つゆと知らずに
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『久しぶり。わたしのこと、覚えてる?』
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高校入学からもう三か月が経過しようとしている。制服も夏服へと変わりゆき、環境の激変にうろたえていた新入生たちもすっかり高校生らしくなってきたように感じた。
授業が終わる時間は中学の時よりずっと遅い。授業の一つ一つの時間が以前のそれより少しだけ長くなった結果、全部が終わるのは結構な時間になっている。この時期だからか、窓の外の空は気持ちのいい青さだが、冬になったらまた違うのだろう。
廊下を歩けばすれ違う人は皆自分と同じ一年生ばかりだ。立ち止まって談笑する人もいれば、玄関とは逆方向へ向かう人たちもいる。
昇降口で靴を履き替える。高校生になるから、と言って親から革靴をプレゼントされたが、普段履いているのはくたびれた運動靴だ。ここから駅までは歩いて十分の距離で、そこから電車で三駅、家までは歩いて五分程。通学方法の変化にも、すっかり慣れてしまった。
校舎から出れば日差しが肌を焼く。天気予報によれば、ここ数日は今年最高の暑さを記録し続けているらしい。太陽も張り切りすぎだと思う。
早く冷房で涼もう、と足を進めようとして、一人の女子が目に留まる。顔に見覚えがあった。クラスメイトではないことは分かる。となれば、入学式の時に見かけた人だろうか。もしかしたら、中学時代関わりの薄かった人かもしれない。
考え込んでいると、彼女はすたすたとこちらへと近づいてきた。ぶしつけに眺めすぎて気分を害したのだろうか。何を言われるのかと身構えた。
しかし、思いのほか彼女の口調は穏やかであった。
「かけるくん、だよね?」
予想外に自分の名前を告げられて当惑する。見覚えがあるどころか知り合いだったようだ。記憶を探るが、彼女が誰かは判然とはしない。
「そう、だけど、」
「やっぱり!」
花開くような微笑。手を打ち合わせ、彼女は再会の喜びを表した。一歩、また近づく。自然な動作で手を握られた。かっ、と急に体が熱くなった。きっと、張り切りすぎた太陽のせいだと、誰にともなく心の中で言い訳をする。
「わたし、みさきだよ。松山みさき!」
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『つらくなんて、ないよ』
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小学校の頃、転校していってしまう人が毎年一人ぐらいはいた。三十人ちょっとのクラスメイトから一人いなくなるというのは結構な大事件だが、何年も経つとそういうやつらのことはだいたいが忘れてしまっている。
松山みさきもその一人だ。入学式は一緒だった(と言っても記憶にはない)が、卒業式を一緒に迎えることはできなかった。だが、彼女については鮮烈な記憶が一つあった。
いじめだ。
小学四年生の半ば、彼女はクラスの女子の一部から嫌がらせを受けていた。話しかけても無視をされる。上履きや着替えを隠される。給食の配膳の時、彼女だけ順番を抜かされたこともあった。直接体を傷つけるようなことは、自分の知る限りはなかったように思う。
彼女と仲が良かったはずの友達の豹変を、クラスメイト全員が異常に感じていた。一学年で一つだけのクラスは、それなりに皆が仲良くやってきた。だから、誰も理由が分からなかったのだ。松山みさきがいじめられる理由が。
誰も声を上げていじめを非難することはなかった。当の松山みさき本人ですら、何も言わなかった。いじめは三か月程度続いた。一月を超えたあたりには皆顔色も変えなくなるくらい、いじめに慣れていた。
一度だけ、彼女への嫌がらせに関わったことがある。別にいじめに加担したわけでも、いじめの首謀者へと食ってかかったわけでもない。掃除を押し付けられた彼女を手伝っただけだ。
予備教室の掃除当番だった。今日はあの子が一人で掃除してくれるって、という言葉に促されて他の班員は出て行ってしまった。自分は、と言えばただおいて行かれただけ。周囲の変わり身の早さに戸惑ってただ立ちすくんでしまったのだ。教室の中に二人取り残されて、気まずい雰囲気だった。
『掃除、しよっか』
口から出たのはそんな言葉だけだった。目の前の悪意を見なかったかのような、あるいは見なかったことにしたいかのような態度。ほうきとちり取りを用具入れから出して、とにかく掃除に取り掛かった。
掃除の間は無言だった。元からそこまで口数が多いわけでもないから珍しくはなかったが、その日の無言はいつもよりつらい気がした。
二人だけで掃除をして、そろそろ教室に戻ろうかという時間。ようやく彼女の口が開いた。
『ありが、とう』
うつむきながら小さく告げられた一言。ほんの少しだけ、その気になって、一つだけ質問した。
『つらいの?』
返事が返ってくることはなかった。口はぎゅっと一文字に引き結ばれ、うつむいた顔はずっとうつむいたままだった。
それでも、彼女はゆるゆると首を横に振った。声にはならなくても、彼女の言葉が聞こえるようだった。
自分が何かをする事はなかった。彼女への嫌がらせはそれからいくらかたった頃にぱったりと止み、彼女たちは元の仲良し友達に戻った。
五年生に進級する直前、彼女の転校が決まった。お別れ会をするから、と言ってパーティーを主催していたのは彼女をいじめていた女子だったこと、そして、そのパーティーに呼ばれなかったことは、なぜだかよく覚えている。
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『昔みたいに呼んで』
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「それじゃ、こっち戻ってきてるんだ?」
「うん。今は、昔住んでた家にいるよ」
親の転勤の都合で何度も引っ越しをしたと彼女は語った。居住地を転々と変え、今年の春には戻ってきたのだと言う。
「でも、びっくりしたなー。かけるくんと同じ高校だったなんて」
「それはこっちもだよ」
小学校の頃別れた昔なじみと高校で再会するなど、まるで妄想染みている。しかも、こっちは相手が分からなかったのに、相手の方はこっちのことが分かっていると言うのだからなおさらだ。
青空の下、駅からの帰り道を一緒に歩いた。隣に並ぶ彼女は小学校時代とはずいぶん変わっていた。それこそ、一目見て彼女だと分からないほどに。
「かけるくんは何組なの?」
「2組。みさきちゃんは?」
「わたし5組だよ」
「あー、それじゃ体育でも選択でも一緒にはやらないね」
「ね。残念だねぇ」
ふふ、と笑う。彼女が最も変わったと感じるのはその笑い方だ。昔の彼女はおとなしく、控えめだったように思う。今はすっかり変わって、朗らかに、陽気に笑うようになっていた。
「まー、だったら休み時間にでも会えばいいかな」
「それはいいよね。わたし、お弁当手作りしてるんだ。今度の昼休み見せてあげるよ」
軽い気持ちで出した提案に予想外の食いつきがあった。昼休み? まさか他のクラスで昼食をとるつもりだろうか、想像以上の積極性だ。
ふと、風が頬を撫でた。初夏の陽気。熱を孕んだ、しかし体を冷ます風だ。ふわり。嗅ぎ慣れない匂いが運ばれてきた。
「かけるくん、ケータイ持ってる?」
彼女の問いかけに肯定で返す。この春買ったばかりの最新機種だ。買ったばかりということもあって使い方もよく分からず、アドレス帳の登録数も数えるほどしかないが。
アドレス交換しよう、と彼女が取り出したのはピンク色のいかにも女の子らしいケータイであった。慣れない操作に四苦八苦しながら、何とかアドレスを交換する。機種は違うはずだが、彼女はアドバイスできるくらいにはケータイの扱いに優れていた。
「これでオッケー。じゃ、暇な時とか電話しようよ」
気づけば、もう家が見える距離にまで近づいていた。昔住んでいた家に住んでいると言うことは、彼女の家もそう遠くないだろう。
「もう、家着いちゃったな。それじゃ、また」
「またねー」
笑顔で、彼女と別れる。玄関を開けて家に入ろうとして、踏みとどまった。曲がり角の向こうに消えていくまで彼女を眺めた。後ろ姿に昔の面影はない。背も伸びた。
曲がり角を曲がる直前、彼女が振り向いた。視線がぶつかり、顔が熱くなる。彼女は笑顔のまま手を振ってきた。手を振り返せば、彼女の姿は角の向こうに消えていた。ほう、と息を吐く。
彼女に握られた右手は、その体温を忘れなかったのか。その日ずっと熱いままだった。
*
『伝えたいことがあります』
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花火を見に行こうと彼女に誘われてやってきた近所の夏祭り。花火が打ちあがるまでの時間を屋台巡りで楽しんでいたところ、突然の雨に避難を余儀なくされた。屋台の軒先で雨をやり過ごしたり、運営のテントに駆け込んだりと、周囲もあわただしい。かくいう自分たちも、比較的広い運営のテントにもぐりこんだ口である。
降り始めは強烈だった雨も、もう弱まってきている。視界にはちらほらと傘をさして出店で買い物をしている客も見かける。全くもってたくましい。テントに逃げ込んだ人を迎えに、ぽつぽつと傘を持った人がテントに来ている。
「昔さ、台風の影響で学校から帰れなくなったことあったよね」
「え、ああ。そんなこともあったね」
ぼーっと雨を見つめていた彼女の言葉に若干驚きつつも思い出す。昼から降り出した雨。横殴りの強風に、教室のガラスが悲鳴を上げているかのようだった。保護者に迎えに来てもらいなさい、それまで教室で待っていなさい、という先生からの言葉に、学校に閉じ込められたような錯覚を覚えた。
自分や彼女は、親が迎えに来るのが遅かった。一人、また一人と、親に迎えられ帰っていく様を見送った。思わず、懐かしいと呟く。
窓をたたく雨の音に負けないように大きな声ではしゃいだ。教室に残った数少ないクラスメイトと盛り上がった。不安だったし寂しかった、ように思う。昔の話だ。正直なところ、そこまで詳しくは覚えていない。
「あの日、かけるくん、普段より元気いっぱいだったよね」
「なんか、人からそう言われると恥ずかしいな」
「大丈夫、全然恥ずかしくないよ」
くすくすと笑う彼女を見ることが出来ない。昔のことを持ち出されると彼女ばかりがよく覚えていて、どうにも気恥ずかしい。
「あの日、ね」
彼女は言った。
「わたし、かけるくんから『もっと笑った方がいい』とか言われたんだよ」
「そんなこと言ったかな」
「かけるくん、覚えてないんだ。ひどいなぁ」
ひどい、と言うわりに彼女の顔は楽しげであった。ほっと息をついたが、続く言葉に呼吸が止まった。
「それから、わたし、かけるくんのこと見るようになったんだよ」
「えっ、」
「雨、すっかり止んだね」
問い返す言葉を無視して彼女は一歩を踏み出した。唐突に振り出した雨は終わるのも早かった。設置されたスピーカーから、予定通り花火の打ち上げは行うとアナウンスが流れている。
花火がよく見れるところに行こう、と彼女に手を引かれる。雲のせいもあるだろうか、空はすっかり暗い。屋台の電飾に照らされて、彼女の横顔も赤らんで見える。
「わたしが転校する前、お別れ会があったのは覚えてるかな? というか、知ってるかな?」
尋ねる声は控えめだった。
「知ってたよ。まあ、呼ばれなかったけど」
「ああ、それは、」
数秒、躊躇して、
「ホントはね、かけるくんも呼ぶつもりだったの。ただ、わたしが直接呼びたかったから」
でも、と彼女は続けた。
「どういう顔をして会えばいいか分からなかったの。わたし、その時はとっても混乱してて。かけるくんに声をかけられないまま、時間だけが過ぎちゃったの」
歩きながら語る彼女。つながれた手が熱い。自分の体温と彼女の体温が溶け合っていくように錯覚する。連れていかれた場所は、眼下に湖を臨む、人気のない場所だった。
「今なら言えるよ」
彼女が振り返る。見間違えではない。瞳は熱にうるんでいた。唇が震えて、確かな言葉を紡ぎだす。
「ずっと前から、好きでした」
遠く、大地を揺るがす炸裂音を聞いた。夜闇に咲いた炎の花は、瞬くように煌めき、溶けるように消えていく。
それでも、きっと、そこにあったのだ。