トイコの森の王タムオーン
「いいかい。決して街道を外れてはいけないよ。街道を外れると、最近は人攫いが出るらしい。ともかく、必ず街道を通ってシバイルまで行くんだ。そうすればきっと問題ない」
倉神正谷は、そう言った図書館長の言葉を再度思い出していた。
歩き易く石畳で舗装された道が、森の中を、果てが見えなくなるまで直線で道が続いている。これが、トイコ街道である。
一人旅は危ない。が、確かに街道沿いを歩いていれば問題はあるまいと思う。旅行者や行商、警備の巡回と思われる騎士まで、たびたびすれ違った。
正谷は、正直に言えばそこまで勇者伝説に興味があった訳では無い。しかし、もしかしたら元の世界に帰る手がかりがあるかもしれない、と言われれば、やはり居ても立っても居られなかった。別に恋人がいた訳でもないし、友達もそんなに多くはない。それでも、故郷である。
何かに突き動かされたような館長とは温度差を感じている。しかし、正谷のほうも、何か運命めいたものを多少は感じている。ふと、周囲を見渡す。見渡す限り森である。
正谷は、館長から聞いた勇者伝説についての諸説を改めて思い出していた。
勇者シギエとその仲間、一説に恋人というアエーネは、魔王を倒したあと行方不明。もう一人の仲間、モノー・クトビアは公爵の位とシバイルの街を賜り、現在までクトビア家は貴族として続いている。そして、勇者の乗騎だったという一角獣タムオーンは、恩典としてどこかの森を国王から賜ったというが、その森がどこかは、分からないらしい。いま歩いているこのトイコの森も、その比定地の一つだった。
下を向いて歩いていると、転びそうになった。理由は、道に大木が倒れていたからだ。見ると、比較的街道近くまで迫ってきていた山の斜面が、崖崩れを起こしたらしかった。
その時である。どこからか男の呻き声のようなものが聞こえた気がした。気のせいだろうか。いや、もしかしたらこの崖崩れはほんの数時間前に起きたもので、巻き込まれたもののいまだ助けを待つ人がいるかもしれない。
運命めいたものを感じる、という館長の言葉を、たまたま思い出していたのもあって、正谷は、街道を少し外れ、声の方へ向かうことにした。
森を抜けていると、馬車のようなものが土砂に飲み込まれて生々しく砕け散っているところへ遭遇した。慌てて周囲を見渡す。近くの木陰に、人の気配がした。
急いで駆け寄ると、幼い少女が猿轡を嵌められ、後ろ手に縛られ、木に寄り掛かって休んでいた。足にも縄が巻き付いているが、擦り切れたらしい。ともかく足だけ動かして、木陰まで来たようだった。
人攫いが出る、という話を館長から聞いていたが、何となく甘く考えていた。しかし目の前の少女は、尋常な様子ではない。
そこで正谷は、初めて自分がいま中世に居ることを自覚した。ここは安全な日本ではない。それまで、頭でしか解っていなかった。
正谷は取り敢えず、待たされていた旅道具から小刀を取り出すと、少女の腕と口を解放した。
「大丈夫?」
少女は、目を覚まして正谷を見つめると、黙ったまま頷いた。
「他に人は?」
正谷はそう言いながら、目線で馬車の残骸を示す。すると、今度は少女は首を横に振った。
「……」
正谷は黙って考える。仮に、あの土砂の下にまだ生存者がいても、助けることが出来ない。少女の言葉を信じざるを得なかった。
「ちょっとごめんね」
一声掛けて、少女を背負う。改めて馬車の残骸を見つめる。攫われて、人攫いごと土砂に巻き込まれたのだろうか。ともかく、街道に戻らねばならない。トイコの森の街道は、大人の足ならば一日かければ日が落ちる前に抜けられる。しかし、道草を食ってしまっている。
「よし」
と、一声ついて、後ろの森へ振り返る。その瞬間、正谷の頭は真っ白になった。
帰り道が、分からない。街道を外れるな、という館長の言葉だけが頭の中に響いている。
ともかく、進まねば。そう思い、正谷は少女を背負って、記憶だけを頼りに来た道を歩き出した。
それから暫く、正谷は森の中を歩いた。
「大丈夫だからね」
時おり背中へ声をかけながら。しかし、内心では非常に焦っていた。歩きながら正谷は、冷静さを欠いていたことを自覚し始めている。明らかに街道を外れて事故現場へ辿り着くまでの時間より長く歩いているのに、街道へ戻れない。後先考えず歩き出したのは失敗だった。日は、暮れかかっている。このままじゃ俺も遭難だ。
「愚か者め、お前も死ぬぞ」
突然の声に、正谷は顔を上げた。見ると、少し先に巨大な影が見える。正谷は目を凝らした。
白馬だ。三メートルくらいはある。頭に角がある。そして、彫刻のような美しさが何処かにあった。
トイコの森は、聖獣タムオーンが領地として賜った森の可能性があるという話だ。あれがタムオーンだ。そう直感した。
馬鹿者め。お前まで死ぬところだぞ。早くその子を私の背に載せろ。お前は歩け。森の出口まで連れて行ってやる。
私か? 私を知らんのか。まあ、まだやむを得まい。
私はタムオーン。この森を管理している。何だ、もう知っているではないか。ああ、あの下らん絵本で知ったのか。まあ良い。
聖獣は勇者しか乗せないのではないのか、だと。馬鹿を言うな。あいつだって私は乗せなかった。そうだな、森を出るまで、少し話をしてやる。退屈だからな。よし、何から話そうか……。
まず、私の生い立ちから話すとしよう。お前は今、そもそも魔族について、もう知っているか? 知らんのか。ならそこからだな。
そもそも生物には、同じ種類の動物でも、魔法に長けた者と長けていない者がいる。魔法に長けている者を、魔獣とか言う。人間の場合は、魔族と普通の人間ということになるな。
私は馬の魔獣の一族の生まれだ。私は一族の中でも変わり者と呼ばれていてな。他の連中は、人間に遜るなんざ糞食らえと思っていて、私も同じだが、ただ私は、人間の、若い、美しい少女なら、背に乗せたいと、いつも思っていた。だってそうだろう。若い人間の女が、最も美しい。
ああそうだ、今あるあの下らん絵本では、私はシギエの奴の乗騎ということになっている。不服だな。私が普段背に乗せることがあったのは、アエーネくらいだ。それがいつの間にか、変な話にすり替わっている。一角獣を操る勇者樣、勇ましいことだな。本当に、柄ではあるまいに。確かに私が背に乗せれば、あいつもまあ多少はましに見えるだろうが。
実際に私があいつを乗せたのは、あの鋼の龍を討伐する時ぐらいだったか。あの時は、さすがに切羽詰まっていたからな。
話を戻そう。私がほんの子馬の時分だ。人間の王の一行が、当時、馬の魔獣の一族が住んでいた森の近くを通るらしい、そして王は若い娘を連れているそうだ、と聞いて、思い切って森を抜け出した。
大きな湖があって、王の一行はそこに幕を張って休息していた。私はそこへ忍びこんだ。すると確かに娘はいた。いたが、まだ四、五才の幼い娘だった。幼すぎたが、しかし私は一目惚れでな。その娘の前に思わず傅いた。すると王や取り巻きたちが、
「伝説の一角獣が実在するとは。それだけに限らず、人に馴れるとは。姫様には何か不思議な力があるに違いない」
と言いだして、そのまま私は、王城の厩に召し抱えられた。すぐに、人間と言葉を交わすことが出来ることもばれた。しかし、姫さまの話し相手になるだろう、ということで、むしろ姫さまの最も側近くで仕えられるようになった。こうしてそれから十年ほど、楽しい時間が流れた。姫さまは美しく成長し、私も、大人と呼べる体格に成長していた。大体その頃のことだ。そう、あの絵本で「魔王軍侵攻」とか呼ばれているような事態になったのは。
王は直ちに討伐軍を編成し向かわせた。あの時の私は、それで騒動は収まるだろうと考えていたよ。しかしそうはならなかった。
聞くと、魔王軍を攻めると、いつの間にか軍に動揺が広まって、最後には兵士が勝手に四散しまうと言うのだ。その原因についてだが、城で聞いた話では、兵士が魔族に変じた、というのだ。兵士が魔物を斬る、すると兵士も途端に死ぬか、或いは魔族になってしまうというのだ。そんな馬鹿な、とその時は思った。
しかし、あるとき実際に魔族になった兵士が一人、王の前に連れてこられた。それを私も見て、人が魔族になるという話は、どうやら真実らしいと知った。そのころ王城にいた魔法学者の話では、魔物というのは、体内に魔力を豊富に蓄えているものらしい。そして、本来あり得ないことだが、兵士が魔物を斬ると、死んだ魔物の魔力が目の前にいる人間、つまりその魔物を斬った兵士に急激に流れ込みらしい。そうすると、その兵士は耐えきれず死ぬか、同じ魔物になってしまうようだ、というのだ。
王の前に連れてこられた兵士は結局、斬られたがね。とにかくその話が軍の中に広まり始め、次第に軍は纏まりを欠き、すぐにもう軍の様相を成すことが出来なくなってしまった。
そのうち、魔物を斬っていなくても魔物になる者が現れ始めた。学者の話では、殺される魔物が増え、放出された行き場の無い魔力が空中に溢れ、それを吸った者が魔族にななっているらしい、ということだ。
魔族成り、という言葉が作られた。魔族に成ってしまった元人間のことだ。魔法学者が決めた。当時の王城は、魔王軍の侵攻とやらと、自国民や兵士の魔族成りによって、混乱の極みだった。
さて、もう少し話そうか。その頃、今では勇者などと大層な名で呼ばれている、あのシギエが初めて王城にやって来た。
そのころ、王国軍は魔王軍に連戦連敗らしいぞ、という情報が、国民の間に流れ始めて、王都でも王に対して公然と批判の声が上がるようになり、しまいには暴動が起きたりするようになった。そもそも軍を維持できなくなっていたのだから、戦争にすらなっていなかったというのが実際の状況だがね。
そんな時、短絡的で頭の悪かった当時の王は、分かり易い示威行為として、公開処刑を行うことに決めた。城の前の広場で、魔族の首を刎ね、強気な姿勢を示そうと言うのだ。
そもそもこんなことを王が言い出したのは、処刑するあてがあったからだな。まず、城の中に囚われていたモノー。絵本では、王の暗殺を企てたなどと言う話になっているそうだが、そんな理由では無かった。それから、辺境の田舎の村で捕らえられた、魔族成りの娘。それがアエーネ。そう、アエーネは魔族成りであった。そう言えば今、王府が公式に出版している勇者物語では、アエーネは魔法を扱うのが巧い人間の娘ということになっているらしいな。勇者一行のうち、魔族はモノー独りで良く、人間をもう少し活躍させたいとでも思ったのだろうか。それからさらにもう一人、アエーネの村で共に捕まり、護送されてきたという人間、それがシギエだった。
シギエは人間だった。しかし、普通の人間と比べれば、明らかに異常だった。人間といえば、空のように青い髪に、海のように青い目。そうだろう。それがどうだ、あいつの髪は、空と言っても星一つ無い夜空のように暗く、目も、墨のように濁りきっていた。そう、お前のようにな。
私も馬の魔族の出身だから、シギエのやつが魔族でないことは、すぐ分かった。しかし、その見たこともない不気味な容姿から、魔族としていっぺんに処刑してしまおう、という話になった。
とにかく、既に囚われの身であったモノーに加え、アエーネとシギエを魔王軍の先兵として処刑することになった。
そのころ、姫さまは大変なお人好しと城内でも有名であった。だから、処刑のことは伝えていなかった。そしてその晩のことだ。私はいつも通りどうでも良いような話を姫さまとして、もう寝る時間だ、と挨拶をして、部屋を辞そうとした。姫さまに父親の残虐な行いを知られぬようにするのも私の使命の一つだった。その時だ。三人が姫さまの部屋に駆け込んで来たのは。
三人は、そこで姫さまに命乞いをした。王は一人娘の姫様を溺愛していて、言うことを何でも聞いてしまうような人だった。それで、お人好しの姫さまに事態は知られ、姫さまに責められた親馬鹿の王は、土壇場で処刑を取り止めた。
大臣たちの中には、彼らに同情的な者もいた。牢を抜け、複雑な構造の城を抜け、王ではなく姫さまの部屋にたどり着いて、命乞いをした。全く幸運という他ない。そう言っていたよ。
三人は王都を追封されることになった。それで話は終わる筈だった。三人を気使った姫さまは、最後に会いに行った。その場でなんとシギエの奴は、これから魔王討伐の旅に出る、と大見得を切りやがった。ついては、この私、その逞しい聖獣をお借りしたい、言い出した。私は、お前なんぞ背に乗せる気はないぞ、と言ったが、シギエは、それは承知の上で、それでも、と言った。この言葉に感動した姫さまは、私にお命じになり、私は渋々シギエに着いていく羽目になった。
全てが終わった後の時代になって、姫さまは、あの鋼の竜を討伐する際に私があいつを背に乗せたと知り、きっとあのとき勇者さまは、鋼の竜の出現を予期していたに違いない、なんて言っていたな。
そろそろか、森を抜けると、シバイルに入る隧道がすぐに見えてくる。見えたな、あれを抜けた先が、シバイルだ。次はモノーに会うと良い。モノー・クトビア。ああそうか。初代シバイル公爵、と呼ばねばならんのだったな。ははは、シギエといい全く出世したものだ……。
聖獣に促されて目を向けると、大きな隧道の入り口と、暗いのにまだ人が並んで手続きを待っている様子が、遠くに見えて来た。