない。
外で戦っている二人のことが、気がかりで仕方なかったのだ。
「足下気を付けろよ。ここはあまり老朽化してないようだが、それでも廃墟だ。いきなり床が抜けるかもしれん」
「は、はい――って、そうじゃなくて……! いいんですか? あそこに敵がいるのに、私達だけ先行っちゃって」
「敵は三人って聞いてる」
「え?」
「教団の奴らの報告に間違いが無いなら、今回の開門でこっちに来た眷属は三人だ。俺達の前に出てきたのが二人だけってことは、残る一人がこの奥で死食開門を続けてるってことだ。俺はこれから、そいつを始末する。お前も手伝え」
早足で前進しながら、断言するシュラ。後ろばかり気にしているマリーナと違い、彼は前だけを見ている。
「……死食開門って、一人でも出来るものなんですか?」
「さあな、その辺は俺もよく知らん。だがこういう場合は、最悪の事態を想定しておくべきだ。でないと取り返しのつかないことになる」
どうやら彼は、死食開門を止めることを最優先にしているようだ。
死食開門の完了――即ち邪神の召喚だけは、何としてでも阻止しなければならないと考えている。
それほどまでに恐ろしいのだろうか。夢獄を支配する、邪神という存在は――
「さっき言ったことと矛盾するかもしれねえが……」
そう前置きしてから、シュラは言った。
「心配するな。あいつらはどうしようもねえ阿呆だが、腕は確かだ」
前だけを向いて、どんどん前に進んでいくから、彼の表情は見て取れない。けれどその声音は、いつもより少しだけ穏やかだった。
「……これから一緒に戦う仲間なんだ。少しは信頼してやれ」
言葉が、胸に響く。
長い眠りから覚めた後のように、マリーナは瞠目して固まった。このシュラという少年の口から、仲間を信頼しろなどという言葉が飛び出すとは思ってもみなかったからだ。
「――は」
はいと頷こうとした瞬間、唐突にシュラの足が止まった。
何事かと思ったマリーナは、直後に気付く。シュラの視線の先に、黒い服を着た厳めしい男がいることに。
長い廊下の突き当たりの、下の階へと続く階段の手前。マリーナ達の進路を塞ぐ形で、村上雅之は立っていた。
火花散る剣戟が、曇天の下で繰り広げられていた。
金髪の男が、後退しながら片手剣を突き出す。ヨハンは自らの剣でそれを捌き、斜め前方に踏み出しながら斬り下ろしを見舞う。回り込むような動きでその一太刀を躱した金髪の男は、ヨハンを側面から斬りつける。ヨハンは身を翻し、扇を描くような剣捌きで相手の剣を受け流す。
一進一退。互いに一歩も譲らない。
「ハハハハハハハハハハハッ!」
激しい攻防を繰り広げながら、金髪の男は高笑いを上げていた。歓喜の発露だ。
「いいぞいいぞ! やるじゃあないか若いの! 人の身で私と渡り合うとは大したものだ!」
鍔迫り合いの状態から、剣を捻って相手の剣を巻き落とそうとする。しかし、それも通じない。ヨハンは同じく巻きの動きで対抗し、男の剣を横に押しのける。
そうして繰り出された突きを後退しながら躱して、男は心からの賛辞を贈った。
「武芸などとうに廃れたものと思っていたが、まだ貴殿のような使い手がいるとはな! 喜ばしいぞ! こんなに胸が高鳴るのは久しぶりだ!」
戦う前は、正直侮っていた。少しは出来るようだが、所詮は人間の若僧。自分と渡り合うには程遠い、と。
されどそんな認識は、僅か数合で塗り替えられた。
少しは出来るどころではない。この男は、強い。
鍛え抜かれた体をしている。構えが堂に入っている。体捌きが理に適っている。そして明らかに、戦いに慣れている。
見世物と化した運動競技や、精神修養を主目的とした武道の使い手とは違う。
本物の武術――殺人術の使い手だ。
「以前薄明会とやらと争った時も、ここまでの達人とは巡り会えなかった……何者だ? 見たところ、この土地の人間ではないようだが……」
「そういうお前は、イングランドの騎士か?」
ヨハンが口を開いた。相手の高揚した声とは対照的な、醒めた声だ。
「いかにも!」
容姿と武器、そして戦い方から見抜いたのだろう。その慧眼ぶりに感心しながら、男は高らかに名乗りを上げた。
「我が名はジョージ・シルバー。テューダー朝期のイングランドで国王陛下に仕えていた者だ」
鋭い犬歯を剥き出しにして、嗤う。
「今の主からは、ヨルムンガンドという号を賜っている」
号――それは夢獄の住人が使う別名だ。
邪悪なる神。悪魔。幻獣。怪物。そういった存在の名を付け、その名で呼び合うことを習わしにしている。
ジョージ・シルバーの号は、ヨルムンガンド。北欧神話に登場する蛇の怪物だ。
「貴殿も名乗れ。その名、覚えておいてやろう」
ヨルムンガンドは愉しげに笑い、好敵手と認めた相手に名乗りを求める。
対するヨハンの表情は、ひどく醒めたものだった。彼はこの戦いに喜びを見出していないばかりか、相手の芝居がかった態度に辟易してさえいる。
しかしながら、名乗られたならば名乗り返すのが彼の流儀であった。
「ヨハンネス」
剣を中段に構えつつ、騎士は自らの名を告げた。
「ヨハンネス・リヒテナウアーだ」
砲弾を放つかの如く、巨漢は右拳を突き出していた。
巴は横に跳び、その攻撃から逃れる。彼女の後ろに立っていた木が代わりに拳打を浴び、無数の木屑を飛ばした。
ただの一撃、それも拳の一撃で、鎧姿の巨漢は大木の幹を深々と抉ったのだ。常軌を逸している。
しかしながら、それはある意味当然のことだ。彼は邪神に仕える怪物であり、その右腕は鋼鉄の塊なのだから。
「あらぁ? 強がってた割に、随分必死に避けるじゃない」
巨漢は首を回し、獰猛で挑発的な笑みを巴に向けた。
彼の号はヘル。人間だった頃の名はゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン。中世ドイツの騎士であり、強盗、恐喝、追い剥ぎ等の蛮行を繰り返して財を成した極悪人だ。戦場で右手を失ってからも義手を嵌めて戦い続けたことから、鉄腕ゲッツと呼ばれて恐れられた。
生前から怪力を誇っていた男であるが、夢獄に堕ちて魂を汚染された後、その腕力は生前の数倍にまで高められていた。
大岩を砕くことも、大木を薙ぎ倒すことも、今の彼には容易いことだ。
「そんなに私のコレが怖いの?」
自慢の右腕を掲げ、勝ち誇るヘル。
対する巴は、柔らかな微笑みでそれに応じた。
「はい。すごく汚くて臭そうなんで、近付けられるだけでゾクっとします」
上品で、麗しく、それでいて相手を馬鹿にしきっている笑み。汚いものに触れたくないから避けただけだという、ふざけた物言い。
それはヘルが覚えた束の間の愉悦を粉砕し、血管が膨れ上がるほどの怒りを与えた。
「ふぅん……汚れるのが嫌なの? なら……」
笑みをひきつらせたまま、右足の爪先を地面に打ち込む。そしてその脚を大きく蹴り上げ、土砂を散弾のように撒き散らした。
「こうしてあげようかしらぁっ!」
土と石と植物。地面と地中にあったものが一斉に飛び散り、土色の嵐となって巴を襲う。
単純ながら効果的な目潰しだ。反射的に両腕を顔の前で交差させた巴は、自ら視界を封じてしまった。
致命的な隙だ。
「アハハハハハハッ! 隙だらけよ!」
哄笑しながら猛然と襲いかかったヘルが、鋼鉄の右拳を下段から突き上げる。それはがら空きの腹に打ち込まれ、細い体を宙に浮かせた。
暴虐はそれで終わらない。相手が浮くと同時に自らも跳躍し、肘打ちを叩き込んで落下させる。そしてさらなる追い打ちとして、全体重を乗せた踏み下ろしを見舞った。
大地が、人の形に陥没する。体を地中に埋めたまま、巴はぴくりとも動かなくなった。
「ふふ……普通ならぐちゃぐちゃになってる筈なんだけど、本当に頑丈ねえ……でも、流石にこたえたでしょ?」
倒れ伏す巴を掴み上げ、ヘルは厚い唇を歪めて笑う。
巴はまだ息絶えていない。だが意識を失っているのか、何も言わずに首をだらりと下げていた。
「嬲り殺しにしてあげたいとこだけど、あまり遊んでもいられないから次で終わりにしてあげるわ。脳味噌派手にぶちまけなさい」
放っておいても死ぬだろうが、念のため止めを刺しておこう。
そう思い、ヘルは巴を真上に放り投げた。遥か上空から落下してきたところで、渾身の一撃を叩き込むために。
「ハハハハハハハハハハハハハッ!」
拳を振りかぶるヘル。
されど、彼は失念していた。既に瀕死の筈の巴が、武器を手放していないことを。
「ハハハハハハハッ! ハ――」
落下していた巴が空中で反転し、大薙刀を振りかぶる。大口を開けたまま凍りつく男を見下ろし、くすりと笑う。
そして、斬撃。
稲妻のように落ちてきた刃が、巨漢の左肩を斬り裂いた。
「ギッ――ア、ヒアアアアアアアアアアッ!」
迸る絶叫。肩に生じた裂け目から鮮血を噴き上がらせて、ヘルは苦悶の叫びを上げる。数秒前までその顔に浮かんでいた喜悦は、もう跡形も無い。目を見開き、頬を強張らせ、血と汗を滝のように流して、彼は無様にのたうち回った。
そんな醜態を晒す巨漢に、巴は言い放つ。
「駄目ですね。全然駄目」
彼女は笑っている。虫ケラか、塵屑を見るような眼をして、酷薄な笑みを浮かべている。
「顔も最悪ですけど、腕はそれに輪をかけて最悪ですね。力自慢っぽいのに腕力さえろくにないなんて、びっくりしちゃいました。これじゃ褒めてあげられるところが一つもありません」
刃先に付いた汚らわしい血を振り払い、告げる。
死ね、という意味の言葉を。
「その顔見るのも辛くなってきましたし、そろそろ終わりにしましょうか」
この男は、敵だ。
眼前に立ちはだかる男――村上を無言で睨みつつ、シュラは瞬時にそう判断した。
その風貌と気配から、夢獄の住人でないことは一目瞭然。何かの間違いでこの場に紛れ込んでしまった一般人、といった風情でもない。となれば、答えは一つ。生身の人間でありながら、何らかの理由で邪神群に協力している愚か者だ。
身なりの良さから察するに、外にいた雑兵共の雇い主といったところだろう。
「何者だ、お前達は」
先に口を開いたのは、村上の方だった。マリーナを庇うようにして立つシュラが、静かな声音で応じる。
「降魔師共の狗だ」
わざわざ自分達の素性を教えてやる義理など無い。だから最低限のことだけを、簡潔に伝えた。
「仕事でお前らの悪企みを止めに来た。それだけだ」
二人の視線が交錯する。
両者とも険しい顔をしているが、村上の顔には若干の戸惑いが浮き出ていた。目の前に現れた敵の姿が、意外なものだったからだ。
十代前半と思しい外国人の少年と、十代半ばくらいの少女。どちらも、彼にしてみれば自分の娘と大差ない年齢の子供だ。刺客にしては若すぎる。
「……そうか、お前達のような子供が……世も末だな」
いくらか気が重くなったが、ここを通すわけにはいかない。
「だが、敵である以上容赦は……」
「どけ」
村上の言葉を遮る形で、シュラは言い放った。敵意とはまた別種の、冷たい感情を言葉に乗せて。
「……なんだと?」
「お前は邪神の眷属じゃねえだろ? 俺達が始末する相手は邪神とその眷属だけだ。お前なんぞに用はねえ。だからどけと言ったんだ」
「ふざけているのか、貴様……」
「ふざけてねえよ。単にどうでもいいだけだ。お前みたいな、踊らされてるだけの馬鹿は」
シュラは村上を敵と見なしているものの、積極的に排除する気など微塵も無い。それどころか、逃走するなら捨て置いて問題無いとさえ考えている。村上雅之という男に対して、彼はどこまでも無関心だった。
「お前みたいなのにいちいち構ってたらきりがねえし、時間の無駄だ。見逃してやるからさっさと失せろ。外でのびてる馬鹿共連れて」
それはある意味、この上なく残酷な言葉だった。敵として立ちはだかっているつもりの相手を、敵として扱っていないのだから。
「この期に及んで……」
村上の口から、歯軋りの音が洩れる。
「そんな台詞を吐くことがふざけているというんだ! 小僧!」
怒号と共に、村上は隠していた武器を抜き放った。それは槍よりも長く伸び、銀色の光で弧を描き、シュラの顔面を襲う。
花が咲くように、血の雫が飛び散った。
「シュラさん!」
マリーナが叫ぶ。
幸いにして、シュラの傷は浅手だった。彼はこめかみから血を流しながら、自分の皮膚を裂いた刃を凝視する。
そして、ぽつりと呟いた。
「ウルミか……」
雷鳴の名を持つインドの古武器。柔らかい鉄で作られた異形の長剣。薄い帯状の刃は弾力性に富むため、腰に巻いて携帯出来る。用法は刀剣よりも鞭に近いが、刃筋を立てて斬りつければ人の首を落とすことも可能。
それが、村上の得物だった。
彼の一族は古代に大陸から流れてきた帰化人であり、降魔を生業としていた一族だ。降魔師を廃業して実業家となった今も、家伝の武器と技は残っている。
「失せろ、はこちらの台詞だ! 今すぐここから失せろガキ共! この刃で輪切りにされたくなければな!」
長い刃を蛇のようにうねらせて、降魔師の末裔は激しく吼え猛る。
どうやら、戦うしかないようだ。この男に説得は通じない。この男を倒さなければ死食開門を阻止出来ない。そう判断して、マリーナは身構えた。
そんな彼女を、シュラの手が制する。
「いい、下がってろ。俺がやる」
曲刀の柄に手をかけ、鞘から引き抜く。三日月を思わせる滑らかな刃が、鈍い輝きを放った。
「見逃してやると言った筈だが……それでも刃を向けてくるってことは、斬り殺されても文句ねえんだな?」
「ほざけ! 斬り殺されるのは貴様の方だ、小僧!」
怒気と殺気を爆発させ、村上は再びウルミを振るう。シュラは静かに構えをとり、迫り来る刃を迎え撃った。
ドイツ式剣術。
そう呼称され、中世から現代まで脈々と受け継がれてきた武術がある。ドイツ連邦共和国が神聖ローマ帝国だった時代に隆盛した武術であり、盾や左手用短剣を用いず、両刃の長剣を両手で操ることを特色とする流派だ。
それは遠い昔、一人の剣術家によって創始された。
十四世紀半ばに神聖ローマ帝国領のフランケン地方リヒテナウで生を享けたその男は、武の道を極めるために諸国を遍歴し、各地に伝わる武技を貪欲に学んだ。そして様々な技法を統合し、研鑚に研鑚を重ね、ついには今日ドイツ式剣術と呼ばれるものの原型を作り上げた。彼の教えは韻文対句の形で数々の剣術書に記され、現在まで残り続けている。
その男こそ、ヨハンネス・リヒテナウアー。
欧州の武術史に名を残した、偉大な武人である。
「ヨハンネス・リヒテナウアー……?」
一瞬だけ、ヨルムンガンドは怪訝な顔をした。
「フッ、なるほど……高名な剣術家の名を騙るか。いい趣味をしている」
どうやら、相手の名乗りを不遜な詐称と受け取ったようだ。
それが当然の反応だろうと思いつつも、ヨハンは小さく呟いた。
「……一応本人なんだがな」
「――ハッ! いや結構! 貴殿が何者だろうが何と名乗ろうが、大いに結構! 我らは剣士! 全ては剣で語らえばいい!」
ヨルムンガンドは地を蹴った。そして地を這うような低姿勢で疾走し、相手の足を断つべく剣を一閃。
驚異的な速度で繰り出されたその斬撃を、ヨハンは紙一重で回避した。
「これも躱すか! 流石だな――だがっ!」
剣を振り抜いたまま走り抜けたヨルムンガンドは、左足を軸に方向転換。再び地を蹴り、廃墟の外壁を蹴り、屋根を蹴り、立体的な高速移動でヨハンを翻弄しにかかる。
その脚力は、既に人はおろか野生動物のそれでさえない。
相手を難敵と認めたが故に、解き放ったのだ。死後に夢獄で獲得した、邪神の眷属としての力を。
「今度は少しばかり本気を出すぞ! ついてこられるかな、大剣豪!」
彼の敏捷性は邪神群の中でも上位に入る。彼が全能力を解放して前後左右上下に移動し続けたなら、その動きを目で追いきれる人間などいない。
高速かつ変幻自在の動きでヨハンを翻弄し、いとも容易く背後をとり、無防備な背に斬り下ろしを見舞う。その一斬が、血飛沫の花を咲かせると確信して。
されど彼が目にしたのは、不可解極まりない現象だった。
「なっ――」
敵が、いない。
必殺のつもりで振り下ろした剣は、空を切っただけ。一瞬前まで無防備な背を晒していた筈の男が、忽然と消えている。
どういうことなのか、これは。
敵は、あの長髪の男は、どこに消えたのか。
「一つ、訊こう」
背後から、刃先のように鋭い声。
振り返ると、そこに悠然と立つヨハンネス・リヒテナウアーがいた。
「お前達は、人を喰ってまで生き永らえているそうだが……それは何のためだ?」
「な、何……?」
唐突に問いをぶつけられたことよりも、いつの間にか背後をとられていたことで、ヨルムンガンドはひどく狼狽していた。
「俺はお前達のことをよく知らん。死後に怪物になった連中で、開門とやらでこの世に出てきて人を喰う……その程度のことしか聞いていない。それが嘘か真かを確かめてもいない。お前達の様子を見る限り、根も葉もない嘘を吹き込まれたわけではないようだが、それでもあえて訊こう」
冷厳な面持ちで、老剣士は人喰いの魔物に問う。
「人を喰うというのは本当か? それが本当なら、何故そんな真似をしてまで生き永らえようとしている? そこに何らかの理由や志、大義があるならここで語れ。お前がそれを語るなら、俺も先入観を捨てて耳を傾けよう」
「――ハッ」
ヨルムンガンドは鼻で笑った。自身の狼狽を覆い隠そうとするかのように。
「志? 大義? 何を言うかと思えば、随分とおかしなことを言うものだな。いかにも生温い太平の世で生まれ育った輩がのたまいそうな台詞だ。失望したぞ」
唇を歪めて、嘲笑う。
彼は気付かない。目の前の男の目に、確かな失望の色が浮かんだことに。
「我等は生きるために喰う。それだけだ。それ以上でも以下でもない。正直不味くて喰えたものではないのだが、喰わねば本当の死人になってしまうのだから仕方なかろう? 文句なら、我等をそういう存在に変えた大導師にでも言え」
「……十年や二十年しか生きていないガキならともかく、何十年何百年と生き続けて、まだ生き足りないのか? お前らは」
「当然」
その返答に、迷いは微塵も無かった。
「生存を望むのは人の……いや、生き物の本能だ。それが悪しきことだとも恥ずべきことだとも思わん。利他の心だの自己犠牲の精神だのといったものは神に仕える坊主共の美徳であって、我等のような武人が持つべきものではない。何故なら武術とは、他人を殺して己を生かすための術だからだ」
反論の余地はあるかとばかりに、ヨルムンガンドはヨハンをねめつける。
ヨハンは、何も言わなかった。
「それに、だ……人の命は短すぎる。武の道を極めるためにはな。何十年と鍛練を続けて、技を磨いて、ようやく一角の武人になれたかと思えば、体は老いさらばえてろくに剣も振るえんという有様……この無念、貴様も武人なら分からんか?」
同意を求めるように投げかけられた問いにも、やはりヨハンは答えない。されどその眼光は、軽蔑の念を露わにしていた。
「全く共感出来んという顔だな。だが万が一、死後に私と同じ存在になれれば分かるだろうよ。若く強靭な肉体への執着が……永遠に腕を磨き続けられることの素晴らしさが!」
言い終えるやいなや、弾けるように疾走したヨルムンガンドは、裂帛の気合を込めた斬撃をヨハンに見舞う。ヨハンはその斬撃を、自らの剣で真っ向から受け止める。両者の間で、再び熾烈な剣戟が繰り広げられた。
怒涛の連撃でヨハンを防戦一方に追い込みながら、ヨルムンガンドは吼える。
「さあ仕切り直しだ! 先ほどは何か小細工したようだが、二度同じ手は食わんぞ! 貴様がどこに逃げようと必ず――」
彼の台詞は遮られた。言葉ではなく、下方から跳ね上がってきた刃によって。
それは怒涛の連撃をすり抜け、剣を操っていた右腕を捉え、一刀のもとに断ち斬った。処刑人が、罪人の首を断つように。
赤い血が、肘から先を失った腕から噴き上がる。
「何百年も磨き続けて、これか……」
呆然となるイングランドの騎士に、ドイツの騎士は言い放つ。
嫌悪と、侮蔑と、幾許かの哀れみを込めて。
「軽薄な剣だ。反吐が出る」
言葉とともに振り下ろされた剣が、無防備な胴体を斬り裂く。刀身に宿る降魔の力と練達の業で、邪神の眷属の骨肉を断つ。
悲痛な叫びを上げ、ヨルムンガンドは後退した。その傷口から、夥しい血を流しながら。
常人であれば致命傷だ。されど、死の世界で汚染された肉体はそう簡単に絶命しない。骨肉を断たれ、大量の血液を失いながらも、心臓は懸命に脈打ち続ける。
その強靭な生命力は、時としてこの上なく残酷だ。気が狂うほどの激痛を覚えても、死の安息に逃避出来ないのだから。
「は……あっ……! ぐううっ……!」
歯を食いしばって痛みに耐えながら、ヨルムンガンドは自問した。自問せずにいられなかった。
斬られた。この自分が、人間の剣士に、斬られた。
何故、自分が斬られるのだ。今度は油断などしていなかったのに、全力で攻め立てていたのに、何故反撃を食らった。何故右腕を失い、胴体まで斬り裂かれた。
何故というなら、先ほどもそうだ。
何故、奴の姿を見失った。何故、いつの間にか背後をとられていた。
「何故、何故……こんな……」
いくら考えても、答えは一つしか思い浮かばない。
相手の方が速かった。相手の方が巧かった。
ほぼ互角と見ていた彼我の技量は、その実、天地ほども隔たっていた。
断じて認めたくないが、そんな単純で絶望的な答えしか浮かんでこないのだ。
「確かにお前の言う通り、武術とは人を殺す術だ。他人を死なせ、自らの手を血で染めながら生きる者こそ武人……その事実を否定するつもりは無い。だが……」
苦しみ悶えるヨルムンガンドの耳に、老剣士の声が届いた。
重く、静かな声だった。
「人は、己一人を生かすためだけに武器を執るのではない」
人は、戦う。
臆病な者も、力無い者も、時として武器を執り、強大な敵に立ち向かう。
勝てぬと知りながら挑むこともある。無謀を承知で命を擲つこともある。
意地を貫くために、尊厳を取り戻すために、未来を切り拓くために、大切な何かを守るために、戦いに身を投じることもある。
「それが分からぬ愚か者に、武術や武人を語る資格は無い」
その言葉は、ヨルムンガンドを――かつて騎士だった男を打ちのめした。
数百年かけて積み上げてきた自負を、粉々に砕いた。
「ほざけ……若僧が……!」
噛みつくように、怒気を飛ばす。美しかったその顔を、醜く歪めて。
「何を、甘ったるい綺麗事をほざいてやがる……殺しと流血を美化して悦に入るのが最近の流行りか……? 気取るなよ、殺し屋。貴様とて、無償で我らと戦っているわけではあるまい? 降魔師だの何だのと名乗ったところで、結局のところ殺しを生業にしている商売人だろうが!」
糾弾する。人喰いの怪物が、人殺しの騎士を糾弾する。
「人を喰う我らと、我らを殺して生きる貴様らの何が違う? 何が――」
「大いに違う」
騎士は言った。強固な意志を瞳に宿して、力強く言い切った。
「俺の剣は騎士の剣だ」
誇りを抱いて、剣を握る。
誓いを背負って、剣を構える。
「騎士道を貫く者の剣だ。弱者を守るための剣だ。悪を討つ剣だ」
敵を――討ち果たすべき邪悪を見据えて、告げる。
「我が身可愛さだけで剣を振るう貴様と一緒にするな、外道」
ヨルムンガンドは息を呑み、無意識の内に後退していた。
相手の言葉は、愚にもつかない綺麗事。聞くに堪えない戯言だ。
だというのに、それを聞き流すことも、笑い飛ばすことも出来なかった。眼前で剣を構えるヨハンネス・リヒテナウアーの姿が、強固な岩壁のように見えてしまったから。
その言葉の重みを、感じてしまったから。
「くっ……う……うおあああああああああ!」
ようやく絞り出した声は、最早言葉になっていなかった。そして激情を抑えきれずに突撃を敢行した時、彼は数百年かけて練り上げた武技を完全に忘れ去っていた。
怒号と共に突き出された拳を、老剣士は容易く躱す。同時に、その剣で心臓を刺し貫く。
「――未熟者が」
剣を引き抜き、一閃。数百年の時を生きた怪物の首を、騎士の剣が刎ね飛ばす。
「生まれ変わって、一から修行し直せ」
信じ難い怪異を目の当たりにして、ヘルは言葉を失っていた。
女が立っている。二本の足で大地を踏み締め、不敵に笑っている。その顔に、苦痛の色は微塵も無い。
馬鹿な、と心中で叫んだ。最初に背後から入れた蹴りと、先ほどの三連撃――計四撃も、あの細い体に叩き込んだのだ。獅子や羆さえ絶命させるほどの攻撃を、一切の躊躇なく叩き込んでやった。
まだ息があるだけでも驚嘆すべきことであり、立ち上がるなどまず考えられない。ましてやあのように平然と振る舞うなど、絶対にありえない。
あれは、本当に女なのか。
いや、本当に人間か。
「な、何よ……何なのよ、あんた……!」
斬られた肩の痛みさえ忘れ、半ば恐慌状態で叫ぶ。巴はゆっくりとした足取りで間合いを詰めながら、くすくすと笑った。
「このくらいで驚かれるなんて……何百年生きてるのか知りませんけど、よっぽど弱っちいのばかり相手にしてきたんですね」
「……っ!」
最大級の侮辱を浴びせられて、ヘルの頭に血が逆流した。
構えもとらずに歩み寄ってくる巴の顔面めがけて、鋼鉄の右拳を突き出す。だがそれは、白い掌によっていとも容易く受け止められた。
「人の殴り方をご存じないようなので、一手ご教授致しますね」
大きく、右の拳を振りかぶる。強弓を引き絞るように。
「人間っていうのは……」
拳が唸る。抉るような突きが、ヘルの顔面を強かに打つ。そして、その巨体を遥か後方に吹き飛ばす。
「こうやって殴るんですよ」
手本を見せるつもりで繰り出したその一撃は、技術的な面で言うならヘルのそれを大きく下回っていた。
無駄に大振りで、呆れるほど力任せで、技も何もあったものではない。合理性を重んじるヨハンネス・リヒテナウアーが見れば、深い溜息をついて脱力するに違いない出鱈目ぶりだ。
されどその拳は、一撃でヘルの顔面を陥没させるほど重かった。破壊力の面でなら、確かにこれ以上ない手本と言えるだろう。
「が……ほっ……はへっ……!」
血塗れの口から叩き折られた歯を零し、悶え苦しむヘル。彼の頭の中は今、混乱の極みにあった。
彼らのような存在――夢獄の住人を殺せる人間は、遥か昔からいた。だがそれは、邪神殺しの業を身に付けた人間だ。そうした者達は、夢獄で怪物と化した者の肉体の強度を常人並に劣化させる術を会得している。それがあるからこそ、邪神を殺せる。逆に言うなら、それがなければ邪神を殺せない。
だというのに、巴はその手の術を何も使っていない。ただ力任せに思いきりぶん殴っただけだ。それだけでヘルの骨と歯を砕き、血を吐かせている。
その不可解、いや理不尽が、ヘルをかつてないほど混乱させていた。
「効くでしょう? 戦場を渡り歩いてきた女の拳は」
嗤う女。鉄の塊で殴打されようと意に介さず、大男を素手で捻じ伏せる剛力の女。
彼女は、武者だ。馬に跨り大鎧を身に纏い、弓と薙刀を携えて数多の戦場を駆け抜けた、古の侍だ。
平安時代末期、治承・寿永の乱と称される戦乱の時代。信濃の地に、源義仲という武将がいた。寿永二年の倶梨伽羅峠の戦いで平氏の軍勢十万を破り、京の都を制圧して朝日将軍と称された猛将である。
巴はその男の配下であり、愛妾だった。
幼少時から義仲に仕えていた彼女は、女の身でありながら男に勝る怪力を持ち、戦場でも男に勝る働きを見せていた。
数々の逸話の持ち主であり、ある戦いにおいては素手で敵将の首をねじ切ったとも言われている。
「は、はあっ……! ちょ、ちょお……」
「あら、何です? 何か言いたいなら猿語じゃなくて人語でお願いしますね」
「調子に乗るんじゃねえ小娘!」
ついに粗暴な本性を露わにして、ヘルは義手の手首に付いていたボタンを押した。手の甲が上げ蓋のように開き、そこから鋭利な刃が露出する。
打撃で倒せないなら動脈を断つまで。巴の細い首を狙い、仕込み刀を一閃した。
だが――
「駄目ですよ。巴の首は、強くて見目麗しい殿方に差し上げるって決めてるんですから」
その刃を、巴は素手で受け止めていた。
押しても斬れない。引いても抜けない。白く細長い五本の指が、鋼鉄の刃をがっしりと掴んで放さない。
「弱っちいブ男は首を刈られる側が分相応ってものです。貰っても嬉しくない首ですけど……一応刈っておきましょう」
刃を掴む手に力を込め、捻る。いとも容易く、まるで虫ケラを解体するかのように、彼女はヘルの腕から鋼鉄の義手を切り離した。
「ひっ――」
この時、ヘルは恐怖を覚えた。
目の前の女を、何をどうしても殺せない女を、嗤いながら人の首を獲ろうとする女を、心底から恐ろしいと思った。
けれどもう、何もかもが遅すぎた。巴は首を刈り取るために、大薙刀を振りかぶっていたのだから。
「ひああああっ!」
恐怖に駆られ、ヘルは左腕で首を庇う。そんな無様で稚拙な防御など意に介さず、巴は薙刀を全力で振り抜いた。
現代においては、力の弱い婦女子の武器とされている薙刀。
しかしながら、遠い昔――巴が戦場を駆けていた時代は、違った。当時の薙刀は歴とした男の武器であり、武者の主武装だったのだ。
槍と似て非なるこの武器は、斬るという行為に特化した形状をしている。反りのある刃もさることながら、最大の特徴は楕円形の柄だ。突き出すという行為には向かない形だが、握る際に力を込めやすいため斬撃に適している。また、円形よりも楕円形の方が斬りつける際に刃筋を立てやすいという利点もある。
先端に付いた刃の重さと、長い柄が生む遠心力。それが上乗せされた斬撃の威力は、刀剣類の比ではない。
「ラアアアアアアアアアアアアアアアアアア――ッ!」
美しき荒武者は一瞬だけかつての顔に戻り、大気を震わせる咆哮を上げた。
大きく旋回する刃が首を庇う腕に喰い込み、骨肉を裂いて突き進む。その切れ味と規格外の剛力を以って、相手の腕ごと首を断つ――否、ぶち破る。
宙を舞う腕と首。溢れ出る鮮血。
驚愕と恐怖を深く刻んだ形相のまま、ヘルの首は地に落ちた。
「ふぅ……弱い弱い……何でこんなに弱いんでしょうね、ブ男って」
血塗れの薙刀を肩に担ぎ、つまらなそうに独りごちる。戦闘の狂熱は相手の首を獲った途端に失せ、それと共に彼女の表情も醒めたものに変わっていた。
廃墟の方に目を向けると、玄関から中に入っていこうとするヨハンの後ろ姿が見えた。どうやら彼も相手を片付け終わったらしい。やや小走りになっているのは、一刻も早くマリーナ達の元に駆けつけようとしているからだろう。仲間思いで結構なことだ。
自分はゆっくり行くとしよう。今回の死食開門はシュラが阻止してしまうだろうが、万一ということもある。そうなってくれれば面白い。後で何か言われたら、相手が強かったので手こずってましたとでも言い訳すればいい。
厚い雲に覆われた空を見上げ、降り始めた雨粒を浴びながら息を吐く。
早く逢いたいものだ。
自分の首を獲ってくれる、素敵な益荒男に。
刃が踊る。村上の操る帯状の刃が、独特のしなりを見せながらシュラを襲う。
鞭で打ち据えるようなその斬撃を、シュラは自らの曲刀で弾き飛ばした。弾かれた刃は天井に向かって大きく跳ね上がり、直後にぴたりと静止する。
「――っ!」
「甘いわ!」
微かな驚きを見せるシュラに蛮声を浴びせ、村上はウルミの柄を大きく振る。すると凍りついたように固まっていた刃が元のしなやかさを取り戻し、再びシュラに襲いかかった。
シュラはとっさに身を引くが、躱しきれない。彼の左肩から胸にかけての部分を、鋭い刃が浅く裂いていく。
「シュラさん……!」
「うるせえよ、騒ぐな」
マリーナが上げた叫び声を、冷静な声で制するシュラ。彼は傷を負ったことも意に介さず、体勢を立て直しながら相手の武器を見据えた。
「硬軟自在の剣か……面倒臭え」
ウルミの柔軟な刀身を瞬間的に硬化させる。それが、村上の一族に伝わる降魔術だった。
術を行使すれば硬くなり、解除すれば元に戻る。ただそれだけの術なのだが、それは応用次第で多彩な戦法を生む。たった今、弾かれた勢いを硬化によって殺し、迅速な斬り返しを見せたように。
「俺がただ化け物に媚びへつらっているだけの能無しだと思ったか? 舐めるなよ、小僧。これでも貴様らが生まれる前から武術と降魔術を叩き込まれてきた身だ。年は食ったが、貴様ら如きに後れをとるほど錆ついてはいない!」
気炎を吐き、村上は再びウルミを振るう。うねりながら伸びていくその刃は、あたかも大蛇のようであった。
ウルミは本来それなりに広い空間を必要とする武器であり、このような狭い通路での戦闘には向かない。壁や天井に阻まれて満足に振り回せないからだ。
その欠点を、村上は秘術の力で無いも同然にしていた。硬化と軟化を巧みに使い分けることで壁や天井への衝突を避け、限られた空間内での使用を可能にしているのだ。
使い手の意のままに動く異形の剣は、本物の蛇以上の速さでその身を伸ばし、シュラの命を狙う。鮮やかな弧を描いて襲いかかり、斬撃が躱されたところでその身を硬化。長い刃を鎌状にして、首を背後から刈り取ろうとする。シュラは身を屈めて首の切断を免れたものの、躱しきれずに皮膚を削がれた。赤い血が、うなじから背中に流れ落ちる。
今のところ、シュラの形勢不利は明らかだ。硬化と軟化を繰り返すことで変幻自在に動くウルミの刃は、彼でも容易に防ぎきれるものではなかった。武器の長さに差がありすぎるせいで、反撃にも移れない。
このまま剣戟を続けるなら、待つのは敗北だけだ。
「……縛るか」
誰にも聞こえないほど小さな声で、彼は呟いた。
「死ね!」
迸る蛮声に殺意を乗せ、村上はシュラの首筋めがけて刃を伸ばす。
その瞬間、シュラは自己の内側に埋没した。特殊な式を脳内で構築し、気を練り上げ、己が剣を触媒にして行使する。
二千年前、偉大な聖仙から授かった秘術の一つを。
「え――」
「ぬっ――」
マリーナと村上がその変化に気付き、同時に驚きの声を上げた。
シュラの握る曲刀が変色している。否、発光している。その滑らかな刀身に、青白く輝く紋様が浮かび上がっている。
光を放ちながら複雑に絡み合うそれは、網か、蔓草か、あるいは鎖か。そのどれでもあるようでいて、どれでもないような、言い表し難い紋様だ。
そんな奇怪な紋様で彩られた刃を、シュラは襲い来る帯状の刃に叩きつけた。
その動作自体は、特に工夫の無いただの防御。硬軟自在のウルミの前では無意味な行為であり、最初の攻防の二の舞になることが目に見えている愚行だ。それを彼は、一切の躊躇なく行った。
先ほどの二の舞にはならないことを、知っていたからだ。
「な、何――」
村上の顔から、一気に血の気が引いた。シュラの曲刀と激突した直後、自らの得物が操れなくなったのだ。
刀身から、しなやかさが失われている。彼の術とは全く違う何かによって、柔軟な刀身が硬化させられている。攻撃を弾かれた時の形のまま凍りついたように固まっていて、次の攻撃に移れない。
青い顔で刀身を凝視する彼は、すぐに気付いた。刀身の端から端、つまり鍔元から切っ先に至るまでの全てに、絡み合う鎖のような紋様が浮かんでいることに。
「な、何だ……! 何なのだこれは……!」
相手の得物に浮かんでいた紋様だ。それが今、自分の得物の刀身に伝染している。
訳が分からない。こんなもの、自分は見たことが無い。自分の知識の範囲内に、こんな不可思議な術は無い。
動揺を露わにする村上とは対照的に、シュラは平静な面持ちで刀を鞘に納めていた。
その口が、淡々と告げる。
「ただの縛鎖だ」
「ば、縛鎖……?」
「てめえの得物を使えなくしたってだけの話だよ」
言い終えた瞬間、シュラは弾け飛ぶように駆けた。丸腰も同然となった相手を、己が拳で叩きのめすために。
「くっ……!」
村上は困惑しながらも、ウルミを捨てて拳を突き出す。シュラはその拳打を左腕で捌き、同時に右腕の肘を村上の胸に突き入れた。
急所を的確に突く肘打ちの威力は、使い手の体重の軽さを補って余りある。村上は大口を開けて硬直し、次いで前のめりによろめいた。
シュラは己の左手で相手の右手首を捕り、そのまま相手の右脇に移動して関節を極め、顎に右手をかけてその体を背負う。
そして容赦なく、頭から床に投げ落した。
「しばらく寝てろ」
大の字になって倒れる村上を見下ろし、冷めた声音で言い放つ。
ヨハンや巴ほどではないが、彼も武術の練達者だ。充分な場数も踏んでいる。俄か降魔師に過ぎない村上が敵う相手ではなかった。
「マリーナ、終わったぞ」
「は、はい! 今行きます」
呆然と立ち尽くしていたマリーナは、慌ててシュラの元に駆け寄る。それからシュラの無表情な顔をじっと見つめて、疑問をぶつけた。
「あ、その……シュラさんも、降魔師だったんですか?」
「……まあ、似たようなもんだ」
「似たようなものって……」
「知りたきゃ後で教えてやる。今は時間がねえから、とりあえず降魔師みたいなもんってことで納得しとけ」
「そ、そうですね……すみません……」
確かにシュラの言う通り、今は時間が無い。ぐずくずしていたら死食開門が完了してしまうから、急がねばならないのだ。そのことを思い出したマリーナは、疑問を無理矢理頭の隅に追いやった。
そうして、二人が先に進もうとした時。
「……ま、待て」
背後から、掠れた声が飛んできた。昏倒していた村上が、早くも意識を取り戻したのだ。
「勝った気に、なるなよ……まだ、勝負はついていないぞ……」
「諦めろ、お前の負けだ」
苦痛に顔を歪ませながらも立ち上がろうとする村上に、シュラは冷たく言い放つ。それから彼は、村上の右足に視線を移した。
「まあ……諦めようが諦めまいが、その足じゃまともに動けねえだろうがな」
既にその足の膝から下は、青白い縛鎖によって床に縫い付けられていた。先ほど組みついた際に、抜かりなく束縛の術をかけていたのだ。
村上は必死にもがくが、どうにもならない。シュラの術の拘束力は鉄の鎖以上だ。生身の人間に過ぎない村上の力でどうにか出来るものではなかった。
「お前程度の力じゃ俺の術は絶対に解けん。というより、解き方さえ分からねえだろ?」
「ぐっ……! ぐううっ……!」
「三、四時間経てば自然と解ける。それまでそこで大人しくしてろ」
そう言い捨てて、シュラは踵を返す。マリーナは村上に気の毒そうな目を向けながらも、シュラと一緒に先へ進もうとする。
死者こそ出ていないが、勝敗は完全に決した形だ。
しかしそれでも、村上は負けを認めなかった。無駄なあがきを止めなかった。絶対に外せないと理解しながらも、戒めから逃れようともがき続けた。
「シュラさん、あの人……」
マリーナは振り返り、痛ましげな顔をする。
彼女の目から見ても、村上の抵抗は悲しいほど無意味だった。本人は必死なようだが、傍から見ればただ無闇にもがいているだけで、束縛から逃れられる気配は全く無い。仮に逃れられたとしても、シュラとの実力差は歴然だ。勝てる見込みなど砂粒ほども無いだろう。
にもかかわらずもがき続けるその姿が、例えようもなく哀れだった。
シュラも同じことを感じたのか、小さく溜息をついて足を止め、村上の方に向き直った。
「……よほど、俺達を先へ行かせたくないらしいな」
「当たり前だ……!」
床に膝をついたまま、村上は怒声を振り絞る。
「この先には……儀式の場には行かせん……絶対に! ここで……ここまで来て……お前らなんぞに邪魔されてたまるか!」
ここで敵を――目の前の少年と少女を先に行かせれば、邪神の召喚を阻止されてしまう。そうなれば、計画は完全に終わりだ。
奇跡の力を得られない。娘を死の運命から救えない。
その死を、座して待つしかなくなる。
だから、彼は負けられない。何があろうとも、絶対に、負けを認めるわけにはいかない。
「何かわけありってことか……まあ、そうでなけりゃ死食開門なんぞに加担しねえよな」
納得したように呟いてから、シュラは村上の煮え滾る瞳を覗き込んだ。
「化け物共に縋りつかなきゃどうにもならねえほど、人生行き詰まってんのか?」
深く澄んだ眼差しで、問いを重ねる。
「それとも、誰か救いたい奴でもいるのか?」
図星をつかれた村上は、顔を強張らせて息を呑んだ。その反応を見て、シュラはおおよその事情を察する。
「……いずれにせよ、何をしたっていい理由にはならねえな」
「何だと……?」
「分からねえのか? 至極簡単なことを言ってんだぜ。お前が何を背負ってるにせよ、どんな思いをしてるにせよ、お前に人の命を踏み躙る権利はねえってことだよ」
シュラは言う。村上の行いの正当性を否定し、その罪深さを自覚させるために。
「死食開門に加担してんなら、見ただろう? 連中が虫を潰すみたいに人を殺していく様を。生贄にされた奴らの死に様を……死食開門が終わって連中の主人が出てくれば、それ以上の惨劇が起こる。そんなことさえ分からねえほど、お前は馬鹿なのか?」
村上は何も言い返せない。言い返したくても、口が思うように開かない。
彼は知っている。死食開門という儀式の醜悪さを。犠牲者達の惨たらしい死を。二度と忘れられないほど深く、その目に焼き付けている。
「死ななくていい奴らを大勢死なせてまで、化け物に糞みたいな奇跡を恵んでほしいのか?」
辛辣な問いかけをした後、シュラは命じるような口調で言葉を続けた。
「苦難に直面したなら自力でどうにかしろ。それで無理なら諦めろ。酷なようだが、人生ってのは大概酷なもんだ。人は誰しも、辛いことや苦しいことに耐えながら生きてんだ。てめえの力じゃどうにもならねえからって、化け物が恵んでくれる奇跡なんかに縋りつくな」
村上は顔を伏せて、拳を震えるほど握り締めた。
今やその顔は、別人のように歪んでいる。心の奥底に埋めていた罪悪感を掘り起こされたせいで、彼は心の平衡を失いかけていた。
「ガキが……」
吐き捨てるように言って、噛みつくようにシュラを睨む。
「貴様に……貴様のようなガキに何が分かる! 子を持つ親の気持ちが……親より先に死んでしまう子を持った気持ちが、貴様なんぞに分かってたまるか!」
救いたい相手は、赤の他人ではない。実の子なのだ。たった一人の娘なのだ。
赤子の頃から愛情を注いで、懸命に育ててきた。優しくて真っ直ぐな子に育ってほしいと願いながら、成長を見守ってきた。
そんなかけがえのない存在が、病に冒された。まだ子供なのに、たくさんの未来がある筈の子供なのに、老婆のような姿に変えられて、もうじき死ぬと宣告された。
そんな理不尽な運命を、受け入れられるわけがないだろう。
何をしてでも、何人犠牲にしてでも、救おうとするに決まっているだろう。
「だったら……」
眉間に皺を寄せて呟き、シュラは村上に歩み寄った。その黒い瞳が、至近距離から村上を見据える。
「そいつが死ぬまで傍にいてやれよ。こんな所で下らねえことしてねえで」
褐色の手が村上の顎の下に入り込み、強い力で頸部を圧迫する。村上は苦しそうに呻いた後、泡を吹いて失神した。
踵を返して先に進もうとするシュラに、マリーナが不安げな面持ちで視線を送る。
「シュラさん……」
「殺してねえよ。ごちゃごちゃうるせえから気絶させただけだ」
煩わしそうに言ってから、シュラはマリーナの目を見つめ返す。
「それとも……そんな奴さっさと殺しちまえ、って言いたいのか?」
「ち、違います! ただ……」
マリーナは言い淀んだ。
シュラに対して何を言いたいのか、自分でも分からなかったからだ。
「……すみません。何でもないです」
何でもなくはない。言いたいことは、ある。けれど、考えがきちんとまとまらないから言葉に出来ない。頭の中に、濃い霧が立ち込めているように感じる。
霧の中にあるものが何なのか気になるが、今はそんな思索をしている場合ではない。しっかりしろと自分に言い聞かせ、深呼吸した。
「ぐずぐずしていてすみません……先を急ぎましょう」
真剣な顔を無理に作って、目の前にあった階段を下っていく。
その背中に、シュラは淡々とした声を浴びせた。
「……やる気になったのは結構だが、俺より前歩くな。何かあった時対応できないだろ、お前じゃ」
「あ……そ、そうですね。すみません」
言われてみればその通りだったので、シュラを先に行かせてその後に続く。紫色の絨毯が敷かれた細い階段を、二人の足が静かに踏んでいく。
前を行くシュラの小さな背中を見つめながら、マリーナは密かに思い返していた。ついさっき、目の前の少年が放っていた言葉を。
彼は問うた。化け物に糞みたいな奇跡を恵んでほしいのか、と。
彼は言った。化け物が恵んでくれる奇跡なんかに縋りつくな、と。
自分に向けられた言葉ではない。シュラが、あの黒服の男に対して放った言葉だ。あの時のやりとりに、自分は全く関わっていなかったと言っていい。
だというのに、彼の言葉が未だに頭から離れない。あれが、まるで自分に向けられた言葉のような気がして、心に重くのしかかっているのだ。
どうしてだろうか。どうして自分は、あの言葉が気になって仕方がないのか。
邪神に縋りついた記憶なんて無いのに。
奇跡の力を欲したことなんて、一度も無いと断言出来るのに。
いや、本当にそうだろうか。自分はまだ、記憶を完全に取り戻せているわけではない。思い出せないことが、まだまだたくさんある。
だから――もしかしたら、あるのかもしれない。あの男のように、奇跡を欲して非道な行いをしたことが。
「……やめよう。余計なこと、考えるのは」
小さな声で、自分に言い聞かせる。余計なことを考えていないで目の前のことに集中しろ、と自分自身を叱咤する。
けれども、そう簡単に思考を切り替えられない。あの時のシュラの言葉と、自分自身の過去が、どうしても気になってしまう。
そんなマリーナの煩悶に、シュラは気付いていた。流石に思考までは読めていないものの、彼女が何か深刻な悩みを抱えていることだけは察していた。
しかし彼は、何も言わない。今は死食開門の阻止に専心すべきであり、ゆっくり話している場合ではないと弁えているからだ。一分一秒でも早く死食開門を阻止するため、彼は前だけを見て黙々と歩き続けた。
二人は、儀式の場の正確な位置を知っていたわけではない。しかし薄暗い廊下を進む内、二人の足は自然と大浴場に向かっていた。
臭いが、あまりにも濃かったのだ。大浴場から漂う不快な臭い――熟れ過ぎた果実を思わせる甘い腐臭が、二人を誘う道標になっていた。
白い通路を抜け、壊れた籠が並ぶ脱衣場に入ったところで、一旦足を止める。そこまで来ると、臭いはもう吐き気を催すほど濃密になっていた。
「この先にいるぞ。気を付けろ」
「……はい」
シュラの言葉に、マリーナが頷きを返す。
意を決し、浴場の入口を潜る二人。その直後、彼女らの視線は丸い浴槽の中に立つ人影に注がれた。
薄闇の中、腐臭を放つ空気が充ちる中、力ある呪言を唱え続ける一人の男。俯いているため顔は見えないが、その声音と体の輪郭から、はっきり男だと分かる。
服装は、外で見た二人のそれと同じ類のもの。数百年前の西洋人が着ていた軍装だ。
「よう……お前があの金髪とデカブツのお仲間か?」
男は答えない。敵がすぐ近くにいるというのに、儀式に没頭し続けている。
シュラは一歩前に踏み出し、刺すような声を飛ばした。
「一生懸命儀式やってるとこ悪いが、邪魔しに来た。敵と仲良く会話するような趣味はねえから、用件だけ率直に言う。今すぐそれ止めて、死ね」
実に彼らしい、直裁な物言いだった。
敵と会話する趣味が無いにもかかわらず声をかけたのは、敵を知るためだ。
この敵はどういう男なのか。どういう性格をしていて、どれほどの力量なのか。自分の言葉に対する反応で、それを見極めようとしたのだ。
男は、俯いたまま反応した。
「……うるさい」
ひどくしわがれた、聞き取り辛い声だった。
「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい……うるさいよ、うるさいんだよ、お前等みんな、みんなみんなみんな……黙れよ喋るな纏わりつくなよ死んじまえ……! お前等みんな消えてなくなれよぉ……!」
己以外の全てを呪うかのように、品の無い言葉を撒き散らす軍装の男。
明らかに、尋常ではない様子だ。観察力に長けるシュラも、この相手の内面だけは計りかねた。
「……てめえ、物狂いか?」
話の通じない手合いなのかと考え、直後にそれは無いと否定する。
夢獄に墜ちるのは、優秀な魂だけだ。並外れて優秀な者のみを掻き集め、怪物に作り変えるのが夢獄という領域なのだ。中には粗暴な者や短絡的な者もいるが、真性の馬鹿はいない。最低限の知性さえ持たない者は、そもそも夢獄に連れていかれない。
ならばこれは、どういうことなのか――そこまで考えて、彼は気付いた。自分の傍らに立つマリーナが、ひどく狼狽していることに。
「おい……どうした?」
問いかけられても、マリーナは答えない。彼女は顔を青くして、薄い唇を小刻みに震わせている。
怖くて震えているような顔だが、違う。彼女は敵の不気味な雰囲気に恐れをなしたわけではない。敵の声を聞いて、思考が錯綜するほど驚いていたのだ。
「こ……この……声……」
男が顔を上げる。生気に乏しい澱んだ瞳が、粘りつくような視線をマリーナとシュラに向ける。
濃い髭をたくわえた白人だった。病的に痩せた壮年の男だった。
マリーナにとっては、見覚えのある顔だった。
「あ……あぁ……」
欠けていた記憶が蘇る。遠い昔に体験した出来事が、血の色で染色された映像となって脳の中を埋め尽くす。
それは、彼女自身が忌避した記憶。
永遠に忘れていたかった、破壊と殺戮と悲恋の記憶。
「そん、な……」
ここに、この時代に、いる筈がない男。
白い肌をした男。
海の彼方から来た男。
鉄の刃と火を噴く筒で、アステカを蹂躙した男。
「エルナン……!」
邪神の眷属にさえなれなかった、哀れな怪物――エルナン・コルテスのなれの果てが、そこにいた。