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幸福の庭  作者: はつしお衣善
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1 村のお仕事

   1 村のお仕事


 セミのけたたましい鳴き声と、窓にかけたすだれの隙間から差す太陽の光で私は目が覚めた。今日も一日が始まったのだ。低血圧気味なので、頭痛をいたわりながら、ゆっくり体を起こす。窓の外を見やると、家の外壁にセミがとまっている。この至近距離で、命の炎を燃やしている。道理で騒がしいはずだ。寝ぼけ眼をこすりながら、妙に高揚感のある自分に違和感を覚える。変な夢でも見たのだろうか。

 あたりを見回す。ちょっと古びた木造の一室、部屋には行燈と小さな書き物机しかない。うん、いつもの私の部屋だ。

 すでに両親は起き、仕事の準備に取りかかっている。織り機や糸車、ミシンといった、仕事道具の点検だ。糸くずを丁寧に取り除き、問題なく稼動するかをたしかめている。

 両親は衣服屋を営んでいる。私の住むこの村の人たちは、みんなここで作られた服に身を包んでいるのだ。

 衣服が欲しいと頼んできた人たちの容貌や体格、人柄を見て、両親がその人にぴったり合う服を考案して作ってあげるのだ。頼んだ人はとても喜び、それを見事に着こなしてお礼を言いに来る。

 私は、そんな両親の仕事が大好きだ。ふたりは「自分のしたい仕事を見つけて、それを一生懸命やりなさい」と言うけれど、私はそれでもこの仕事を受け継ぎたい。

「あら、マリア。おはよう。ちょうど起こそうと思ってたのよ。そろそろユユちゃんが迎えに来てくれるんじゃない?」

 お母さんが起きてきた私に声をかけた。庭の日時計を見ると、約束の時間が近づいていることを知らせていた。ちょっと寝過ごしちゃった。昨晩は夜更かししすぎたみたい。

「本当だ。急がなくちゃ」

「朝ごはん、できてるわよ。ちゃんと食べていきなさいね」

 食卓には炊き立てのご飯と味噌汁、目玉焼きと漬物が配膳されていた。感謝の気持ちを込めて食を進めていると、お父さんも朝食を食べに食卓についた。

「そろそろ米がなくなりそうだから、カナちゃんにお願いして頂いてきなさい。今日は僕たち、ちょっと忙しいから頼んだよ」

「うん。今日も一緒だから頼んでおくよ」

 お父さんはそれだけ言うと、微笑んでから食事に戻った。口数は少ないけれど、なんだか安心する、優しいお父さんだ。

 朝食を終え、身支度を整えていると、

「マリちゃーん。朝ですよー。迎えに来たよー」

 玄関から明るい声が聞こえてきた。聞いてるこっちが元気の湧くこの声は間違えようがない。ユユだ。

「はいはーい。もうすぐ終わるから、上がってお茶でも飲んでて」

 元気をもらったので、私も元気に応える。

「おじゃましまーす。あ、おじさん、おばさん、おはようございます。ねぇねぇ、暇なとき、あたしの服作ってよ。花柄のかわいいやつ」

 ユユのおねだりが始まったようだ。

「そうねぇ。ユユちゃんもまだまだ育ち盛りだからねぇ。どうかしら、お父さん?」

「いいんじゃないかな。いつもマリアがお世話になっているからね」

「やったー。娘さんにはお世話されてもいるけどね」

 三人は仲睦まじく談笑している。本当の家族のようだ。ユユはお隣さんで、十四歳と同い年だから、生まれた頃から家族ぐるみで仲良しである。

「ごめんね、お待たせ。さ、行こっか」

 昨日一日分の洗濯物と貯水用の皮袋を手にして、私はリビングに顔を出した。お母さんとユユは話が佳境なのか、私のことなど意に介していない。

「ほら、ユユ、待たせておいてなんだけど、急がないとみんな待ってるよ。お母さんも。お父さん、仕事もう始めてるよ」

 不承不承、お母さんは重い腰を上げた。一方、ユユは気にもとめず私の背後に回って肩を押した。

「よーし、今日も一日がんばろう!」

 私はやれやれと苦笑しながら、玄関へ行き、草履を履いて外へ出た。

 玄関の扉を開けたことで、鳥たちが一斉に羽ばたいた。視線は鳥たちを追い、自然と青い空を見上げる。早朝にもかかわらず、夏の日差しがまぶしい。雲ひとつない、美しい空だ。あたりは湿気を含んだ植物特有の香りが漂っている。蝶は水面にたゆたう木の葉のように空中を浮遊し、トンボは忙しなく直線的に飛行していた。

 さぁ、私たちも出発しよう。


   ◆


 私とユユは荷物を背負って、真っ直ぐ伸びた田んぼのあぜ道を歩いていた。私たちの家は村の中央よりの南西に位置している。集合場所は村の西口だ。割りに近いので、歩いて十分とかからない。

 これから私たちは洗濯と、生活水を汲みに村はずれの水源へ行くのだ。両親のように熟達した技術を持っている人たちは、専門の仕事をこなし、私たちのようにまだまだ未熟な子どもたちは簡単な仕事を任されている。それは主に家事全般で、自分の家だけではなく、村全体の家々にわずかながらお手伝いをしている。だから、いま背負っている洗濯物も自分の家の分だけではなく、前日に近隣の人たちが預けていったものも含まれいて、けっこう重い。この荷物を西の山に湧く泉まで運ぶのだから、それ相応の体力が必要となる。一応、村にも川は流れているのだが、一本しかない生命線とも言えるその川は、仕事用の川として使用されているため、わざわざ離れた水源まで時間をかけて行くのだ。午前中にはこの仕事を終わらせる予定なので、あまりぐずぐずしていられない。午後には、これとは別に私たちだけの仕事があるからだ。

 あぜ道を抜け、西口までの一本道をしばらく歩いていると、リヤカーを引いている少女を見つけた。カナだ。

「カナちゃーん!」

 ユユが手を振り、大声でかけて行く。カナも気がついたようで、手を振り返していた。

「なんだ。私が最後かと思ってたんだけど。ふたりとも寝坊でもしたんじゃないの?」

 活力あふれる瞳を細めて笑う、カナ。ショートカットの髪に中性的な整った顔は、彼女を男の子のように見紛えさせる。一つ年上の彼女は、家が農家なだけあって、見た目以上に力持ちであり、頼れるお姉さんなのだ。

「寝坊したのはマリちゃんだけだよ、と」

 ユユはそう弁解すると、自然な流れを装ってカナのリヤカーに乗り込む。

「こーら。楽しようとするんじゃない」

 カナはユユの両脇をひょいと抱えて、リヤカーから下ろす。

「ごめん、ごめん。こっちだった」

 そう言うとユユはカナの背後に回って、背中によじ登り負ぶさる。

「わー。カナちゃんの背中、暑苦しいー」

 この夏の気温に加え、いままで荷物をせっせと運んで体を動かしていたのだから、当然のことだ。

「だったら早く下りなってば。さもないとこのまま投げ飛ばすよ」

 カナは両手でユユの双鬟に束ねられた髪をむんずと掴む。

「あたたた、髪が、頭皮が。下りる、下ります」

 カナの背中から下りたユユが、助けを求めるように私に擦り寄る。私は乱れた彼女の髪を整えながら、痛みを少しでも和らげようと優しく頭をなでてあげた。

「そうやってマリアが優しくしすぎるから調子に乗るんだぞ」

「そうかもね。でも、いっつもユユのおふざけにちゃんと付き合ってあげてるカナだって、充分優しすぎると思うよ」

「そ、そんなことないって。私はただ、自分が楽しんでやってるだけだから」

 カナは頬を紅潮させて手を振る。普段は男の子みたいに凛々しくてカッコいい彼女だけれど、褒められ下手で、褒められるとこうして照れてしまうところは女の子らしい。

「うん、あたしも楽しいよ。お互い楽しくて、楽しさ倍増だね」

 ユユが割って入る。頭の痛みはどこへやら。

「もう。現金なんだから」カナは苦笑した。「こんなところで道草食ってないで、早く行こう。リディとエルフリーデが待ってるんだから。ほら、ふたりとも荷物乗せて。急ぐよ」

 私とユユはリヤカーに荷物を乗せ、後ろから押す。

「そうだ。カナ、そろそろお米がなくなりそうだから、わけてくれない?」

 リヤカーを引くカナの背中に私は声をかけた。忘れないうちに、約束を取りつけておこう。彼女は顔を半分だけ振り返り、横目で応えた。

「いいよ。夕方には届ける、と言いたいところだけど、昨日から父さんの具合が良くなくて、寝込んでてさ。手間かけてすまないけど、ウチに取りに来てくれない? もちろん、リヤカー貸すし、私も手伝うからさ」

「それはもちろん構わないけど……。おじさん、大丈夫なの?」

 カナのおじさんは村一番の巨躯で豪放磊落な人柄だ。あんな筋骨隆々とした人が床に伏す姿なんて、とても想像できない。

「うーん、どうなんだろう。お医者様に診てもらわないとわかんないや」

 私たちの村にはお医者様は常駐していない。近隣の村にお医者様がいれば、連絡を取ってきてもらえるが、もしいなければ、風吹くままに人を治しながら旅する風来医師がやってくるのを祈るしかない。この村は後者になるので、お医者様がいつ来るのかわからない。最後に訪れたのは二ヶ月ほど前だったか。

「じゃあ、お花でも摘んでお見舞いに行こっか」

 ユユらしい提案だ。おじさんは花なんて興味ないだろうけど、私たちがきたらきっと喜んでくれるはずだ。

「そうね。カナひとりじゃ、いろいろ大変だろうから料理もおすそ分けしよう。病気にはおいしいご飯ときれいな花が一番だもんね」

「ありがとう。父さんもきっと喜ぶよ」

 和気あいあい、あれよこれよとおじさんを喜ばせる計画を練りながら私たちは歩いた。

 夏の日差しは徐々に高く、鋭くなっていることだろうけど、このあたりは木々がそれを遮っているので割かし涼しい。毎日のように通っている林道には、リヤカーの車輪の跡が二本、刻まれている。

 この林道を抜けると、そこが村の出口だ。出口とは言え、大層な門があるわけでも、見張り役がいるわけでもない。〝リッカ村〟と書かれた看板があるだけだ。そんな寂寞としたところだが、早朝に限り、待ち人がふたりいる。

 リディとエルフリーデだ。ふたりともリヤカーの縁に腰かけて話していた。

 すらっとした高身長なのがリディで、対照的に小さくてかわいいのがエルフリーデだ。十七歳と九歳、最年長と最年少コンビである。ふたりは早くに両親を亡くした共通点を持ち、ひとりでは何かと不便なので同居している。ふたりで暮らし始めて、早三年。だから、ふたりの阿吽の呼吸は目を見張るものがある。

「あっ」エルフリーデが私たちに気づいた。「リディ、みんなきたよ」

 リヤカーから飛び降りて駆け寄る。

「ごめんね、遅くなって」

 私が声をかけると、エルフリーデは大げさに首を振る。

「ううん、いいの。あたし、待ってるの好きだから」

 と、愛らしく笑う。頬にかかる癖毛を指先でくるくるといじる。エルフリーデの癖だ。彼女は自分の癖毛を気にしているようだが、私は似合っていると思う。

「みなさんそろって遅刻なんて珍しいですね」

 シルクのような長髪をひるがえし、しなやかな足取りでリディも合流した。彼女の疑問にまず答えたのはカナだった。

「私は父さんの具合がよくなくて、ちょっと看病してたんだ。で、こっちのふたりは――」

 と、カナがユユにバトンを渡す。

「いやー、これがね。マリちゃんが頑固な便秘と奮闘中でして、否、糞闘中でして。あたしができることと言えば、マリちゃんに食物繊維を提供することしかなかったんですよ。するとどうでしょう。鉄壁を誇った牙城はかくも無残に落城し、決壊した防波堤のようにゲル状の下痢城が――」

「ちょ、違うでしょ。あんた、何言ってんの? ただの寝坊よ、寝坊」

 ユユの脳天にゲンコツを軽く振り下ろす。遅刻の原因が自分にあるゆえに、あまり強くは出られないのだった。

「ふふふ、相変わらずユユさんのユーモアセンスはずば抜けていますね。変な方向に」

「そう? いやー、リディに褒められると照れちゃうなぁ」

 頭をさすりながら、本気で照れくさそうにしている。上品なリディの言葉遣いに、大事なことを聞き逃しているユユだった。いや、都合のいいことしか耳に入っていない、というほうが正しいか。

「おしゃべりもいいけど、歩きながらにしようか」

 話に花が咲き、足に根が生える前に私は先を促した。

 リヤカー二台を五人で協力して運び、山の水源を目指す。山といっても決して険しい道のりではない。私たちの足でも一時間とかからないだろう。

「それにしても寝坊だなんて、昨晩は夜更かしでもしていたのですか?」

 道すがら、私はリディと会話をしていた。

「うん、まあね。昨日、アイちゃんから手紙が届いて、お返事なんて書こうかなーって考えてたら、眠れなくなって」

「ああ、お隣の。書くことなんていっぱいあるじゃないですか。あ、だから悩んでいるのですね」

「そうなの。一枚じゃとても収まらなさそうで」

 紙も筆も貴重品とまではいかないものの、たくさんあるというわけでもない。それはアイちゃんの村でも同じようで、よっぽどのことがない限り、私たちはたった一枚の紙で文通をしている。

「でも、そのたった一枚でのやりとりを長らく続ける、というのはなんだか素敵です。少ない分、込められた想いは湧き水のようにあふれだしているのでしょうね」

 私はリディの言葉に強くうなずく。事実、少ない情報量の中には、アイちゃんの気持ちが窺え、そして私の感情が乗っているのだ。行間を読むと、そこにはほとばしるような心の発露が窺がえる。会話とは一味違う伝心。一年という年月は、私たちふたりに特別な絆を育んでくれたようだ。

 アイちゃんと文通を始めるきっかけは、些細なものだった。

 近隣の村を荷馬車で巡回する連絡係という仕事がある。連絡係の主目的は、近隣の村との情報交換である。新たに発見された危険なものや有用なもの、あるいは研究が成果を結んだ時、広くそれらを知らせることで、たくさんの人たちの生活が豊かになるよう、ひっきりなしに村と村を駆け回っているのだ。

 当然、長距離の移動になるので馬を使う。加えてそう頻繁に重大な知らせが舞い込んで来るとも限らないので、だったら馬車で配達も兼ねれば利便的ではないか、とのことだった。結果として、複数の村の必要なもの不必要なものを把握し、村長にかけ合って相互間に貸借し、また、貧窮している村があれば裕福な村にかけ合って、支援物資を提供してもらい運搬する、村と村の橋渡し的な役割をも担うようになった。もちろん、手紙はかさ張らないので、いくらでも配達してくれる。連絡係はそれまで孤立気味だった村同士に、強いつながりをもたらしてくれた、高尚な仕事なのだ。

 そんな連絡係の人に、私は世間話にほかの村の様子を聞いてみた。すると隣の〝ライラ村〟には乳飲み子はいるが、私と同世代の子はひとりしかいないという。

 それがアイちゃんだった。彼女の暮らしぶりは何をするにもひとりで、どうにも物足りない様子であり、連絡係の人がライラ村を訪れると、いつも私たちのことを聞いていたらしい。同世代の子どもの暮らしぶりに興味があったのだろう。そういうことなら是非とも友達になりたい、と思い手紙をしたためたのだ。返信がきた時は、筆舌しがたいほど喜んだものだ。いまでもその手紙の内容を憶えている。

〝お手紙ありがとう。アイ、という名前です。よろしくね〟

 短い文章にもかかわらず震えた文字で、何度も書き損じている。引っ込み思案なアイちゃんらしい最初の手紙だった。あれがもう一年前のことである。

「私も会ってみたいけど、あっちも私たちも毎日仕事があるから難しいだろうね」

 話を傍で聞いていたカナが残念がる。

「いまはそうかもしれない。でも、アイちゃんの将来の夢は連絡係になって、私たちに会いに来ることだって言ってたから、そう遠くない未来で会えるんじゃないかな」

 それも、手紙持参で直接渡しに来るそうだ。その手紙の内容もすでに決まっていて、大事にとっているらしい。

「すごい! 素敵な夢だね。叶うといいね」

 エルフリーデがぴょんぴょんとはしゃぐ。自分のことのようにうれしそうだ。

 きっとアイちゃんはその夢を叶えるだろう。あとはきたるべきその日に、私が恥ずかしがってヘマしないことを祈るだけだ。

 水源への道のりは、やがて登り坂へと様相を変えた。地面も露出した木の根やごつごつした岩で状態が悪い。ここらが正念場である。リヤカー二台に加えて、村中の洗濯物を持って登るには、みんなで力を合わせて乗り切らなければならない。

「あー、疲れたー。暑いー。ちょっと休もうよ」

 登り始めて早々に、ユユが弱音を吐き出した。

「何言ってんの。まだまだこれからじゃん。ほら、あんたより五つも年下のエルフリーデだってがんばってるんだから。お姉さんらしく、お手本になりな」

 カナがユユをたしなめる。

「ユユちゃん、泉についたら水浴びいっぱいできるよ。楽しいこと考えてたら、暑さなんてへっちゃらだよ」

 エルフリーデも健気にユユを応援していた。

「ちびっ子は元気が有り余ってていいのう」

「あんただってちびっ子だろ。十四歳なんだから」

「ちょっとぉ、カナちゃん。あたし、お姉さんじゃなかったの? 三秒前と言ってることが違うよぅ」

「そんなのケース・バイ・ケースだっつーの」

 わいわい、がやがやと喧騒を響かせつつ、そま道を進む。この夏の日差しの前では、木々のカーテンも気休めにしかならない。気温はどんどん上がっているようだ。暑さに体力が奪われ、なんだか私も疲れてきた。

「あら、もうこんなところまできていましたか。みなさん見てください。クジラとドームが見えてきましたよ」

 リディが山間から覗く広大な平野を指さす。額から流れ落ちる汗をぬぐいながら、私たちは平野を見つめた。

「わぁ、ほんとだ」

 誰とも知れず、感嘆の吐息が漏れる。

 広大な平野に悠然と現れた、座礁したようなクジラと、半透明の半球に覆われたドーム。そのふたつが、私たちの目に飛び込んできた。あまりの大きさゆえに遠近感が狂い、手でつかめそうな錯覚に陥る。長年放置されていたクジラにはところどころ植物が芽吹いており、ドームの中には廃墟と化した家が軒を連ねていた。

 私たちの村を丸呑みできそうなほどのクジラは、もちろん生物ではない。吟遊詩人によると、あれはその昔、旧人類が移動しながら生活していた乗り物だという。荷馬車のように地面を這うわけではない。あの大空を海原のように泳いでいたらしい。空を飛ぶなんて、鳥か天使様でもない限り不可能に思えるが、旧文明には原理はわからないにしても、驚くような未知の仕組みがあったに違いない。

 にわかには信じがたいが、旧人類の中にはふたつの高度な文明があったらしい。

 とりわけ〝魔術師〟と呼ばれていた人たちが、あのクジラを〝魔力〟という動力で動かしていたのだ。

 一方、クジラがすっぽり収まりそうなほどの体積を誇る半透明のドームは、旧人類の中の〝科学者〟と呼ばれる人たちが作り出したものだ。彼らは〝電力〟という動力で、日が沈んでも昼間のような明るさを保っていたらしい。

 はっきり言って、私たちからしたら、どっちもどっちで理解不能。たとえ魔力と電力には根本的な違いがあるのだ、と旧人類に熱弁されても、私にとって両方とも奇跡の所業、神の業であるから区別なんてつけられるはずもない。

 わかっていることと言えば、あそこには私たちの知らないものがあり、それはもしかすると人々の生活を豊かにするものがあるかもしれない、ということだ。未知というのは何ものにも勝る好奇心の源泉だ。

 ――楽しいことを考えていたら、暑さなんて忘れる。うん、エルフリーデの言う通りだ。なんだか力が湧いてきた。滝のように流れている汗も、いまでは気にならない。

 しばし、ふたつの人類の集大成とも言える奇跡のような遺跡に見とれていると、誰からともなく力が抜けて、リヤカーが後退し始めた。慌てて持ち直そうとするも、みんなちぐはぐに動き出し、バランスを崩して倒れてしまった。

「いたたた。みんな、大丈夫?」

 私はみんなの安否を確認した。

「うう、鼻打っちゃった。鼻血出てない?」

「ええ、大丈夫ですよ、エルフリーデ」

「私も大丈夫。……あれ? ユユは?」

 後ろを振り返ると、リヤカーは坂を転げ落ちずに静止している。

「ちょーっと! 早くなんとかしてよー!」

 見やると、ユユがひとりでリヤカーを支えていた。二台分も。

「でかした、ユユ」

 カナが颯爽と助けに回る。私たちも慌てて前のリヤカーを引っ張る。なんとか振り出しに戻らずにすんだ。

「もう。みんなぼーっとして。あたしがいなかったら、いまごろどうなってたことか」

 ユユが頬を膨らませる。

「ごめんごめん。でも、おかけで助かったよ」

 えへへー、褒められちゃった、と喜ぶユユ。

「みんなあの建造物に、つい心奪われちゃったね。でも、午後からはいよいよ調査開始よ。だから、いまははやる気持ちを抑えて、先にすませるべき仕事を終わらせよう」

 私は浮き足立つ場を引き締める。みんなは、「オー」と、歓声を上げた。

 あのふたつの遺跡の調査。旧文明の叡智が収束したあそこには、きっと私たちの文明に役立つ代物があるに違いない。すべてを解明、発見できるとは思えないが、ほんの少しでも私たちの生活に取り入れることができれば大躍進である。これこそが私たちが考案した、私たちだけの仕事だ。

 みんな持ち場に戻り、泉への道のりを再開した。

 先ほどの急勾配を超えると、あとは緩やかな上り坂だけだ。セミと小鳥のセッションに耳を傾けながら、私たちは苦もなく森林の中にひそむ泉のほとりへたどりついた。泉の水は底が透けて見えるほど澄んでおり、多種多様の水生生物が生活を営んでいる。

 私たちはそれぞれ荷物を降ろし、両手を組んで伸びをする。ここは泉のおかげで割りに涼しく、汗は自然と引いていった。

「あー、やっとついた。水浴び、水浴び」

「ストーップ。まだお祈りしてないでしょ」

 いまにも泉に飛び込みそうなユユをカナは制止した。

「おっとっと。そうだった」

 ユユが駆け足で私たちについてくる。

 この泉の片隅にはたいそう古びた祠がある。別段、霊験あらたかなものである、というわけではない。村の人に聞いても、そんな祠の存在そのものを知らず、何を祀っているのか、なんのために建立されたのかもわからない。だから、ちょっとした験担ぎ程度の気持ちで、ここを訪れたらお祈りしているのだ。

「少し汚れてきましたね。掃除しましょうか」

 リディが泉の水で濡らした布巾を持ってきた。私たちもそれぞれ持ち寄り、隅々まで丹念に磨き上げる。

 苔むした石の社に、蔓が絡みついた木造の雨よけ。苔はまだしも、蔓ははがせそうにない。無理にはがそうとすると、古びた雨よけが崩れてしまいそうだ。供えられた花瓶の中には、とうに朽ち果てた植物の茎がさしてある。特別な気配は何も感じない。私たちが見つけるまで、人々から忘れ去られていたのだろうから、神様も出て行ったのかもしれない。

 それにしてもこれは誰が作ったのだろう。これも旧文明の遺跡なのだろうか。

「よし、こんなもんでいいでしょ」

 丁寧に磨くと、見違えるほどきれいになった。それから私たちは瞳を閉じ、手を合わせる。

「今日も一日、よろしくお願いします」

 格式のある祝詞ではない。勝手に決めたものだ。しかし、リディはそれでいいと言っていた。幸福への祈りは言葉ではなく、心のあり方なのだと。

 お参りを終え、私たちはほとりに一列に並んで洗濯を始めた。村人たちの苦労や疲れの象徴とも言える汚れを落とす作業は、ちょっぴりうれしく、改めて感謝の念を抱けるので、私は好きだった。

「ねぇねぇ。みんなは将来、どんな仕事したいの? あたしはアイちゃんじゃないけど、連絡係になりたいなぁ」

 質問しておきながら先に自分が答えるあたり、ユユらしい。よっぽど言いたかったのだろう。でも、連絡係はひとところにとどまっていられないユユにはぴったりかもしれない。人懐っこいし、知らない土地でもうまくやっていけそうだ。彼女には失礼かもしれないが、意外と自分の性質をわかってて仕事を選んでいるんだな。

「うーん。私はやっぱり衣服屋かな。両親のあとを継ぎたい。もちろん、遺跡調査の仕事も続けたいけどね」

「あ、私も農家を継ぐつもり。いま父さんが具合悪いから、最近特にそう思うようになったな。もし、父さんがいなくなっても困らないようにね。いまは農協の人が手伝ってくれてるからなんとかなってるけど、いつまでも甘えてられないし」

 カナなら、いつもお家の手伝いをしているので、彼女のお父さんも安心して任せられるだろう。農協、というのは農業協同組合のことである。生きる上でもっとも大事な食料を作る農業は〝生活必需職〟という分類の中でも一番重要な仕事だ。だから組合を作ることで有事に備え、食糧自給が破綻しないようにしている。

「私はお医者様になりたいですね。リッカ村には常駐のお医者様がいませんし」

 医者もまた、生きていく上では重要な職業だ。リディは風来医師が村に訪れると、時間の許す限り質問し、その人が持っている書物を書き写して勉強していると、エルフリーデから聞いた。村に納められている医学書もあるにはあるが、数が少なく、立派なお医者様になるには全然足りないそうだ。でも、リディはものすごく頭がいいから、いつかその夢を叶えることだろう。

「さっすがリディ。村のみんなも喜ぶよ」

「ふふふ。みなさんが私に提案してくれたはずですけれど、忘れましたか?」

「あれ? そうだったっけ? ま、リディは頭いいし、優しいからきっと素敵なお医者様になれるだろうね。で、エルフリーデは?」

 ユユが一心不乱に洗濯をするエルフリーデに水を向ける。

「え、あたし? えっとね。うーんっと」

 突然話しかけられて気が動転したのか、また癖毛をくるくる指でいじる。この癖は気弱な精神を落ち着かせるものなのだろう。すると、せっかくしぼった洗濯物が手からすべり落ちて、水の中に浸かってしまった。

「あ……。洗濯物がー」

 エルフリーデは肩を落とした。

「まぁ、エルフリーデはまだ九歳なんだから。将来のこととか、ゆっくり考えればいいのよ。気にしないで」

 私はエルフリーデの頭を撫でて慰めた。

「そういうこと。どれ、洗濯物、半分貸しな」

 そう言うと、カナはエルフリーデの分の洗濯物を洗い始めた。非力なエルフリーデはどうしても作業が遅く、いつも一番に終わるカナに手伝ってもらっているのだ。

「カナちゃん、いつもありがとう」

「いいの、いいの」

「さすが姉御肌。その優しさ、惚れ惚れしますなぁ」

 ふたりのやり取りを見て、さっそくユユが茶々を入れる。

「な、何よ。当然のことでしょ。ほら、あんたも遅いんだから少し分けな」

 恥ずかしそうにしながらも、カナはユユの分の洗濯物を手繰り寄せる。

「あら。横やり入れてるあたしにまで優しくしてくれるなんて。うん、ほんとありがとう。あたし、カナちゃんのこと好きだよ」

 らしくもなく、神妙な態度でユユは感謝していた。私たちだけでなく、カナも予想外の出来事だったらしく、照れ具合に拍車がかかっている。

「い、いいんだって。早く終わって、手をこまねいてるわけにもいかないじゃん。そ、それにあんたのおふざけにつき合うのも楽しいと思ってるんだから、優しくするのはあたり前じゃん。私だってあんたのこと好きじゃん。じゃん?」

「いやいや、ほんとありがとー」

 あ、いまのありがとうは絶対ワザとだ。照れて混乱しているカナをおもしろがって追撃している。

「だ、だからー」

 洗濯物を持った手をばたばたさせる。

「わっ、わっ。カ、カナちゃん、落ちついて。洗濯物がびしょびしょだよ。あたしもびしょびしょだよ」

 湖面に水しぶきを立て、被害はエルフリーデまで拡大している。

「ふふふ。微笑ましいですね」

「うん。本当に」

 端っこにいる私とリディは対岸の火事で、このおもしろおかしいやりとりに心安らいでいた。

 洗濯を終え生活水を汲み、しばし遊泳を楽しんでいると太陽は南中するところまで昇っていた。私たちは頃合を見て荷物をまとめ、下山する。帰りは水を吸った洗濯物が重く、かつ下りなので慎重に荷物を運んだ。行きのような事故を起こすと、今度はユユひとりでは持ちこたえられないだろう。

 村についてもすぐに遺跡調査へ出発できるわけではない。洗濯物を持ち主に返さなければならないのだ。受け取る時は事前に村人が私たちの家に持ち寄るが、返す時はみんな仕事をしているので、その日に私たちの家にこられない人もいる。そんな人もいるので、せっかくだから一軒ずつ全部回って返すことにしているのだ。

 私たちは洗濯物の持ち主の家を北部から南部まで五つに区分し、手分けして返却をした。返却の際、労いに果物やお菓子がもらえるのは役得というものである。

 口の中を甘味で満たしながら、私たちは再び村の入り口で落ち合った。今度は誰も荷物を持っていない。

 今回の調査はリディの提案により、探索のみに徹することにした、何か発見しても、必要以上に持ち帰らず、どんなものがどれほどあるかピックアップし、後日、必要な道具をそろえて、再び訪れる予定だ。

「いよいよ出発かー。なんだかわくわくしてきた」

 カナだけではない。みんなどこかそわそわして落ちつかないようだった。ユユなんて目がギラギラしている。

「ねぇねぇ、みんな。お昼ごはんまだだよね。今朝、リディとお弁当作ったの。向こうで一緒に食べようね」

 と、エルフリーデはお気に入りのバスケットを持ち上げた。中にはピクニック気分の仲間もいるようだった。

「さて。それじゃあ、そろそろ出発しようか」

 私は一人ひとりの顔を見て呼びかけた。みんな一様にうなずき、はやる足を抑えつつ目的地へ向かう。

 クジラとドーム。まず先に調べるのはドームのほうだ。それにも、もちろん理由がある。半透明のドームは内側の構造がわかりやすいが、クジラの体内(もちろん生物ではないが、内部というよりも親しみが込められるので、そう呼んでいる)はどんな構造になっているのか、わからないからだ。

 絵の得意なエルフリーデが数箇所の観測地点から見えるドームの外観を描き、それを元にリディが全体図を作成し、調査範囲とスケジュールを立てた。これもまた、そのほうが緻密で見落としがないだろうという、リディの提案である。私の独断だったら好奇心に駆られて、後先考えずに調査を開始していただろう。たぶん帰りの移動時間を失念して日暮れまで調査し、帰宅が遅くなって両親に怒られていたはずだ。彼女の明晰さにはいつも助けられてばかりである。

 一方で、クジラの調査は難航を余儀なくされる予想だ。体内が見えないので、構図が作成できないことだけではない。それに加え、入り口から中の様子を窺ってみると、人間三人が横列で通れそうな、決して探索しやすいとは言えない穴の通路が暗闇に伸びていた。縦横無尽に、それこそ血管のようにその通路が続いている可能性があるのだ。迷路のように道に迷う危険もあるので、繋ぎ合わせてできるだけ長くした縄を垂らしながら帰り道を確保し、少しずつ探索範囲を広げていく方針で決まりそうだ。

 ふたつの遺跡までの道のりは、泉までのそれと比べると楽なものだ。平坦でいて、地面も荒れていない。村から南西の森を抜けると、すぐに広大な平原が姿を現した。そこに横たわる巨大なクジラの船と、半球の建造物。地平線の見える平原に、突起物がふたつ。そのふたつは、かつてこの世界のヘゲモニーを掌握していた人類の証だ。いまでこそ風化や動植物たちの浸食で古びていても、あの巨大な物体はその大きさだけで、旧人類がほかの追随を許さない力を有していたことを容易に想像させる。

「改めて見ても、すごい迫力」

 私はドームを目前にして、素直な所感を述べた。

「ね、早く中に入ろうよ」

 ユユが私の手を引いて、先を促す。

 このドームの入り口は一箇所しかない。南東にぽっかりと空いた円状の入り口だ。無理やり壊されたような穴ではなく、コンパスで描いたようなきれいな半円だ。旧人類もここから出入りしたのだろうが、入り口を塞ぐような扉は見当たらない。常に開放されていたのか、はたまた私たちには考えつかないような開閉方法があるのか、たくさんある謎の一つである。もし、開閉可能な入り口なら、開放状態にある現状は僥倖だった。この地面まで半透明の未知なる物質を開通させることは、私たちには到底できなかっただろう。

「それじゃあ、みんな。いよいよ中に入るけど、単独行動は絶対ダメだからね。どんなに興味惹かれてもひとりで突っ走らないこと。いいね?」

 一人ひとりの顔を見て、私はみんなの意志を確認した。みんないい顔をしている。

「うん。それじゃあ、行こう」

 私とユユを先陣に敷地の中に入った。

 ドームの中でまず目に入ったのは、広大な草原と廃屋の数々。そして、もっとも目を引くのが、中央にそびえる大樹のような巨大な塔だ。この大樹の塔は、半球状の天井とくっついており、その接着した天井から四方八方に、触手のようにうねりながら通路が伸びている。その様がまさに木の枝を広げた大樹のように見えるので、私たちは大樹の塔と呼んでいる。あの大樹の塔が、おそらくこの建造物の中枢を担っているのだろう。

 本命の大樹の塔は後回しにして、私たちは廃屋を見て回ることにした。建物は草原の面積に対して数は少なく(とは言え、その数、五十は下らない)まばらに立地している。

 入り口から一番近い木造の家屋を前にする。大昔に建てられたものと予想できるが、中に入っても大丈夫だろうか。いきなり崩れ落ちてしまうかもしれない。

 取っ手に手をかけ、扉を開けてみる。ひどく軋んだ音を上げたが、いまのところ問題はなさそうだ。

「このドームは出入り口以外、密封されていますからね。雨風をしのげるから風化を遅らせていたのでしょう」

 と、リディが推測する。それなら崩壊の恐れはなさそうだ。足元を注意していれば怪我をすることもないだろう。

 私たちは廃屋に入った。中はホコリだらけで、乾燥していた。どんな未知の道具があるのかと、期待に胸を膨らませていたのだが、そこにあったのは意外なものだった。

「あれ? これってクワかな?」

 カナが玄関の脇に置かれたクワを手に取る。

「ねぇ。こっちには竹かごがあるよ」

 エルフリーデが囲炉裏の傍に駆け寄ってかごを拾う。

「あ、外に庭があるよ」ユユが窓から顔を出して覗き込む。「ちょっと行ってみる」

「待って。勝手に行動したらダメって言ったでしょう?」

「大丈夫。すぐそこだから。遠くにはいかないよ」

 私の制止も聞かず、ユユは飛び出した。

「もう。カナ、ユユを見張っておいてくれない?」

 カナはふたつ返事にユユを追いかけた。カナが目を光らせていれば、ユユも無茶なことはしないだろう。一方で、私たちは家の中を調べる。

 見つかったものは、しかし、木の食器や机、藁の寝床や米びつだけであった。どれも、初めて見るようなものではない。

「おーい。草ボーボーだけど、庭にあるのはやっぱり畑だったよ」

 外からユユが報告する。作物こそすでになかったが、木の板の囲いと、耕作していた形跡があったらしい。

「リディ、どう思う? これが……旧人類の生活なの?」

 言いたくはないが、あまりに期待はずれだった。これがこの星を支配していた科学文明と言われても、とても信じられない。

「わかりません。ただ、ここは農家の家なのだということしか……」

 私も同じ意見だった。この家の様子は、農家であるカナの家に似ている。いや、正直に告白すると家屋や畑の規模、農機具の設備、どれをとってもカナの家のほうが生活レベルは高い。藁でできた寝床も知識としては知っていたが、綿や羊毛の布団があるリッカ村では見たこともない。

「ここだけではなんとも言えません。ほかの家も見てみましょう」

 農家らしき家を出て、周辺の家を手当たりしだい調べてみる。だが、どの家も細かい違いはあるものの、似たようなものだった。

 十軒目を調べ終えて、私たちは草原に座り込んだ。伸びっぱなしの草は、風がないのでそよぐことなく、異様な雰囲気でたたずんでいる。私たちはエルフリーデの申し出で、遅めの昼食をとりながら話し合いをすることにした。

 当然、エルフリーデの弁当はおいしく、天気も申し分なくいいのだが、みんなどこか気分が晴れないでいた。

「なんか、思ってたのと違うね。私たちにとっては見慣れたものばかりというか」

 カナがこれまでの所感を口にする。期待していた分、落胆は大きそうだ。これまでの調査だと、目新しい発見はない。

「どうして旧人類は私たちと変わらないような生活をしていたんだろう。大樹の塔や巨大な半球状の屋根を作れる技術がありながら、わざわざこんな家屋を作るなんて……」

 と、私は疑問を漏らした。

「うーん。ひょっとして、旧人類もあの生活が心地よかったのかな?」

 頭をひねっていたユユが単純に答えた。私はその答えをすぐに否定する。

「そんなことでわざわざこんな大がかりなもの作らないでしょ」

「いえ、私たちの想像を超えた旧人類のことですから。趣味や遊びの延長で、このような大規模なものを作ってもおかしくはないかもしれません。旧人類はそれほど豊かで、そしてそれを簡単に実現できる技術と道具が備わっていたのではないでしょうか」

 思わぬところでリディがユユに助け舟を出す。

「ここは遊戯施設だったってこと? そう言われると、たしかにそうかもしれない」

「ちょっとー。なんであたしの時と態度が違うのー?」

「リディのは論理的な考察。ユユのは気分的な解釈。それからどことなく醸し出す説得力と日ごろの行いが違うのよ」

「何をー!」

 私たちはささやかに笑い合った。焦燥感が漂い始めていたが、途端にいつもの私たちに戻る。ムードメーカーであるユユのおかげだ。

「私もまだ、推測の域をでませんからね。やはり謎は謎です。おそらく、すべての答えはあそこにあるのでしょう」

 そう言って、リディは指をさした。天高くそびえる大樹の塔だ。

「そうだね。ご飯食べたら、行ってみよう」

 初日は周りの廃屋を中心に調べるつもりで、本命の大樹の塔は最後にするはずだったのだが、こうなっては仕方がない。

 私たちはリディとエルフリーデの作った料理に舌鼓を打ち、大樹の塔へ向かった。真っ白な外装は永劫のような時間を経てもその輝きを失わず、太陽光を反射していた。威風堂々。周りの廃屋に比べ、大樹の塔は人をなくしても威厳を保っている。

 ここの入り口も僥倖なことに開いていた。木材とも金属ともとれない不思議な外壁だった。そこに引き戸がぽつんと一箇所あり、その戸が半分開いていたのだ。その引き戸も不思議なもので、取っ手がついておらず、これでは開閉に不便ではなかろうか。それにつっかえ棒もネジ式の鍵もない。こんな仰々しい建物だと、子どもがいたずらに侵入したりしないのだろうか。それとも旧人類の子どもたちは余程おりこうさんだったのか。

 扉ひとつにたくさん疑問を投げかけても始まらない。意を決し、中に入る。

 大樹の塔は存外に明るかった。まるで外にいるような明るさだ。

「ねぇ、見て! 外が」

 カナの声に驚いて振り返る。眼前には外の風景が広がっていた。開いた扉から見える風景ではない。壁が透けて外が見えているのだ。

「あれ? どうして。外からは真っ白な壁だったのに」

 ユユが不思議がって、外に出たり入ったりを繰り返している。

 どういう原理かわからないが、壁の内側と外側で透過性が違うのだ。よく見通すと、入り口の反対側の壁も透けている。建物の中なのにこんなに明るいのは、屋外にいるかのように太陽光が入っているからだった。これが、旧文明の技術。私たちは建造物の中に入っただけで圧倒されていた。

「すごい。ここ、やっぱりすごいよ」

 思わず、喜ぶあまり両手をあげてジャンプする。つい、私は興奮してはしゃいでしまった。取り繕って、あたりを入念に観察する。

 天井は透明ではないが非常に高い。しかし、ドームの天井に比べれば断然低いようなので、上まで吹き抜け、というわけではなさそうだ。階層があるということは、どこかに階段があるはずだ。まずはこの一階を探索して、階段を見つけよう。

 私たちは一階を手分けして調べることにした。一階は広々とした空間が中心にあり、部屋数は比較的に少ないようだ。みんな離れすぎないように注意しながら調べていると、

「あ! 誰かいるよ!」

 エルフリーデの悲鳴に似た声が聞こえた。急いで彼女の元へ向かうと、リディが動揺する彼女を落ちつかせているところだった。

「どうしたの? 人が残ってたの?」

「いえ……あれです」

 リディは小窓を指さした。小窓を覗き込むと、向こう側の人影が動いた。

 ぎょっとして身をすくめると、人影も身を潜めた。

「誰だろう」

「よく見てください」

 リディは至って冷静である。恐る恐るもう一度小窓を覗き込むと、やはり再び人影が動いた。今度は臆せず凝視する。

「あれ……。これって、私? 小窓の向こうに私がいる」

 それも、唇の動きから表情まで、まるで私の真似をしているようだ。というより、これはもうひとりの私ではなく、私の姿が映っているのだ。よく見ると、小窓ではなく一枚の板のようだ。材質は木でも金属でもなさそうだけど。

「すごい。まるで水面に映る自分のよう。ううん、水面はうっすら水中が見えるけど、これは完全に私たちを映し出してる。これ、どうにか持って帰れないかな」

 よくよく調べてみると、この板は壁に立てかけられているだけで簡単に取り外すことができた。

「これぐらいなら、持ち運びも楽だし、いいよね」

 リディに確認する。探索だけの予定だが、この大きさならリヤカーを使うまでもない。むしろ割れ物のような材質なので、手で運んだほうが確実だろう。

「ええ。ようやくの発見ですものね」

 満足気に私はうなずき、不思議な板を脇に抱えた。

 高まったモチベーションのままに階段の捜索を再開した。だが、どんなに探しても階段は見つからない。トイレと思しきところや、椅子とテーブルがならんだ休憩所、下駄箱の収納スペースのようにずらりと並んだ狭い寝室。

 小さな発見はたくさんあったが、肝心の上階への行き方はわからなかった。

 残すところはあとひとつ。そここそが、階段のありかではないかと目されるところだ。塔内部の中央に、一本の太い柱が天井まで伸びている。ただの支柱ではなく、扉があることから、ここに長い螺旋階段があるのではないだろうか。

 扉の前に私たちは集合した。ここも例によって、両開きの引き戸だが取っ手はない。廃屋から持ってきた農機具で扉をこじ開けることにした。固く閉ざされていた扉だったが、どうにか開くことができた。

「何、この部屋」

 素っ頓狂な声を上げるユユ。面食らったのはほかのみんなも同じだ。苦労して開けた扉の向こうにあったのは、いままで見た部屋の中でも一番小さい部屋だった。何もない室内は、人が十人も入ればいっぱいになりそうだ。

「秘密基地かな」

 的外れなことを言ってそうなエルフリーデだが、何があってもおかしくはないこんなところでは、それすらもありえるのではないかと疑ってしまう。

 ひょっとすると、上には同じような部屋があって、それがいくつも積み重なっているのかもしれない。そう思って肩車して天井を調べてみたが、そのような入り口は見当たらなかった。ほかのところを細かく調べてみると、出入り口の壁にいくつかの小さな出っ張りがある。それ以外は特に何もない。

「これ、なんだろう」

 と、カナが凝視する。

「あ、押すと引っ込むよ」

 ユユが勝手に触る。

「ちょっと、またあんたは。不用意にいじるんじゃないって」

 カナが驚いて諌める。ところが、予想に反して何も起こらなかった。

 慎重にほかの出っ張りも押してみたが、けっきょくなんの反応も示さなかった。

「うーん。謎は深まる一方ですな」

 ユユが慇懃無礼に腕を組む。悔しいが、彼女の言う通りだ。ほかの部屋はなんとなく用途がわかるところだったが、この部屋ばかりはお手上げだ。

「ひょっとすると」

 あごに手を置いて沈黙を守っていたリディが言葉を漏らした。

「お、いよいよリディの慧眼が光るのかな」

 ユユが珍しく真剣にリディを窺っている。私も固唾を飲んで彼女の言葉を待った。

「旧人類、特に科学者たちは、電力という動力であらゆることをやってのけたと聞きます。もしかしたらこの出っ張りも、いえ、ここだけでなくほかの部屋にあった用途不明のものも、電力があれば何かしらの反応を見せるのではないでしょうか」

 そうだ、電力。肝心なことを忘れていた。

「じゃあ、その電力を探せばいいのか。もう一回、手分けして探してみる?」

 座り込んでいたカナが立ち上がる。

「いいえ。やめておきましょう。たぶん、見つからないはずです」

「なんでさ?」

「カナさんは、風車や水車をご存知ですよね? あれは風の力や水の力を利用して動かしています。風力、水力、これらの力は見た目にもわかりやすいですが、電力はそれらとは一線を画しているように思えます」

「電力っていうのは、たぶんだけど電気の力だよね」

 私は知っている限りの知識を言った。

「その通りです、マリアさん。乾燥した時期に金具を触ろうとすると、静電気が走りますよね。あとは、荒れた天候の時は雷が落ちますね。あれらです」

「なるほどね。それはわかったけど、どうして見つけられないの?」

 カナは再び疑問を投げかけた。

「風力や水力は私たちもうまく利用しています、旧人類からしたら稚拙なものでしょうが。ですが、こと、電力に至ってはどのように利用すればいいのか、皆目見当がつきません。あんな、一瞬しか発生しないようなもの」

「痛いだけだもんね」

 エルフリーデは指先を揉みながら口にした。静電気の痛みを想起したのだろう。

「そうですよね。それが果たして、ここにあるのかどうかも、すべてが疑問だらけです。電力に限らず、旧人類は私たちにはない概念を持っていたはずです。それを扱うには、同じように私たちもその概念を理解する必要があるのです。ですから、見つけられないと思います。いえ、まだ見つけないほうがいいです。運よく見つけたとしても、使い方がわからなければ危険を伴いますからね」

 リディは一息にそこまで言うと、みんなの反応を窺った。私と目が合い、彼女は笑顔で私に判断を託した。

「そうね。いまの私たちには、まだ荷が重すぎる。調査は始まったばかりなんだから、少しずつ理解を深めていこう」

 反論するものもなく、みんなうなずいた。不満なんてあるはずもない。なぜなら、こんなにたくさん未知のものに触れたのだから。このすべてを映し出す不思議な板もそう。大収穫だ。きっと村のみんなに見せたら驚くだろう。

「あら、みんな。もう夕方だよ」

 ユユが小部屋の外から声をかける。塔の中にいても外が見渡せるので、太陽の高さがわかるからとても便利だ。

「じゃあ、今日はこれぐらいで引き上げようか」

 塔から出て、振り返る。そこにはやっぱり中が見えない真っ白な巨大な塔がある。頂上を見ようとすると、目がくらみそうだ。雄大な草原にそびえるそれは、どうにも形容しがたい異様さがある。それを上回る魅力もだ。

「それにしても、塔の周囲にある廃屋はいったいなんなのでしょうか」

 道中、リディが誰に語るでもなくつぶやいた。

「旧人類の道楽じゃないの?」

 私にはわからないが、ほかに理由は思い当たらない。

「可能性のひとつではあり得ます。しかし、これは……」

 木造の廃屋を振り返る。どうにも納得いかない様子だ。

「先ほどの話ですが、旧人類は私たちには理解できない概念を持っていたはずです。それは間違いありません。私たちが気づかなかっただけで、実際のところ塔の中はわからないことのほうが多かったのでしょう。しかし、外はまるで……」

「何かわかったの?」

 思いつめた表情で、地面を見つめるリディ。彼女はいつも、私には思いもつかない答えを生み出す。きっとこの旧人類の遺跡も、彼女が解明してくれるのではないだろうか、という期待はいやでもしてしまう。

「いえ、やっぱりわかりませんね。考えすぎはよくありませんでした。もっともっと、調べてみましょう」

「だよね、うん。がんばろう」

 さすがに一日でわかることは少ない。一歩ずつ先に進もう。

 私たちはドームを出て、村につき、三々五々に家路についた。そのころにはすっかり日も暮れ、あたりはひっそりと暗闇に包まれる。欠けた月のわずかな光と、虫の音色が闇夜を彩る。初日ではしゃぎすぎたとは言え、さすがに遅くなってしまった。自然と早足になる。

 村は静まり返っているが、私はどうにも高揚していた。今日のことは、絶対アイちゃんに出す手紙に書こう。きっと、喜んでくれるだろう。

 家につき、また明日、とユユと別れる。家では両親が晩御飯を作って待っていた。遅いぞ、と母親にたしなめられる。

 晩御飯を食べると、私は早々に自室へ戻り、行燈に光を灯した。机の前に座って筆を執る。夜は日食祭の準備をする時間にしているが、今日はすっぽかそう。

『今回の手紙は、報告したいことがたくさんあるの』、書き出しはこれに決めた。

 部屋は行燈と月の光が柔らかに照らしていた。

 空には月だけが浮かんでいる。ひとりぼっちだ。星、なんてものほかにはない。

 はるか昔には、この空は星で埋め尽くされていたらしい。きらきら瞬き、夜空を彩っていた。だが、時間の経過とともに、その数はひとつ、またひとつと減少し、ついには太陽と月が交互に浮かぶだけの空になったそうだ。さみしいのか、たまに一緒に昇って重なることもある。それが日食だ。

 星がないいま、私たちは夜空に月を思い浮かべる。

 旅の吟遊詩人は、よく星空の歌を歌う。かつていた人を偲ぶように。その歌は旧文明の数少ない名残だ。滅んでしまっても、脈々と受け継がれるものはたしかにある。吟遊詩人曰く、旧人類は星に名前をつけ、星と星を繋いで物語を紡いだ、と。それはなんだか、ロマンチックな気がする。

 旧人類は、夜空に月とたくさんの星を思い浮かべるのだろう。それもまた、私たちにはない概念だ。

 だけど、裏を返せば、旧人類には星のない夜空は思い描けないだろう。月だけが、夜の帝王として夜空を支配している姿は圧巻だ。なんて、ちょっぴり旧人類に対して優越感に浸る。

 手紙の文末に自分の名前を添えて、ふたつ折りにする。机の上を片づけて、行燈の灯りを消し、私は寝床についた。睡魔はすぐに訪れる。明日もやることはたくさんあるのだ。月が沈み、太陽が顔を出すまで、しっかり眠ろう。


   ◆


 ある日の夜、ちょっとしたイベントがあった。

 その日もいつものようにドームの調査へ出かけたのだが、初日ほどの成果は上げられず、空振りに終わった。肩を落として村に戻り、夕飯を食べていると、ユユからうれしい知らせが舞い込んできた。

「マリちゃん、いま広場に吟遊詩人さんがきてるって。会いに行こうよ」

 それを聞いて私は急いで食事を済ませた。ドームで見つけた不思議な板を持ち、薄手のカーディガンを引っさげて家を出た。

 娯楽の少ない村だ。遊ぶところと言えば山か川しかない。連絡係ですら決まった村と村を行き来するだけだ。ある種、閉鎖的とも言えるこの村に旅人が訪れれば、私たちの知らない土地の話を聞こうと大人から子どもまで彼らに群がる。

 吟遊詩人ならなおさらだ。彼らは不思議な音を奏でる弦楽器と、美しい歌声で私たちを魅了する。村人は喜んで彼らを受け入れ、村はちょっとしたお祭気分になるのだ。

 すでに村の中央広場には人だかりができていた。薪を焚いた明かりの下、吟遊詩人が椅子に座って曲を弾き、歌を歌っている。心地のいい旋律と歌声だった。異文化の曲なのだろう。歌詞は私たちが使う言語ではないようだ。だが、音楽とは不思議なもので、初めて聞く曲調だろうと知らない言葉の歌詞だろうと、その調べは心に届く。

 私とユユは人だかりに加わって、しばしその不思議な曲に耳を傾けていた。吟遊詩人は私たち――リッカ村の人々を一人ひとり見回しながら、想いを届けようと一心不乱に曲を奏でている。がんばりすぎて、焚き木の光に揺れるその表情は少し苦しそうだ。年齢は四十前後だろう。白髪混じりの艶のある髪にできたてのような皺、品のある口ひげが特徴的だ。丈の長いマントを羽織っていて、いかにも旅人らしい。

 曲が終わると、村人たちは一斉に拍手を送った。私とユユも、両手を上げて手を叩く。吟遊詩人は弦楽器を傍らに立てかけ、ぺこりと頭を下げて私たちに応じた。どうやら音楽は一時休憩するようだ。

 人々は簡易テーブルを運び出し、村で自慢の料理を並べた。吟遊詩人を交えて歓談するらしい。ユユはずらりと並べられた料理に舌鼓を打っている。すでに夕食を済ませた私はここぞとばかりに食事をしている彼の隣に座った。

「こんばんは、吟遊詩人さん。素敵な曲をありがとう」

「やぁ、こんばんは、お嬢さん。おいしい料理をありがとう」

 軽い挨拶を交わして、私たちはくすりと笑い合った。

「ねぇ、吟遊詩人さん。お話を聞かせてくれないかしら」

「ふむ。どんな話が聞きたいかね?」

「うんと古い話が聞きたい。旧人類にとっても古くて、ロマンチックな話」

 私が吟遊詩人に聞くことは、大概は旧人類にまつわることである。彼は顎に手を置いて、考える仕草をして答えた。

「古い話か。なるほど。……ロマンチックとは少し違うかもしれんが、ずっと昔の話――神話とも言われる話をしようか」

「しんわ……。うん、聞きたい聞きたい! どんな話?」

「この世界の始まりの話さ。原文を全部話すと長いから、かいつまんで話そう」

 そう言うと、吟遊詩人はその時を思い出すかのように遠くを眺めた。

「『まず原初に、混沌が生じた。そして次に胸幅広い地母神――すなわち雪降り積もるオリュンポスの頂に住まう不死なる神々の、永遠の御座たる地母神が生まれたもうた。また、広い道を持つ大地の奥底には、薄暗い奈落、さらにすべての不死なる神々の中でもっとも美しい愛が誕生した』」

「あの、えっと……」

 私は、まるで知らない言語を話されたように感じ、言葉を詰まらせた。

「いやぁ、ごめんごめん。原文はちょっと難しい言い回しをしているね」

 彼は足を組みなおして話を続けた。

「昔の人はあらゆるもの、あらゆる概念を神格化させていたんだ。大地や奈落、愛といったものを神が司っていると考えたんだね。君も太陽を神様の象徴として捉えているだろう? それと同じだ。つまり、初めに混沌という神が生まれ、不死の神々が住まう場所を作った地母神が生まれた。その大地の深くに奈落が生じ、そして美しき愛が誕生する、と。これが神々の誕生――世界の始まりだ」

「なんか、すごい話。その、不死っていうのは死なないってことだよね。なんだかそれってかわいそうだな」

「……。そうだね。でも神様だから平気なんだろう」

 もっともである。少し浅はかな考えだったか。神様と私たち人間を同じものさしで考えては失礼かもしれない。

「さて、この先はわかりやすい言葉で説明しよう。――混沌からは暗闇と夜が生まれ、そのふたりは情愛の契りを結び、澄明と昼を生み出した」

「情愛の契りって?」

「それは……いや、もう少し大人になったら教えよう」

 何それ、ずるい。私だってもう立派な大人だもん。と、思ったが背伸びしても仕方ない。現実を見て私は大人しく引き下がった。

「――一方、地母神は彼女自身と同じ大きさの、星が散りばめられた天を生んだ。まぁ、いまとなっては夜空の星はすでになくなってしまったがね。……こうして明暗も天地も、何ひとつ境界のなかった混沌から、世界はいまの形にその相貌を変えてきたんだ」

「神様って、まるであべこべのものを生み出すのね。闇と夜からは光と昼、大地からは天空。それとも、正反対のものだからこそ生み出せたのかな」

「そうかもしれない」

「ねぇ、始まりの混沌っていう神様はどういう神様なの? 混沌は誰が生み出したの?」

「残念だけど、混沌については謎が多いんだ。詳しいことはわからない。私が思うに、世界を構成するあらゆるものが混在し満ちた場所――いや、空間なんじゃないかな。その混じり合った塊が、時間をかけてゆっくり別れ、明暗や天地に分離したのかもしれない」

「混ぜた水と油が分離するみたいに?」

「そうそう、うまい例えだ」

 と言って、彼は皺を刻んで笑った。

「それから混沌の生みの親だが、それは明確にされていないんだ。神々を統べる絶対神ですらないかもしれない。なんらかの神が生み出したのか、はたまた誕生などなく、元からそこにあったのか……。ある意味、これもひとつのロマンかもね」

「えー、それはなんか違う気がする」

 私が聞きたいのは情緒的なロマンチックで、彼が言ってるのは男のロマンだ。

「でも、悔しいけどたしかに気になるし、知りたい。うーん……」

 すべてを生み出す苗床のような存在だ。そんな神様を生み出したのは、いったいどんな神様なのだろうか。私は途方もない大昔に考えを巡らせていた。

「君は随分と昔の話に興味があるようだね」

「うん! なんたって、旧人類の遺跡を調査するぐらいだからね」

 彼は驚嘆の声を漏らした。

「ほら、見て。これが調査の収穫。吟遊詩人さんに見てもらおうと思って持ってきたの」

 私は得意げになって、手提げ袋から姿を映し出す不思議な板を取り出した。

「ほう。こりゃ、驚いたな」

「すごいでしょ。姿を完璧に映し出してる。これ、なんて名前か知ってる?」

「知ってはいるが、おそらく馴染みのない名だ。聞いたところでいまひとつピンとこないだろう。これは君が見つけたものだ。君が名づけるといい。名前とは不思議なものでね。自分で名前をつけると、より愛着が湧くんだ」

「そんなもんかなぁ」

「そうさ。それにね。これが映し出すのは姿だけじゃない。覗いてみてごらん」

 と言って、彼は板を私に向けた。そこにはもちろん、私が映っている。

「君はいま、どんな顔をしているかい?」

 少し伸びてきた髪に、薄い眉毛。二重の瞳は爛々と輝き、頬は紅潮し、好奇心からか笑顔になっている。

「なんだろう。なんだか楽しそう」

「そう。これは自分の心も映し出すんだ。自分の心って意外と見えにくいものでね、こうして客観的に自分の表情を見ると、それがわかるんだよ」

 人は感情を表現する時、大部分は言葉と表情でそれを表す。言葉は意識的なもので、表情は無意識的なものだ。それでいて、自分の表情をたしかめることはなかなかできない。だからその分、自分の心は自分に伝わっていないのかもしれない。

「そうなんだ。私ってばこんな顔して吟遊詩人さんの話を聞いてたんだ」

 なんだか恥ずかしい。お伽噺を聞く子どものように心をときめかせている。話をしてもらった吟遊詩人もさぞかし疲れたことだろう。

「吟遊詩人さんはどう? あなたの心は、何を映しているの?」

 と言って、私は彼に不思議な板を向けた。

「私は――」

 彼はふっと顔をそらした。

「どうしたの?」

「……いやね、歳を重ねれば重ねるほど、自分の姿を見るのが少し恥ずかしくなるんだ。若々しかったあのころは、遠い過去のことなんだと思い知らされるようでね。君も、いつかわかるかもしれない」

「ふーん、そうかなぁ。私は素敵なことだと思うよ。その白髪も、その皺も、きっと幸せの名残なんだと思う。その数だけ、あなたにいっぱい幸せがあったんだよ」

 そう言うと吟遊詩人は私を見つめ、うなずいた。

「なるほど、そういう考え方もあるんだね。勉強になったな」

 でしょ、と私は笑って見せた。いろんな話を教えてもらうばかりだったので、少しだけでもお返しができたと思うと、私はちょっぴりうれしくなった。

「おーい、マリちゃん。何話してるの?」

 料理をたらふく食べて満腹になったユユがやってきた。

「なーいしょ」

「あ、ずるーい。ま、どうせ旧人類の話でもしてたんだろうけどね」

 図星である。私は苦笑いを浮かべるしかなかった。

「ねぇねぇ、吟遊詩人さん。もう一曲お願い。あたしのリクエストは、楽しく踊れるやつ」

 ユユは吟遊詩人に両手を合わせて頼み込んだ。

「いいよ。でも食べたばかりだから、あまり激しく動いたらいけないよ」

「大丈夫だって。マリちゃん、一緒に踊ろう」

 ユユが私に手を差し伸べる。私が彼女の手を握ると同時に、心の弾むような曲の調べが流れ始めた。やっぱり知らない曲だったけれど、踊れないことはない。彼女の足を踏まないように気をつけながら、踵でリズムを取る。私たちに釣られて、周りの人々も手を取り合って踊り始めた。

 焚き火と月明かりの中、立てかけられた不思議な板が私たちを映し出す。そこには笑顔と幸福が浮かんでいた。

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