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踊る死者と夢見る黄金  作者: 堤明文
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第二話「黒き魔人と輝く黄金」



 小鳥達の唄うようなさえずりが、朝の到来を告げる。

 東の空から昇った太陽が、白い教会の三角屋根を照らしていく。

 御門ヶ原福音教会牧師館の一階。風呂場の隣の洗面所。起床したばかりのマリーナは、蛇口から出る水で顔を洗っていた。

 蛇口をひねると水が出ることは、昨日の内に巴から教えてもらっていた。シャワーの浴び方やトイレの流し方も同様だ。

「マリさんはこっちに来たばかりで、お風呂の使い方とかわからないでしょう? 私が一緒に入って色々教えてあげます!」

などと巴が言い出した時は、本気でどうしようかと思ったが――

「一緒に入らなくても、シャワーの出し方と温度調節さえ教えてあげれば大丈夫ですよ。子供じゃないんですから」

 と、彩花が助け舟を出してくれたおかげで事なきを得た。というより、あそこで助けてもらわなかったら危なかった気がする。色々な意味で。

 そして寝る場所として、この教会で目覚めた時にいた部屋を与えられた。個室など貰ってしまっていいのだろうかと思ったが、巴達も同じように部屋を貰って暮らしているのだから気にしなくていいとのことだった。それに元々、部屋が余っていたらしい。

 というわけで部屋を貰い、ついでに寝間着や櫛や歯ブラシも貰って、見知らぬ土地の教会で一夜を明かした。

 そして現在――二日目の朝。午前六時半に目を覚ましたマリーナは、洗面所で鏡と向き合っていた。

 鏡に映る、自分の顔。

 長い栗色の髪をした、あどけない顔立ちの少女が、そこにいる。

 紛うことなき自分の顔だ。これは鏡で、姿を映すもので、ここには自分しかいないのだから、映っているのは自分の顔に違いない。

 わかっている。そんな当たり前のことは、わざわざ説明されなくてもわかる。

わかるのだが――

「何か……変」

 妙な違和感を、覚えずにいられなかった。

 何かしっくりこない。何か違う気がするのだ。しかし、具体的に何がどう違うのかわからない。ただ、名状しがたい違和感だけを覚える。

 どういうことなのか、これは。

 この顔のどこに、自分は違和感を覚えているというのか。

 いやそもそも、自分はここで目覚める以前のことをろくに憶えていない。自分がどんな顔をしていたのかも、きちんと憶えていないのだ。

「うーん……」

 鏡の前で首を捻っていると、ふいに、誰かの足音が耳に届いた。

 首を回して、右手の方を見る。板張りの廊下を踏みしめてやってきたのは、小柄な少年だった。

「あ……」

 目が合って、声が洩れる。

「……シュラさん」

 昨日出会った人間の一人。皆からシュラと呼ばれている少年。コーサラの生まれと語った、褐色の少年。

 彼は昨日と同じ仏頂面のまま、唇を微かに動かした。

「……洗面台」

「え?」

「使ってもいいか?」

「あ、はい……すみません」

 要するに、使わないならどけということだろう。マリーナはあわてて身を引き、洗面台をシュラに譲った。

 ばしゃばしゃと、蛇口から出る水で顔を洗う少年。その様を、マリーナは後ろから何となく見つめてしまっていた。

 昨日、あの部屋で目覚めてから夜に就寝するまでの間に、巴やヨハン、彩花とは何度も言葉を交わした。あの三人は優しくて、親切で、何も知らない自分に様々なことを教えてくれた。

 しかしこの少年とは、まだ会話らしい会話をしていない。

 話しかける機会が無かったし、話しかけづらい相手でもあった。少し気弱なところのあるマリーナにとって、顔も口調も険しい少年は苦手な部類の相手である。

 嫌い、とまでは言わないが。

「何か……気になってることでもあんのか?」

「え……」

「さっき、首傾げてただろ?」

 見られていたらしい。マリーナは何となく気まずいものを感じて、とっさに首と手を振った。

「あ、いえ……何でもないです」

「そうか……」

 応じる言葉は小さく、短い。こちらに関心を持っているのかいないのか、よくわからない態度だ。

 濡れた顔を白いタオルで拭きながら、彼はまた淡々と言った。

「彩花の奴が、台所で朝飯の支度してるぞ。暇なら手伝ってやれ」

「……は、はい」

 反射的に頷いて、マリーナは逃げるようにその場を離れた。

 やはり、あの人は苦手だ。基本的にぶっきらぼうだし、目つきも怖い。何を考えているのかも今一つ分からないから、話の調子も合わせづらい。

 とはいえ話をしてみたら、それほど怖い感じはしなかった。もしかしたら、見た目ほど乱暴な人ではないのかもしれない。

 そんなことを考えながら、マリーナは彩花のいる台所に向かっていった。





 皆と一緒に朝食を食べ、彩花に教わりながら洗い物を手伝い、身仕度を整えた後、マリーナはヨハン達とともに牧師館の玄関をくぐった。

 ここに来てから、初めての外出である。

緊張と不安、そして少しばかりの好奇心が入り混じった面持ちで、彼女は見知らぬ土地を歩んでいく。

 夏を目前にした七月初旬の太陽は、既に天頂の近くまで昇っている。その眩い日差しが、晴れ渡る空を澄んだ水色に、生い茂る山の木々を鮮やかな緑色に染めていた。

 御門ヶ原福音教会は伏鉢型をした小高い山の中腹に建っていて、市街地に出るにはアスファルトで舗装された長い坂道を下っていく必要がある。鬱蒼とした雑木林に挟まれた、人も車もほとんど通らない道だ。

 その道中で、マリーナは今朝抱いた疑問を打ち明けていた。

「歳?」

 巴とヨハンが、揃って目を丸くする。マリーナは自信の無さそうな上目遣いで二人を見つつ、おそるおそる言葉を続けた。

「ええ……今朝、鏡を見ていて思ったんです。何か、変だなぁって……それで、考えてみたんですけど……」

 何が変なのか。以前と何が違うのか。

 不鮮明な記憶を辿りながら考えた末に、結論らしきものが出た。

「歳が、違うんじゃないかなって……わたし、ここに来る前はもっと年齢が上だったような……」

 普通なら、ありえないことだ。年齢とは時間の経過とともに上がっていくもので、決して下がったりはしない。

 しかしそれを言うならば、自分のような死者が蘇っている時点で充分にありえないのだ。そんな不可思議なことが現実に起こっている以上、歳が若くなるということもあるのかもしれない。

 マリーナは、そんな風に思っていた。二人には正気を疑われるのではないかと、若干不安に思ってはいたが。

「あー……そりゃあるかも……いや、きっとそうだな。昨日夫と子供がいたとか言ってたし、うん……ここに来る前より年齢下がってるよ、マリーナは」

 思いのほか簡単に、ヨハンは納得してくれた。

「実を言うと、俺らもここに来る前より若返ってる。俺なんか、ここに来る前は六十二のじいさんだった」

「ろ、六十二!」

 マリーナの声が上ずった。

 このヨハンという男の容貌は、どう見ても二十歳かそこら。それが六十二歳などと言われると、やはり驚かざるを得ない。

「いやマジで……昨日も言ったけどさ、ここに来た時はほんと驚いた。死んだと思ったら生きてるし、体は若い頃に戻ってるし……彩花さんに訊いても、そういう仕様ですとしか答えねえしよ……」

「六十二歳のわりには貫禄ないですね。ヨハンおじいちゃんは」

 巴にそう言われ、ヨハンは若干むっとする。

「うっさいな、お前にだけは言われたくないわ。だいだいお前なんぞ俺より長生きしたババ……」

 みなまで言う前に、巴の肘がヨハンの鳩尾にめりこんだ。

「あらあら、女の子の歳について言及するなんて、紳士じゃないですよヨハンさん。ぶっちゃけ男としてサイテーです」

 朗らかに笑いながら、悶絶するヨハンの頭をぐりぐりと踏む。マリーナが思わず三歩ほど引いてしまうような光景だった。

「マリさんマリさん、私は別にマリさんの実年齢がいくつでも全然オーケーですよ。だって今の見た目は十代の女の子なんですもの。ぶっちゃけ可愛ければ何でもいいです!」

 それはそれでどうなんだろう――と思いつつも、抱きついてくる巴をはねのけられないマリーナだった。

「あ、あのー……実はもう一つ、気になってることがあるんですけど……」

「んー? 何です?」

「わたし達って、この……不思議な言葉で、会話できてますよね……? これって……」

自分達の共通言語。ここに来るまで使った憶えも習った憶えもないのに、自然と口から出てくる言葉。

何故こんな言葉が話せるのか、不思議でならない。

「こ、これは……ごふっ……この国の……ぐほっ……言葉、で……に、にほ……」

 どうにか起き上がったヨハンが、途切れ途切れの声で説明しようとした。無理に喋らなくていいから安静にしていてほしいと、マリーナは思う。

「日本語です。ジャパニーズです。我が祖国日本の言葉で、日本でしか通じないマイナー言語です。言いたいことをはっきり言わないことに定評があるダメ語ですね」

 巴の説明は物凄くわかり辛かったが、今自分達が住んでいる所の言語だということはマリーナにも分かった。というより、それしか分からなかった。

「習った憶え、ないような気がするんですけど……」

「なんか生き返らせられる時、頭ん中いじくられたみたいです。私達全員、現代日本語の会話と読み書きが出来るようになってます」

「はぁ……ふぅ……い、意思疎通ができねえと話にならねえから、植え付けたんだってさ……便利っちゃ便利だけど、確かに妙な感じはするな……」

 巴の言葉を、ヨハンが引き継ぐ。マリーナは反応に困り、何とも言い難い表情で小首を傾げた。

「植え付けたって……」

「脳味噌を直接弄られたのか妖術みたいなもんでもかけられたのか……俺らも正確なことはわからんのよ。そもそも、どういう方法で俺らを蘇らせたのかもよくわかってねえし……訊いても何か適当にはぐらかしやがるし……」

「いいじゃないですか、こうして話せてるんだから。理屈なんてさっぱりですし、ぶっちゃけどうでもいいです。そもそも、詳しく説明してもらったって私達が理解できるような話じゃないですよ、きっと」

「……ま、そうだろうけどな。現代文明は謎ばかりだ。俺らみたいなのにはわからんことが多過ぎる」

 巴の大雑把な意見に、ヨハンも一応の同意を示す。考えても仕方のないことは考えない、というのがこの二人の姿勢らしい。

 そこまで大雑把にはなりきれないマリーナだったが、これ以上理屈について訊くのはやめておいた。

 代わりに、より実際的なことを問う。

「えっと……じゃあ、街の人達と会話できたりも……」

「出来ます出来ます。お店の看板とか、並んでいる品物の値札だって読めます」

「読めることは読めるんだけどさ、この国の言葉って面倒だよな? 文字の種類はやたら多いし、いちいち読み方は変わるし……意味わからん」

「文字が増えたのは最近です。私の時代はあんなごちゃごちゃしてませんでしたよ」

「お前読み書きできたの? 昔」

「失礼なおじいちゃんですね。今風に言うと才色兼備のキャリアウーマンでしたよ、私は」

「よくわからんが嘘臭えな……あとお前がテキトーに使う外来語は時々マジでわからん」

 そんな調子で言葉を交わしながら、三人は坂道を下っていく。

 生まれた国も、時代も、人種さえも違う三人が、同じ言葉で喋りながら歩いていく。

 そんな自分達を客観的に見つめて、マリーナは何とも言い難い思いを抱いた。

「何だか、不思議な感じですよね」

 感慨に浸るような面持ちで、呟く。

「体が若くなって、知らない言葉も話せるようになって……それで、こんな見知らぬ土地にいて……」

 本当に、不思議なことだらけだ。

 未だに現実感が希薄だし、戸惑いも残っている。これは本当に現実なのかと疑っているくらいだ。

 しかし、どうか夢であってくれと願うほど悲観的になってもいない。むしろこの不思議な状況を、少しだけ楽しいと思っている自分がいた。

「わたし達……その……何のために、ここにいるんでしょうか……?」

 ふと、口をついて出た問い。

 それが二人の耳に届いた瞬間、空気が一変した。

 口元から笑みを消し、目を細める巴。眉間に皺を寄せ、苦い顔をするヨハン。二人とも、今まで軽口を叩き合っていたのが嘘のような変わりようだった。

 重苦しい沈黙が、数秒間続く。

 やがてヨハンが、どうにか絞り出したような声で答えた。

「その辺は、まあ……後で話すよ」





 坂道を下り終え、閑静な住宅地を抜けた先には、駅前の商業地が広がっていた。

 三角屋根の古い駅舎の前に小ぢんまりしたロータリーがあり、その周辺にスーパー、銀行、ホテル、学習塾、オフィスビルなどが整然と立ち並んでいる。

 御門ヶ原市の中では最も栄えた区域であり、交通量も多い。その街並みと自動車や路線バスがひっきりなしに行き交う様を見て、マリーナは呆然となった。

「わ……」

 自然と感嘆の声が洩れる。現代の世の中を知らない彼女にとって、その光景は魔法の世界と変わらない。

「すごい……」

 鉄筋コンクリート造の建造物群。大地を覆うアスファルト。大小様々な乗り物。林立する電柱、街灯、信号機の類。

 いずれも、彼女が生まれた時代には無かったものだ。

 本当に、自分は遠い未来の遠い国に来てしまったのだと、改めて実感せざるをえなかった。

「ね、すごいでしょ? ちょっと死んでる間に頭おかしいんじゃないのってくらい文明発達しちゃいましたよね。巴もびっくりです」

 同意を求めてくる巴に、マリーナは呆気にとられた顔のまま首肯を返した。

「大きな街……なんですね……」

 もっと他に言うべきことがあると思う。けれど言葉が見つからない。目に映る物の全てが新鮮で、不思議で、何をどう表現したらいいものか分からなかった。

「これでも田舎の方らしい。ま……俺達もここ以外行ったことないんで、他がどうなってるのかよく知らないけどさ」

 とヨハンが言うと、巴が即座に問題発言を返した。

「私は行ったことありますよ。新宿のビル群とかすごい高さでした。ずっと見てたら首痛くなっちゃいましたね」

「いつの間に行ってたんだよ、お前……つーか何の用があってそこ行ったんだよ」

「買い物に」

 悪びれもせず言う巴に、ヨハンは実に微妙な表情で応じるしかなかった。

 自分が思っていた以上に自分達の経済状況は悪化しているのかもしれないと、わりと本気で危機感を覚える。

「まあいいや……いやよくねえが、今はいい……とりあえずどうする?」

「服屋、服屋、服売ってるとこ行きましょう! まずマリさんを可愛くコーディネートしなきゃ駄目です!」

 今マリーナが着ている服は、彩花から借りたものだ。

 飾り気のないシャツにジーンズという組み合わせで、お世辞にもお洒落とは言い難い。より正確に言うと、野暮ったい。サイズも微妙に合っていない。

「わたしは別に……これでもいいですよ? そんなに変だと思いませんし……」

 人に服を買ってもらうことに気が引けて、マリーナは遠慮しようとする。

 しかし、同じ女である巴がそれを許さなかった。

「もー、駄目ですよマリさん、遠慮しちゃ。女は着飾ってなんぼです。むしろ着飾るのが特権です。遠慮なんてのはむさい野郎共がしてればいいんです」

「でも……」

「でもじゃないです。別にお金の心配とかしなくていいんですよ。彩花さんだってマリさんにいい服買ってあげなさいって言ってましたし。ねえヨハンさん?」

「あ、うん……まあ、心配しなくて大丈夫だよ。俺らの着てる物だって金払って買ったものだし」

 調子に乗って何着も買うなよと巴に言いたいヨハンだったが、あえてその言葉を呑み込んだ。

 そんなことを言ったら、マリーナはますます遠慮してしまうだろう。大人しくて素直な子だ。彩花達にあまり迷惑をかけてはいけないと思っているに違いない。

 そういう善良な人間に対して、彼は基本的に優しかった。巴のような輩に対しては、決して優しくしない主義だったが。

「……ん」

 女二人のすぐ後ろを歩いていた彼は、交差点の横断歩道を渡り終えたところであるものに気付いた。

 何のことはない。ただ少し離れたところで、作業服を着た男達が道路工事をしているだけだ。ありふれた光景であり、何の変哲もない光景である。

 だが、彼の着眼点は極めて特殊だった。

「あれは……あの作業員の、あの動き……」

 立ち止まり、視線を投げる。刃のように鋭く尖った眼で、作業員の一挙手一投足を凝視する。

「そうか、ああして腰を落とすことで体への負担を減らして……さらに両足を開くことでより安定感を高めている……なるほど、あれを応用すれば足場の悪い場所でも……いや待て、あの体勢だと左右の動きに対応できない……だからつまり、安定性と機動性を両立させる必要があって……そのためにはもう少し上体を……こんな感じか? いや、こうだな……」

 ぶつぶつと独り言を呟きながら、くねくねと妙な動きを繰り返す不審者が一人。しかも顔だけは真剣なので始末が悪い。

「あのー……ヨハンさんは何やってるんですか?」

「あー、あの人時々魂どっか飛んでっちゃうんです。まー馬鹿は放っといて先行きましょう」

 不思議そうに目を丸くするマリーナの背中を、巴がぐいぐいと押していった。





 そうして三人が足を運んだのは、駅前に建つショッピングモールの二階――婦人服と服飾雑貨の売場だった。

 店内の広さや過剰なまでの明るさ、色とりどりの輝きを見せる貴金属やうず高く積まれた衣類の数々はマリーナを驚かせたが、彼女には暢気に辺りを見回している暇もなかった。

「わあっ、可愛い! すっごい可愛いです! 似合う似合う!」

 売場に入るやいなや試着室に放り込まれ、巴が次から次へと持ってくる服を着させられる羽目になったからだ。

 忙しい。落ち着かない。もうちょっとゆっくりさせてほしい。あと、恥ずかしいからあまり騒がないでほしい。

 と、心底から思う。切実に思う。けれど残念ながら、彼女はそういう本音を口に出せない性分なのだった。相手に悪気がないならなおさらだ。

「やっぱり可愛い子は何着ても似合いますね!」

「そ、そうですか……?」

 そんなやりとりを、もう六回くらい繰り返している。

 服の良し悪しなどわからないし、自分に似合っているのかどうかもよくわからないが、とりあえず巴は楽しそうだった。凄まじいまでのはしゃぎぶりだ。相手をしているこちらの方が気恥かしくなってしまう。

「んー……でも、もうちょっと大人しめの方がマリさん向きかも……じゃあ次はこれ! これ着て下さい!」

「そ、そういうのはちょっと……」

「いいからいいからっ」

 着せ替え人形などというものを、マリーナは知らない。しかし現在の彼女は、限りなくそれに近い扱われ方をしていた。本人の意向というものが無いものとして扱われているあたりも、人形に酷似していると言える。

 売場の外では、ヨハンが直立不動の姿勢で待機していた。傍から見ても暇そうだ。あまり待たせては悪いと思うのだが、彼の身を案じているのは自分だけのようだ。巴の服選びはまだまだ終わる気配を見せない。

 まあ自分のためにやってくれていることだし仕方ないか、と心の中で溜息をつき、巴が差し出してきた派手な色合いのワンピースを手に取った。

 刺すような視線を感じたのは、その時だ。

 視界の隅に映る、黒い何か。いや、誰か。売場の端を通り過ぎていくそれが、こちらに視線を向けている。

そんな気がした時にはもう、それは視界から消えていた。まるで、最初から存在しなかったかのように。

「ん? どうしたんです?」

「いえ……その……何でもないです」

 気のせいだと思い直し、マリーナは試着室のカーテンを閉めた。





 藤堂彩花は、自他共に認める似非牧師だ。

 神学校を出てはいないし、現場で経験を積んでもいない。ヘブライ語もギリシャ語も教会音楽も知らない。元々は信徒でさえなく、ほんの半年前までキリスト教などとは無縁の暮らしをしていた身だった。

 教団から与えられた牧師という身分は、世間の目を欺くためのものに過ぎない。彼女の実態は、禁術によって蘇らせた死者達の世話役兼監視役である。

 それでも一応、牧師の真似事くらいはするようにと命じられている。日曜礼拝での説教、祈祷会の準備、信徒宅の訪問等、やるべきことはそれなりに多い。現在は牧師館の執務室でパソコンデスクに向かいながら、教会に寄せられるメールのチェックや書類の作成等の事務仕事に勤しんでいた。

 そこに、作業着姿のシュラがやってくる。

「芋植えるのは終わったぞ。次は何すりゃいい?」

 同居人達が街に出かけている今日も、彼は昨日と同じく畑仕事に精を出していた。

 本人曰く、その方が遊び歩くより性に合っているらしい。

「御苦労様です。じゃあとりあえずお昼にしちゃって下さい。冷蔵庫に鮭が入ってますから。その後は……そうですね、礼拝堂のお掃除をお願いしてもいいですか?」

「わかった。飯食ったらやっとく」

 いつもの仏頂面のまま、素直に頷くシュラ。その様を見て、彩花はつい笑ってしまう。

 この毒舌で愛想の欠片もないインド人は、実のところ真面目で勤勉なのだ。家事も畑仕事もその他の雑用も、大抵は嫌な顔一つせず引き受けてくれる。意外と几帳面な面もあり、やることなすことが妙に丁寧だったりもする。

 そういうギャップが結構微笑ましいと、彩花は密かに思っていた。

「ごめんなさいね。いろんな雑用押し付けちゃって」

「どっかの馬鹿がサボる口実見つけて出かけやがったからな……まあいい、どうせ暇だ。雑用くらいならいくらでもやってやる」

「シュラさんも一緒に出かけてくれてよかったんですよ? マリーナさんだって、シュラさんと仲良くなりたいと思ってるみたいですし」

「ありゃ俺を怖がってるだけだ」

 憮然とした顔で言い捨てて、シュラは部屋から出て行こうとする。しかしドアノブに手をかけたところで、その足が止まった。

「マリーナ、か……」

 何か、思うところがあるような呟き。

「どうしたんです?」

「確か、西洋人の名前だろ? マリーナって」

「ええ。フランスとかロシアとか……あと、スペインとかに多い名前ですね」

「その割には、あいつ……」

 マリーナと名乗る少女の顔を思い浮かべて、古代のインドから来た少年は目を細めた。

「西洋人ってツラには、見えなかったけどな」





 半袖の白いブラウス。チェック柄のスカート。クロスベルトの厚底サンダル。ショッピングモールでの買い物を終えた後、マリーナの装いはそんな組み合わせに変わっていた。

「どうです? 可愛くなったでしょう?」

「お、おう。まあ……いいと、思うぞ……」

 得意げにコーディネート後のマリーナを見せつけてくる巴に、ヨハンは反応に困りながらもそう答えた。

 現代の服の良し悪しなど彼にはわからないが、それでも綺麗になったとは思う。大分垢抜けて、より現代の少女に近付いたような印象だった。

 それにマリーナは、元々見目が良い。すらりとした細い体をしていて、顔立ちも柔和で愛らしい。着飾って往来を歩けば、人目を引いても何らおかしくない容貌だ。ヨハンも正直なところ、若干目のやり場に困っていた。

 ちなみに、他にも何点かの服や下着を購入したため結構な大荷物になった。それを運ぶ役として当然の如く抜擢されたのが、神聖ローマ出身のヨハンネス氏六十二歳である。男の宿命であった。

 その後、適当に街をぶらぶらと歩いた三人は、高台にある公園で昼食をとることにした。

「何でお昼が公園なんですか? ファミレスとか行きましょうよー」

 と巴は言ったものの、

「いいじゃん公園。綺麗だし。心安らぐだろ?」

 これ以上の出費を恐れたヨハンの強硬な主張により、結局公園に落ち着いた。

 そこは芝生の広場やテニスコートもある広い公園だ。梅や桜の木も数多く植え込まれていて、花見の名所としても知られている。池のほとりの東屋に腰を下ろした三人は、道中で買ったパンやおにぎりを食べ始めた。

 色々と文句を言った巴と違って、マリーナに不満は無い。元々賑やかな所よりも静かな所を好む性分だし、緑豊かな公園は素直に綺麗だと思える。街を一望出来る見晴らしの良さも気に入った。

 だから場所に不満は無い。無いのだが、それとは別のところで問題が発生していた。

「マリーナ、どうかした?」

 マリーナの挙動不審に気付いたヨハンが、怪訝な顔で問う。マリーナは目を逸らしながら、もじもじと膝をすり合わせた。

「えっと……あの……」

 言いにくい。けれど言わなければならない。

「よ、用を足すところとかって、どこかにあったりしませんか……?」

「……あ」

 言われて、ヨハンは挙動不審の理由を悟った。

「……トイレならあそこにあるよ。ほら、あの灰色のやつ。入口に赤い印が付いてる方が女性用だから」

 そう説明されると、マリーナは足早にトイレへと向かっていった。

その様を見届けてから、ヨハンは微妙な面持ちで頬を掻く。現代のことを丁寧に教えていたつもりだったが、わりと肝心なことを言い忘れていたな――と、彼は自らの不明を恥じるのだった。

 そんな彼に、巴が語りかける。

「それで、いつになったら話すつもりですか? あのことを」

 今までとは別人のように、静かな声音。怜悧な視線。

 稀にしか見られないその顔を見て、ヨハンは彼女の言わんとしていることを理解した。

 少しばかり気まずい思いをしながら、小さく溜息をつく。

「俺にやらせる気満々かよ……」

「私、マリさんに辛気臭い話はしたくありません。そういうのはヨハンさんがやって下さい」

「俺だってやだよ……まあ、いつかは話さなきゃいけないけどさ」

 そう思ってはいても、やはり言いづらい。

 言っても信じてもらえないのではないか、という懸念もある。元々、荒唐無稽な話だ。出来の悪い冗談と受け取られてもおかしくない。

 だが本当に心配なのは、その逆。彼女が、自分の置かれている状況を正しく理解してしまった後の反応だ。

 彼女は何を思うだろうか。どんな顔をするだろうか。想像すればするほど、言い出しづらくなってしまう。

「なあ……あの子、何かやってたように見えるか?」

「何かって何です?」

「剣術とか組手術とか……そういうのだよ」

「そういう風には見えませんね」

「……だよな」

 武術の類を修めている者は、日常の所作からして常人とは違う。

 足運び、背筋の伸び、視線の移動、他者との距離の取り方――そういった諸々に、修練の成果が滲み出てしまうものだ。

 ヨハンや巴も然り。いかにふざけた言動をとり、じゃれあっていようとも、彼らの本質は武芸者だ。心身ともに弛んではいないし、警戒を怠ってもいない。いつどこで危険に遭遇しようとも、即座に対処できる体勢を維持している。

 しかし、マリーナは違った。昨日あの部屋で目覚めてから現在に至るまで、彼女は常に隙だらけだった。

 ヨハン達がその気なら、容易く命を奪えてしまうほどに。

「加賀見達も何のつもりで蘇らせたんだか……あんな、普通の子を……」

 困り果てた顔でぼやくヨハンに、巴は咎めるような眼差しを向けた。

「お前は足手まといだからいらない的なことをマリさんに言ったら、半殺しじゃ済ましませんよ?」

「言わねえよ、そんなこと。だいたい、女の子をあてにする時点で間違ってる。俺はそこまで腑抜けちゃいねえ」

 きっぱりと、断言する。

 彼は中世の騎士だ。騎士道を奉じ、常に騎士であろうとする男だ。弱者をいたわる心と、武人としての誇りを持っている。

 いかに困難に直面しているとはいえ、他人に――ましてや女子供に頼るつもりなど毛頭ない。

「だが……まあ、あれだ……」

 言い辛そうに目を伏せて、騎士は静かに呟いた。

「あの子自身が、耐えられるかって話だよ……」





 トイレで用足しを終えたマリーナは、手を洗いながら考えていた。

 ヨハン達が、意図的に隠している事柄について。

 やはり、おかしい。何でも親切に教えてくれる彼らが、未だに教えてくれないことがある。

 何故自分達はここにいるのか、ということだ。

 自分達が大昔に死んだ人間だということは、とりあえず信じるとしよう。ぼんやりとだが死に際の記憶はあるし、今日この目で見た御門ヶ原という街は、まるで異世界のようだった。ここは自分が生きていた時代よりずっと後の、どこか遠い国なのだと、否応なしに実感できた。

 ヨハンや巴も、嘘をついているようには見えない。出会ってから一日も経っていないが、彼らの人柄は何となくわかったつもりだ。あの優しさや明るさが演技とは思えないし、思いたくもない。

 自分は死人。彼らも死人。それはいい。信じるとする。

 しかしながら、何故、どんな因果で、どういう理由で、死人の自分達がこの世に呼び戻されたというのか。

 まさか、今の世は自分達のような連中で溢れ返っているわけでもないだろう。家畜を飼うような感覚で死人を蘇らせたわけでもないだろう。

 自分達は特別な存在の筈だ。何らかの特殊な事情があって、この時代のこの場所に集められた筈なのだ。自分はまだ、それを聞いていない。

「何か、言いにくいことなのかな……?」

 坂道で尋ねてみた時は、後で話すといってはぐらかされてしまった。あの時の二人は、本当に、言いたくなさそうな顔をしていたと思う。察しがいいとは言い難い自分でも、そのくらいのことはわかる。

 きっと、何かよからぬ事情があるのだろう。とても笑い事には出来ないほど深刻で、出来れば口にも出したくないような、重い事情が。

「訊いてみよう……うん、絶対訊く」

 何にしても、訊いてみないことには始まらない。自分がここで、この時代で、何をすればいいのか分からない。

 二人のいるところに戻ったら、もう一度尋ねてみよう。そして、今度こそちゃんと答えてもらおう。

 そう決意して、マリーナは顔を上げた。

「――っ!」

 息を呑んで、目を見開く。驚きのあまり、心臓が止まりかけた。

 洗面台の鏡に、男が映っていた。いつの間にか、手を洗っていた彼女の背後に、見知らぬ男が立っていたのだ。

 そして反射的に振り向こうとした時、男の大きな手が伸びた。背後から口を塞がれ、悲鳴を上げることも出来なくなる。

 しかしどの道、彼女は悲鳴を上げることが出来なかっただろう。あまりに急激すぎる状況の変化に、彼女の理解は追いついていけなかったから。

 視界が、黒く染まる。意識を失ったわけではない。異様に黒い何かが、彼女の目の前を覆ったのだ。それは固形物とは違う、濃密な霞のようなもの。光を遮断する漆黒の霞が、蛇のように絡み付いてくる。

 次いで、浮遊感。踏みしめていた床が消え失せて、宙に浮いたような感覚を味わう。そして最後に襲ってきたのは、鉄砲水に押し流されるような感覚だった。視界を覆った黒い霞が、今度は黒い奔流と化して、彼女の華奢な体を押し流す。

 声も出ない。頭も全く働かない。何一つ理解出来ないまま、マリーナは男の生んだ黒い奔流に呑まれていった。





「マリさん、遅いですね……」

 公園の敷地に立つ時計塔を見ながら、巴が呟いた。マリーナがトイレに行ってから、既に十分以上経過している。用足しにしては長い時間といえるだろう。

「確かに、遅い……」

 呟いて、ヨハンははっとした。

「まさか……!」

 最悪の想像が、脳裏をよぎる。

 ありえなくはないことだ。自分達が置かれた状況を考えるなら、ありえたとしてもおかしくないことだ。

「巴、ちょっと様子を見てきてくれ」

「様子を見にって……敵が、襲ってきたとでもいうんですか?」

「ありえなくはないだろ……? 今まで奴らの方から来ることはなかったが……今後もないとは言い切れない」

 彼らは一種の狩人であり、襲う側の人間だった。

 だが、狩る者と狩られる者の逆転など、決して珍しい話ではない。

 そのことを悟り、巴もまた、表情を引き締めた。

「……行ってみましょう」





 それはマリーナの体感時間にして、十秒にも満たない間の出来事だった。

 公園のトイレで男に口を塞がれ、黒い奔流に押し流され、何も見えないまま急激な上昇と落下の感覚を味わい、その数秒後に、強い衝撃が全身を襲った。

 呻き声が、喉の奥から迸る。

「あ……つうっ……!」

 高所から突き落とされたような感覚だった。事実、その通りなのかもしれない。気付いた時、彼女は柔らかい土の上でうつ伏せになっていた。

 黒い奔流は既に消えている。痛みに喘ぎつつ顔を上げたマリーナは、周辺に立ち並ぶ木々を見て愕然となった。

 さっきまでいた公園ではない。下は雑草の生い茂る斜面で、前後左右は果実を実らせた背の低い木々の群れ。

 どこかの林――いや果樹園と思しき場所が、自分の現在地となっている。

「ここは……?」

「ただの蜜柑畑だよ。蜜柑ってわかる? この国のお百姓さんが作ってる黄色い果物。収穫の時期じゃねーからまだ青いけど」

 自然と洩れた問いに、答えが返ってきた。マリーナは土で汚れた髪を振り乱して、声のした方に視線を向ける。

 そこにいたのは、一人の男。

 自分をここまで連れてきた、あの見知らぬ男だった。

「よう、はじめまして」

 男は、口の端を微かに吊り上げる。

 黒い装いに身を包んだ男だった。着古した黒いスーツに、黒いシャツ。そしてメタルフレームの角張ったサングラスで目元を覆い隠している。

 年齢は、三十代くらいだろうか。少なくとも、ヨハンや巴よりは年上に見える。

 ひどく痩せた体をしている割に、背が高い。長身痩躯と表現するにふさわしい容貌だ。細長い枯れ木のような印象を、マリーナは抱いた。

「だ、誰……?」

 唇を震わせながら、マリーナは問いかける。男は口元から笑みを消し、抑揚のない声音で答えた。

「俺は……まあ、いいか……名乗るほどのもんじゃねえから、自己紹介とかは省かせてもらうぜ。名前呼ぶ必要もねえだろうしよ」

 一歩、その足が前に進む。

「ま、状況的になーんとなく分かるだろ? お前さんを拉致ったのよ、俺。二人っきりになって色々やりたかったからさ……いや別に、変な意味じゃないけどね」

 二歩、三歩と、距離を詰めてくる黒い男。

 マリーナは上体を起こし、顔をひきつらせて叫んだ。

「こ、来ないで!」

 怯えきったその様子に、拍子抜けしたのか。男は立ち止まり、難しい顔で頭を掻いた。

「うーん……見れば見るほど普通の子だなぁ……いやマジで、あいつらの同類には全然見えん」

 サングラスの奥にある瞳が、少女を舐めるように観察する。

 そして、淡々と言い放つ。

「でも、あんたって死人なんだろ? マリーナさん」

 マリーナは、大きく息を呑んだ。

「あんたのことなら何でも知ってるぜ。あんたとつるんでる奴らのことも知ってる。俺は平たく言うと、あれだ……あんたらと敵対してる側の下っ端だからよ。あんたら風に言うと、邪神の眷属ってやつ。あ……自己紹介しねえっつったのにしちゃってんじゃん……馬鹿か俺」

 間の抜けた独り言を呟いて、男は左腕を持ち上げる。

 枯れ木のように細長い腕。その五指には、純金の指輪が嵌っていた。

「で、だ……俺、うちの邪神様に頼まれちまったのよ」

 指輪が溶ける。炉の中にでも放り込まれたように、溶けて形を崩していく。そして液化した金が混じり合い、新たな形を成していく。

 金色の一閃が、マリーナの脇を走り抜けた。

 枯れ草が宙を舞い、雨のように降り注ぐ。一瞬の後、マリーナは自分のすぐ傍に細い溝が出来ていることを知った。

 地面が抉られたのだ。

 黒い男が振るった、金色の鞭によって。

「あんたを殺せ、ってさ」

 そう告げる男の指先には、既に異形の武器が顕現していた。

 人差し指の先から伸びる、針金のように細長いもの。異様なほど長く、絹糸のようにしなやかな金色の刃。

 それが彼の武器。

 金の指輪を使って精製した、針金の鞭。

「ひっ――」

 くぐもった悲鳴を、マリーナは洩らした。

 男が何を言っているのかも、何をやったのかも、彼女には全く分からない。完全に理解の外だ。

 それでも、この男が危険な存在だということは分かる。自分が今、生命の危機に瀕していることは、火を見るよりも明らかだ。

「おいおい、ちょっと鈍すぎんじゃないの? これ以上ないほど分かりやすく言ってやってんだぜ、あんたを殺すってな。ここはあれだ、そっちも何か気の利いた台詞吐いて、さあ勝負だって流れになるとこじゃないの?」

 この期に及んでも、男はふざけた口調を改めない。しかしふざけているのは表面だけだ。

 マリーナを見据える双眸は、冷酷な狩人のそれに変わっている。

「ま……そっちがその気じゃなくても、俺は勝手にやるけどよ」

 黄金がうねる。蛇が鎌首をもたげるような動きで、鋭い切っ先を標的に向ける。

 マリーナは悟った。

 逃げなければ殺される、と。

「い、嫌ぁ!」

 走り出す。悲鳴を上げ、男に背を向けて、蜜柑畑の斜面を転がるように駆け下る。

「と、巴さん! ヨハンさん!」

 地面の窪みに足をとられそうになりながら、助けを求めて声を張り上げた。

 されど助けは来ない。そもそも、巴達がどこにいるのかもわからない。したがって、どこに向かって走ればいいのかも全くわからない。

 実際のところ、そこは巴達のいる公園からほんの二百メートルほどしか離れていなかった。しかし元々土地勘がない上に、黒い奔流に視界を遮られたまま運ばれてきたマリーナには、そんなことなど知る由もない。未知の世界に放り出されたような心地のまま、闇雲に走り続ける他なかった。

 そうしている間にも、男の振るう鞭が襲いかかる。今度は近くにあった蜜柑の木が切り裂かれ、枝と葉が派手に散った。

「おいおい、逃げんなよ。蜜柑が駄目になっちまうだろ? 今は大変なんだぜ、お百姓さんも」

 背後から男の声が飛んでくるが、そんなものに耳を貸せるわけがない。

 太い木の幹が一撃で断ち切られているのだ。あんなものを自分が受けたらどうなるか、考えただけで恐ろしい。

「だ、誰か! 助け――」

 涙を零して叫んだ瞬間、マリーナの体勢は大きく崩れた。男の振るう黄金の鞭が、彼女のふくらはぎを強かに打ち据えたのだ。

 幸い刃筋は立たなかったようだが、衝撃は木刀で打ち据えられたように重かった。苦痛に喘ぎながら、マリーナは前のめりに倒れる。

 直後に、男の冷たい声が降ってきた。

「だから逃げんなっての。おじさん走るの苦手なんだからよ」

 黄金が、倒れ伏すマリーナの右手に襲いかかる。それは瞬時に鞭から枷へと変じ、マリーナの右腕を地面に縫い付けた。

 これでもう、どこにも逃げられない。

「い、嫌……やめて……許して……」

 目に涙を浮かべ、慈悲を乞うマリーナ。されど男の眼差しは、どこまでも冷酷だった。

「いやいや、別に謝らなくたっていいんだぜ。お前さんは何も悪くねえよ。悪いのはどっからどう見ても俺だもんな。うん、我ながらひでえな俺って思ってるよ。でもおじさんも遊びでやってるわけじゃねーから、やめてって言われてもやめられないんだな、これが」

 弧を描いた爪先が、脇腹に突き刺さる。情け容赦の無い蹴りを浴びて、マリーナの顔が苦痛に歪んだ。

 胃液を吐いて悶える少女を、男はもう一度蹴り上げる。

「つーわけで、だ……助かりたいなら自力で何とかしてくれや。何か持ってんだろ? 俺らを成仏させるための、びっくり手品の一つや二つ」

 何を言われているのか、マリーナには理解出来ない。

 痛い。苦しい。怖い。その三つしか考えられない状態だ。余計なことを考える余裕など全く無い。

 ましてや反撃する気力など、砂粒ほどもありはしない。

「ろくに動けねえその状態で、何か出来るならの話だけどよ」

 男は右腕を振り上げ、その五指に嵌めていた指輪を変容させた。溶けて混ざり合い、指輪だったものが薄く引き伸ばされていく。

 形作られる、黄金の刃。

 眩い夏の日差しを浴びて、その刃先が鈍く輝く。

「さて、一人でくっちゃべんのも飽きてきたし……そろそろ真面目に仕事しますかね」

 それはつまり、命を奪うということ。手にしたその刃で、心臓を刺し貫くということ。

 それを理解しつつも、マリーナにはどうすることも出来ない。

 彼女は、無力だ。

 抗う気力も、反撃する術も無い。

「死ね」

 刃が降る。輝く刃が、雷のように降ってくる。

 ――記憶が蘇ったのは、その時だった。

 脳髄が覚醒する。稲妻が神経を駆け廻る。消え失せていた生前の記憶が、刹那の内に復元されていく。

 死を間近にした、その瞬間。

 マリーナの意識は、遥かな過去へと遡行していた。





 海のように広大な湖に浮かぶ島。

 そこに、人口二十万を誇る壮麗な都があった。鉄を知らなかった民族が、その石造建築術の粋を集めて築き上げた都だ。

 その中心部に泰然と聳える、巨大な階段ピラミッド――聖なる蜂鳥を祀る神殿に、幼き日の彼女はいた。

 選ばれたからだ。

 聖なる黄金を受け継ぎ、後世に伝えていく者として。

「この世には邪悪がある」

 年老いた祭司は、諭すようにそう語った。

「救いきれぬ邪悪な魂がある。死しても邪悪な心を捨てられぬ者がいる。欲に溺れ、憎悪に狂い、他者を顧みることを知らぬ……愚かで邪悪な者共がいる」

 邪悪という言葉を、祭司は何度も口にした。

 その意味を噛み締めるように。自分の前に立つ幼子の心に、深く刻みつけるように。

「それらは悲しい者共だ。許されぬ罪を背負い、死さえも剥奪された者共だ。それらは地の底で永劫に苦しみ続け、人ではないものに成り果て……やがて、命ある者の世界を侵す」

 炎のように激しい憤りと、海の底よりも深い悲しみ。

 粛々と語る祭司の瞳は、相反する二つの感情を宿していた。

「だからこそ、必要なのだ……邪悪を討つ術が」

 その瞳が、己の後継者たる幼子を見据える。

「これからお前に授けるのは、この世で最も尊いもの……遠い昔から受け継がれてきたものであり、遠い未来まで受け継いでいかなくてはならないものだ。その役目を全う出来る者は、今やお前しかいない」

 しわがれた手が幼子の頭の上に乗り、その柔らかい髪を優しく撫でた。

「お前はこれから、光になりなさい」

 光。全てを照らす天上の輝き。

 それが意味するものは、ただ一つ。

「――闇を払う、太陽の光に」





 少女の右手が、輝く。

 金の枷によって束縛され、地面に縫い付けられていたその手が、陽光よりも眩い光を放つ。

「ぬうっ……!」

 男は刃を振り下ろすことさえ忘れ、その光に見入った。表情の乏しかったその顔に、初めて驚愕と戦慄が滲む。

 一方、マリーナの顔からは表情が失せていた。

先程までの怯えはどこにいったのか。別人のように澄ました面持ちで、凍りついたように固まった男を見上げている。

「我等は皆、死すべき定め」

 静かに紡がれるその言葉は、日本語ではない。

 古典ナワトル語。

 メソアメリカの地が白人に征服される以前、先住民族の間で使われていた言葉だ。

 遠い昔に地上から消えた、太陽の国の言葉だ。

「絵のように、我等は消えていく。花のように、この地上で枯れていく。サクアン鳥の羽根の衣のように、我等は散る」

 瞬く間に溶けて、形を失くす金の枷。金細工を自在に操っていた魔道の業が、強制的に解かれていく。

 不可思議な現象であるが、それは自明の理であり、当然の結果だった。黄金の光は破邪の光。邪悪を滅す浄化の秘法。その光が照らす世界に、魔道、邪法の類は存在を許されない。

 全ては、夢幻の如く消え去るのみ。

「王侯よ、戦士よ、民よ、このことを忘れるな」

 自由になった右腕を、空へと掲げる。

 その掌には、光輝く紋が描かれていた。幾何学的模様を内包した三重の輪――恵みをもたらす日輪を具象化したものだ。

「翡翠で創られても、金で創られても、お前達はやがて、肉の削げ落ちた者の地に往く」

 日輪の紋から零れる光が、より眩さを増していく。男の操る金細工が石塊に見えてしまうほど、その輝きは凄まじい。

 故にそれこそが、真の黄金操術。

 古代から連綿と受け継がれてきた、正統なる破邪の業。

「誰も地上に留まれない」

 天へと昇る光熱の一閃が、黒衣の男を斬り裂いた。




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