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三抄.時の刻印

 いつからだろう。知識と言うものを常識に取り入れ、世界の広さに夢が膨らみ、世界の広さに絶望を抱くようになったのは。

「匠、ゴミがあるなら出しておきなさいよ。明日は収集日よ」

「分かってる」

 部屋の片隅に対して詰まったもののないゴミ箱。入っているごみの中に白い紙が皺を作って重なっている。

 

―――拝啓

 早くも夏の日差しが煌々とバラの花を照らす鹿児島ですが、そちらはどうですか?

 この間は手紙、ありがとう。


 いつからだろう。その文面に真似をするようになったのは。そしていつからだろうか。そこから続きを書くことが出来なくなったのは。

 今日、帰りに恐らくほぼ間違いなく勘違いをされた。如月さんが俺の彼女として、俺が如月さんの彼氏として。それでも感じるものに嫌悪感はない。元々クラスメイトとしてよく会話を交わす方だ。その影響に絆されていると言うものもある。

「書けないな……」

 遠い星へ飛んでいく衛星は、そこへ辿り着く前に故郷へ帰りたいと思うことを感じることはない。機械という物でしかないから。だから僅かばかりの羨望を抱く。そう割り切ることが出来たのであれば。もしくはもっと強い思いを抱くことが出来るのであれば。俺はどうしたいのか、どうすることを望んでいるのか。この数日の間に見る夢は走馬灯のように過去を巡る。翌朝にはどんな夢を見ていたのかも覚えていないのに、そう思った。

「あ……海津君」

「おはよう。どうかしたの? 元気ないんじゃない?」

 今朝は如月さんは弓道場にはいなかった。当たり前だと思っていた朝練の光景がないだけで、俺は何かの欠落を感じ、選択という言葉が当たり前のものを今日は変えたのだと、一人木漏れ日の中を教室へ歩いた。

「あ、えっと……」

 困り顔で俺を見られても、事情が分からない以上、それは分からない。

「よっ、匠」

 馴れ馴れしい声が肩に乗る重みと共に朝の爽やかな空気を払拭する。

「早速噂のライトがお前を照らしてるぜ?」

「何、それ?」

 意味が通じない。

「とぼけんなって、恥ずかしがるなって。梓紗を見てみろよ。まんざらでもねぇって否定してねぇんだしよ」

 ああ、そういうことか。誰にも言わないといっていた覚えがあるが、この男の口は堪えることを知らないんだ。

「ただの噂だ。本人が違うと言ってるんだ。だからそれは違う」

「ほぉ、否定すんのか、お前。当人同士意見が割れたな?」

 茶化す言葉に乗ることは術中に嵌まること。相手にしなければそのうち鎮静化する。元よりそんな気分じゃない。

「ごめん、如月さん。迷惑かけてるね。あんまり気にしないで。俺も気にしないから」

「え? あ、えっと……うん」

 その言葉が壁となり、それ以上の進入を防御する。拒否かもしれない。

「初々しいねぇ。この新婚がよ」

 肩を叩かれるが、気にせず窓側三番目の自分の机の椅子を引く。朝陽の暖かさをじんわりと感じる窓辺からは、どこまでも遠い空が今日も綿雲をどこかへと連れ去っていた。

「ねぇねぇ、聞いた? 海津君って梓紗と付き合ってるんだって」

「えー? うそぉ?」

「うん、聞いた聞いた。何か諏訪神社の外れにある桜の所で二人でいたって。それも何かいい雰囲気だったみたい」

「えー。そんなぁ……」

 聞こえてくる女の子たちの噂話。どうやら木津の漏らした言葉だけじゃない。誰かがあの桜の木にいるところを見ていたのか。ため息が出た。そんな話を聞くのはうんざりだった。


「でさ、梓紗。実際のとこどうなの?」

 遠くにあった世界が近づいた気がした。見つめるだけでドキドキして、言葉を交わすだけで安心できて、ただその為だけに小さな嘘を付いて早く登校する。ささやかだけど、それが嬉しいと思えた。

「だ、だから違うんだって」

「そう照れ笑いで言われても説得力ないって」

 大きなことじゃない。他の男子は関心持ってないし、女子だって数人が休み時間のおしゃべりの話題の一つに楽しむだけ。女の子だからそう言う話しが出てくるのは当然。大したことのない学校生活だから、少し仲のいい友達以上なら、そんな話はいくらでも尾ひれがついて駆け巡る。

「ほ、ほんとに海津君とは何でもないよ」

「でも、あんた好きなんでしょ?」

 見透かす言葉は言葉をつまらせる。

「ほらやっぱり」

 そして起こる笑い。あぁ私遊ばれてる。すぐに分かることなのに、不思議と嫌じゃないと思う自分がいる。

「海津君とはただの友達だってば」

 視線を少しだけずらせると、窓際の前から三番目の席に彼がいる。休み時間でもあまり他の男子と話そうとはしないで、窓の外を見ている。時々木津が茶化しに来ても、手馴れたように海津君は受け流す。

「でもあんたってああ言うのが好きなんだ?」

 私たちの視線は海津君に向く。でも、海津君は振り返ってはくれない。振り返られてもちょっと困るけど。

「あたしも良いなぁって思うけど? 頭、顔、運動神経良いし、クールと来れば文句ないでしょ? 堅物でもないしさ」

「優しいしね?」

「な、何で私を見るの?」

 えーだって。ねぇ? 含み笑みが私を恥ずかしくさせる。でも同時に胸の中にあるものが離れていくような哀しい痛みを感じさせる。

「まぁあれよ。付き合ってないとしても、これだけ噂がある以上、それを利用しない手はないわね」

「そうそう。一気にいっちゃえ、梓紗。今が押し時だって」

 私の目の前に道が示される。それは火のないところに発生したあるはずのない煙のように、事実無根から生まれたあるはずのない選択肢であって、選択肢にならない思い。

「そうよ。運をものにしないで何を得ようって言うのよ。あんたは今、ついてるの」

「つい、てる? 私が?」

 何もしていない。ただ海津君と少しでも一緒に居たいって思って、人が少ない場所へ行っただけ。何かを期待してたわけじゃないけど、期待してないわけでもない。だから安堵する私と苦しい私がいる。

「何ならお膳立てしちゃう?」

「そうね。梓紗に期待してもじれったいだけかもしれないし」

「や、やめてよっ。そんなこと。絶対ダメだからねっ」

 私はまた笑われる。今度こそ恥ずかしさで海津君に今の会話が聞こえていないことを心から思った。


「美玖、そんなに毎日郵便受け見て何を待ってるの?」

「ううん、なんでもない」

 来ることを待って、来ることを望んでいるのか分からない複雑な思いは、私をいつも郵便受けに足を運ばせる。最後の日、彼は姿を見せてはくれなかった。分かっていた。彼が来ないことは。出来ることなら私も彼が来ないことを神様にお願いしていたから。

「それよりも、そろそろ三社面談の時期でしょ? 進路は考えたの?」

 お母さんは最近、私にその質問をする。娘の将来を案じる親の心は、私にはまだ良く理解出来ない。どうするのか、周りの友達に聞いても返答は曖昧。行きたい大学を口にしても、それはあくまで夢と言う希望。具体的なビジョンを持って取り組む子はそんなにいない。

「鹿児島……」

「え?」

 背中を追っていれば、恐いものなんて何もなかったあの頃。保障も確証も何もないのに、ただついていけばきっと大丈夫なんて小さな思いがあったあの日は、もう今年で九年目に入ろうとする。今まで何通の手紙を出したのか、私は覚えている。五百七十三通。九年という歳月からしたら、少ないかもしれない。約一週間に一通送っている計算。でも、そうじゃない。この前出した手紙は三ヶ月以上ぶりに書いた。毎日のように書いては郵便受けとにらめっこをしていた小学生の私はもう、今はいない。彼から綴られる何も変わらない、私のことを案じてくれるわけじゃなくて、自分のことをたくさん教えてくれる彼からの手紙は、全部で三百七通。今年に入ってからはまだ届くことはない。

「もう、変わってるもんね……」

 人は変わる。早い人は数日で。遅くてもこれだけの月日が経てば、どんな人でも変わる。人の選ぶ道は九割を占め、あとはどう変わるかの運が八分に才能と努力がそれぞれ一分。私だって変わらずには居られない。大阪弁も話せる。ついていくだけでも足がつりそうになった早い歩きもついていけるし、誰にでもそうすることが当たり前みたいに話しかけてくる人たちにも笑顔で言葉を返すことが出来るようになった。彼の後ろをついていくことが世界の全てだと思っていた私も、いつの間にか私が選んだ道を私で歩いている。

「どうしたの?」

「ねぇ、お母さん。私、夏休みにでも鹿児島に帰りたい」

「どうして?」

 用のない土地。そういえば昔住んでたことがあったわね、と昔話に出てくる記憶の地。染み付いた思い出も、時が経てば色褪せ美化される。人は過去を変えていく生き物だから。だから人は選び、辿り着く場にあるものを幸か不幸の運と言う答えに結びつける。

「鹿児島の大学。うん、そう。オープンキャンパスに行ってみたいの」

 とっさの言葉。私の中に残る思い出の地と思い出の人のいる鹿児島。簡単にいけないことは分かってる。だから私は行きたい思いをお母さんに伝える。

「鹿児島ねぇ。簡単に言うけどお金もかかるし、大学ならこっちの方が良いでしょ?」

 大阪よりも良いとなると、その先の選択肢はほとんどないことは分かってる。情報、文化、風土、利便、鹿児島に勝る大阪に居る以上、私の選択はおかしいと思われて当然なのは理解している。だから、私はその選択を信じる。努力も才能も使わない、運が私にそう囁いたから。

「でも行きたい。行ってみたいの」

 それでも、困り顔のお母さんは返事をくれなかった。

「お父さんが帰ってきてから相談してみなさい」

 私は子供。一人で決められるものは少なくて、大人になりたくないと、ずっと彼の背中を追いかけていたいと子供でいることを願ったことが、今は虚夢だったように大人と言うものに焦がれた。


「今日も部活?」

「うん。海津君は?」

 いつかの放課後。スズメが駆けていく風の吹かない五月のいつか。雨後に香る草の青さとアスファルトから漂う湿気を帯びた懐香。日の沈みが少しずつ時を得る放課後、昇降口で如月さんと並んでいた。漂う靴の匂いに置き忘れにされた傘、灰色の空間を包み込む湿気も気づかなければどうでも良いものでしかない。

「帰るよ。他にすることも無いし」

 することはない。感じるものも思うものも薄れていく日々の中を、終わりのない時を描くようにただ繰り返す。それが学生だろうと大人だろうと変わりはない。なんて小さな世界だろう。

「そっか。じゃあまた明日ね」

「部活頑張って」

「うん」

 校門と裏門は正反対にある。別れて振り返ると小走りで弓道場へ向かう如月さんの姿が遠くなる。昇降口は選択肢だった。

 四月の後半に届いた手紙の内容は覚えている。何度か返事を書こうと机に便箋を開いては、捨てた。それからもう数日が悠に過ぎた。忘れたわけじゃないけど、封を切ったその日の思いは日に日に薄れていく。それが残酷だと謳う者がいれば、それが本能だと謳う者もいる。

「写真、送ってないな……」

 ちらほらと視界を出入りする同校生を映さないように角を曲がり、暖かな夕陽を薄暗くさせる神社の守り木を通り過ぎ、人気のない砂利道を踏みしめる。なぜか切なさと心地よさが気分を落ち着かせ、愉快にさせる。

「大きかったんだな」

 それが不意に気を重くさせる。あの大きな桜の木と美玖が思っていた桜は、やはり当時の圧巻さをかき消されたように孤独だった。感じるものは何か? 伝わるものは何か? 甦るものは何か? 考えることを忘れた。

「何がしたいのかな、俺」

 返事も書けず、美玖の変貌を認めたくない。認めてしまえばそれは事実。取り残される俺がどうしようもないほどに情けなく過去の己との変貌に打ちひしがれているのだろうか。取り戻したい過去が何なのか、何をどう取り戻したいのか、選択という九割の道も運も才能も努力も出てこない。導のない道を行って辿り着く場所はあるのか。他愛ない話と下らない日常の繰り返しは、過ごす今は長く、過ぎた今は短い。誰も居ない桜は孤独にそこで立ち続け、俺も日が暮れ、緑の森林が黒く染まるその頃まで、ただ呆然と過ぎ去る時を浪費した。

 ゴールデンウィークの連休に入ると途端にすることがなかった。課題として出された宿題も、することもなく二日で済まし終え、いよいよすることがなくなった。代わりに机の上に置かれたままの一枚の白紙。銘打ってあるものは進路希望調査。クラス番号、出席番号、名前、第一希望から第三希望の進路記入欄が実線でそれぞれ囲われている。去年は文系理系で周囲はどうするかちょっとした話題になっていたことがあった。俺は迷わず文系を選んだ。特に意味はなかった。理系でも良かった。そうしなかったのは、深い意味はない。きっと友人と呼べるだけの付き合いを構築していた人間が大半文系へと決めていたから、それに巻かれるように選択をした。運は悪くはない。後悔することもない。友人付き合いは相変わらず続いている上に、勉学に関してもさほど困ることもない。

「大学か、専門か、就職か」

 進路を考えたことはいくらでもある。それは所詮漠然とした、酸いも甘いも知らない幻想でのこと。事実を客観視した上での判断など、高校生には出来るはずがない。親に甘え最終決定権を握る親元で飄々と暮らしているのだから、自己意思のみでの判断は危険ではないか。失敗し、挫折することで人は学ぶ。犯した罪は犯す前には分からない。俺は迷うことなくいくつかの大学を空白に書き込んだ。迷いはある。当然だ。そこへ行けたとしてどうするのか。そんなことは知らない。知ることをしなければならないと頭で分かっていても、実感がない。

「オープンキャンパスか……」

 学校にあったいくつかのパンフレットを持ち帰り、深い考えもなく読む。謳い文句は決まって楽しいという言葉。実際に大学が楽しいのか、分からない。楽しもうと行動的になればそうかもしれない。誰かに声をかけてもらえるなどと期待しているだけで行動しなければ面白みの欠片もないキャンパスライフがあるだけだろう。人間はいつでも自分が動かない限り、世界は変わりはしないんだ。だから選択という道が常に存在する。

「そういうことか」

 あの日、いつだったか月日の記憶は定かではなくなった、あの日の美玖の言葉。

《あのね、私、人は一%の才能と一%の努力と八%の運だと思うの》

 本当にそう思う。宝くじを当てるのに才能も努力もいらない。今年こそ当たると信じて毎年当たらない人間はどれほどいるものか。一等が出た販売所に行ったからといって、そこで買えば当たるわけじゃない。それは運だ。美玖と過ごした幼少は才能で得たものでも努力で維持したものでもない。運が良かったから美玖と思い出が残せた。運が悪かったから美玖は大阪へ越した。ただそれだけ。そこに選択というものはなかった。当時の選択というものは親による強制と同意だったはず。子供だから大人の言うことは聞きなさい。その一言が子供から選択を奪った。

 なら大人は選択をすることを孤独に決定できるのか。子供には強制として圧力をかけることが出来る。ならば大人はその決定権を個人で採択できるのか。それは違う。子供にはなかった責任と言うものに、大人の選択もまた、縛られる。

「世の中は全てが運ってことかもしれない」

 選択という言葉は存在しない。国の方針を決めるのは個人の選択では通用しない。だが、交差点をどちらに曲がるかの選択は個人の選択が通用する。個人の選択は全てが運であり、誰が為の選択は才能でも努力でも運でもない。なら、それは何なのか。

「考えるだけ無駄か」

 俺には誰が為に選択することなどない。考えるべきは己。選ぶものは己が先の道。ただ立つことが生きるに繋がる木ではないんだ、俺は。

「母さん、父さん。ちょっと相談があるんだ」

 夕飯時、俺は運を信じ、選択した答えを言葉に変えた。まだ少しだけ涼が網戸の目から入り込む星空が雲に覆われ、翌日の天気が雨だとニュース番組から流れた時だった。


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