欠けた虹
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おお、虹がかかったな。なんか、だいぶご無沙汰していたような気がするぜ。
こういう、その時々でしか見られないもの。それを「めんどくせえ」と思って通り過ぎていた昔の自分を思い出すと、なんとももったいないことをしたと思う。
いや、分かってんよ? 当時の俺は俺で、目の前のことに夢中で、見やっているゆとりなぞ、持っていなかったってことをさ。ほんと、同じ自分自身なのに当時を客観的に見やることができる歳になってくるって、なんともむずがゆい気持ちになってこないか?
ところで虹って、どうしてカラフルに見えるか、知っているか?
――そうだな。ざっくばらんに表現すれば、太陽光が空気の中の水滴によって反射したり、屈折したりして、最終的には複数の色を持った帯状の形になること。それが虹の正体だと。
だがな、実際に虹の色が重要な役割を担う出来事は、過去にも散見されるらしいんだ。
今回はその中のひとつ、大きめの事件について語ろう。
今をさかのぼること、だいぶ昔。
虹が空に架かることもまた、目にする人々に関しては重大な異変のひとつと認識されていた。そのため、ある地域では悪天候が続いた後、雨足が弱くなってくる頃に、「虹見張り」の係が家の軒先から空を見上げるのだという。
その地域では、虹を五色だと認識していた。赤、黄、緑、青、紫のそれぞれの帯。それらの見え具合により、今から将来につながる兆しを占っていたのだが、ある時、非常に珍しい事態が訪れたんだ。
朝方。雨がしとしとと降る中で、今回の虹見張りを担当している青年のひとりが、家の中から出てきた。一晩中続いた雨降りで、周囲には依然、肌寒さがうずくまっている。
青年が身震いしているうちに、雨は次第に止んでいき風が吹き始めた。
勢いは増していく。すっかりぬかるんでしまった地面に浮かぶ水たまりたちが、しきりに肌を泡立ててしまうほど。
天でもよほど強いものが吹いているようで、濃淡入り混じる灰色の雲たちが、面白いものを見つけたかのように、西から東へ駆けていく。
その走りにともなって幕が開いていく青空に、五色の光の帯がすうっと浮かび上がる。
虹だ。ここまで急に浮かび上がってくるような事態は、青年のこれまでの経験の中では一度もない。加えて、さほど時間が経たないうちに、その姿に変化が見られ始めたんだ。
右へ左へ見渡す限り、空へ架かった五色の橋。その上方へ丸みを帯びていたはずの中央部分が、緩やかに下方へへこんでいくんだ。
平らから谷に、谷から地溝に、どんどん深みを増していく、虹の真ん中。いよいよ青年のいる村を囲んだ森の、背が高い木々たちに触れるかというところまで降りてきて。
底の部分が、左右へ分け放たれた。五色の帯は完全にちぎれると、今度は弾むような動き、軽々と先ほどの位置まで戻る。橋は変わらず、中央で真っ二つになったまま。
すぐに青年は長老を初めとする村の代表者たちへ、報告した。役目とは関係なく、早めに起きていた人々も、すでにこの怪現象を目撃している。
話を受けた長老は、すぐさま、村の若い者たちへと指示を飛ばす。
「虹の色に肌を染めた動物を、かの森の中から探し出せ」と。
長老曰く、虹がそのような姿をさらしたのは、天から降ってきたもののためらしいんだ。
空を覆わんとした五色の橋を越えて、地表へと降り立った闖入者、それはこの地に招いてはならないものだという。
若者たちは森の中での狩りに慣れていたが、今回の獲物は、これまで追いかけたことが一度もないもの。シカなどを見つけるのとはわけが違う。
大小さまざまな生き物に、長老の話したような痕跡を求め、若者たちは未だ、枝葉に雨粒を蓄える木々たちの中へ分け入っていく。水溜まる足元の地面は、場所によってはくるぶしのあたりまで沈んでしまうほどだったとか。
捜索開始から、およそ半刻後。最初に見つかったのは、五色の肌を持つネズミだった。
ぴちゃぴちゃと大きな音を立てて、水たまりのある道を急ぐネズミの列。たまたま近くで物音を聞きつけ、逃げ行くネズミたちの姿を認めた彼は、何に追われているかを見極めようとしたんだ。
列が通り過ぎてから、ややあって。がさがさと下映えを揺らしながら現れたのは、先ほどの連中より、一回り大きい図体のネズミ。そしてその肌は、今も空に浮かび続けている五色の虹、そのものの彩りをたたえていたんだ。
「本当に現れた!」と、目撃した彼は、走り去ろうとする虹のネズミのすぐ目の前の地面に、通せんぼするために足を突き立てる。すね近くまで潜ってしまうめり込み具合に、半ば体勢を崩しかけたが効果はあったらしく、虹のネズミは反応できずに彼の足の側面へぶつかってしまう。
すぐに方向転換して逃げ去ろうとしたところを、ぬかるみに足を取られたらしく、その場でうつぶせに倒れてしまったところを、彼はさっと捕まえた。
「虹の肌をしたものが一匹とは限らない。各々、見つけたらすぐに、わしの家に戻ってくるように」
村長からの指示だった。
彼はネズミをしっかり捕まえたまま、自分もぬかるみの地面に足を滑らせないよう、慎重に村長宅へ足を向ける。
陽はずいぶん高くなってきたが、虹は姿を見せたまま。村長宅にもすでに、様々な動物が集まり始めた。
そのほとんどは、ネズミとどっこいどっこいの大きさを持った小動物が主だったが、一匹だけ子ザルが混じっている。やはり毛から顔に至るまでが五色に染め上げられており、あまり気持ちの良い姿とはいえなかった。
彼らはそれぞれ小さな檻の中へ入れられ、村長が家の中央にある、巨大ないろりのそば。焚かれる火を取り囲むように配されている。
村長はというと、最初にここへ動物が運ばれてからずっと、火の真ん前に座り込み、榊の枝をふるいながら、なまりになまった口調で呪文を唱え続けていたんだ。周りにいる動物たちも、捕まえた当初こそ騒いでいたが、呪文を聞いているうちに、檻の床へと力なくへたり込んでしまう。今や、目立った動きを見せるものは、一匹もいない。
その最中。村長の家全体が「ぐらり」と傾いだ。
地揺れじゃない。それならば左右に多少は振られても、すぐに元へ戻るが道理。それが、傾いたままの状態そのままで、保たれてしまっている。
どたどたと足音を立てながら、息せき切って飛び込んできた村人が告げた。「村全体が傾いてしまっている」と。
村全体が、あたかも山の隆起に巻き込まれたかのごとき、様相を呈している。まるで森を山の頂とするような形で、村の北端から南端にかけ、つい先ほどまで平らだったはずの地面が、軽い傾斜のついた坂道へと変じてしまったというんだ。
更に、土台がしっかりしていない家屋のいくつかは、ぬかるみを増し続ける地面の柔らかさも手伝って、すでにずり落ちる気配が散見される、とも。
「とうとう堪忍の限界を超えた……」
長老はいったん呪文を止め、悔しげにつぶやく。
「早くしなくては、地面がひっくり返ることになるぞ」
尋常ならざる怒気に、報告した村人が思わず後ずさった時。村長の家に飛び込んでくる者があった。
森で捜索していた若者のひとりだ。彼は虹色の皮を広げたムササビを捕まえていたんだ。
すぐに持ってくるように告げる長老。ぐったりとしたムササビが、長老のわきへ置かれるや、その身体がにわかに光を放ち始めた。
檻の中にいる、他の動物たちの身体も同様。動かないのは変わらなくとも、おのずと五色の肌から淡い光が、瞬くように強弱をつけて、輝き出したんだ。
「間に合ったか。よし、最後の仕上げにかかる」
再び、呪文を唱え始める長老。それと競うように、また揺れと共に家が傾く。
更に続いて何度も何度も。わずかずつではあるが、確実に角度はついていき、いくつかの軽い檻は、部屋の隅へと滑って行ってしまう。外からも悲鳴や物音が、遠くから迫ってきては、反対側へと遠ざかっていった。おそらく、坂を転げ落ちているのだろう。
それでも長老は姿勢を崩さず、祈祷を続けていたという。
この時、すでに外では、森である「山頂」にほど近い場所に位置する北端の家たちは、慌ただしく生まれた急坂の被害をもろに受けていた。土台がもろくなっていた家が、地面を滑り落ち始めていたんだ。
人はまだ、四つん這いになってしがみつけば転がらずに済んでいたが、傾きは収まらず、皆がどんどん南側へ移り始めた時。
村長の家の屋根から、虹色の煙が漂い始めたんだ。左右へ頼りなく触れていた光は、ある高さに達すると、一瞬止まり、穴を通したかのように、まっすぐ速く、欠けた虹の橋へ向かって突っ走った。
空いていた五色の穴は、すぐさま煙たちで埋め尽くされる。あっという間に虹が本来の姿を取り戻すや、今度は傾いていた地面が急激に戻り始めた。
坂から平らへ。その動きはじわじわとした進みを見せていた、平らから坂への速さに比べると、ぞんざいともいえる性急さ。屋外の者たちはまともに動くことができず、足元の地面にしがみつき続けたという。
その時にはすでに、潤うことこの上なかったぬかるむ地面が、不思議と元へ戻ってしまっていたんだ。
家と地面の一部は流されてしまったが、幸い、犠牲となった者はいなかった。無事を確認した皆に、村長はこう語ったという。
「我らが目にする虹はな、神が作りしものなのだ。
神はしばしば雨を降らせて作物を実らせ、陽気と共に我々を熱し、時には争いへ駆りたてる……それはあたかも、我らが扱う鍋の中身のごとく。
今回は空から降ったものが、神の鍋づるを壊してしまった。それに腹を立てた神が、腹立ち紛れに、鍋の中身をひっくり返そうとしたのだ。
直すことができて僥倖。あのままでは文字通り、天地がひっくりかえっておったわ」
そのことがあって以来、一部の地域では虹のことを「鍋づる」とか、「地獄の窯のつる」と呼ぶようになったとか。