7 因果の一片
事件の発端は、今から半年前まで遡る。
地下【延命都市】十四番街に、ナガシロという男がいた。修理工として身を立てていた彼は、ある日、これまでの生活を全て捨て、「谷底」の十五番街に身を落とすことになった。
きっかけは、彼がとある新興宗教団体に入れ込んだことだった。「人類の進化」を至上の目的とする団体で、都市の外縁部を中心に勢力を伸ばしていた。彼はその思想にのめり込んで、「布施」を繰り返し、結果として自身の身を滅ぼした。
多額の借金を抱えた彼は、その返済のために、自身の市民権を非合法に売った。そうして「市民」でなくなった彼は、都市に生きる資格を失った。そんな彼が頼れる場所は、この地下には一つしかない。都市計画上、存在しないことになっている、十五番街である。彼は飼い犬「ビンゴ」を一匹連れて、一番地の廃墟に住み着くことにした。
十五番街に来てからも、彼は例の宗教団体への帰依をやめなかった。そのために彼の生活は困窮し、ほとんど乞食同然だったという。しかしそれでも、彼はどうにか命を繋ぎ続けていた。
それが一か月前、彼の運命は急変する。【ホット・ビート】を名乗る【カノト会】傘下の人間が、「取り立て」と称して彼の住まいに乗り込んできたのである。借金は全て、市民権と引き換えに返済したはずであった。心当たりのないナガシロは当然抵抗した。そうして揉み合いになったところに、忠犬ビンゴが主を助けようと参戦し、彼のささやかな生活空間は一瞬にして戦場の様相を呈した。
彼はとにかく運が悪かった。ビンゴに襲われ、半狂乱に陥った【ホット・ビート】の一人が、闇雲に撃った一発の弾丸が、ものの見事にナガシロの脳天を撃ち抜いてしまったのだ。即死だった。
忠犬ビンゴもその後に、腹へ二発の銃弾を受け、死んだらしい。
「会の調査結果と、あのバカガキどもの証言をまとめると、だいたいこんな感じの経緯になるわ」
カズサは深いため息をひとつ。煙草の灰をぽとりと落とした。
事件から一週間ほど経って、ミノワとナギは【チキンズ・キャッスル】を訪れていた。事件の顛末を、カズサの口から聞くためだ。
「ではその、野良さ……じゃなくて、犬のビンゴは、いつ、どうして【異体】に寄生されたんでしょう?」
豪奢なソファにちょこんと身を沈めて、ナギは問うた。脳裏にはおぞましい姿に変貌する犬の姿が、ありありと思い起こされている。
「さあ? それがわかれば、【異体】の調査ももっと進展するんだけれどね」
「人間以外への寄生が確認されたのは、今回が初めてなんですよね?」
「その通り、だからミノワも、今回苦労したんでしょう?」
悪戯っぽい視線の先、ナギの向かいの椅子に腰かけたミノワは、今や傷一つないのっぺりとした顔で答えた。
「眼前でみすみす犠牲者を出したのは痛恨の極みだ」
「あまり気に病まないでいいのよ。【異体】が相手で無傷で済むと考えるほど、会は楽観的じゃないわ」
「ああ」
いつも通りの淡白な返しだが、その声音は心なしか沈んでいるように感じた。
「ところで、今回は面白いサンプルが手に入ったのよ」
ここで、重い空気を切り崩すように、カズサが一転して弾んだ声になった。
「というと?」
「あの【異体】、殺した相手の頭を住処に持ち帰っていたでしょう? それで、あの部屋にあった例の『祭壇』を調べたら、いろいろ面白いことがわかったわ」
二人の聴衆の反応を待つように、カズサはそこで一拍の沈黙を挟んだ。深く吸った煙草の先端の火が、赤々と光を放った。
「あの『祭壇』と、その周囲の肉を構成する材質は、人の体組織のそれに酷似していたわ。水分といい、タンパク質といい、脂肪といい……その配分を調べた連中が、まるで『ヒト』をまるごと溶かしたか、はたまた『ヒト』の模造品づくりでもしていたみたいだって、口を揃えて言ったそうよ。後者だとすれば、そのわりに、見た目を似せる努力はしなかったようだけど」
ナギは自分の顔から血の気が引いていくのを、はっきりと自覚した。あの時目撃した光景は、そう簡単には記憶から消えてくれそうにない。
「それでね、さらに興味深いことがあるのよ。というのは、あの物体から、五人分の人間の脳が発見されたの。五人分よ、五人分。そのうちの四つは、言うまでもなく被害者たちのものなんだけどね。彼らの首が乗っていた箇所の下から、もう一つ脳みそが出てきたのよ。ど真ん中に弾痕を残した脳みそ。まず間違いなくナガシロのものでしょうね」
四つの人頭が乗っていた肉の祭壇。ナギの胃の腑がせりあがる。
カズサは話を続けた。
「面白いのは、それらの脳が、いずれも生きた状態を強制的に保たれていたことよ。あのゲル状の肉群が、脳を保護し、機能させる役割を果たしていたの。しかも五つの脳のすべてが、疑似的な神経によって相互に接続されていたわ」
カズサは二人の顔を順繰りに眺め、底冷えするような笑みとともに言った。
「まるでバイオコンピュータみたいだと思わない?」
背筋が凍った。彼女がさらりと口にした「生きた状態」という一言が、脳裏を何度も駆け巡った。並んだ四つの顔の、とろけた皮膚や、虚ろな瞳が生々しく想起された。肚の底からこみあげてくるものを、ナギはぐっと堪えた。
「何が目的でそんなものを?」
ナギの問いに、カズサは首を横に振った。
「目下解析中。あまり期待はして欲しくないけど、何か結果が出たら、あんたたちにも伝えるよう言っておくわ。とりあえず、今伝えられることはそれくらいね」
そう肩をすくめた。
ふいに、ナギはビンゴという名の、あの元飼い犬のことを思い起こしていた。あの人懐こい気性、そして彼女を「ナカマ」と呼んだあの視線を。
彼はきっと、さぞや主想いの犬だったのだろう。
そう思った途端、ある発想が、唐突にナギの頭へ降りてきた。
「ナガシロさんの脳が、被害者の方々の頭の下にあったんですよね? そしてそれらをコンピュータのように扱っていたと」
「え? ええ、そうよ」
「それで、あの祭壇そのものが、人間を作ろうとでもしたみたいだった……」
「ええ」
「もしかして」
思いついたことを、思いついたままに口にしていた。
「ビンゴは、飼い主を……死んでしまったナガシロさんを、再現しようとしたんじゃ?」
ずっしりとした、重い沈黙が部屋に広がった。心臓が耳元で鳴っている気がした。
「ナガシロの脳は、損傷で機能不全を起こしていた。その欠損を、四つの脳の演算機能を並立させることで補おうとしたのかしら?」
「興味深い話にはなりそうだが」
重い口調で、ミノワが話を遮った。
「これ以上の深淵に踏み込むのは、結論が出てからにさせてもらう」
そう言って、鉄の巨体が立ち上がった。
「あら、もう行くの?」
「もう出せる情報は無いのだろう?」
カズサは苦笑しながら「まあね」と肯定した。
「ならばよい。報酬については、いつも通り仮想通貨で頼む。行くぞ、ナギ」
「あ、はい」
踵を返したミノワの背に、カズサが微笑を向けた。
「我らが頭領さまが、あなたの協力に感謝を、と」
「かつての御恩に報いたまで、と返しておいてくれ」
巨人と少女、二人の姿が、並んで【チキンズ・キャッスル】の支配人室から消えた。
×××
高くそびえる娼館の、長い廊下の窓からは、【拝火塔】の光がよく見えた。文明の証たるその光は、広く柔らかく、暗闇の都市を照らしている。しかしその明かりも、ナギの肚の底に横たわる冷たさを、温めてはくれないのだ。
「『ナカマ』と、呼ばれました」
【異体】という、ヒトに擬する存在が彼女に放った言葉が、ナギの心から離れない。
彼女の呟きは、独り言のつもりだったが、ミノワは立ち止まってくれた。だから、彼女も今度は対話のつもりで、言葉を続けた。
「野良……ビンゴは、私が、同胞であると」
ミノワを見上げた。彼の顔はナギの方に向いていた。硝子のように透徹した視線に、射貫かれたような気がした。
「お前も、そう思うのか」
一瞬だけ、答えが喉に詰まった。
昔のことを思い出した。ナギという少女が、まだ都市の上層で、一市民として、安定と被管理を約束された生活を送っていた頃のこと。彼女はある日、一体の【異体】と関わり、すべてを失うことになった。人間としての「自分」すらも、失ったも同然だったのだ。そこに現れたのが、まだ人間の体を持っていたころのミノワである。彼が自分を、あの地獄から救い出してくれた。
ミノワの問いに、ナギは明確な意思を込めて首を横に振った。
「私は最後まで、ヒトとしての在り方を全うします。それが誇りなのです」
ミノワはじっとこちらを見つめ……無意識だろうか……のっぺりとした彼の顔を自分の指で撫で、頷いた。
「ならばそれが全てであろう」
彼は直したてのコートの裾を翻した。ナギはその背中をしばらく、ぼんやりと目で追っていた。
毎日毎日、何度となく、この背中を眺めている。何者も寄せ付けないような、冷たい鉄の背中。しかしその下には、彼の体を衝き動かす莫大な熱量が、しまい込まれているのだろう。
ナギは今日も、遠ざかろうとする大きな背中を追いかける。