第三話「死者の国と邪悪なる軍勢」
「マリーナ! マリーナ! どこだマリーナ! いたら返事してくれ!」
トイレでマリーナの不在を確認した後、ヨハン達は捜索を開始していた。今は二手に分かれ、公園及びその付近を走り回っている。
大声で呼びかけ続けるヨハンの顔には、焦りと危機感が色濃く浮かんでいた。
マリーナが自発的にいなくなる理由など全く思い当たらない。道に迷うほど東屋とトイレは離れていないし、寄り道するような場所も無い。
先程抱いた嫌な予感は、確信に変わっていた。
「俺がついていながら……何やってんだ、この間抜け……!」
苛立ちの滲むその言葉は、自身への罵倒だ。
今日マリーナ達と一緒に出かけたのは、マリーナを危険から守るためでもあった。
まず何も起きないだろうが、万が一の事態にも備えておいた方がいい――そう考えて行動を共にしたのだが、やはり心のどこかで油断があったと言わざるを得ない。
万が一は所詮万が一。結局は杞憂に過ぎないだろうと、高を括っていたのだ。
「どうする……彩花さん達を呼ぶか……? しかし……」
公園の入り口で立ち止まり、僅かに俊巡した時。
視界の隅に、一条の閃光が映った。公園の北側に広がる農園地帯から、青い空へと立ち昇る光だ。
眩い、金色の光だ。
「なっ――」
それはこの世のものとは思えないほど、不可思議な現象だった。
焼けるような痛みを味わいながら、男は逃げるように後退した。
マリーナの放った光熱の一閃は、彼の急所を貫いていない。左肩を浅く裂いただけだ。されど彼の脳髄を駆け廻る痛みの信号は、断じて軽いものではなかった。
「ぐっ……! ぬぐおおおおおお……っ!」
熱い。傷口が、焼けた鉄の棒を押し当てられているかのように熱い。事実、裂かれた肩からは、血飛沫の代わりに白煙が噴き上がっている。
気が狂いそうな激痛だ。意思の弱い者なら失神してもおかしくない。
奥歯を潰すほど噛んで痛みに耐えながら、男は栗色の髪の少女を凝視した。
「は、はは……ようやく、見せやがったな……そ、そいつが、あんたの手品ってわけか……」
僅かに呼吸を乱しながら、ゆっくりと立ち上がるマリーナ。
先ほど見せた不気味なほどの冷静さは、もう大分薄れている。今の彼女は両目を吊り上げ、明らかに興奮した様子で男を睨んでいた。
「やる気になったって顔だな……いい顔だ……けど、悪いんだがよ、ドンパチはここらで止めにしようや。実はな……」
男が言い終える前だった。
マリーナの掌が、再び閃光を放つ。文字通り光の速さで走り抜けたそれは、男のすぐ傍に立っていた木の幹を貫いた。
苦笑を浮かべていた男の顔が、急速に青ざめていく。
「お、おい待てって! 聞けよ人の話! だから、これには訳があってだな……」
そんな言葉に、マリーナは耳を貸さない。
掌に聖なる日輪の紋を描き、その術式を起動。眩い金色の一閃を撃ち放つ。今度は狙いが上に逸れ、男の髪を数本刈り取っていった。
「だから違えんだよ! これはほら、あれだ……そう、ドッキリ! テレビのドッキリみたいなもんなんだって! 一種のギャグみたいなもんで……」
男は逃げ回りながら、必死の形相で弁明する。しかし過去の世界からやってきたばかりのマリーナに、彼のふざけた説明は全く伝わらなかった。
「……駄目だ、完全に興奮しちまってるよ……面倒臭えなこれ、マジで……」
そうなるように仕向けたのは自分だが、思った以上に興奮させてしまったらしい。
殺らなければ殺られる、とでも思っているのだろう。臆病な人間ほど、追い詰められると攻撃的になってしまうものだ。
どうやったらこれを落ち着かせて、話を聞いてもらうことが出来るだろうか。
そう思案していると、蜜柑の葉をがさがさと揺らして、一人の男が現れた。空へと立ち昇る光を目撃し、この場に駆けつけてきたヨハンだ。
彼は強張った面持ちで、対峙する二人を交互に見やった。
混乱しているのは彼も同じだ。
果樹園の中で対峙する二人。貫かれた木々。抉られた地面。掌に光輝く紋様を浮かび上がらせたマリーナ。
あまりにも不可解で、予想外なことが多過ぎる。
それでもこの場の構図から、金色の光を放った人物がマリーナであることを理解し、慌てて声を張り上げた。
「ま、待てっ! 落ち着くんだマリーナ! そいつは――そいつは敵じゃない!」
マリーナが唖然となる。
一方、いいところに来てくれたとばかりに、男は顔を綻ばせた。
「そうそう、そいつの言う通りなんだよ。敵みたいな顔して現れたけどさ、実は敵じゃないんだよね、俺。ほら、何つーの? 戦隊物でいうブラックみたいな――」
台詞の途中で、飛来する影。
それに気付いた直後、男は竜巻のような回し蹴りを浴びていた。
「ぶほあっ!」
まるでトラクターにでも追突されたかのように、男の細い体が吹き飛び、数メートル後方の木に激突する。
冗談じみた、というより冗談としか思えないほど非現実的な光景を目にして、マリーナは再び絶句した。
「しばらく顔見せないと思ったら……こんなところで何してくれてやがるんですか、このクソ中年は」
長い髪を振り乱しながら現れたのは、巴だった。
大方の事情は察しているのだろう。形のいい眉を吊り上げて、不機嫌を露わにしている。
「こ、これには……深いわけが、あってだな……」
「マリさん! 大丈夫ですか!」
悶絶しながら弁明する男を華麗に無視し、巴はマリーナに駆け寄っていく。男はもうどうでもいいやと思って、ぐったりと木にもたれかかった。
「無事ですか! あのクソ野郎に変なことされませんでしたか!」
血相を変えて叫ぶその姿は、まるで我が子の安否を心配する母親だ。その慌てぶりが、逆にマリーナを冷静にさせた。
乱れていた呼吸を整えて、こくりと頷く。
「大丈夫、です……危なかったけど、巴さん達が来てくれたから……」
「よかった……心配しましたよ、本当に……」
巴は安堵の息を洩らした後、マリーナの背中に腕を回す。そして包み込むような優しさで、小さな体を抱き寄せた。
「もう大丈夫ですからね……安心して」
初めて聞く、巴の優しい声。
それが、マリーナの胸を打った。
「……はい」
危機が去ったからだろうか。それとも、自分を心配してくれる人がいたからだろうか。マリーナの瞳から、自然と一筋の涙が零れた。
「ってえな、くそっ……本気で蹴りやがって、あの馬鹿力……」
巴に蹴り飛ばされた男は、木にもたれかかりながら顔をしかめていた。そんな彼のところに、ヨハンが歩み寄っていく。
「おい、加賀見」
その表情は、いつになく硬い。閃光によって抉られた木の幹を一瞥してから、彼は言葉を続けた。
「これはどういうことだ、説明しろ」
「いやあ、まあ何つーか……色々と込み入った事情があってだな……」
「はぐらかすんじゃねえよ、小僧」
冷たく響くその声音に、普段のような軽さは無い。
厳めしく、重々しい、老剣士の声だった。
「……あの子は何者だ? お前達は何のつもりであの子を蘇らせて、これから何をさせようとしてる? その辺りのことを、俺達全員に詳しく説明しろ」
有無を言わさぬ口調で言われ、男は小さく溜息をつく。
そうして、彼は――加賀見という名の男は、観念したとばかりに苦笑した。
「へいへい……分かりましたよ大剣豪様。まあ立ち話もあれなんで、とりあえず教会にでも行こうじゃないの」
時計の針が午後二時を回る頃、マリーナ達は御門ヶ原福音教会に戻ってきた。
十二畳ほどの広さの居間で顔を揃えるマリーナ、ヨハン、巴、シュラ、彩花、そして加賀見の六人。屋内でもサングラスをかけたままの加賀見は、ガラステーブルに携帯用灰皿を置き、象牙色のソファーに悠々と腰を下ろした。
「さて、と……全員揃ったところで、どの辺から話しましょうかね?」
煙草をくわえつつ、全員の顔を窺う。しかし返ってきたのは、毒と棘を含んだ言葉ばかりだった。
「何悠々と寛いでんだよ。いいからさっさと洗いざらい喋れっての」
と、不快も露わに吐き捨てるヨハン。
「ていうかそこにケツ乗せないで下さい。ソファーが汚れます」
と、冷たく言い放つ巴。
「お前はその辺で正座でもしてろ。それと、ここで煙草吸うんじゃねえ。今すぐ消せ」
と、高圧的に命じるシュラ。
口振りこそ三者三様だが、不快感を露わにしているという点では皆同じだった。ソファーで寛ぐ加賀見を、まるで親の仇のように睨みつけている。
加賀見は渋々煙草をもみ消しながら、わざとらしく溜息をついた。
「おいおい……何よ、お前ら。何その険悪ムードは? 人がせっかく丁寧に説明してやろうとしてんのにさぁ、ちょっとないんじゃないの、それ……マリーナちゃんもそう思わない? ほら、この礼儀知らず共に何か言ってやってよ」
助け舟を求めるように、マリーナの方を見る。けれどマリーナは、同意も同情もしてくれなかった。
「――別に、普通じゃないですか?」
普段とは別人のように、冷めた声。
そして、絶対零度の眼差し。
「あと、臭い息吐きかけないで下さい。空気が汚れます」
この場の誰よりも容赦の無い物言いである。悪口なら言われ慣れている加賀見も、これには少々たじろいだ。
「え、えーと……マリーナ、さん……? 何か怒ってないスか……?」
「怒ってなんかいませんよ。全然、これっぽっちも」
冷たい声。刺々しい口調。半月状になった目。急傾斜した細い眉。
どこからどう見ても怒っている。滲み出る怒りと嫌悪と敵意と不快感を、隠そうともしていない。
「いやいやいや、絶対怒ってるよね? すげームカついてる顔だよね? それ」
「だから怒ってませんよ。ただ、目障りなんで早く消えてくれないかなって思ってるだけです」
どうやら先の一件のせいで、大分怒らせてしまったらしい。蹴り飛ばしたり刃物を突き付けたりしたので、当然と言えば当然かもしれないが――ここまで根に持たれるとは予想外だった。
「だからさっきも言ったじゃん……お芝居だったんだよ、あれ。うちのボスがやれって言うから仕方なくやったんだってば。俺だってほんとはやりたくなかったんだぜ? 女子トイレで女の子襲って森に連れ込むとか、もう完璧変態だしさー」
「ええ、変態ですね。死ねばいいと思います」
さらりと、死刑宣告を下す被害者兼裁判官。ヨハン、巴、シュラの三名も、それにすかさず同調した。
「男の風上にも置けねえ野郎だな。死ねよお前」
「昔なら腹切って詫びるレベルですね。死んで下さい」
「お前が糞なのは今に始まったことじゃねえが、とりあえず死んどけ。その方が世の為だ」
四人の口から立て続けに放たれる、情け容赦ない罵詈雑言。
加賀見は一瞬、本気でこの世から消えたくなった。というより、目の前の連中をあの世に送り返したくなった。
「あー……はいはいはい、悪かったよ。ごめんね、マジで悪かった。はい、すみませんでした! でもさー、俺だけ責めるってちょっと酷くねえ? そこでにこにこしてる彩花さんだって俺らとグルなんだぜ。俺が今日マリーナちゃん襲うって知りながら、街を案内してあげなさいとか言ってお前ら送り出したのよ、その人」
と、責任転嫁気味に彩花の名を挙げる。
それまで我関せずを貫いていた彩花は、少しだけ困ったような顔をした。
「すみません……私もこんなやり方は賛成しかねたのですが、高城先生が一度言い出したら聞かないもので……」
「何だよ彩花さん……人が悪いな、まったく……」
と、気まずそうに言うヨハン。
「せめて私達にくらい言って下さい。マリさんがいなくなった時、本気で心配したんですから」
と、小さく溜息をつく巴。
「……ま、そんなことじゃねえかと思ったけどよ」
と、小声で呟くシュラ。
皆一応非難めいたことを口にしているが、その表情に険しさは無い。加賀見を罵倒していた時とは比べ物にならないほど、言い方も柔らかかった。
「ごめんなさい、マリーナさん。怖い思いをさせてしまいましたね……」
そう言って彩花が頭を下げると、マリーナは慌てて両手を振った。
「い、いえ……いいんです。大した怪我もしなかったし……彩花さん達にも事情があるんでしょうから、仕方ないかなって……」
彼女の表情もまた、さっきまでとは別物だ。吊り上がっていた眉を垂れ下がらせて、優しげな微笑みを作っている。
凄まじいまでの茶番を見せつけられて、加賀見は心底から呆れかえった。
「いやいやいや、何? 何なの? そのなぁなぁな雰囲気は……俺の時と全然違うよね? 何かすごい温度差あるよね? いったいどういうことなのよ、これ」
「私と加賀見さんの人徳の差です」
「……」
「さらに言うなら、うら若い乙女とむさい中年の差ですね」
「さいですか…………でも、あんたもけっこう歳……いやすみません、何でもないっス」
彩花の細い目から放たれる眼光に怯んで、加賀見は大人しく口を噤む。
すると、また不機嫌な顔に戻った巴が問いかけてきた。
「で、女子トイレで女の子を襲っちゃった変態さんは結局何がしたかったんです? 男の欲望に忠実に従っただけとか言ったら、そのダサいグラサン叩き割りますよ」
「違えっつーの! お前じゃあるまいし! ……いやすみません、何でもないっス。これ高いんで割らないで下さい…………まあ、何つーか、あれだ……一種の試験みたいなもんよ。ほら、この子ってあれじゃん? かなり記憶喪失気味で、自分の名前くらいしか思い出せねえって話だったじゃん? うちのボスやってる爺様がその辺を不安に思っちまったみたいでよ、本当に使い物になるのかどうか今のうちに試しておきなさい、とかぬかしやがったわけよ」
「だからって敵のふりして襲ってきやがるのか? 悪趣味にも程があるな」
そう言ったのはヨハンだ。
彼は非難がましい目で、加賀見を睨みつけている。
「いやまあ……蹴っ飛ばしたりしたのはやりすぎだったと思うけどよ……でもさ、考えようによっちゃ必要なことだったと思わねえ? この子はこれから、お前らと一緒に邪神さん達とやりあわなきゃいけないんだぜ? いきなり戦場に放り込んで、さあ頑張れってのも酷だろ? この子どう見ても、お前らと毛色違うしよ……心の準備っつーか、戦いの予行演習させるって意味でも、今回みたいなのは必要だったと思うんだよな」
空気が、少しだけ重くなった。
ヨハンと巴が眉間に皺を寄せ、何か言いたげな顔をする。しかし、彼らの口から言葉は放たれない。
代わりに、マリーナが疑問を口にした。
「邪神って……」
「ん?」
「邪神って……何のことですか?」
加賀見は、数式の解法について問われた国語教師のような顔をした。
「え……何? 知らない? こいつらから聞いてないの……?」
「聞いてません。何も」
加賀見の視線が、横へと流れる。
「お前ら、話してないわけ?」
「話してねえよ。これから話そうと思ってたら、お前が勝手にやらかしやがったんだよ」
ヨハンが答える。加賀見は魂が抜け落ちたような顔をして、ソファーにもたれかかりながら天井を仰いだ。
「うわ、何それ……予定と全然違うじゃん……邪神の手下Aが襲ってきましたって設定で一芝居打った俺がアホみたいじゃん。ぶっちゃけアホじゃん……」
自分は邪神の眷属だの邪神の命令で殺しに来ただのと、わざとらしい説明台詞を色々のたまってしまっていた。あれが相手に全く通じていなかったと分かると、物凄く恥ずかしい。
「お前の間抜けぶりなんぞ今に始まったことじゃねえから安心しろ。いいからさっさとこいつに説明してやれ」
いつも通りの容赦の無さで、シュラが言う。加賀見はがっくりと項垂れてから、投げやりに言った。
「はぁ……ったく、分かったよ……いいかい、邪神ってのはな、簡単に言うと俺らの敵。つーか人類の敵」
いきなりそんなことを言われても、マリーナは眉をひそめるしかない。簡単に言うにも程がある。
「つってもピンとこねえか……そうだな、まずは死について説明しよう。マリーナちゃん……人間ってのはさ、基本的に死んだら消えるんだよ」
それは、当然と言えば当然のこと。しかし死について語る加賀見の表情は、先ほどまでよりいくらか真剣だった。
「死んだら魂とかも消え失せて、後は何も出来ねえし、どこにも行けねえってこと。だから、いいことした奴が天国に召されて幸せに暮らしたり、どっかの誰かに生まれ変わったりはしない……っていうのが、俺達の見解だ。ま、別に俺ら世界の真理とかまで知ってるわけじゃねえから、絶対に無いとまでは言い切れねえがよ……でもまあ、あの世とかって十中八九無いと思うぜ。昔あった薄明会ってとこのボスも、そんなもん無いって断言してたし。それに……」
「話が逸れてますよ、加賀見さん。今は夢獄と邪神に関することだけ説明してあげて下さい」
出来の悪い生徒を窘めるように、彩花が言う。そこには何故か、釘を刺すような響きも含まれていた。
「ん、ああ……悪い悪い。で、だ……話を戻すとだな、基本的に死んだらそれまでってのがこの世のルールっつうか大原則なんだが……たまにそこから外れちまう奴がいるんだよな」
「外れる……?」
「死んでも死にきれねえ奴がいるのさ。百万人に一人か、一千万人に一人か、一億人に一人か……どのくらいの割合かは知らねえが、ごく稀に、死んだのに魂が消えねえ奴が出てくるんだよ」
怪訝な顔をするマリーナを正面から見据えて、加賀見は語る。
「そいつらはよ、厳密に言うと死んじゃいねえんだ。肉体が朽ちた後、本来なら消えちまう筈の魂が、この世とは別の場所に引き摺り込まれていっちまうのさ」
いつの間にか、彼の声は奇妙な重々しさを帯びていた。
「死んでも終われなかった魂が辿り着く場所……この世でもあの世でもねえその場所を、俺達は夢獄って呼んでいる」
マリーナの目を見据えて、加賀見は言い放つ。
「夢獄の支配者が、邪神群」
嫌悪と、憐みを込めて。
「生きてる間に散々悪さして、胸糞悪くなるような逸話作って、死んだ後は本物の怪物になっちまった……救いようのねえ糞共だ」
御門ヶ原市の西半分を占める深い山林。その隙間を縫うように築かれた二車線の国道。緩やかに蛇行しながら伸びるその道を、三台の車が一列になって進んでいた。
最後尾を行く黒塗りの車に乗っているのは、年齢も性別も異なる三名。一人は運転席でハンドルを握る運転手。残る二人は、後部座席に座る親子ほども年の離れた男女だった。
「いやあ、すみませんね村上さん。お忙しい中、わざわざこんなド田舎に来ていただいちゃって」
クリーム色のシートに背を預けている女が、隣に座るスーツ姿の男にそう言った。
話しかけられた男は、村上雅之という名だ。濃い髭をたくわえた四十がらみの男で、やや険のある精悍な顔立ちをしている。
「それは別に構わんが……」
口を開いてから、村上は僅かに表情を曇らせた。
「本当に、話の分かる連中なのだろうな? 例の三人というのは……」
探るように問いかけると、女はその口元に楽しげな微笑みを浮かべた。
「ええもちろん。ご心配には及びませんよ。いや僕も、開門の時はどんなのが出てくるんだろうなーってビクビクしてたんですけどね、話してみたら思ったよりまともだったんでびっくりしちゃいましたよ。一人だけちょっとおかしいのがいますけど……他の二人がちゃんと手綱握っててくれてるんで、無問題です」
まるで少年のような喋り方をしているが、それは歴とした女性だった。
それも、日本人ではない。金糸を束ねたような髪と空色の瞳、そして透き通るような白い肌をした外国人である。
年齢は二十代の前半らしいが、その割には童顔だ。十代の少女に見えなくもない。妖艶というよりも愛らしい顔立ちをした美女だった。
名は、ソフィア・カールフェルト。
スウェーデン生まれの、日本育ち。職業は高校の教師――と、本人は語っている。どこまで本当かなど、知れたものではないが。
「……開門の儀に関わった者は、君以外皆殺しにされたと聞いたが」
「ああ、あれ? だって始めに言ったでしょ? 門の向こうから何が出てくるか分からないから、絶対現場に来ないで下さい。死んでもいいようなどうもでもいい奴らに儀式やらせて下さい、って……あれ、門の向こうから来る奴らに皆殺しにされることもあるよ、って意味だったんですけど」
「そんなことは分かっている。私が言いたいのは、そんな真似をする連中を信用していいのか、ということだ」
村上の声に苛立ちが滲む。ソフィアは何故そんなことを気にするのかとばかりに、飄々と肩を竦めた。
「ごもっともな意見ですけど……どうして今更そんなこと言うんです? 電話の時に言ってくれればいいのに」
「言う前に君が切るからだ」
「ああ、そうでしたね……じゃあ話を戻しますけど、別に連中だって殺したくて殺したわけじゃないんですよ? 殺した……っていうより食べちゃったのは、平たく言うと生きるためです」
「生きるため?」
「人間食べないと死んじゃう病なんですよ、あの人達」
ふざけた言い方ではあったものの、それは決して冗談ではなかった。
「嘘みたいな話ですけどね、これが本当なんです。邪神の眷属って呼ばれてる奴らは全員が食人鬼で、人間を食べたいって衝動に日々悩まされてるんです。で……長い間人間を食べずにいると、痩せ衰えて死んじゃうってわけ。まあ元々死人なんですけど……今度は魂そのものが消滅して、本当の意味で死んじゃうってことです」
邪神群と呼ばれる存在について、彼女は村上より遥かに熟知している。
その生態も。その思想も。その歴史も。
「門を開けたとたん連中が喜び勇んで出てくるのは、そういう理由です。定期的に人間食べないと生きていられないから、門が開く度に出てきて食べる。大昔からそういうことを繰り返してきたから、鬼とか悪魔とか呼ばれて忌み嫌われてるってわけですね。ご理解いただけましたか?」
「……悪いが、最初の質問の答えになっていないぞ。我々人間を食肉としか思っていないような奴らを、どうして君は信頼出来る?」
「あはっ、ひょっとして……顔合わせた途端にガブッとやられるとか思ってます?」
「……可能性の一つとしては考えている」
茶化された村上は、憮然とした顔でそう答える。ソフィアは心底から可笑しそうに笑いながら、手を横に振った。
「あはは、ないない。そういうのは絶対無いから安心して下さい。いや確かに、連中は人間食べますけどね……食べていいものとそうでないものを区別出来るくらいの理性は持ってますよ」
「自分達をこの世に招いてくれた者らを、問答無用で殺したのにか?」
「あれは僕が言ったんです。こいつらなら食べてもいいよって」
信じられない発言を聞いて、村上は耳を疑った。息を呑んで、目を見開き、隣に座る一回り以上年下の女を凝視する。
その顔に浮かんでいたのは、微笑み。昨夜の虐殺を対岸の火事としか思っていない、無情な微笑みだ。
「食べ終わった後は彼らも落ち着いて、ちゃんと話を聞いてくれましたよ。もちろん見ての通り、僕は食べられなかったし乱暴もされませんでした。彼らは僕を、大切なビジネスパートナーと認めてくれたんで」
そうして、村上に流し目を送る。
「同じ理由で、彼らはあなたも絶対に食べない」
村上雅之は実業家だ。戦前に海運業で財を成した一族の出身であり、複数の企業で取締役を務めている。
その財力に、ソフィアは目をつけた。
「石器時代じゃあるまいし、ちょっと腕っ筋が強いからって何でもかんでも好き放題出来るってもんじゃない。いろんなものが高度に発達しちゃった現代では、化け物だって自由気ままには生きていけないんです。自分達に理解のある人間とは出来るだけ仲良くして、持ちつ持たれつでやっていくしかない」
その口振りは、まるで彼女自身もその一人であるかのようだ。
実際、これは人に化けた怪物ではないか。村上は密かに、そう思い始めていた。
「それにね、彼らって基本的には死人なんですけど、こっちにいる間は生き物としてのルールに縛られるんですよ。水は飲むし、人間以外のものだって食べるし、排泄もするし、夜は寝るし、暑くて汗かいたり寒さで震えたりもする。雲に住んで霞を食むってわけにはいかないんです。だから必要としてるんですよ。あなたみたいな、衣食住を気前よく提供してくれるお金持ちを」
その発言にどう応じればいいのか分からず、村上は複雑な表情を浮かべる。そうしている内に彼の部下が運転する三台は国道を外れ、細い未舗装路に入っていた。
車窓から覗く雑木林を背景にして、ソフィアは薄気味悪い笑みを村上に向ける。
「あなたを殺して、その不味そうな肉をむしゃむしゃ食べるのと、生かしておいて食糧その他を貢がせるの……どっちが得かってことくらい連中だって分かってます。だからあなたには絶対に手出ししない。どうです? 納得のいく説明じゃないですか?」
「……一応、納得したことにしておこう」
未だに半信半疑といった心地ながらも、村上は頷く。対照的に、ソフィアは実に晴れやかな表情で外の風景を見やった。
「はい、一応納得していただけたところで、着きましたよー」
未舗装路の行き止まりで、三台の車が停まる。ドアが次々と開き、ソフィアと村上、そして村上の部下数名が、生い茂る雑草の上に降り立った。
「ほら、こっちこっち」
ソフィアの先導に従い歩いていくと、瓦葺きの屋根を持つ建物群が村上達の眼前に姿を現した。
山の傾斜に沿う形で、何棟もの建物が階段状に建てられている。建物はいずれも木造で、数箇所の渡り廊下によって連結されており、さながら迷宮のような様相を呈していた。
見事な和風建築であるが、全体的に老朽化が著しい。というより、荒れ果てている。誰がどう見ても、一目で廃墟と分かるに違いない物件であった。
「廃墟とは聞いていたが……旅館か何かか? ここは……」
「ええ、五年くらい前に潰れた旅館です。立地条件的に丁度良かったんで、儀式の場として改装させてもらいました。ああ、別にトラップとかは仕掛けてないのでご心配なく。中もわりと綺麗ですよ」
そう言って、ソフィアは建物内に踏み入っていく。その後に続きながら、村上は疑念と嫌悪と畏怖が入り混じった目でソフィアの背中を睨んだ。
邪神を呼びたいから、協力してほしい――この女がそう持ちかけてきたのは、三ヶ月ほど前のことだった。
村上家が数代前から魔道の探究をしていた一族であることを、何故かこの女は嗅ぎつけていたのだ。そして取引を持ちかけてきた。自分は邪神を呼びたい。あなたも邪神の力を借りたい筈だ。自分達の利害は一致しているから、協力しよう。邪神を呼ぶための「場」と「方法」を教えてやるから人と機材を提供してほしい、と。
気味の悪い女だと思った。何を企んでいるのかと警戒した。
しかし結局、村上雅之はその取引に応じてしまった。止むを得ない事情があったからだ。
「どうしたんです? 僕の背中に何か付いてますか?」
白く塗られた細長い通路を歩きながら、ソフィアは問いかける。村上の胸中を見透かした上で、嘲笑うかのように。
「それとも、惚れちゃいました? ダメですよ村上さん、奥さんのいるいい大人が僕みたいな小娘に色目使っちゃ」
ふざけるな、と村上は言いたくなった。
確かにこの女は美しい。だがそれは、毒花の美しさだ。危険な植物ほど艶やかな花弁を持っているのと同じことだ。それさえ見抜けないほど節穴な目はしていない。
正直、関わり合いたくない類の人間だ。こうして一緒にいるだけで寒気を覚える。
とはいえ、今更後に引けない。既に自分は、多くの者を死に追いやる計画に加担しているのだ。
自らにそう言い聞かせた時、通路の先から妙な音が聞こえてきた。
湿った音。水を撒くような音。生理的な嫌悪感を催す、汚らわしい音。それらに混じって、悲鳴らしきものまで聞こえてくる。
間違いない。いる。この先に、人の魂を喰う悪鬼がいる。
「何をしているのだ、連中は……」
緊張のせいだろうか。火を見るより明らかなことを、村上は問いかけてしまっていた。ソフィアは薄紅色の唇を歪めて、その愚問に答える。
「食事ですよ」
「夢獄は死の力に満ちた世界だ。そこに行っちまった奴は、例外なく魂を汚染される。人を喰う化物に生まれ変わって、夢獄の住人同士で共食いしながら生きていくしかなくなるのさ。まあ、連中がむこうで勝手に共食いしてる分には構わねえんだがよ……始末が悪いことに、たまにこっちの世界に出てきて生きてる人間まで喰っちまうんだよな、こいつら」
牧師館の居間で、加賀見は邪神についての説明を続けていた。
「つっても、連中だってあっちとこっちを自由に行ったり来たり出来るわけじゃねえ。この世と夢獄の間には目に見えない壁みたいなもんがあって、簡単には出入り出来ないようになってる……が、その壁ってのが案外脆いっつーか、不安定なもんでよ。ごくたまに、でっけえ穴が空いちまうことがある」
その穴が空けられていた痕跡を、彼は十四時間ほど前に確認している。
食肉工場の一角に設えられた、血生臭い儀式の場で。
「夢獄の住人……俺達が邪神群って呼んでる糞共がこっちに出てこられるような穴が出来ちまうその現象を、奴らは開門って呼んでる」
「開門……」
大人しく話を聞いていたマリーナの口から、微かな呟きが洩れた。与えられた情報を慎重に検討するような呟きだ。
その反応を冷静な目で観察しながら、加賀見は話を続ける。
「開門は自然に発生することが多いが、人の手で生じさせることも出来る。そして、邪神を呼ぶために門を開いちまう馬鹿野郎は、いつの時代のどこの国にも必ずいる。邪神を本物の神様か何かだと勘違いしちまう馬鹿、邪神を飼い馴らせるなんて思っちまう馬鹿、邪神と取引して何かしてもらおうなんて下らねえこと考える馬鹿……どういうわけか、その手の馬鹿が後を絶たねえのさ」
異形のもの、怪異なもの、人ならざる者――いつの時代も、そうした存在はある種の人間を惹き付ける。
文明が幻想を駆逐しつつある現代においても、それは変わらない。
「とはいえ、だ……自然発生するにせよ人工的に起こすにせよ、開門が生じる場所ってのは限られてる。さっき見えない壁があるって言ったろ? 詳しい説明は省くが、その壁を破り易い場所とそうでない場所があるのさ。そして、壁を破り易い場所ってのは実のところ数えるほどしか……っていうと言い過ぎかもしれねえが、世界規模で見渡してもそう多くはねえ」
加賀見は左手の人差し指を伸ばし、真下に向けた。床の下にある大地を、その指で指し示すために。
「その数少ない場所の一つが、この御門ヶ原だ」
マリーナが、少しだけ驚いた顔をする。
そこで彩花が、加賀見の説明を補足するために口を開いた。
「私達の教団がこの地を本拠地にして活動しているのも、それが理由です。この地には千年以上前から、邪神の召喚を目論む輩が何度も現れてきました。これから先もそれは同じでしょう。そういう輩を排除し、邪神の召喚を阻止すること……それが私達の目的です」
敵を探して回るのではなく、敵が現れる場所で待ち構える。彼女らの教団がやっているのは、そういうことだ。
この御門ヶ原という土地は、狩り場なのである。
「俺なんかはちょいと事情が違うが……そこの彩花さんは先祖代々邪神の退治を生業にしてた家系の人なんだよ。うちの教団の構成員は、大体がそういう連中。要するにうちの教団は、邪神殺しの業を持った連中の互助組織ってわけ」
「……だったらてめえらが戦えよって話だな」
加賀見の言葉に、シュラが容赦の無い指摘を入れた。加賀見は気にした様子もなく、他人事のように笑ってみせる。
「まったくだ。本当なら俺らの仕事なんだし、俺らがやるのが筋ってもんだ。マリーナちゃんもそう思うだろ?」
マリーナは口を噤んだまま、答えない。何かを思案していて、答えるどころではないような面持ちだった。
「……けどまあ、それが出来ねえ事情があるんだよ。事情っつーか、単純に力が足りねえんだけどな……邪神殺しの業を持ってるって言っても、そりゃ徒党を組んで挑めば殺すことも不可能ではないとか、奇跡的に運が良ければ勝てるとか、そういうレベルの話なのさ。基本的にな、あちらさんの方が強いんだよ。そりゃもう、絶望的なくらいにさ」
ヨハンと巴、そしてシュラが、無言のまま表情を険しくした。加賀見の発言が誇張でないことを、彼らは知っている。
「夢獄に行く魂には、何か基準みてえなものがあるらしくてよ……ただの人間だった頃から化物じみて強え奴ばかりなんだな。そいつらが魂を汚染されて、本物の化物になっちまってるわけだ。岩を握り潰す怪力と、刃物も弾丸も通らねえ体を持った化物に」
それもまた、誇張ではない。刃物も弾丸も通じない怪物が相手だからこそ、それを打倒するための特殊技能が生まれ、発展していった。
結果は、惨憺たるものだったが。
「そんな奴らと戦い続けて、負け続けて……邪神を殺せる業を持った人間は、どんどん数を減らしていった。今じゃあもう、邪神と戦える奴なんて数えるほどしかいねえよ。そいつらもかろうじて戦えるってだけで、邪神に勝てるかって言われると微妙なとこだ。いや、無理だな。そいつら程度で勝てるようなら、そもそもこんなことになってねえ」
後ろ向きな断言をしてから、加賀見はマリーナに視線を向けた。
「そもそも俺達の教団自体が、身内の集まりがちょっと大きくなっただけみたいな、すげーしょぼい組織でよ。大部隊を編成するような兵力も、近代兵器を大量に仕入れるような資金力もねえんだな。それでもどうにか、邪神と戦える力を持とうってことで……邪神に勝てる奴らを過去から呼んでくることにしたんだ」
サングラス越しに、四人の死者を見据える。
中世の騎士を。女武者を。コーサラの英雄を。そして、太陽の国の魔女を。
「それが君と、こいつら三人。後世に名を残した武芸者と、今は失われた秘術の使い手」
生きていた時代も国も違う四人に共通点があるとするなら、それは一つ。
強さ。
人の限界を超え、人ならざるものに対抗しうるまで練り上げられた、その強さに他ならない。
「ここまで言えばもう分かるだろ? 要するに俺ら、君を傭兵にしたいのよ。非力な俺らの代わりに、この御門ヶ原に現れる邪神共と戦ってほしいってわけ」
まるで買い物を頼むような気軽さで、加賀見はマリーナに言った。
無論、これはそんなに軽々しい話では断じてない。
「相変わらず横柄な野郎だな、てめえは……それが人にものを頼む態度か?」
黙っているマリーナの代わりに、ヨハンが口を開いた。加賀見はとぼけた澄まし顔でそれに応じる。
「いやだって、畏まって言っても言ってる内容は同じだろ? だったら変に格好つけずに言いたいことをぶっちゃけちまうのが誠意ってもんだと思うんだよな、俺は」
そんな誠意があるかとばかりに、ヨハンは加賀見から視線を切る。そして表情をいくらか和らげて、マリーナに語りかけた。
「マリーナ……こんな奴に訳の分からないことを言われて戸惑うのは分かる。けど……」
「いえ……大丈夫です」
マリーナの口から零れた声は、意外なほど落ち着いていた。
「混乱してません……疑ってもいません。加賀見さんの言ってることは本当だって、分かってます」
落ち着いてはいるものの、その声音はどこか暗い。黒い瞳の奥では、様々な感情が複雑に折り重なっている。
「わたしも……この人達と同じですから」
罪人が懺悔するように、語る。
「夢獄とか、邪神とか、そういう呼び方は初めて聞きましたけど……それが何なのかは分かります。話を聞いていて……ああ、あれのことなんだって、気付きました」
自分自身を抱くように、腰に手を回す。そうでもしないと、心と体が崩れてしまいそうな気がした。
そんな彼女を、加賀見は静かに見つめていた。
果てしない闇を宿したその瞳で、食い入るように見つめていた。
「わたしの力……聖なる黄金は、それを討つために受け継いだものだから……」
広い、コンクリート作りの部屋があった。かつては大浴場だった場所だ。床に張られたタイルと大きな円形の窪みが、それを物語っている。
東に面した部分がガラス張りになっているものの、生い茂る木々に阻まれて、日の光はあまり入ってこない。湿気に誘われるように発生した黴が、床の一部を緑色に染めている。
広く、薄暗く、黴臭いその部屋に、一匹の獣がいた。
輪郭は人に近い。衣類を纏い、二本の足で立っている。しかしながら、それは紛れもない獣だった。
無論、最初からそうだったわけではない。彼とて、かつては人であった。人の親によって産み落とされ、人としての名を貰い、人の世界の一員として生きていた。
今は違う。
今の彼は、本能のまま生きる獣だ。人としての尊厳を捨てた獣だ。人を喰うことしか考えられず、人を喰うことでしか飢えを満たせない獣だ。
故に、喰う。生き永らえるために、他者の命を喰い続ける。
タイル張りの床には、手足を縛られた人間が何十人も転がっていた。ある儀式を執り行うための生贄として、非合法な手段により掻き集められた者達だ。生きた人肉という、高価で貴重な供物である。
それを、獣は喰い潰していた。
頭蓋を砕いて、脳漿を掻き出す。腹を裂いて、腸を引き摺り出す。手足を噛み千切って、血を啜る。
無抵抗な相手に暴虐の限りを尽くして、獣は命を奪っていく。何の感慨も抱かず、尊い命を呑み込んでいく。涙ながらに命乞いをされても、悲惨な断末魔が耳に届いても、獣は決して止めない。一瞬たりとも躊躇しない。
食べるという行為を伴った、皆殺し。遠い昔から繰り返してきたそれを、ここでもまた、無慈悲に行う。
たとえ百億の命を奪っても、自身の餓えは満たされないと知りながら。
「常々言おうと思っていたのだが」
部屋の奥で人肉を食む獣に、語りかける声があった。
男にしては音程の高い、気品さえ漂う美声だ。
「君はもう少し、自制心というものを身に付けるべきだな。ああもちろん、君が人一倍空腹を覚えやすい体質であることは理解しているし、君の役割を考えれば仕方のないことだと思っている。しかしながら、その犬のような無作法さは正直見るに堪えない。涎を垂らして腸を引き摺り出すなど獣の所業だ。お上品になれとは言わんが、人として最低限の品格くらいは保っていてほしいのだがね」
獣の背後に立ち、非難とも嘲弄ともとれる言葉を投げかけているのは、金髪碧眼の白人だった。
細面で、整った眼鼻立ちをしている。往来を歩けば衆目を集めずにいられない程の美男だ。
されどその装いは、別の意味で人目を引くに違いない。
革製の尖頭靴を履き、裾が踝まで伸びたチュニックの上に家紋が染め抜かれた絹のサーコートを着ている。さらにサーコートの上から締めた腰帯からは、一振りの剣を吊るしていた。
中世の貴族然とした装いであり、時代錯誤も甚だしい装いだ。そんな装いを、この美男は奇妙なほど自然に着こなしていた。
「分かるかね? これは何も、君一人の問題ではないのだよ。君があまり下品な真似を繰り返すと、我等の偉大なる主まで品格を疑われてしまう。主に永遠の忠誠を誓っている私やヘルにとって、それは度し難い屈辱だ。ああ、本当に……殺意さえ覚えてしまいそうだよ」
僅かに目を細め、金髪の男は射抜くように獣を睨む。獣は首だけを後ろに回し、口から血を滴らせながら男を睨み返す。
そこに、第三者の声が割って入った。
「あー、駄目よ。駄目駄目駄目。それに何言っても無駄。だってそれ、私達とは根本的に違うもの」
まるで女のような口調だが、声音は野太い男のものだ。
身の丈も、女のそれとは程遠い。
「大変よねぇ、成り損ないって。いつでもどこでも人が食べたくって仕方ないのに、食べても食べても満たされない。気が狂っちゃうくらい苦しいのに、死にたくても死ねない。あーあ、本当に可哀想ねぇ。こんなことになるなら、変な夢見ないで普通に死んじゃえばよかったのに……って、そんなこと言っても手遅れか」
異様に大柄な男であった。巨漢という表現がよく似合う、堂々たる体躯の持ち主だ。
その口調が悪趣味な冗談に思えてしまうほど、武骨で野性的な風貌をしている。常に血を欲しているかのような双眸は、人よりも野獣に近い。
金髪の男と同じく時代錯誤な装いをしているが、この男は甲冑まで身に着けていた。兜こそ被っていないものの、その姿は戦地で命の遣り取りをする兵士そのものだ。
さらにその右腕は、生身の腕ではない。精巧に作られた鋼鉄の義手であった。
「……黙れ」
嘲笑われた獣の口から、くぐもった声が洩れる。
「耳障りな声を上げるな……殺すぞ」
殺意のこもった恫喝を受けても、二人の男は動じない。それどころか口元に冷笑を浮かべて、苛立つ獣を嘲笑った。
「いいのかね? 我々を殺してしまったら、君はもうあちら側に帰れんぞ。干乾びるまでこの世をうろつくつもりかな? それとも、降魔師共に始末してもらうか?」
ぎり、と獣が奥歯を噛む。男達は愉快げに笑う。
重く、険しく、澱んだ空気。濃密な敵意と悪意が飛び交う空間。そこに堂々と踏み入ってきたソフィア・カールフェルトは、からかうような口振りで言った。
くすくすと、微かな笑いを洩らしながら。
「どこの世界でもあるんだね、いじめって。まあ君らが仲良しごっこしてたら、それはそれで気味悪いんだけどさ」
凄惨な虐殺を目の当たりにしても、彼女は全く怯まない。まるで微笑ましいものでも見るかのように、口元を綻ばせるばかりだ。
その度胸――というより異常性には、邪神に仕える男達も一目置いていた。故にいくらかの親しみを込めて、彼女の言葉に応じる。
「いじめとは人聞きの悪い。私はただ、あれの品の無さを咎めているだけだよ。あれ一人のせいで我々まで安く見られてはかなわないからね」
「でも、君だって人を食べるだろ?」
「食べるさ。だが、あそこまで下品ではないな。必要とあらばその衝動を抑えられるだけの自制心も持ち合わせている」
「五十歩百歩ってやつだと思うけどね」
そう言って、肩にかかった金色の髪をかきあげるソフィア。夢獄の住人との会話など、彼女にとっては慣れたものだ。
親愛の情など全く抱いていないが、嫌悪や畏怖も抱いていない。故に何の抵抗もなく、自然体のまま接することが出来る。
檻の中にいるライオンを、無邪気に観賞するように。
「ところで、そっちの渋いおじさまは? 何か可哀想なくらい青ざめちゃってるけど?」
ソフィアの隣にいる男を、巨漢が顎で指す。
惨たらしい食人の光景を目の当たりにして、村上は言葉を失っていた。その顔からは、完全に血の気が失せている。
「村上さん。海運業とかやってる人で、一応魔術師の末裔。今回君達を呼ぶために必要な肉とか人手とか機材とかを提供してくれた人」
ソフィアがそう説明すると、金髪の男は恭しく頭を垂れた。
「おお……! それはそれは、ご尽力痛み入る。主に代わり謝辞を述べさせていただこう」
大仰な仕草と口振りは、どこか芝居がかっていて、白々しい。口元に張り付いた笑みも、友好的というには些か歪であった。
「へぇ……まだいたのね、そういう親切な人。とっくに絶滅したものと思ってたわ」
鉄腕の巨漢は、そう言って含み笑うだけだった。厚い唇から零れた言葉は、言うまでもなく皮肉である。
「何と言っているのだ……? 彼らは……」
男達の言っていることが、村上には分からない。彼らが意思疎通のために使っている言語は、日本語ではないからだ。
遠い昔、南アジアの一地方で使われていた言語らしい。今ではどの国でも使われていない、古い言語だ。邪神群と称される集団は何故かそんなものを共通語にしているらしいが、残念ながら村上はそれを習得していなかった。
よって、何故か邪神群と意思疎通出来るソフィアに、通訳を頼むしかない。
「肉が全然足りないんで、街に出て百人ばかりさらってこようかって言ってますよ」
村上の顔が、目に見えてひきつった。
「あはは、ウソウソ、冗談。肉ならちゃんと足りてますよ。今は、この人誰? って訊かれたんで勝手に紹介させてもらってました」
「そ、そうか……しかし、あれは……」
困惑と疑念が入り混じった面持ちで、村上は部屋の奥に視線を投じる。
獣の食事は、未だに続いていた。
「せっかく手間暇かけて集めた肉を何勝手に食い散らかしてんだこの糞共、って村上さんが言ってるよ」
「ご心配なく。あれが奴の食欲を満たすためだけの行為なら、流石に我々も止めている」
飄々と肩を竦めて、金髪の男が言った。巨漢が、その言葉を引き継ぐ。
「さっきも言ったけど、あれって出来損ないなのよ。普通に死ねずに堕ちてきたくせに、私達みたいな存在にもなりきれなかった半端者。食べることと暴れることしか出来ない、馬鹿丸出しの野獣。本当なら処分される筈だったんだけどね……それじゃあもったいないってことで、導師様があれの胃袋に手を加えてくれたの」
薄暗い部屋の奥で、獣は人肉を食み続ける。
食べても食べても飢えは満たされないと知りながら、彼は食べずにいられない。
「あれが食した命はあれの胃袋の中で凝縮されたまま留められ、開門の際、我等の主に捧げられる仕組みになっている。つまり、一種の貯蔵庫だな。開門を滞りなく済ませるための装置と考えてくれても構わない」
「だから、食べても食べてもあれの食欲は満たされないってわけ。当然よね。胃袋の中身が全部、御主人様への捧げ物になっちゃうんだから」
悶え苦しみながら食べ続ける獣を、彼らは冷酷に傍観し続ける。その口に、酷薄な笑みさえ浮かべながら。
そんな彼らもまた、村上の目には獣に見えた。
人の心を持たない、鬼畜に見えた。
「それはそうと、一つ訊いておきたいのだが……何といったかな? そちらの御仁」
「村上さん」
「そうそう、ムラカミ氏だ。直裁な物言いになってしまうのだが、彼は我々に何をしてほしいのかな?」
値踏みするような眼差しで、金髪の男は問いかけた。それに同調するように、巨漢も口の端を吊り上げる。
「遠慮せず言ってくれていいのよ。私達のご主人様は寛大……かどうかは見方によるけど、話の分かる人だからね。よほど無茶な願いじゃなきゃ叶えてくれると思うわよ」
自分達に無償で尽くす人間がいる、などと思うほど彼らも自惚れてはいなかったらしい。この村上という男が金と労力を費やし、多大な犠牲を払ってまで開門に協力した理由を知りたがっている。
ソフィアはくすりと笑った。
それなら、今更本人に訊くまでもない。
「悪いんだけど、用があるのは君達の御主人様じゃないんだ。その上にいる人物……導師様って呼んでたっけ? それと会いたんだってさ」
二人の男が、怪訝な顔を並べた。意図を正確に伝えるため、ソフィアは言葉を付け足す。
「授けてほしい術があるんだって」
沈黙が生じた。数秒の間、男達は言葉の意味を咀嚼するように、表情を消して黙考する。
やがて彼らの口から洩れたのは、哄笑だった。
「ふっ……くく……はは、ははははははっ! なるほど、なるほど! つまり、我らの指導者と取引がしたいと……? 大導師の……太古の秘術が欲しいと……? いや結構、実に結構。実に人間的で、納得のいく理由だ。無償の奉仕などという胡散臭い真似をされるよりずっといい」
笑う。嗤う。鋭い牙を剥き出しにして、血生臭い息を吐いて、邪神の眷属は哄笑する。
それは村上の背筋を凍りつかせるほど、不吉な嗤いだった。
「宜しい、承った。大導師との面会が叶うよう、私からも口添えしておこう。まあ、秘術の授与までは確約しかねるがね」
そして二人は、視線を部屋の奥に移す。
肉を裂く音と血を啜る音は、もう止んでいた。
「食事が終わったみたいよ。そろそろ私達もお仕事しましょ」
「そうだな。何はともあれ、主に降臨していただかなくては話が進まん」
不吉な笑みを交わし、獣のいる所へと歩んでいく二人。その背を見守る村上とソフィアに、金髪の男は振り返りながら言葉を投じた。
「これより、死食開門の儀を執り行う。長丁場になる故、君らには外の警備を頼もうか。万が一邪魔など入っては、全てがご破算になってしまうからね」
この時代にやってきてから、二度目の夜。
自分用にあてがわれた部屋の中で、マリーナは寝台に横たわっていた。
入口の脇にあるスイッチとやらを押せば天井の照明が灯ることは教わっていたが、今はその明かりをつけていない。静かな暗闇に身を置いて、自分自身と向き合いたかったからだ。
窓から淡い月明かりが差し込む部屋の中、置き時計の針が進む音を聞きながら、彼女は昼間に聞かされた話を反芻する。
邪神群。
死後の世界で怪物と化した死者の軍勢。生者の魂を喰う悪鬼の集団。自分はこれから、それと戦わなければならないらしい。
「時間はあるからゆっくり考えろ、と言いてえとこなんだが……そうもいかねえみたいなんだな、これが」
七時間ほど前、加賀見は皆の前でそう言った。
「昨日の夜……いや、今日の零時か……この近くにある廃墟で、開門の跡を見つけた。またどっかの馬鹿が、邪神様御一行をこの世に招待しちまったらしい」
開門という儀式は、この辺り一帯でならどこでも行えるらしい。必要な供物を揃え、心得のある者が然るべき手順を踏んで執り行いさえすれば発現する、と加賀見は言っていた。
しかしながら、それで呼べるのは低級の邪神――邪神の眷属と称される者だけだという。数多くの眷属達を束ねる本物の邪神を呼ぶためには、より手の込んだ儀式を執り行わねばならない。
それが、死食開門の儀。
神殿と称される儀式の場を築き、多くの人間をその場で殺害し、その血肉を供物として捧げる大儀式。それが完了した時、真の邪神が現世に降臨する。
「連中にも連中なりの序列っつーか、社会みてえなもんがあってよ。下の者は上の者に死ぬ気で奉仕しなきゃいけないって感じの、割と厳格な縦社会が出来上がってんだな。で……この世にやってきた眷属共は、大抵自分達の主人を呼ぼうとする。死食開門っていう、死ぬほど傍迷惑な儀式でな」
故に、今回の件で召喚された眷属も死食開門を行おうとするに違いない――加賀見達の教団はそう睨んでいるらしい。
現在、教団の者が総出で敵の居場所を探っているとのことだった。
「うちの連中、探すことに関しちゃマジで優秀だからよ。そんなに時間かけずに連中の居所を見つけてくれると思うぜ。けど、その後のことははっきり言ってお前ら任せだ。どうにかして連中の企てを阻止してくれ、としか言えん」
ヨハン達三人にそう言ってから、加賀見はマリーナと目を合わせた。
「つーわけで、だ……マリーナちゃん。悪いんだがよ、二、三日中に答え出してくれや。俺らと……いや、こいつらと一緒に邪神と戦ってくれるかどうかってことについてさ」
そんな無茶なことを言われてから、七時間が経過した。暗闇の中に身を置くマリーナは、まだ気持ちの整理さえ出来ていない。
こうして昼間のことを思い返す度、溜息ばかりが出てくる。
まるで選択肢を提示されたかのようだったが、その実、邪神と戦えと強要されていることは明らかだ。拒否が許されるとはとても思えない。脅迫紛いの真似をされて、無理矢理戦場に連れていかれそうな気がする。それとも、役立たずはいらないということで処分されてしまうのだろうか。
冗談じゃない、というのが正直な思いだ。あまり汚い言葉を使いたくないが、こうまで理不尽な状況に置かれると、流石に文句の一つくらい言いたくなってくる。
だって、そんな戦いはしたくない。自分は一度死んだ身だが、一度死ぬのも二度死ぬのも同じというほど達観しているわけでもない。死ぬのは嫌だし、痛い思いをするのも嫌だ。人を喰う怪物と命懸けで戦うなんて、想像するだけで身震いする。
邪神のふりをした加賀見に襲われた時も、涙が出るくらい怖かった。あんな思いはもう二度としたくないのに、あんな思いを何度も味わわなければ、自分は生きていけないらしい。
けれど、その一方で思うのだ。自分の中にいる冷静な自分が、糾弾するように言い放ってくる。
あなたの力は、そのためのものでしょう――と。
「……っ」
反論したくても、出来ない。確かにその通りなのだ。
自分は、邪神と戦うための戦士。教団とやらの構成員と同じ、邪神を討つ業の継承者。少なくとも、かつての自分はそうだった。
邪神のふりをした加賀見に襲われた時、洪水のような勢いで記憶の一部が蘇った。その後に邪神の話を聞いて、過去に得た知識の一部も蘇ってきた。今ではもう、かなり鮮明に思い出せる。
加賀見達が邪神と呼ぶ存在は、自分の時代にもいた。不可解で神出鬼没なその存在を、当時の人々はテオと呼んでいた。複雑な概念を表す語であり、翻訳は困難であるが、あえて訳すなら「神秘の力」といった所だろうか。
自分が受け継いだ力――黄金操術は、そのテオを討つためのもの。遥かな古代から連綿と受け継がれてきた、破邪の秘法だ。
比較的裕福な家に生まれた自分は、子供時代、王国の都に留学していた。その折に魔道の資質を見出され、秘法の継承者に選ばれた。そして結果的に、最後の継承者となった。
その辺りの経緯は思い出せる。まだ少し茫洋としていて、夢を見ているような感覚を覚えなくもないが、それでも確かにあったことなのだと理解出来る。
けれど、それだけだ。思い出せたからといって、邪神と戦う決意が固まるわけでもない。
そもそも、よく分からないのだ。当時の自分が何を考えて、秘法の継承者となる道を選んだのか。何を考えながら、人ならざるものを討つ術を学んだのか。自分自身に問いかけても、答えは全く返ってこない。
何もかもが他人事のようだ。自分という存在が遠い。理解も共感も出来ない。
けれど確かに、この身は邪神を討つという使命を背負っていて――
そんなものは、遠い過去の話でしかなくて――
かつての自分は、この力を身に付けるために努力を重ねて――
今の自分は、邪神と戦うことを怖れていて――
思考が錯綜する。真逆の意見、どこまで行っても平行線な感情が、互いに否定し合っている。頭蓋の中で、二人の自分が不毛な論争を続けているかのようだ。
天秤は、逃げ腰な自分の方に傾いている。だが使命を果たせと主張する自分が、不利な形勢の中で必死に踏ん張り続けている。
「……消えればいいのに」
思ったことが、口をついて溢れ出た。
臆病な自分も、勇敢な自分も、どちらも綺麗さっぱり消え失せて、何も考えられなくなったなら、どんなに楽だろうか。
苦しむことなくこの世から消えることが出来たなら、それはどんなに幸せだろうか。
死んだままにしてくれればよかったのに、とさえ思う。あの連中の妙な術で生き返りさえしなければ、こんな風に悩まなくて済んだ。
痛みも苦しみも感じないまま、永遠に眠っていられたのに。
「何で、生き返らせたのよ……」
心に圧し掛かる重みに耐えきれず、そう洩らした時だった。
部屋のドアを叩く軽い音が、耳に届く。
「マリーナさん、いますか?」
柔らかくて、落ち着いた声。彩花の声だ。
「あ、は……はい!」
マリーナは慌てて起き上がり、部屋の電灯をつけてからドアを開ける。細い目をした優しげな顔が、間近にあった。
「さっき大分思いつめた様子でしたので、心配になったのですけれど……」
「え……あ……だ、大丈夫です……」
反応に困り、しどろもどろな返答をしてしまう。今まさに泣きそうなくらい悩んでいたのだが、それを口に出すのは躊躇われた。
「そうですか、なら……」
人差し指を顎に当て、藤堂彩花はいつものように微笑んだ。
「ちょっと来てもらえますか? 見せたいものがあるんです」