パータ村営図書館長ラス・クオーナ
「ああ、マサヤくん。ご苦労様」
彼の名前は倉神正谷という。そして、今彼に話し掛けたのはこの村唯一の図書館の館長を勤めている男である。
「お疲れ様です。館長」
正谷は本を整理していた手を止め、顔を挙げた。
「そろそろひと月か」
「そうですね」
その言葉通り、正谷がこちらの世界に来てから、そろそろ一ヶ月が経とうとしていた。
「休憩しよう」
という館長の言葉に従い、正谷はもう慣れた手付きで水場で茶を用意し、椀を二つ持って机へ戻る。館長は、机の上に茶菓子を拡げていた。
一息つきながら、正谷はひと月前の蒸し暑い日のことを考えていた。
「真面目に生きて来たつもりだったけどな⋯⋯」
そう呟く。その訳は、彼がこちらの世界に来た経緯に有った。
あの日、地元の道を歩いていた正谷は、下り坂に差し掛かった。なんてことは無い坂である。
次の瞬間、茂みから蛇が飛び出してきた。今思うと、たぶんアオダイショウであるが、それはどうでも良い話である。田舎だから、まあこういうこともあろう。しかし運の悪いことに、驚いて態勢を崩した正谷は、そのまま下り坂に飛び込むような形になってしまった。そして、頭の先に有ったのが、子供の背丈くらいはある石仏であった。
鈍痛のあと、気付いたらこの世界に来ていた。一ヶ月色々調べたところ、どうやら異世界としか言い得ないような世界らしかった。
「お地蔵様だったよな⋯⋯」
正谷はまた呟く。何度も目にしていたあの坂の石仏は、確かに正谷の記憶通り、地蔵菩薩である。自分はずっと悪事もせず真面目に生きて来た。そういう自覚のある正谷にとって、仏罰のようなこの状況は不服があった。もしくは、仏が何か使命を与えたのかもしれない。最近はそう思う事にしている。
ともかくあれから一ヶ月、正谷はこのパータ村の村営図書館に寄宿して暮らしていた。先ほどから館長と呼んでいる目の前の中年の男は、正谷が現れると彼を保護し、衣食住を与えてくれた恩人である。正谷は本当に感謝していた。
「そういえば、正谷くんはこの国の勇者伝説についてはもう知っているかい?」
「はい」
勇者伝説は、この国ではごく一般的な童話である。この国の子供たちはみな絵本の形で読み聞かせられるから、知らぬ人はいない。正谷の母国、日本でいうところの、桃太郎伝説のようなものである。
館長、名前はラス・クオーナという。彼は、村一番の知識人だ。もともとこの村のごく普通の農家の息子として生まれ、幼い頃は神童と呼ばれた。このパータ村は田舎で、まともに学校で勉強をした経験のある人間は殆どいなかった。当時の村長はこうした村の状況に危機感を覚えていて、幼かった彼を、思い切って村の援助で都会の学校へ送る決断をした。
こうして、彼はただの農民の出身ながらまともな教育を受ける事が出来た。ただし、やはり田舎の村で、都会の世界は広かった。いざ王都の学校に出ると、彼は平凡な学生であった。神童と呼ばれた彼より優秀な学生はごろごろいた。
こうして都会での学問を終えた彼は、そのまま大学に残って研究を続けることはせず、故郷に戻り後進の育成に当たることにした。この村に有った古い教会を修繕して図書館を併設し、今は独りでそれを切り盛りしている。
あいつのお陰でずいぶんこの村は良くなったよ。そう語るのは、館長を都会へ送る決断をした当時の村長の孫で、かつ館長の幼馴染である、今のパータ村の村長である。二人はよく一緒に酒を飲んでいて、酔いつぶれた館長を迎えに行った際に、この話を聞いた。
どうやら村長は、館長は敢えて学問での立身出世を目指さず、村の為に生きる事を決めた人だと思っている様だ。しかし正谷の見るところ、館長は恐らく挫折して地元に戻って来たのだと思う。と、言うのも、正谷の大叔父に一人、東京の大学で打ちひしがれて、地元で教師として一生を送った人物がいた。恐らく館長の心は、大叔父と同じであろう。よくいる田舎の知識人、と言ってしまえば、それまでであるが。
話は戻る。王都の大学にいた頃の館長は、歴史と物語について勉強していて、まさに勇者伝説を研究していた。今でも論文を送ったりしているらしいが、鳴かず飛ばずである。
「実はね、君に話したいことがあるんだ。勇者伝説についてだよ。今日はもう人も来ないだろうし、聞いてくれるかい」
はい、と正谷が返事する前に、館長は語りだした。
昔、僕が王都の大学にいたことは知っているだろう。都会は、都会と言うのは凄いな。頭の良いのがこの世にあんなにいるのかと思うよ。ああ、ともかくそれでね、大学を辞めてこの村に帰ってきたときのことだった。僕は、半分朽ちてぼろぼろになっていたこの教会の椅子で、一人でぼけっとしていた。まあ当時は、これからどうしようかとか、色々悩んでいてね。ともかくそうしていると、一人の青年がやって来たんだ。この村の人間じゃなかった。
「せっかくシギエさんの寄進で建てたのに、こんなになっちゃって」
その青年は確かにそう言った。驚いて僕が声を挙げると、その人は初めて僕に気付いたようだった。
「人がいたのか、申し訳ありません。私は、ホーガットと申します。旅行者です」
それを聞いて真っ先に僕が思い出したのは、もちろんあの勇者伝説のことだ。シギエというのは勇者の名前だし、ホーガットというのは勇者の仲間で、一説では恋人だったとも言うけれど、ともかくその女性、アエーネ・ホーガットの姓だ。
でね、まさかとは思うが、この人はアエーネ・ホーガットの子孫か何かで、勇者シギエ伝説について家にだけ伝わっている事とかを知っているんじゃないかって、咄嗟に思ったんだ。だって、この村の教会が勇者の寄進で建てられたという伝説は、本当に村の人しか知らないことで、よその人の彼は知るはずないって思ったから。そんな風に考えていたとき、
「らしくないなあ」
と、その青年は、教会の古い壁画を見て呟いた。何がらしくないのかと聞いたら、髪だ、と言った。
教会のほうにある、あの壁画だよ。君も見たことがあるだろう。空のように真っ青な髪に、同じように真っ青な目をした勇者が、一角獣タムオーンに跨がって、聖剣ハイレイカを掲げている様子が描かれている、あの絵だ。その両隣にシバイル公のモノーと件のアエーネが描かれてもいるよね。
元々この国の人々、ハイハド民族は髪も目も青い人種だったそうだ。今では色んな民族と混血が進んでいてそうでもないけどね。ほら、僕の髪も青みがかかっているだろう。とにかくそのせいか、今でも青髪青眼が美の理想として扱われる文化があって、勇者に関する絵も、残っているものはみんな、決まって中心の勇者が最も青い髪をして描かれているんだ。
でもおかしいだろう。あの壁画も、こすれて色が薄くなっているけど、やっぱり勇者シギエの髪は深い空色だ。なんでこの人は、らしくないなんて言うんだろう。
そんな風に考えていたら、いつの間にか青年はもう帰ろうとしてしまっていたから、僕は名前について聞かせてほしいと慌てて言ったんだ。もちろん、ホーガットという姓は勇者の仲間のアエーネ・ホーガットと何か関係があるのかという意味だ。そしたら、
「オール・ホーガットと申します。それでは、また機会があれば伺います」
と言って、青年は行ってしまった。下の名前まで聞かれたんだと思ったらしい。僕の聞き方が悪かった。
ともかくそれから、僕は心機一転、この村の教会を綺麗にして、図書館も併設して、ゆくゆくは学校も作ろうと思って、色々活動することにしたんだけど、教会を掃除していたある日、例の壁画のところに、何か変な窪みみたいなものを見つけたんだ。その窪みみたいなものをいじってみると、何と、隠し扉になっていて、裏に小部屋があった。驚いたよ。
ずいぶんと人の手が入っていない様子だった。その頃の教会はもう常に人がいる状態じゃなくて、半分廃墟のようなものだったから、村人も誰も知らなかったんだろう。ともかくそこへ入ると、それこそ、この国の勇者絵の中でも非常に古い部類じゃないかと思う勇者絵があった。
年代なんてどうして分かるのかって? 絵の具の使い方とか、書き込まれてる小物の種類とかで、だいたい特定出来たりするんだよ。たまたま僕は専門家だったから、その辺りに詳しくて、その小部屋の勇者の絵が本当に古い形の勇者絵だって分かった。でもね、その絵には一つおかしなところがあって、僕はそれを見て驚いたんだ。勇者さまの髪だ。
そう、髪は真っ黒だったよ。ところで、この国には昔から、流れ人、という現象が時たま起こる。
どこか別の世界から神さまが人を連れてくるんだ。その、連れて来られた人のことを、この国では流れ人と言うんだ。
そう、君だよ。流れ人というのはこの国では有名な現象だけど、実際に流れ人を見たのは君が初めてだ。
それで、流れ人の特徴として昔からよく語られることがある。それは、流れ人として別の世界からやって来た人は、大抵真っ黒の髪と眼をしているというんだ。この国や周辺の民族にも色々な髪の色をした人々がいるけれど、髪も眼も全く黒いのは流れ人だけ、そういう言い伝えがある。だから、君のその黒髪黒目を見て、流れ人だってすぐ思った。
話を戻すと、僕はその古い勇者絵を見て、伝説の勇者さまは流れ人だったんじゃないかって思った。
その絵には他にも、後の時代に描かれたものとは違うところがいくつかあって、例えば魔族出身で勇者さまの味方になったモノー・クトビア、つまりシバイル公爵は、大抵赤い髪をしている。それは、彼が魔族だからで、今でもこの国に魔族の混血の人はいるけれど、やっぱりその人たちは真っ赤な髪をしている。でもその絵では、シバイル公は真っ青な髪をしていた。勇者さまとは逆だね。
他にも、聖獣タムオーンが勇者さまを乗せていなくて傍らに立っているだけだったりとか、アエーネの隣に彼女に似た男が立っていたりとか、とにかく現代に一般的に流布している絵とは違うところが多かった。
僕はこのことを論文にまとめて、王都に送ったけれど、まともに相手にされなかった。この国の人々にとって、勇者伝説はまさに建国神話のようなものだから、その勇者がハイハド人じゃないなんて、到底受け入れられなかったんだ。お陰で、僕は王都では頭のおかしい野良学者だと思われているよ。
ただ一人、僕の説に対して興味を示してくれた人がいた。シバイル公爵だ。もちろん勇者伝説のシバイル公爵じゃない。今もシバイル市に君臨している、当代のシバイル公爵だ。確か十三代目だったかな。ともかく彼だけはそう言ってくれ、しかもこの教会や図書館を綺麗にする援助までしてくれた。
ところで、一般に流布している勇者伝説の中に、一つ奇妙なところがあると思はないかい?
そう、勇者さまの活躍に対して、その仲間の初代シバイル公爵のことが妙に強調されているんだ。恐らくそれは、今の一般版の勇者伝説が広まる過程で、シバイル公爵家の影響力があったんじゃないかと思う。どういう形か分からないけどね。
その、シバイル公爵家だ。シバイル公爵とは今でもやり取りをしていて、この前、一度訪ねて来ないかと、旅費をくれたんだ。
長々喋ってしまったけれど、ここからが本題だ。マサヤ君。きみ、僕の代わりにシバイルへ行かないか。と言っても実は、公爵には手紙でもうこのことは伝えてある。言い方を変えよう。君はシバイルへ行くべきだ。いや、もっと言えば、勇者伝説を辿ってみるべきだ。
なぜこんなことを言うかというと、勇者伝説の結末だ。勇者さまは、どこかへ旅立って行方が知れない。今でもシバイル市に君臨するシバイル公爵家の祖先になったモノー・クトビアとは対照的だ。だけど、もし勇者さまが流れ人だったなら、一つの可能性がある。そう、勇者さまは、もといた世界に帰ったのかもしれない。
シバイル公爵から手紙を貰ったのと殆ど同じ頃に、君という存在が僕の目の前にやって来た。少しくさいことを言うが、何だか運命めいたものを感じているんだ。
君はこの一ヶ月、たびたび僕にお礼を言ってくれるけど、そんなの気にしなくて良い。むしろ、一ヶ月図書館を手伝ってくれ、異世界の話を聞かせてくれただけで、もう僕は充分だ。
もう一度言うよ。ぜひシバイルへ行ってほしい。それで、何か勇者伝説の真実を掴んでほしい。ゆくゆくは、君が故郷に帰る手段が見つかるかもしれない。
強引なやり方になってしまってすまない。でも、不思議なんだ。なんだか妙に運命に急かされているような感覚がする。ともかく、もう旅の準備はできてる。明日にでも出発できるだろう。いいかい、君は行くべきだ。