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踊る死者と夢見る黄金  作者: 堤明文
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第四話「滅びた国と悲運の魔女」



 今より遡ること五百年、世界は激動の時代を迎えていた。

 後に地理上の発見時代、あるいは大航海時代と呼ばれることになる、破壊と掠奪の嵐が吹き荒れた時代である。

 十五世紀にアナトリアの小君候国から発展したオスマン帝国が千年余り続いた東ローマ帝国を滅ぼし、イタリア諸都市国家の連合艦隊にも勝利し、地中海の制海権を握って交易品に高い関税をかけた。それは当然の如く旧来の経済秩序の崩壊を招き、新たな交易路の開拓を欧州諸国が切望するようになる。また造船技術の発展や羅針盤の導入により外洋航海が可能になったことも、海外進出の気運に拍車をかけた。

 そして新航路の開拓という大事業にいち早く乗り出したのが、ユーラシア大陸最西端の国ポルトガルと、その隣国スペインである。

 アフリカに拠点を築きながら香辛料の産地インドを目指したポルトガルに対し、スペインは西へ向かった。当初の目標は西回りでインドに至ることだったのだが、その途次で船乗り達は思いもよらなかったものを発見してしまう。

 知られざる世界――海を二分するように横たわっていた、広大な大陸だ。

 未知の大陸を発見したという知らせはスペイン人達を驚愕させ、次いで熱狂させ、彼らに植民地の獲得という新たな野望を与えた。先住民を武力で屈服させ、牛馬のように酷使し、富を収奪する事業に加担するため、多くの者が喜び勇んで海を渡ったのである。

 彼らはまず大陸近海の島々から攻略を始め、僅か二十年ほどの間に多数の都市を建設した。そして一五一九年、植民地キューバの総督ディエゴ・ベラスケスの支援を受けた六百人の遠征隊が、大陸本土を目指して出航した。

 上陸後まもなく、遠征隊は先住民であるマヤ族との戦闘に突入したが、それは苦難と呼ぶに値しないほどの些事であった。武装の面でも戦術の面でも、彼らと先住諸民族との間には大きな開きがあったからだ。騎兵と銃器、そして高度な集団戦法の力にマヤ族の戦士団が屈するまで、そう時間はかからなかった。

 いつの時代も、勝者が要求することと、敗者がなすべきことは決まっている。敗れたマヤ族の首長達は服従の証として、食糧、衣類、黄金の装身具、そして二十人の若い女奴隷を侵略者に差し出した。

 その中に、一際目を引く美しい娘がいた。

 当時十七歳であったその娘は、見目が良いだけでなく教養も豊かで、マヤ語とナワトル語という二種類の言語を修得していた。立ち振る舞いも洗練されており、その気品は明らかに他の娘達と一線を画していた。

 遠征隊の面々は、揃って首を傾げた。何故このような娘が奴隷の一団に含まれているのだろう。これは何かの間違いではないか、と。

 彼らが疑問を抱いたのも無理はない。その娘は元々裕福な首長の家の娘で、子供の頃から高度な教育を受けていたのだ。本来なら、町の有力者に嫁いで何不自由ない暮らしをしていた身である。それが何故、奴隷にまで身を落としたのか――遠征隊の面々は知ろうとしなかったし、彼らにとってはどうでもいいことだった。

 彼らが関心を持ったのは、娘の並外れた頭の良さだ。マヤ語とナワトル語を操り、さらにスペイン語をも短期間で修得した彼女の語学力は、未知の領域を進む遠征隊にとって喉から手が出るほど欲しいものだった。

 遠征隊を率いていた男は娘をいたく気に入り、現地人と交渉する際の通訳として手元に置くことを決めた。

 そして娘をキリスト教に改宗させ、新たな名を与えた。

 以後、彼女はその新たな名――マリーナという名で呼ばれることになる。





 この人は、自分をどこに連れていく気だろう。

 そんな疑問を抱きながら、マリーナは前を行く彩花の背中を見つめていた。見せたいものがあると言うからついてきたのだが、どこで何を見せてくれるのかはまだ聞いていない。

 二階の部屋を出て階段を下り、台所の横を通り過ぎたあたりで、彩花は首を後ろに回した。

「マリーナさん」

「あ……はい」

「過去のことは、もう大分思い出せるようになったんですか?」

「ええ……まだ思い出せないことも、いくつかありますけど……自分がどこの誰かくらいは、思い出せるようになりました」

 その質問に答えるのは容易かった。ついさっきまで、過去を振り返りながら自分というものについて考えていたのだから。

「わたしは海辺の小さな町に生まれたんですが……子供の頃は親元を離れて、都のカルメカクに通ってたんです。あ……カルメカクっていうのは、大人が子供達に歴史とか算術とかを教える所で……」

「学校ですね」

「あ、はい……それのことだと、思います……」

 学校とやらがいかなるものかはよく分からなかったが、とりあえず頷いておく。

「それで、ええと……カルメカクに通ってた頃、突然偉い祭司様に呼び出されて、雨の神と太陽の神を祀る神殿に行ったんです。そこで、自分が秘術の継承者に選ばれたことを告げられました」

「聖なる黄金、って言ってましたね……それは、降魔術の一種なのですか?」

「ごうま……じゅつ?」

「あ、ごめんなさい……ええと、邪神を討つための技術のことです。私達はそれを降魔術、それの使い手を降魔師と呼んでいます」

「……そう、ですか……降魔術、っていうんですね……」

 寂しげな呟きが、マリーナの口から洩れる。

 話しているうちに、彼女ら二人は廊下の突き当たりにあった扉を抜けて、聖堂の側に踏み入っていた。

 同じ屋根の下にあるとはいえ、日常生活において使われるのは牧師館の側だけだ。マリーナが御門ヶ原福音教会の聖堂に踏み入るのは、初めてのことであった。

 左右に扉が並ぶ細い廊下を歩きながら、言葉を続ける。

「私も、きちんと理解しているわけじゃないけれど……確かに、そういうものの一種なんだと思います。テオ……邪神を討つために、遠い昔から受け継がれてきた業ですから」

 口承に偽りが無いなら、その歴史は二千年にも及ぶ。文明の黎明期に生み出され、文明が破壊されるまで受け継がれていた、最古にして最優の降魔術なのだ。

「でも、わたしは……降魔術は身に付けたけれど、その……降魔師には、なりきれませんでした。実際に邪神を討ったことも、戦ったこともないんです。多分……」

「それは……どうして?」

「カルメカクを出て故郷に帰ったら、父が亡くなっていて……別の男性と再婚した母には、疎まれてしまって……その……奴隷として、売られたんです」

「それは、気の毒に……」

 痛ましげに呟いてから、彩花は廊下に並ぶ扉の一つを開けた。

 その先にあったのは、天井の高い大部屋だ。

 整然と並ぶ信徒席。木製の講壇と朗読台。小型のパイプオルガン。木彫りのキリスト像。キリストの復活を描いた油彩画。色鮮やかなステンドグラス。

 小ぢんまりとしているものの、それなりに本格的な造りの礼拝堂だった。

「……その後のことは、まだよく思い出せないんです。でも……降魔師らしいことは何一つしてなかったと思います。自分のことだけで、精一杯だったから……」

 曖昧な記憶だが、それだけは確かだと思う。

 奴隷として売られ、家畜のように扱われた記憶はある。けれど、降魔師として邪神に立ち向かった記憶は無い。

いくら頭の中を探っても、そんな記憶は欠片ほども見つからない。

「彩花さん、わたし……」

「止まって」

 口から洩れそうになった弱音は、彩花の声によって遮られた。

「危ないからそこを動かないでいて下さい。今入口を開けますからね」

 彩花は壁にかけられていた油彩画に歩み寄り、その額縁に手をかけた。一瞬当惑したマリーナは、すぐにその行為の意味を悟る。

 壁から絵を外すと、隠されていた四角い窪みが露わになったのだ。窪みの中には、小さな黒いレバーが取り付けられている。

「マリーナさん……私はこれから、すごくずるいことをします」

 彩花の手が、レバーを押し下げる。すると、彼女とマリーナの間の床――信徒席と講壇の間にある床の一部分が、ぱたんと音を立てて下に落ちた。

 そして、闇を溜め込んだ四角い穴が現れる。

「悲しい話とか、不幸な話とかをちょっとセンチメンタルな感じで語って、あなたに同情してもらおうとします。敵がどんなに危険な連中かを吹き込んで、危機感を煽るようなこともします。目的は……言うまでもないくらい露骨ですね」

 奇妙な宣言をして、彩花は自嘲気味に笑う。

「軽蔑してくれて構いませんよ。正直私も、自分の浅ましさに呆れ果てています」

 言葉とは裏腹に、その眼差しは真剣そのものだった。

 強く、固い意志が宿っていたのだ。

「それでも……この先にあるものを見てもらいたいんです。申し訳ありませんが、もう少しだけお付き合いください」





 同時刻。御門ヶ原福音教会牧師館の一階。

「ほいよ、お待ちかね――だったかどうかは知らねえけど、お前ら用の新しい武器、持ってきたぜ」

 数時間の間を置いて再び来訪した加賀見は、紫色の布袋に包まれた品々を居間に運び込んでいた。

 物干し竿のような長物が一点。

それより幾分か短い物が二点。

まるで盾のような円盤が一点。

 いずれも、死者達を邪神群と戦わせるために教団が用意した代物だ。それもただの武器ではなく、邪神殺しに特化した機能を持つ武器――降魔具である。

「俺のはこいつか……」

 カーペットの上に並べられた品々の一つに、ヨハンが視線を落とす。拾い上げて口紐を解くと、革製の鞘に納まった剣が顔を出した。

 典型的な西洋剣だ。真っ直ぐな両刃の刀身を持ち、鍔は刀身に対して十字になるように取り付けられている。柄の中間部には両手で握り易くするための膨らみがあり、そこを境にして鍔に近い側に革を、柄頭に近い側に鋼線を巻いていた。

「どうよ? 今度のは悪くねえ出来だろ?」

 同意を求めるように、加賀見が言った。ヨハンは剣を鞘から抜いて出来の程を確かめながら、ぽつりと洩らす。

「……確かに、悪くない出来だ。が……」

 出来の良さを認めながらも、その顔には不満の色が濃い。

「前から思ってたんだが……随分と薄いな、お前んとこの職人が作る剣は」

「お前さんの時代とは鍛冶の技術が違うんだよ。今は薄くて軽くて丈夫な剣が作れるようになったわけ」

「確かに軽くて扱い易そうだが、あまり軽すぎるのも考えものだ。刃が欠けた時、鈍器として使えなくなる。次からはもう少し重めに作るように言ってくれ」

「へいへい、注文が多いことで……っておわぁ!」

「うおっ!」

 血相を変えて身を屈める男二人。そんな彼らの頭上を、黒塗りの長物が走り抜けていった。

「これも軽すぎますね。あと百両くらい重くても巴的には無問題です。刃渡りももう少しほしいかと」

 長大な得物を片手で振り抜きながら、そんな感想を洩らす巴。危うく首を刈り取られそうになった二人のことなど、全く気にしていない。

「ここで試し振りするんじゃねえよ! 殺す気か!」

「いいじゃないですか、減るもんじゃあるまいし」

「減るわ! 俺達の命が!」

 そんな調子で不毛な言い争いを繰り広げる三人を無視し、シュラは自分用の武器を拾い上げ、その出来を確かめていた。

 やがて騒ぎが一段落した頃、加賀見に言葉を投げる。

「……で、結局あいつは何なんだ?」

「あいつ?」

 三人が、揃って目を丸くする。

「マリーナだよ。あいつがどこの誰でどういう奴なのか、俺達はまだ聞いてねえぞ」

言われてみればその通りだ、とヨハンは思った。

 自分達はまだ、マリーナのことを何も知らない。本人は記憶を取り戻したようなのだが、邪神に関する話を聞いて以降精神的に不安定な様子を見せていたため、気安く尋ねることが出来なかった。

 とはいえ、やはり彼女の出自は気になる。

 不可思議な黄金の光を操る彼女は、いつの時代にどこで生まれ、どのような人生を送ったのか。

「あー、あの子ね……んー、何つーかなぁ……一応メシカの人なんだけど……」

 難しい顔で言って、加賀見はあまり手入れの行き届いていない頭をぼりぼりと掻く。他の三人は眉をひそめて鸚鵡返しをした。

「メシカ?」

「五百年くらい前、中米にあった国だよ。ああいや、アステカって呼び名の方がポピュラーだったな……ほらあれだよ、神に心臓捧げる儀式とかで有名なアステカ帝国。スペインのアホ共に滅ぼされたやつ」

「初耳だな。ていうか中米ってどこだ?」

「いや、ほら……アメリカ大陸の真ん中あたり……」

「アメリカってどこです? チャイニーズマフィアとかがたむろしてるあたりですか?」

「何でお前はチャイニーズマフィア知っててアメリカ知らねえんだよ……そっちじゃなくて逆だ、逆。ここからずっと東の方にある大陸」

「ああ、あれか。建物が全部金で出来てて、やたらと首の長い民族が牛とか豚とかを崇拝してるっていう……」

「いやいや、それ違えから。何か色んな誤情報混ざってるから。つーかそんなとこ地球上にねえから」

 宇宙人と会話しているような気分になり、加賀見は頭を抱えたくなった。

 たまに忘れそうになるのだが、この三人は現代人ではない。中世ヨーロッパの騎士と平安時代の武者と古代インドの王族だ。よって、頭の中に詰まっている知識もそれぞれの時代のものでしかない。現代人が当たり前のように知っていることを、当たり前のように知らない。そのため時々――いや頻繁に、このような話の通じない事態が発生する。

 仕方なく、加賀見は多大な時間と労力を費やし、アメリカ大陸が何たるかについて三人に力説した。

「……てなわけで、そこにアステカって国があったわけ。まあ近代的な意味での国と違って、都市国家の集合体っつーか、アステカ族って部族の国が周辺の諸族の国を従属させてたような状況なんだが……どうでもいいか、んな細けえことは」

 アステカの統治機構に関心を持っている者はこの場にいないようなので、早々に説明を切り上げる。

「とにかく、だ。アステカはなかなか良く出来た国だったし、実際けっこう繁栄してたって話だ。何事もなけりゃ三、四百年くらいはその繁栄が続いてたと思うぜ」

 そこで一拍の間を置いて、加賀見は声の調子を落とした。

「ところが、そうはならなかった。海の向こうから、欲の皮の突っ張ったスペイン人共がやってきちまったからだ」

 その者達を、今日ではコンキスタドールと呼ぶ。

「スペインって国は当時、海外進出に躍起になっててよ。新たに発見した大陸を丸ごと自分とこの植民地にしちまおうと目論んでたわけだ。で、その目論見を実現させるための遠征隊を何度も派遣していた。アステカを滅ぼしたのも、その一つ……エルナン・コルテスっていうろくでなしが率いてた遠征隊だ」

 十六世紀半ばから十七世紀にかけて最盛期を迎え、「太陽の沈まぬ国」とも称されたスペイン王国。

 その繁栄は、アメリカ大陸への侵略から始まった。

「その頃奴隷に身を落としていたあの子は、運悪くそいつらと出会っちまった。それで、いいようにこき使われることになったのさ」





 鉄の梯子が、地下へと垂直に伸びていた。普通の家屋に換算すると二階分はあろうかという、長い梯子だ。

「危ないから気を付けて下さいね」

 そう言って注意を促す彩花に続き、マリーナは梯子に足をかける。そしておそるおそる降りていった先で、彼女はしばし唖然となった。

 黒い岩肌に囲まれた細い道が、緩やかな曲線を描きながら続いていたのだ。等間隔に設置された照明が、その異様な光景を淡く照らし出している。真上に目を向けると、今降りてきた梯子が天井に開いた四角い穴へと吸い込まれるように伸びていた。

 微かに湿り気を帯びた空気は、肌を刺すように冷たい。

「こちらです」

 先導する彩花の声が、地下道の中で木霊した。落ち着きなく視線をさまよわせながら、マリーナは確認するように問いかける。

「これって、洞窟ですよね……? 天然の……」

「ええ」

「……どこに、通じてるんですか?」

「祭殿です」

 不可解な返答をされ、マリーナの困惑はさらに深まった。教会の地下にこんな洞窟があることも謎なら、ここで祭殿などという単語が出てきたことも謎すぎる。

「御門ヶ原という土地は、かつて聖地として知られていました」

 何を思ったのか、彩花はそんなことを語り出した。

「この地のどこかに、現世と常世……つまりこの世とあの世を繋ぐ門があり、何十年かに一度、貴き神の御霊が門をくぐって現世にやってくる……そんな伝承が信じられていたからです」

「それって……」

「ええ。邪神を呼ぶ開門のことです」

 洞窟の道幅は徐々に広くなっていき、やがて左右に枝分かれの穴が点々と現れ始めた。それらを無視して、彩花は電灯の明かりに照らされた本道を進んでいく。

「昼間にも言いましたが、御門ヶ原は開門の儀式が行える数少ない霊場の一つであり、それ故に古くから邪神の召喚が幾度も試みられてきました。ですが、邪神の召喚を目論む者達でさえ……いえ、邪神でさえ知らない事実もあります」

 道の先に、出口らしきものが見えた。

「御門ヶ原という土地そのものが、何か霊的な力を帯びているわけではありません。事実はもっと単純です。御門ヶ原は霊的な力を帯びた場に距離的な意味で近いから、開門が行える環境になっているだけなのです」

 一瞬出口のように見えたそれは、通路の終点という意味では当たっていたものの、外界と繋がっているわけではなかった。

 それは、祭殿の入口だったのだ。

「本当の霊場……世界の外側に繋がる門は、たった一つ」

 地下道が途切れる。コンサートホールのように広大な空間が、二人を迎え入れる。

「この、地下祭殿だけです」

 そこは、半球に近い形の大空洞だった。地上にある教会を丸ごと移築してもまだ余りあるほど広く、天井は見上げるほど高い。

 その中心部に、方錐台形の石壇が設けられている。巨石を積み上げて造られたそれは、あまりにも大きく、物々しく、石壇というより陵墓のようであった。

「文献も何も残っていないので、正確なことは分かりませんが……古代の降魔師達はこの場所が日本屈指の霊場であることを突き止め、自分達一族の監視下に置いて末代まで守り抜いていくことにしたようです」

 暗い大空洞に、彩花の澄んだ声が響き渡る。

「ですが、その一族もやがて滅び、この祭殿の存在も忘れ去られ、ここは長い間誰も訪れることのない遺跡と化していました。二十数年前、薄明会の降魔師達に発見されるまでは」

「薄明会……?」

 聞き覚えのある単語だった。

 確か昼間に、加賀見が口走っていたような――

「日本で……いえ、世界で初めて結成された、降魔師の連合体です」

 彩花は、謳うように答えた。

「降魔師というものは原始に近い時代から世界各地にいたようですが……人種や文化、宗教の違いが邪魔をしたのでしょうね。何千年もの間、一つにまとまることが出来ずにいました。いがみ合ったりつまらない縄張り争いに明け暮れたりしてばかりで、協力して邪神と戦うことが出来なかったのです」

 それは、拭い難い人間の性だ。

 人種、民族、国家、階層、文化、宗教等、ありとあらゆる領域で溝を作り、分裂し、互いに反目し合い、争い続ける。

 降魔の業を修めた者だけの狭い世界でも、それは全く同じだった。

「そんなことだからいつまで経っても邪神に勝てない。これからは国や信仰の垣根なんて取り払って、力を合わせなければならない……ある人がそう提唱し、各地の降魔師を掻き集めて作ったのが薄明会です」

 彩花の目は、どこか遠くを見ているようだった。

「その人の手腕によるものか、他の降魔師も同じことを考えていたのか……当時を知らない私にはよく分かりませんが、ともかく薄明会には国内外から多くの降魔師が集まり、総勢三千人を超える大組織に発展していきました。そして活動を始めた彼らはこの霊場を発見し、古代の降魔師達と同様、ここを自分達の監視下に置くことにしたのです。今そこに建っている石壇は、その時彼らが再建したものですよ」

「じゃあ、この上の教会は……」

「洞窟の入り口を塞いでしまうための蓋のようなもの、と考えてくれて結構です。邪な者の手から祭殿を守るための詰め所でもあります」

 唐突に明かされた事実。それをどう受け止めたらいいものか判じかねて、マリーナは彩花から視線を逸らした。

 この大空洞を目にして、確かに驚いた。だがそれは、自分達の住居の下にこんなものがあったから驚いたというだけのことだ。それ以上でも以下でもない。

 ここに祭殿があることは分かった。ここが彩花達にとって大事な場所であることも分かった。

 けれどそれが、この自分とどう関わってくるのだろう。

「その……ここが大事な場所だってことは、何となく分かりましたけど……どうして、わたしをここに……?」

 何故、自分をここに連れてきたのか。何のつもりでこの祭殿を見せ、その背景を語ったのか。さっき彼女は「同情してもらうため」と言っていたが、それがこれとどう繋がるのか。話が見えない。

「かつてこの場所で、多くの血が流れたからです」

 巨大な石壇を静かに見据えて、彩花は語る。

「お気付きかと思いますが、薄明会はもうありません。十七年前、構成員の大半が死亡し壊滅に追い込まれました」

 それは、何となく察していた。

 加賀見も彩花も、薄明会を過去形で語っていたから。

「激しい戦いがあったんです。邪神群との間で」

 感情を排した声音で、彩花はその時の顛末を語った。

 国内外から優秀な人材を掻き集め、降魔師の共同体としては世界随一の規模にまで成長した薄明会。しかし結果的に、その規模の大きさが仇となってしまった。それまで人間の動向に大した関心を払っていなかった邪神群にその存在を感知され、無視出来ない脅威として認識されてしまったのだ。

 一人一人の降魔師は恐れるに足りないが、集団の力は侮れない。このまま放置しておけば厄介なことになる――邪神群の指導者達はそう考えたのだろう。彼らは禁断の秘法を用いて全軍を現世に送り込み、薄明会に総攻撃を仕掛けた。

 邪神を討つために結束したせいで邪神側の結束を招いてしまったのだから、皮肉な話だ。

 薄明会の降魔師達は懸命に応戦したものの、奇襲に近い形で戦端が開かれたせいもあり、敗戦を重ねていく。そして戦いの終盤、邪神の一人が厳重に秘匿されていた地下祭殿の存在を知ってしまった。

 御門ヶ原の地下祭殿は、現世と夢獄を隔てる壁が最も薄く脆い場所。それが邪神群の手に渡れば、二つの世界を恒久的に繋ぐ門を築かれてしまうかもしれない。それだけは何としてでも阻止するべく、薄明会の最後の生き残り達は、決死の覚悟で邪神に挑んだ。

 そして彼らの命と引き換えに、秘密の地下祭殿は守られた。

「その時祭殿を守る部隊を率いて戦い、邪神を道連れにして死んだ男が藤堂義隆……私の祖父です」

 最後の一言には、幾許かの感情が込もっていた。

 悲しみ、という感情が。

「彩花さんの、おじいさんが……」

「ええ……」

 小さく嘆息し、彩花は岩の天井を仰ぎ見る。

「昔気質の頑固者で、怒りっぽくて、厳しくて……色んな人から嫌われていましたけど、私は好きでした。だから帰らぬ人となった時は、みっともないくらい泣きましたよ……」

 その口元に、自嘲気味な笑みが浮かんだ。

「……とまあそんな具合に、身の上話なんかしてみたら少しはマリーナさんに同情してもらえるんじゃないかとか、小ずるいことを考えちゃったわけです。馬鹿みたいですよね……」

 マリーナは、どう反応したらいいのか分からない。どんな感想を抱くべきなのかも分からない。けれど、彩花を非難したり軽蔑したりする気になれないことは確かだった。彼女が作り話を語っているようには、到底思えなかったから。

 そうして少し間を置いた後、真意を探るように問いかける。

「……復讐、ですか? 彩花さんがしたいことは……」

 一瞬、彩花は目を瞠った。

胸の内にある真実を突かれた者の顔だった。

「そうですね……ええ、その通りです。私は、復讐がしたくて教団に入りました」

 静かに、言う。そして深く息を吸い込んで、もう一度言う。

「復讐したいんです……祖父の命と、誇りを踏み躙った者達に」

 誓うように言い切った後、彼女は物憂げな顔をマリーナに向けた。

「ごめんなさい、マリーナさん……私達の勝手な都合で、あなたをこんな時代の、こんな所に連れてきてしまって……」

「そ、そんな……わたし……」

 マリーナは慌てて両手を振る。彩花は構わず、言葉を続けた。

「迷惑なのは分かってます……でも、恥を承知でお願いします」

 その上体が、ゆっくりと傾く。心からの誠意を示すために、そして懇願するために、彩花は深く頭を下げた。

「私達に、力を貸して下さい」





「マリーナってのは洗礼名だよ。その頃のスペイン人は独善と選民思想が服を着て歩いてるような奴らだったからな、手に入れた女奴隷も自分達風の名前に改名させなきゃ気が済まなかったらしい」

 昼間と同じくソファーに腰を下ろして、加賀見は語った。

「始め、あの子の役割は通訳だった。コルテスの配下にも先住民の言葉が分かる奴は何人かいたが、かろうじて話せるって程度だったんだろうな。マヤ語もナワトル語も完璧に話せて、スペイン語もすぐに覚えたマリーナは、優秀な通訳として重用されてた」

 その名は、エルナン・コルテスの回想録にも記されている。アステカ征服という大事業に貢献した、現地人の通訳として。

「で……あまりにも重用されたもんで、奴らの遠征に最後まで付き合わされ、汚い仕事も色々やらされたってわけさ」

 そこで僅かに、加賀見の表情が曇る。

「具体的にあの子が何したかってまでは言わねえよ。察してくれ。だが、これだけは言わせてもらう。あの子が何をしたにせよ、それはあの子を連れ回して無理強いした糞共の責任だ。そいつらの理不尽な要求を拒否出来るような立場じゃなかったんだよ、マリーナは」

 煙草の箱を取り出し、一本くわえて火をつける。昼間と違い、シュラはそれを咎めなかった。

「天罰とかが奴らにふりかかってくれりゃよかったんだけどな、残念ながら神様は悪党にとことん甘いらしい。スペインの糞共はアルテカを滅ぼした後、土地と奴隷と金銀財宝を手に入れて幸せに暮らしやがり、そんな奴らに振り回されたマリーナだけが早死にした。いや、殺されたんだ」

 唾を吐くように、煙を吐く。やりきれない思いを言葉に変えながら。

「アステカ征服が終わった後、コルテスに愛想を尽かしたマリーナは息子を連れて逃げようとした……が、失敗して追手に捕まり始末された。あの子の人生はそこで終わった」

 それが、マリーナという女の生涯。

 無慈悲な征服者達に翻弄された、短く幸薄い生涯だった。

「大分端折った説明になっちまったが、マリーナについて俺が知ってるのはこのくらいだよ。詳しいことが知りたきゃ本人に訊いてくれ。もう大分記憶も戻ったみたいだからよ」

 少しの間、沈黙が続いた。

 話を聞いた三人は口を閉じ、別々の方向を向いたまま思索に耽る。加賀見は黙々と煙草を吸う。

 やがて沈黙を破ったのは、ヨハンだった。

「……同じだな」

「ん?」

「スペインの糞共、と何度も言ってたが……俺に言わせりゃお前もそいつらと変わらん。あの子の気持ちを無視して、糞みたいな役目を押し付けようとしている」

 その眼差しは、白刃のように冷たく、険しい。

 加賀見達の所業に、彼は静かな怒りを燃やしていた。

「邪神を倒さなければいけないだの、自分達だけでは邪神に勝てないだの、勝つためには手段を選んでいられないだの……そういったお前等の事情を理解した上で、あえて言おう」

 加賀見の顔を正面から見据えて、若者の姿をした老剣士は言い放つ。

「女子供に苦難を強いるような奴は下種だ。恥を知れ」

 鉈で叩き割るような、容赦ない叱声。

 それに対する反論や言い訳を、加賀見は一切口にしなかった。彼はソファーに浅く腰かけたまま、眉一つ動かさずに、老剣士の叱声を受け入れていた。

 煙草をくわえたその唇から、溜息混じりの呟きが洩れる。

「……まったくだ。返す言葉もねえ」





 地上に戻ったマリーナは二階のベランダで涼しい夜風を浴びながら、御門ヶ原市の夜景を眺めていた。

 星空よりも眩い大地。輝く街並み。人の手によって生み出された、無数の光。

遠い過去の世界を知るマリーナにとって、それは信じ難いほど幻想的な夜景だった。

 彼女が生まれた時代の夜は、もっと暗かった。薪にせよ油にせよ、明かりを灯せる物はとても貴重だったから、人々は出来るだけ明かりに頼らないように暮らしていた。日の出とともに目覚めて懸命に働き、日が落ちたら速やかに眠る。そんな暮らしを誰もがしていた。太陽の後を追うような生活の中で、暖かな光を恵んでくれる太陽に誰もが感謝していたのだ。

 だから、人工の光に照らされた街を眺めていると痛感してしまう。ここが、遠い未来の世界なのだということを。

 文明が発達した世界。平和で豊かな世界。何もかもが様変わりしてしまった世界。かつての自分を知る者が、一人もいなくなった世界。

 そんな世界で、自分は再び生を享けた。そして、黄金の継承者として人ならざるものと戦うことを求められた。かつて果たせなかった使命を今果たせと運命が告げてきたのだ。

 地下祭殿での会話を思い返し、憂鬱な溜息をつく。

 力を貸して下さいと言って、彩花は頭を下げた。それに対し、自分は受諾も拒否もしなかった。もう少し考えさせて下さいとだけ言って、話を打ち切った。いや、逃げた。決断を先送りにしたまま、現実から目を背けて。

 本当に、嫌になる。自分という女はどこまでも臆病で軟弱で、優柔不断だ。他ならぬ自分のことだというのに、何故すっぱりと決められないのか。いつまで思考の堂々巡りを繰り返して、時間を潰し続ける気なのか。いくら考えても埒が明かないと分かっているのに。

「本当……いくじなし」

 自己嫌悪に浸っていると、急に彩花が羨ましくなった。

 彼女には目的がある。はっきりとした意志がある。暗い憎悪の念もあるのだろうが、きっとそれだけではない。地下祭殿が邪神群の手に渡れば大変なことになってしまうから、教団の一員としてあの場を守っているのだ。祖父の死を無駄にしないために。

 それに、地上に戻る途中で聞いたのだが――ヨハン達三人にも、それぞれ戦う理由はあるらしい。その理由は本当にばらばらで、特にシュラなどは詳細を語りたがらないらしいが、それでも邪神群と戦うという点で彼らの行動方針は一致しているから、肩を並べて戦っている。決して、教団に命じられたから戦っているわけではない。

「じゃあ、わたしは……」

 目を伏せて、自分自身に問いかける。

「わたしは、どうすればいいの……?」

 仮に、戦うとして――

 皆と一緒に、邪神に立ち向かうとして――

 何のために戦えばいいのか。何を願い、何を目指し、何を拠り所にして命を懸ければいいのか。

 星空より明るい街を見つめながら、少女は考えた。

 自分自身と向き合い、遠い過去の自分と、今の自分に問いかけ続けた。





 その夜、彼女は夢を見た。

 まるで舞台劇の一幕のような、短くも鮮明な夢だった。

 白い羽のような雲が浮かぶ空の下。川辺に広がる葦原で、一組の親子が幸せそうに戯れていた。

 幼い男の子と、栗色の髪をした女だ。

「ねえ、お母さん」

 幼子が、母親の顔を見上げる。

「なあに?」

 女は首を傾げて、我が子に微笑みかけた。

「お母さんは、魔法使いなの?」

 無邪気な顔で問いかけられ、女は一瞬返答に窮した。逃げ道を探すように視線をさまよわせた後、人差し指で頬を掻く。

「んー、まあ……そういうことに、なるのかなぁ……」

 魔法使いという呼び名がむずかゆいらしく、彼女は頬を赤らめている。そんな機微に気付くことなく、幼子は嬉しそうに瞳を輝かせた。

「やっぱりそうなんだ! じゃあさ、ぼくにも魔法教えてよ!」

「え、えーと……」

「ねえ、いいでしょ?」

 きらきらと輝く目に見つめられ、女はどうしたものかと迷った。しばし難しい顔をした後、落ち着いた声音で我が子に問う。

「マルティンは、魔法使いになりたいの?」

「うん!」

「……そんなにいいものじゃないわよ、魔法使いなんて」

 寂しげに呟くと、幼子は目を丸くした。

「すごく大変な思いをしなきゃなれないし……もしなれたって、何でも出来るようになるわけじゃないしね」

「そうなの?」

「ええ、そうよ。魔法使いはね、マルティンが思ってるほどすごくないの。普通の人よりちょっとケンカが強いだけ。空を飛んだり病気を治したりは出来ないし、食べるものや着るものがないと生きていけないし、お腹をこわしたり怪我をしたりもするし……それにね、魔法使いのお仕事はとっても大変なの。たった一人で、怖い怪物と戦わなきゃいけないんだから」

「かいぶつと、戦うの?」

「そうよ、命をかけて戦うの……怪物はとっても強いから、魔法使いが負けて食べてられちゃうこともあるわ」

 女は笑っていた。とても悲しそうな顔で、笑っていた。

 その意味さえ分からないほど、彼女の子供は愚鈍ではなかった。

「じゃあ、どうして……」

「ん?」

「どうして、お母さんは魔法使いになったの?」

 風が吹いた。川辺に茂る葦が一斉に揺れて、微かな音色を奏でる。

 それが止む頃、女は答えを口にした。

「怖いから、かな」

 幼子が、きょとんとした顔になる。予想外の答えだったらしい。

「お母さんはね、すごく怖がりなの。怪物を見ただけで……ううん、想像するだけで震えちゃうくらい……だから魔法使いなんてなりたくなかったし、戦いなんて絶対したくなかった」

 膝を曲げて、我が子と目を合わせる。

「でもね……そんな怖がりだから、こう思ったの。わたしが魔法使いになって頑張らなかったら、きっとたくさんの人が怖い思いをするんだろうなって……わたしみたいに怖がりな人が、怪物に食べられちゃうんだって……」

 小さな頭に手をのせて、そっと撫でる。

「マルティンも、怖いのは嫌でしょ?」

「……うん」

「お母さんも嫌よ。だからね、他の人にもそんな思いしてほしくないの。マルティンも、お父さんも、この国の人達も、遠い国の人達も、みんな幸せでいられたらいいなって思うの」

 女は微笑んだ。草原を照らす太陽のような、暖かい笑顔だった。

「そんなわけで、少しだけ頑張ってみようと思ったの。笑われちゃうくらい単純かもしれないけど、それが魔法使いやってる理由」

 それは、遠い過去の記憶――母と子が、幸せだった頃の思い出。





 敵の所在が判明したのは、翌朝のことだった。

 御門ヶ原市北西部の山中に建つ、緑葉園という廃ホテル。そこで死食開門の儀が行われていると、教団の人間が報告してきたのだ。

 既に儀式が始まっている以上、手をこまねいている暇は無い。儀式の阻止と邪神の眷属の抹殺のため、御門ヶ原福音教会の住人達は現地に出向くことになった。

「それじゃあ車を出しますけど、みなさん準備はいいですか?」

 牧師館の脇にある車庫で、彩花はヨハン、巴、シュラの三人に言った。加賀見は昨夜の内に帰宅しており、この場にいない。

 マリーナも、姿を見せていなかった。

「準備も何も、武器くらいしか持ってく物ねえだろ? 物見遊山じゃあるまいし」

 シュラにそう言われると、彩花は少しだけ困ったような顔をした。

「それはそうなんですけどね……一応戦いに行くんですから、それ相応の格好があるというか、汚れてもいい格好にしてほしいというか……時に巴さん、何故あなたはそんな無駄に着飾ってるんですか?」

 彼女が問題視しているのは、やたらと高価そうな衣装に身を包み、化粧もばっちりきめている女――つまり巴だった。

 普段からお洒落に気を使っている巴だが、今日のそれは特に顕著だ。これから社交界にでも出向くかのような気合いの入り様である。全身が無駄に輝いている。

 そんな具合に気合いの入れ方を間違えている問題児は、彩花の頭痛を知ってか知らずか、実に朗らかな笑顔で答えたのだった。

「これから戦場に行くからです」

「いや、戦場に行くから訊いてるんですけど……」

「えー、だって戦場って言ったら一世一代の晴れ舞台ですよ? サムライが命を燃やしてハイになる場所ですよ? 大将首とってヒャッハーする場所ですよ? お洒落して行くに決まってるじゃないですか。戦場に地味な格好で行けって方が意味不明です。理解不能です」

「……ご希望だった甲冑一式を取り揃えてあげなかったのがそんなに不満なんですか? そうなんですか?」

「それはそれでケチくさいなーって思いましたけど、この格好も気に入ってるから別にいいです。お化粧に時間かかっちゃうのが難点ですけど」

「ちなみに、その素敵な服と化粧品を買うためのお金はどこから出たのでしょう?」

「巴貯金からです」

「そんな口座はありません」

 とぼけた笑顔と血管の浮き出た笑顔で舌戦を繰り広げる女二人と、呆れた顔でそれを傍観するシュラ。そんな三人から少し離れたところに身を置いて、ヨハンは牧師館の二階部分を見上げていた。

 いつもの彼なら彩花に同意して何か言うところだが、生憎と今はそんな気になれない。頭の中を占めているのは、この場にいないマリーナのことだ。

 教団の走狗となって邪神群と戦うか否か――提示された二択で、マリーナは否の方を選んだのだろう。そのことを責める気は全く無かった。むしろ、そちらを選んでくれたことを喜ばしく思ってさえいる。

 不思議な術を身に付けているようだが、彼女は本質的に普通の女の子だ。自分のような武芸者や、巴のような例外中の例外とは違う。穏やかで心優しい女性だ。戦いなど似合わないし、するべきではない。

 加賀見達は戦うことを強要してくるかもしれないが、そんな非道は自分が許さない。必要とあらば、教団と喧嘩してでも彼女を守る。

 女に甘い奴だ、とシュラあたりから言われそうだが、婦女子を守ることこそ騎士たる者の務めだ。誰に何と言われようと曲げるつもりは無い。

「いいからジャージでも着ていきなさい。靴もスニーカーとかに履き替えて」

「えー? やですよ、あんなダサいの」

「もうそのアホはほっとけ。時間ねえんだし行くぞ」

 シュラが出発を促したことで、不毛な争いはどうにか終息した。山中の廃ホテルに向かうため、四人は四輪駆動の軽自動車に乗り込もうとする。

 その時――

「待って下さい」

 背後から、少女の声。

 四人が振り返ると、そこに見知った顔の少女が立っていた。

「わたしも……わたしも行きます。一緒に連れていって下さい」

 微かに声を震わせながら、それでも精一杯の勇気を込めて、マリーナはそう言った。

 その手には、昨夜加賀見が置いていった武器の一つ――金属製の円盤を持っている。

「マリーナ……」

 まるで不可思議な出来事を目の当たりにしたかのように、ヨハンは放心した。驚きの程度の差こそあれ、浮かべた表情は他の三人も同様だった。

「……力を貸してくれるのですね?」

 彩花が問う。マリーナは、首を縦に振った。

「……はい」

 その眼にはまだ迷いがある。隠しきれない怯えがある。けれどもそれらを振り切るように、彼女は声を張り上げた。

「色々考えたけど、やっぱり戦うしかない……ううん、戦おうって決めました。みんなが命懸けで戦おうとしてるのに、わたしだけ安全なところにいるなんて……そんなの無理です」

 そして深く、頭を下げる。

 昨夜、彩花がそうしたように。

「お役に立てないかもしれないけど……自分に出来ることを精一杯やります。だから、お願いします! わたしも連れていって下さい……!」

 言葉は拙くとも――いや、拙いからこそか。

彼女の真摯な訴えは、皆の心に届いた。その決意の重さを、誰もが感じ取っていた。

「マリーナ、本当に……」

 本当にいいのか、とヨハンが言おうとする。しかし、それより先に動いた者がいた。

 巴だ。

「キャーッ! マリさん可愛い!」

 走って飛びかかり、抱きついて押し倒す。まるで一昨日の再現のような大騒ぎが、ヨハン達の目の前で繰り広げられた。

「きゃ……! ちょ、ちょっと巴さ……」

「健気すぎますよマリさん、本当可愛いんだから! その健気さに萌えました! 惚れ直しちゃいましたよ、もー!」

 誰がどう見ても嫌がっているマリーナをがっしりと捕まえ、好き放題弄り回す。そして花が咲くような笑顔を浮かべて言うのだった。

「心配しなくても大丈夫ですよー、私が守ってあげますから! さっ、乗って乗って。私達二人で邪神とかさくっと倒しちゃいましょうね!」

 さりげなく男達の存在を無視しているあたりが彼女らしい。あるいは、本当に存在を忘れ去っているのかもしれない。

 そんな巴に振り回されているマリーナを、ヨハンは複雑な面持ちで見つめていた。先ほど言いかけた言葉を再び口にするべきか否か、迷っていたのだ。

 その心中を察したシュラが、肘で小突きながら囁きかける。

「本人がやるって言ってんだ。野暮なことは訊かないでやれ」

 ヨハンは少しの間難しい顔をしたが、やがて瞑目して頷いた。

「……そうだな」





 恐れずに、戦う。

 そして、必ず生きて帰る。

 彩花が運転する車の後部座席に座りながら、マリーナは拳を握り締めていた。

 自動車という物に乗るのは初めてだが、その滑らかな走りに感動してはいられなかった。これから始まる戦いのことで頭の中がいっぱいで、他のことに気を回せない。

 あと僅かな時間で、この車は目的地に辿り着く。人を喰う怪物達との戦いに、自分は身を投じる。

それが怖くないと言えば嘘になるし、今も不安な気持ちに押し潰されそうだが、生半可な覚悟で戦うと決めたわけではない。

 思い出したのだ。黄金を受け継いで降魔師になった時の気持ちを、ほんの少しだけ。

 あれは決して夢ではない。自分の魂に刻まれていた思い出なのだ。何の根拠も無いけれど、そう思えてならない。あの言葉は、あの思いは、かつての自分が本心から放ったものだと信じたい。

 息を吸って目を瞑り、自分に言い聞かせた。大丈夫、やれる。今の自分だって、かつての自分と同じ人間なのだから。かつての自分がやりたかったことを、今の自分はきっとやれる。怖くてたまらないけれど、勇気を振り絞ってやってみせる――と。

 そして、震える心を鎮めようと息を吐いた時に、気付いた。

「う……くっ……」

 右隣に座っている巴が、顔を青くしていることに。

「巴さん……」

 いったいどうしたというのだろうか。ついさっきまで緊張感の欠片も見受けられなかった彼女が、こうまで青褪めるとは。

 もしかして、彼女も怖いのだろうか。あのはしゃぎぶりは空元気というやつで、本当は恐怖と戦っていたのだろうか。

 ――そうかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。彼女だって女の子だ。命懸けの戦いを前にして平静でいられるわけがない。

「巴さん……その……がんばろうね」

 何か言わなければいけないと思って、気休めにしかならないと知りつつも、マリーナは巴に語りかけた。

 巴の手に、自分の手をそっと重ねる。

「わたしもがんばって、力になるから……みんなで乗り切ろうよ、ね? 無事に帰って、また一緒に買い物行こう」

 口調をいつもより砕けたものにして、笑いかける。巴を少しでも元気付けるために。

「は、はい……そうしましょう…………うぷっ」

「え……?」

 少し間を置いてから返ってきた答えは、何か妙だった。怖くて震えているのとは微妙に違うような、最後に変な声が洩れていたような――

 助手席のヨハンも巴の異変に気付いたらしく、振り返って顔を強張らせた。

「おい、巴……お前まさか……」

「え、ええ……そのまさかのようです……」

 巴は右手で口元を押さえながら、掠れた声を絞り出している。その様子を見て、ヨハンの疑念は確信に変わった。

「いや早えよ、いくら何でも早えよ……まだ走り出して十分も経ってねえぞ」

「そ、そんなこと言われたって……仕方ないじゃ、ないですか……」

 巴は必死に、胃からこみあげてくる不快感と戦っていた。姿勢を前かがみにしながら荒い息をついている。

 要するに、吐き気をこらえているのだ。

「おいヨハン……聞きたくねえが、一応聞く。こいつの尋常じゃねえ様子はいったい何なんだ?」

 巴の右隣に座るシュラが、心底から嫌そうな顔をしてヨハンに尋ねた。

「あー……その、何て言うか……車酔いだ」

「車酔い……?」

「船酔いってあるだろ? それの車版だ。そいつ実は車酔いがひでえんだよ。前にバス乗った時も車内で吐かれた……つーか足にかけられた」

「……何でこれ乗る前に薬飲ませとかねえんだよ? 確かあっただろ、酔い止めの薬」

「いや、だって……あれって飲むと眠くなるんだろ? まずいじゃん、これから戦いだってのに、そんなの飲ませたら」

 苦い顔で弁明するヨハンを、今度は彩花が横目で睨みつけた。

「ていうより、何でそんな人を私の車に乗せたんです?」

「いや、だって……歩いて行くと時間かかるだろ? 疲れるし」

 彼らがそんなやりとりをしている間も、巴の容体は加速度的に悪化していた。早急に手を打たねば手遅れになることを、マリーナは察する。

「あ、あの……! 巴さんが、巴さんが……本気でやばそうです! 何か出そうです!」

「うっ、はぁ……ふぅ……ぐっ……!」

 マリーナが必死に背中をさすっているものの、焼け石に水であることは誰の目にも明らかだった。

 ヨハンが彩花に言う。

「あー……ごめん彩花さん、ちょっと止めてあげて。ほっとくとこいつ吐くから」

「……仕方ありませんね」

 彩花は車を路肩に寄せ、ブレーキペダルを踏んだ。若干急停止気味だったため、マリーナ達の体が前後に揺れる。

 それが、破局的な結末を生んだ。

「ちょっ……! 急に止まらないで……ごぶっ!」

 指の隙間から溢れる吐瀉物の奔流。それは人里を呑み込む土石流の如く、狭い車内を瞬く間に蹂躙した。

「ちょっ……!」

「うわっ!」

「げ……」

「きゃあ!」

 彩花、ヨハン、シュラ、マリーナの悲鳴が、見事に重なる。

 戦場に辿り着く前に、車内は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。




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