二抄.泡雪の恋
もし、この世界が才能で溢れているなら、その出会いは出会うと言う才能の元に生まれる。
もし、この世界が努力で溢れているなら、その出会いは努力で成し遂げた必然の元に生まれる。
でも、そうじゃない。偶然の出会いも必然の出会いも、あたしには努力でも才能でもないと思う。そこにあるのは運。出会えるか出会えないかなんて才能も努力も要らない。あるならそれで運が上がるだけ。どんなに頑張っても、町往く角を右に曲がるか、左に曲がるかでその出会いの有無は別れる。それはやっぱり運。一%の才能も九十九%の努力も関係ない。世界はきっと運で成り立ってる。その運が強いのか弱いのかが才能と努力の影響になる。それくらいに運は大きいもの。
「姉ちゃん、今日も朝練?」
朝五時。携帯のアラームに起こされてその日が始まる。たまにお母さんに起こしてもらうけど。
「大会もあるの。あんたみたいに帰宅部万歳とは行かないの」
家を出るのは六時。一時間の間に支度を整えるのは、もう慣れた。朝から長い髪を整えることもないし、寝癖がついても熱いタオルで抑える程度。
「大会って、まだ一ヶ月は先でしょう?」
季節は五月に入ろうとする。この時期はさすがに少しだけしんどいことが多い。試験に部活。高校生の忙しいなんて大人からすれば大したことじゃないんだろうけど、部活後に勉強なんて疲れてする気ないし、部活前に勉強するのも嫌。
「今年が最後だから早いうちから体を作っておくの」
五月の県大会がもう少しで始まる。その後は夏の全国大会。それで高校三年間の部活動が終わる。ついこの間に先輩を見送ったと思ったのに、いつの間にかもうすぐその見送りを後輩がして、あたしは見送られることになる。本当に時間はあっという間に過ぎていく。八年もいつの間にか経った。あたしがこの町に引っ越してきて。初めは分からないことだらけだったのに、今となっては知らないことの方が少なく感じるくらい。
「それは良いけど、怪我はしないようにしなさいよ」
「姉ちゃん、早とちり多いし、おっちょこちょいなことして怪我すんじゃねぇの?」
「うっさい。つーかあんた何でこの時間に起きてんのよ?」
弟は中二。最近やたらと口うるさくなってきて、生意気になった。部屋にはエッチな本隠すようになってるし。それはあたしが処分したけど、弟がそうなるのは男の子だから当然なんだろうけど、何か嫌。お母さんはあまり気にしてないけど、嫌じゃないやっぱり。
「どっかの誰かさんのアラームがうるさいんだよ」
「はいはい。迷惑おかけしましたねぇ」
「うっわ、ムカつく。あーあ、早く高校上がって単車欲しいなぁ」
切り替えが良いのか、単に飽きっぽいのか、弟は最近単車が欲しいってよく言う。田舎だし自転車じゃあんまり遠くまで行けないのは知ってるけど、何度も聞くのは面倒になる。
「じゃあ、行ってくるね」
「あ、梓紗。お弁当忘れてるわよ」
そろそろ家を出ないと。そう思って玄関に行こうとしたらお母さんに呼ばれた。
「ぷっ。やっぱ姉ちゃん、だっせ」
「うるさい。行ってきます」
居間で朝のテレビを見てる弟の頭を叩いてから靴を履く。お母さんの行ってらっしゃいノ声と弟のいてぇなって愚痴もいつものこと。靴を履いて玄関の鏡で制服と髪の乱れのチェックをして、つま先で数回靴の位置を床に叩いて調整してからドアノブを下げる。今日も一日頑張ろうって思って。そして、今日も会えるかなって頬を緩ませる自分のことをちょっとだけ好きかもと思いながら。
「桜だぁ。うん、朝から良いことありそう」
玄関を開けた先に広がる光景はいつもと同じ。でも今日はその眩しく輝く朝陽の中に、ピンクの花びらがフワフワと風に舞いながらあたしに手を振るように飛んでいった。今日が運が良いかも。そう思って私の足は学校へと軽い足取りで地面を蹴った。
「よっ、匠。何だよ、何か面白いもんでもあんのか?」
「ん? あぁ、おはよう。いや、何でもない。行こう」
感傷に浸る。朝からそんな学生はそういない。実に似合わない。自嘲の笑みを、先を促すことで打ち消す。こんなところで桜を見ていても、何も変わりはしないし始まりもしない。手のひらにあった花びらを開放し、友達と呼べる付き合いになって長くなる友達の、どうでもいい、そんな話を俺にする意味があるのかも分からない内容を笑って教室に歩いた。
「なぁ匠。今日暇?」
「何かあるのか?」
時間は集中するほど早い。授業中の長い時間も外を流れる雲を見ていても、休み時間の短さも、刻一刻と過去を遠ざけていく。
「せっかくだしどっか遊びに行こうぜ?」
その遊んでいる時間は、どのくらいだ? そんなことをつい聞きそうになる口が今日はあった。
「いや、悪いけど遠慮しておくよ」
「何でだよ? 何かあんのか?」
肩を組んでくる図々しさを、僕は振り払う勇気もない。
「悪いな。野暮用があるんだ。また今度埋め合わせする」
「そっか。ま、用があんならしゃーない。次は絶対だぞ?」
「ああ」
そうして友達は予定が空き、退屈そうな声を漏らしながら薄っぺらいカバンを肩にかけて出て行った。必要なものだけをカバンに仕舞うと同じように席を立つ。
「海津君、今帰り?」
また明日―とかじゃあなぁ、とか聞きなれた見送りを受けつつ昇降口でひんやりと臭う靴の混ざった匂いの中で、履き替える。ちらほらと同じような人間もいれば、大きなバッグを背負った部活生の賑やかな声も放課後と言う開放的な空気が、あたり一面に溢れていて、どこか胸騒ぎのような孤独感があった。
「如月さん? どうかしたの?」
すのこの上を跳ねるように駆けてきた如月さんが、えへへっと小さく恥ずかしそうに笑った。首を傾げるしか出来なかった。
「え、っと、用があったわけじゃないけど、海津君を見かけたから」
「そうなんだ」
隣で同じように靴を履きかえる如月さんを、どうしてか俺は待った。理由もないのに。
「如月さん、良かったら一緒に帰らない?」
「えっ?」
靴に履き替えてスリッパを靴箱に仕舞おうと屈み込んだ如月さんの顔が、驚きのような目で見上げてきた。
「良い、の?」
「途中までだけど、それでも良かったら」
「うんっ」
この時、何故こんなことを言ったのか、自分が分からない。気がつけば花壇の花が鮮やかに咲く中を如月さんと共に校門を潜っていた。
「あ、あのね、海津君……」
校門のレンガ床に蔓延るコケの緑も、校舎に伝う蔦も、朝の掃除から時間が経って誰かの自転車のかごに落ちた落ち葉も、全てがその中に淡いピンクの花びらを含んでいた。
「どうしたの?」
桜を美しいと、桜を綺麗だと八年前の俺は思うことがあっただろうか?
「ちょっと、寄り道、して行っても良いかな?」
あの頃はきっと、桜の木下には死体があるとか言う迷信を本当だと信じて、ふざけ話として恐がらせることで楽しんでいたかもしれない。桜に感じる儚さも鮮やかさもどうでも良かったんだ。
「行きたいところがあるの?」
「う、うん。あっでもそんなに時間かからないからっ。すぐに終わる」
如月さんはどうしてか焦りながら言う。時間はある。ただ、あの場所へ行ってみようかと確証のない予定を呆然と考えていただけ。
「良いよ、別に。今日は暇だし」
いつだって行ける。俺はこの町に残り続けているから。どこにも行かずに、ここにいたから。
「あ、ありがとうっ」
だから、今だけは如月さんの嬉しそうな顔に、同じように笑って返すだけだ。
「…………」
「…………」
夕陽に遠くが霞んで見える。遠い日の思い出が少しずつ色褪せていくように、東の空が見えなくなってきた。
「あ、あの、海津君」
「ん? 何?」
途中俺たちはコンビニともショップとも呼べないような小さな店で、ジュースを買った。俺はコーヒー牛乳で、如月さんはミルクティーだった。好みに口を出すつもりはないけど、女の子は選ぶのに時間がかかるものなんだって、いつものようにすぐに手にした俺とは違い、暫く悩んだ後に選んだ如月さんは俺にごめんね、と時間に対して謝った。美玖とは違う。そう思った。
「海津君さ、その、ゴールデンウィークとか予定ある、かな?」
車がほとんど通ることのない人気の少ない休閑地となっている畑の通り。夕陽の運ぶ風が少しずつひんやりとして来る。
「ゴールデンウィーク?」
もうすぐやってくる大型連休。教室に居る時はよく予定を立てている声や、退屈そうな声で話題が出る。浮かれる気分なんだろうけど、どうしても重たくなる気持ちしか湧かない。
「う、うん」
「今はまだ分からないかな」
行きたい場所はある。行けない場所がある。行くか行かないを選ぶのは自身の選択。それでもそれに伴うものがない以上、その選択すら選ぶことが出来ない現実。早く大人になりたいと思いながら、その一人の大人として降りかかる納税、勤労などの義務の責任を追えるかと考えると、明白に無理と言う答えが突きつけられる。人としての選択すらまともに出来ない俺は、子供と言う範疇で足掻くしかない。
「そう、なんだ……」
「それがどうかしたの? 如月さんは予定は?」
「あ、ううん、なんでもない。あたしも暇かも」
笑う如月さんに、俺はそっか、とコーヒー牛乳を茜色の空を見ながらの呑むしかなかった。
「ここに、来たかったんだ?」
「うん。今年はずっと部活だったから、一回で良いから見たくって」
俺は言葉が出ないというほどじゃないけど、どうして求めていたはずなのに、求めていたことを求めぬうちにそこへ辿り着いたことに、気が重くなったのか、ため息が消えた。
「やっぱり、葉桜になっちゃってるね」
バッグを幹に横たえさせた如月さんが、片手を幹に当てて、空を仰いだ。俺はただ思い出してばかりだった。
先日久方に届いたあの手紙にあった、今までになかった美玖の希望。その希望の先にある桜の木が、目の前に葉桜として残っている。もう淡い花びらはどこにも見受けられない。
「海津君? どうかしたの?」
如月さんが首を傾げて俺を呼ぶ。桜の木の写真が見たい。あの頃ぐるぐると回って遊んでいた。その木が目の前にあるのに、今だけはあの頃の思い出がそこに投影されない。
「相変わらず大きいなって思ってさ」
他の桜に比べて幹周りも太く、枝も多く力強い。枯れない桜とか咲かない桜とかそう言う伝説も何もない、毎年鮮やかに花開き人を楽しませるこの町のシンボル。そのくらいに樹齢も長く、多くの時を見てきた桜。
「木ってすごいよね」
如月さんが幹に手を当てたままそう呟く。
「ここにずっといるだけなのに、それしか出来ないのにずっとここで咲き続けてる」
選ぶことも出来ず、その木として生きることが決まった以上、走ることも飛ぶことも泳ぐこともしないまま、そこに立ち続ける。それは選択したが故の答えなのか、それすらも与えられることのなかった末路なのか、俺には分からない。
「ねぇ、海津君」
「何?」
「この町に、ずっと居たいって、思う?」
予測していなかった質問に、一瞬時が止まる。
ずっと当たり前で、それが当然だと思っていた小さな世界は、もう俺の中にないことは分かってしまった。誰だってどこにだって何にだって、そんなものはないのは知ってる。なら俺はこれから先、どうするのか。その選択をしなければならない日が確実に近づいている。
「どうかな? 如月さんは?」
俺は卑怯かもしれない。本当は分かってる。ただ、子供だからと自己暗示してその選択肢から逃れようとしている。それを八%の運だと思いながら。
「あたしは、出来ればここに居たいって思うかな? でも、もっと別の場所も見たいって思ったりもするんだ」
如月さんはためらうことなく、少しだけ恥ずかしそうに言った。
「すごいね、如月さんは」
素直に感心した。圧倒された。責められた気がした。
「そ、そうかな? あたしは別に大したことじゃないと思うけど……」
「俺にはまだ分からないことだけど、如月さんはあんまり迷ってないよね。すごいと思うよ」
思うんじゃなく、すごいんだ。俺にしてみれば。
「海津君の方が、しっかりしてるよ。あたし、まだまだ分からないことばっかりだもん」
なら俺は、子供以下かもしれない。そんな自嘲は苦笑で流した。
「如月さんなら、何でも出来るよ。毎日あれだけ頑張ってるし。ついてこない結果はないはずだよ」
弓道をしていることも、元気で明るいことも、如月さんは運を味方につけたわけじゃなく、きっと努力の才能で笑えているはず。羨望と共に失意もあった。
恥ずかしそうな笑顔で笑う如月さんに、俺は遠い人のような疎外感に近いものを感じ、それから逃げるように桜を見上げた。
「写メ?」
取り出した携帯で桜を撮影する。その写真をどうするかなんか考えてない。ただ、何となくの気持ちで撮影してみた。
「やっぱり暗いか」
「夕陽もそろそろ沈むもんね」
撮影した桜は、輪郭がかろうじて残るだけで、それが桜の木かどうかの判断までは付かなかった。
「そろそろ帰ろうか?」
「うん。ごめんね、こんなとこにつき合わせちゃって」
「良いよ、別に。俺も見てみたかったから」
一人で来ることと、誰かと来ること。同じようで感じるものは全然違ったはずだ。だから一人じゃなくて良かったと思う。何度も読み返して文面を覚えてしまった美玖の手紙を、一人出来ていたなら、どう思いながら見上げていたか。
「でも珍しいね、如月さんがこういう静かな場所に行きたいって思うの」
弓道をやる以上、静けさのある集中力の高まりが大切なのは聞いた。だからおかしいことじゃないと思う。それでも如月さんは普段は明るいから、この静か過ぎるくらいに周りを畑と山裾に囲まれた何もない場所へ行きたいと思うのは、意外だった。
「もぉ、海津君誤解してない? あたしだってこう言うところで落ち着きたいって思うことあるんだよ?」
「ごめんごめん、冗談だよ」
頬を膨らませ、隣を付いてくる如月さんはいつの間にかいつもの笑顔を取り戻していた。何かを思い悩んでいるような沈んだ表情が落ち着きを取り戻し、その反面俺は何かがのっかかって来たように、体に重みを感じた。
「おっ? 匠? それに梓紗? 何してんだお前ら?」
俺たちの足が止まる。見通しの悪い十字路の角を見知った顔と鉢合わせをした。カーブミラーには俺たち三人がそれぞれ視点を合わせている、少しだけ細長くなった姿が映し出されている。
「あー、悪ぃ悪ぃ。そっか、そっか」
乾いた笑いが響く。そこに来る事を選んだ選択肢を後悔する笑い。
「ちょっ、木津っ!?」
「いやいや、これは俺が悪いな。うん。匠、お前もひどいなぁ。言ってくれよな」
「何を?」
慌てる如月さんとさっき別れたばかりの友達の木津。ここで会うとは思ってなかった。
「ま、誰にも言わねぇし、仲良くしろよ。んじゃぁなっ」
「あっ、ち、違うんだからねっ」
如月さんのそんな声も、呑気な木津の笑い声に届きはしなかった。
「誤解、されたみたいだね?」
如月さんが赤い。夕陽のせいかもと思いながら明らかに違うと一目で分かる。
「ご、ごめんね? 嫌だったよね? 明日、ちゃんと誤解解くから」
「良いよ、別に。噂なんてすぐに消えるよ」
いちいち食いついていても火に油だ。昔の俺ならそうしたかもしれないけど、そうしない俺が今はいる。なくなったから。その必要がなくなったんだ、八年前に。
「帰ろう。そろそろ暗くなってきてるし」
「う、うん……」
その後、何を話したかは覚えていない。特に何も話すことなく、民家のぼんやりとした明かりに照らされたアスファルトに薄く幾つも出来る影を歩かせただけだったかもしれない。
「それじゃ、また明日」
「うん、また。あ、あの、海津君っ」
分かれ道で別れようとしたら、背中に声がかかる。
「あっ……ごめん、なんでもない」
「そう? じゃあ」
「うん……ばいばい」
気づかないわけがない。俺はそこまで鈍感じゃない。鈍感でいられればどれほど楽な人生を歩んでこられたか。如月さんの表情を見て一目瞭然だった。ただ、その笑顔を俺が壊すことは、出来ない。茫漠とした時間があまりにも俺を遠ざけてしまうから、今日は如月さんとあの桜の下へ行けたことを感謝する思いだけが残った。