一抄.手紙とあの日
世界は手に取るように小さくて、水溜り映る青空のように狭いものだとしか、知らなかった。
「あのね、私、人は一%の才能と一%の努力と八%の運だと思うの」
吐息の染まる景色がいつの間にかなくなっていた。少しずつ朝が早くなり始めた季節、春。まだ開くことのない桜のつぼみも、真っ赤に小さく輪をなす梅も、姿の見えないどこかの鶯の声も、新品の制服に胸を躍らせる色々な一年生も、季節の移ろいの中でいつも花開き、いつも枯れていく。その繰り返しは、いつになっても変わらない。
「残りの九十%は?」
振り返るといつも君がいた。それが当たり前で、ごく自然で、日常としてそこにあるものだと思っていた。
「それはね、選択、なんだよ」
空を見上げると、そこに一筋の飛行機雲が静かに飛んでいた。不思議な感覚だった。あんなに高い場所には鳥は飛べない。虫も飛べない。翼を持ったものは飛べないのに、翼もない人間が飛んでいる。悠に高くて、星の煌きに手を伸ばすように、そして届かない。
「選択? なにそれ?」
「これからの長い、長い人生ってやつ」
「人生なぁ。どんなのを人生ってゆうんだろうなぁ」
「何だろうね? 私たちじゃ分からないよね」
知らないことに対して、あれほど素直だったことは、きっともうない。
「まっ、要は運ってことだろ」
そして、あれほど無垢でいられた時期も、あれほど人を、異性を、ただの友達だと純粋に信じてその先のことなんて考えなかったことも、これから死ぬまでは、二度とないはず。
「ん〜、そうかも」
「自分で言って曖昧だな?」
「うん。私もよく分からないもん」
「あっさり認めるなよ」
ずっと続いていくものだと、誰も何もどこも、あらゆるものがその延長線の上を、本当に小さな世界のまま、代わり映えしなくともありふれていても、それだけが世界の全てなんだと疑うことを知ることなんかどこにもなかった。
「ねぇ、たっくん」
「なに?」
ひとひらに舞う何かの花びら。今になってもあの頃舞っていた花びらが一体なんだったのか、思い出せない。でも確かにあの時は春の暖かさの中にあったんだ。俺と美玖の間にあった、何かの壁になっていたものが。
「あたしね……引っ越すの」
「え?」
振り返るといつも君がいた。それが当たり前で、ごく自然で、明日も続いていくものだと信じることもしなくて、疑うこともしなかった。そこにあったのは当然の無意識。吸い込んで吐き出す空気がなくなる事を考えたことなんかなかった。それと何一つ変わらなくて、そしてそれがどれほど大切だったのか、茫漠と流れて消えていく時の中で後悔になるんだ。
「引っ越すの。お父さんが転勤って言うのをするからって」
「え? 引っ越しって、どこに?」
「大阪」
聞いたことがあるだけで、どこあってどんなところかなんて知らなかった。
「大阪? あぁ、大阪かぁ。都会なんだよな? へぇ良いなぁ、俺も行ってみたいなぁ。大阪城だろ? へんてこな太鼓叩いてる人形とかあるんだぜ? 見たことないけどテレビで出てた。てんかのだいどころとか言うんだってさ」
その程度の認識しかないことが、あんなにも恥ずかしくて情けなかったなんて考えたことなんかない。小学生だったから、大阪なんてすぐに行けるんだろうと、浅はかな思いしかなかった。
「やだよ。あたし、行きたくないもん」
美玖は嫌がっていた。俺には驚きこそあったけど、そんなに遠いところだとか認識はなかった。飛行機の乗ればどこにだって行ける。だから哀しいって気持ちが分からなかった。
「はぁ? 何で? 決まったんだろ? 遊べなくなるのはつまんないけどさ、しょーがねぇじゃん」
「たっくんに会えなくなるんだよ? みんなで遊べなくなるんだよ? あたしやだよぉ」
それなのに、美玖はずっとそうやって嫌がっていた。俺には大阪に行けばたこ焼きとかお好み焼きとか美味しいものが沢山あるんだってテレビで言っていたから、食べに行けるんじゃないのかとか下らないことしか頭になかったのに。男の精神は女の精神の何分の一の早さで成長しているのか、今になってもよく分からない。
「心配すんなって。手紙とか書いてやるからさ」
それでも俺はぎりぎりで気づけたのだろうか。今にも泣きそうな美玖の顔に焦りを感じて、思ってもいなかったことを口にした覚えがある。
「ほんとに?」
「何でも書いてやるって。何ならクラス全員に書かせてやるぜ?」
「ううん、たっくんが書いてくれるなら、それで良い。それが良いな」
「おう、まかせとけっ! ばんばん書いてやる。あ、でもどこに出すんだ?」
その笑顔だけは、曖昧に消えゆく、消さなければ潰えていく記憶の中に今でも残ってる。あの時何を感じたのかなんて覚えてない。ただ覚えてるのは、それが美玖の笑顔を見た最後だったって事だけ。
「匠、手紙よ。美玖ちゃんから」
「ん? ……ああ」
――― 拝啓
お元気ですか? 大阪は、私が見る八回目の桜がようやく開花を始めて暖かくなってきました。
そんな挨拶から始まる手紙は、昔は数日毎に続いていた。それでも俺は約束を守ってはなかった。手紙を出すと言っておきながら、今まで家のポストに届いた手紙の数分の一ほどしか投函したことがない。それも歳を増すごとに年々と減った。恥ずかしいと言う思いに書くことが浮かばない。次こそは返事を書こうと、机に便箋を並べたことは幾度と過ぎた。
その度にこんなことを書きたいんじゃないともみくちゃにして、入りもしないゴミ箱に投げた。翌朝いつも母さんにちゃんと捨てなさいと何度言われたことか。
そちらはもう桜は枯れてしまいましたか? 匠君と昔見たあの桜の木は今年も綺麗に咲いてましたか? ちょっと懐かしいです。昔はとても大きく見えましたが、今も変わらないのかな? それから、来年はいよいよセンター試験ですが、どこの大学を受験するか決めましたか? 私はまだ、迷っています。
最後の笑顔を忘れられなくて、よく覚えてなくて八年経った。今年俺は高校三年に上がった。すっかり周囲は美玖が転校したことなんか知らない奴らが、俺の知り合いになった。小学校の頃は毎日女子を交えて笑いの絶えない、登下校から休み時間までを過ごしたというのに、そんな生活が夢だったように、今の俺は女子の友達なんてほどんといない。クラスメイトの女子とは当たり障りのない言葉の交わりしかしない。むしろ今は昔のことが嘘だったように女子と近くにいるのが苦手になった。何を話せばいいのか分からなくて、話しかけられても愛想笑いか適当に流すだけ。そんな毎日の中に、久々に届いたあの頃の美玖からの手紙。ベッドに横になって読む気にもなれず、封を開いた頃には窓の外が街灯と微かな隣家の明かりだけになっていた。
匠君は何か自分のやりたいことを見つけましたか? 昔はやんちゃでいつも私を引張ってくれて、ついて行けばそれだけで大丈夫だと思っていられたのに、今は自分で決めないといけないのだと、少し苦労しています。
文面から感じる美玖の変化は大きい。昔はこんな女らしい細やかで綺麗な文体じゃなかった。
「確か、ここに……」
二段目の引き出しの中。その中は昔から占領されていた。年々小洒落た封に入れられた手紙の束に。昔は汚い字で、ただ寂しいとか、そっちはみんなどうしてるとか、新しい友達が出来たよとか、そんな自分の経過報告ばかりだった。だから当時の俺は同じように俺のことばかりを書いていた。お前なんかいなくても全然楽しいぜとか、今日ゲーム買ったとか本当に下らないものを。次第に忘れていった過去が、いくつもあった。
それがいつしか美玖が俺のことを気にするように書いてきて、俺には遠い、読むだけで眠くなりそうな、小説に出てくるような言葉遣いになってきて、文字を書くのが苦手な俺には返事を出すのが億劫になった。
あの頃は俺が美玖を引張ってやればそれで良かったのに、いつの間にか俺にはもうあの頃のように美玖のことを引張ってやれるような、中身のあるものが無くなっていた。だから書くことが出来なかった。書こうといつも思っていたのに、書き出しすら思い浮かばなかった。真似することもした。小説、漫画の台詞、歌詞、映画の台詞、手紙の書き方の手本、美玖の手紙。色んなものから真似ようとした。美玖よりも俺の方が知ってるんだと思わせようとした。けど、ダメだった。俺にはそんな才能はなかったと気づいただけだった。
どんなに書こうとしてもそれは俺じゃないと、手紙をくしゃくしゃにして放り投げた。
鹿児島にいるとやっぱり鹿児島大学、かな? 匠君は文系かな? それとも理系かな? 私は文系です。数学とか科学はやっぱり昔から苦手で、英語は少しだけ得意になりました。成績はあんまり良くないけれど。まだ将来の夢とかちゃんと決められてないから、先生から面談でよく怒られてしまいます。お母さんもお父さんも、のんびりしてると色々と遅れるんだぞと、ちょっと馬鹿にされます。
可愛らしい文字と言うものが女子の文字だと思っていた。丸い文体でちょっと読みにくいくらいのが。でも、美玖の文字は嫉妬してしまうほどに達筆で、年々その手紙に記される文字が成長を示すように綺麗に成っていく。そして俺はその文字にすら劣り目を感じ、書けない。悔しいと思うことが強かった。どんどん遠くになっていく。そう手紙が届く度に、封を切る度に躊躇いが生まれてしまう。田舎と都会の違い。そう勝手に感じてしまう、いつかからか郵便受けに届いていない日の方が安心してしまう便箋。それでも俺は必ず封を切る。恐怖に近い躊躇いがあるのは事実。それと同等にやってくる高揚。それは遠く儚い宇宙へ星人へのメッセージを載せて飛び続ける人工衛星も同じ、かもしれない。絶対の暗闇の中を、見知るもの人も物も原子すらまともにない中を孤高に飛び続け、いつか辿り着く、未知への接触を夢に見て飛ぶ。比較にならずとも、揶揄においては都合がつく。そして、開いた封の中を見て、俺はまた返事を書こうと思い、挫折する。
匠君は大丈夫ですか? 私みたいにはないと思いますが、お互いに夢を目指して後悔しないように今年、そして、最後の高校生活を過ごしましょう。私たちが子供でいられる最後の時間だと思うので。
草々 ―――
そうだ。いつだって美玖はそうだ。俺の後ろをついてきながら、最後の最後は離れていく。その時はいつだって笑顔なんだ。もう微かな記憶を引っ張り出しても、朝靄に浮かぶ桜の木のように、はっきりとしたものは浮かばないけど、その放つ色合いで、その微かなそれだけが持つ雰囲気と空気だけでそれが何であるのかを知ることが出来る、思い出すことが出来る精々の桜深美玖の笑顔。ネットでブログやプロフが溢れかえっている中での個人情報の発信の多重する世界の中で、顔も見えなければ息遣いも聞こえない、膨らむのは気持ちと想像心だけの、温もりや冷たさは手に取るように感じられてしまう手紙を使って、俺の元へ帰ってくる。そしてその数分の一以下の確率で、俺は美玖の下へ行く。
大阪なんてすぐだと思った。鹿児島から飛行機で一時間。船で十三時間、新幹線を使って八時間ほどの鹿児島と大阪。それでも俺にはあまりにも遠かった。時間はいくら短くとも、俺は高三。どの道を選んだところで立ちはだかる壁は大きすぎる程の金。世の中は金なのだと痛感して、寂しがっていた美玖の下へなんか行くことが出来なかった。
命よりも大事なものはない。それが嘘だと痛いほどに何度も悩んだ。人は生きるために働く。そして金を得る。それはつまり、命を削ってまでして金を手に入れる。命が最も重要だと言うのであれば、働いて金を稼いでいる時間が削る命を、何だと心得ているのか? そんな疑問に行き着いて、子供の頃の小さな世界というものが漣の中に消えた。
〜 P.S. 〜
最近、色々と悩むことが多い時期のせいか、少しだけ昔の頃が羨ましく思います。もし、匠君がお返事を書いてくれる時間があるのなら、私の我が儘なので無理はしないで欲しいのですが、あの桜の木の写真が見てみたいです。いつもぐるぐると駆け回っていた、あの大きな桜の幹は、私にとって、かけがえのない場所でした。
二〇〇九年 四月 十三日 桜深 美玖
何を書けば良いのか、どうしたら良いのか、読み終えた感想は深い、嫌になるくらいに気の重くなるため息が静まり返って、椅子の軋む音に消えた。
「八年か。長いんだろうな」
今思えば、浅はかな約束。遠い日の幼さの象徴。それをけなげに時間を費やしながらも成長の証を示すような手紙のやり取り。やり取りとも言えない送られてくる八年前から変わらない、俺の中にいる美玖。そして変わり続ける美玖。今俺が接しようとしている、返事を出そうとしている美玖がいったいどちらの美玖なのか分からなくて、背もたれに体を預け、天井を見上げた。
「桜、か」
天井を見ていてもう一度手紙を目の前に翳した。なんとなく一つのことが確証を求めようと脳裏を過ぎった。
「そうなんだよな……」
見つめる文字の羅列に記されているものは、美玖の世界。そして、一人きりだと言う美玖の世界があった。引き出しから取り出した手紙を、ようやく気づいた解れを探すように読み直し、確実のものだとひとつの答えに行き着いた。
「美玖は一人なのか?」
綴られる手紙の内容から感じたのは、いつも美玖は一人なのでは? と感じずにはいられない記された文字の世界。行間に収まるその世界は、美玖のことしか記されていない。俺に対してどんな友達ができたのかと聞いてくることは多いのに、美玖は自分の友達のことを一言も触れることなくその手紙を書き終えている。不安が急に小さな痛みを勝手に感じさせた。
「ゴールデンウィーク、考えてみるかな」
ドアの横にあるカレンダーの日付は、大型連休までそれほど残していない。受験前で予定もない。衝動的だった。その一言に尽きる義務感のような思いは、その文面を辿る度に夜更けと比例して大きくなった。
「行ってきます」
部屋の置くから母さんの見送りの声を聞いて学校に向かう。目を閉じてもほとんど道を違えることなく行ける自信すら湧いている通い慣れた通学路。手紙のせいか、家を出てすぐにある美玖が暮らしていた、今はもう別の家族の家となった家屋を見てしまう。今はまだ、美玖と過ごした時間の方が長く残る家。変わらない、少しずつ色褪せていく家なのに、そこに刻まれている温もりは、すっかり変わってしまった。
「おはよう、如月さん」
歩いておよそ十五分。近場の進学校に後どのくらい通うのかも考えたことのなかった高校の校門を潜る。早朝から聞こえてくる乾発音。裏門から入る方が早いせいか、フェンスに囲われた弓道場。野球部や陸上部に混じって、弓道部も朝練をしている。
「あ、おはよう、海津君」
その中で残りわずかな部活に精を出している如月さんがいた。
「今日も朝練やってるんだ?」
いるのは一人。夏の最後の大会まで期間があるというのに、登校してくると聞こえてくる乾発音が恒例だった。
「うん。朝は涼しいし、集中できるの」
実にハキハキとして、楽しそう。袴姿に映える集中力を何度も目の当たりにした。静かな闘志を一本の風切矢に託す凛とした弓道場の空気は、見ているだけでも心地良かった。女の子がこんなにも格好良いと思ったのは、如月さんが初めてだった。
「頑張ってるんだね」
「そうかな?」
そう言いながら笑顔になる表情は、誇りと言うものを突きつけてくるような気がした。
「じゃあ、頑張って」
「うん、またね」
話すことは大していつもないのに、どうしてか挨拶だけは教室でもするのに、続いていた。
「桜の木……」
校内にも至る所にある桜。すでに葉桜と徐々に変化する疎らな緑と淡赤の木は、幼い日を静かに投影させる。どうして今になって、あの手紙には桜の木を見たいという思いが綴られていたのか。八年も経った。八年が経った。だから分からなくなる。消えかけたはずのあの日の笑顔が今、いったいどんなものになったのか、朝風に散る花びらの一つ一つになぜか痛みとなって手のひらに舞い降りてきた。