6 まがいものども
その生物の存在が初めて確認されたのは、およそ十年前のことである。
都市警備隊と、ある麻薬組織の抗争が激化し、銃撃戦に発展したその現場に「ソレ」は姿を現した。
最初、ソレは人間の姿をしていた。背の小さい男だった。麻薬組織の一員だったのだという。しかしその男は、激しい銃撃戦のさなか、胸部に銃弾を受けた。直後に、その姿が変わったのだとか。
これが地下人類と【異体】との、ファースト・コンタクトになった。
【異体】とは何者なのか。どこから来たのか。それらの問いに答えられる者は誰もいない。明らかになっているのは「人間の脳に寄生すること」「その脳以外の全身と『同化』してしまうこと」「人間社会に潜んでいること」の三点のみである。
――「イヌ」と同化するというのは、初めてのケースだ。
銃口の向く先、上顎と右頬を吹き飛ばされた怪物の姿を睨んだ。
怪物の足元すぐ近くに、少女ナギが滂沱の涙を流して転がっている。全身薄汚い粘液にまみれ、今にも気絶しそうなくらい青い顔をしているが、無事である。ミノワの後頚部に備えられた排熱口から、緩やかな呼気が鳴った。
昨晩【ホット・ビート】の隠れ家に侵入した【異体】は、どういうわけか、部屋にいたディノも長髪の男も一切傷つけることなく、刺青男のみを攻撃し、殺害した。敵は最初から、彼一人を標的としてやって来たのだ。
被害にあった四人。彼らにのみ当てはまる共通項は何か。生き残った長髪男……ディノはもう使い物にならなかった……を問い詰めたら、すぐに判明した。
どうもこの四人は、今から一か月ほど前に、一番地に隠れていた多重債務者の取り立てで、とんでもない粗相をしでかしていたらしい。なんでも探していた債務者と間違えて、赤の他人の家を襲撃した挙句、乱闘の末に相手を殺してしまったのだとか。
「これはきっと、あの時の復讐なんだ」
長髪男は声を震わせてそう言った。
それにしても、まさか件の復讐者があの犬だとは、予想外だった。ミノワは数日前、カズサから本件の依頼を受けた時のことを思い出した。あの時【チキンズ・キャッスル】の裏手で、ナギに懐いていた犬こそが、すべての犯人だった。【ホット・ビート】の隠れ家の監視カメラをチェックすると、昨日の昼から夜にかけて、あの犬の姿が何度も映り込んでいた。まるで強盗犯が警備員の配置を入念にチェックするように、だ。
ミノワは一歩、【異体】の部屋に足を踏み入れた。顔面から血肉を零し、苦痛にもだえる【異体】と、傍らで腰を抜かしているナギ。彼らの背後に視線を向けると、何やらおぞましい、肉の造形物が無数に見えた。祭壇のように盛り上がった個所に、四つの人頭が据えられている。いずれもかつて見た顔であった。
――あれに流れ弾を当てたくはないな。
そう考えた時、ミノワの構えた銃口がわずかに下を向いた。その一瞬を【異体】は逃さなかった。
【異体】の体が、突然風船のように膨らんだ。体表の肉が弾けて、膿のような汁をまき散らす。爪の生えた長い触腕が収縮し、口元に引き寄せられた。直後、膨らんでいた体が勢いよく縮まって、同時に触腕の先の孔から、無数の黒い塊が吐き出された。それは昨夜、【ホット・ビート】の隠れ家で爆裂させたものと同じ、小さな黒い骨片の数々であった。
爆風とともに、黒の小片がミノワに向けて殺到した。しかしこんなものは目くらまし程度にしかならない。ミノワは右手を背中にやって、リボルバーを攻撃から庇い、比較的装甲の薄い頭部カバーを左手で防いだ。鋭い金属音が弾雨の如く連続した。ただでさえボロボロのトレンチコートがさらに裂かれる。その裂け目から垣間見えるのは、未だ無傷のフルアーマーボディ。安易な攻撃では傷一つつけられぬ、鉄の体である。
攻撃の第一波はすぐに過ぎ去った。ミノワは再び銃を構える。
その時、部屋の奥から、猛烈な勢いで飛んでくる大きな影があった。
ナギである。
「何ッ!?」
「きゃあああああ!」
先ほどの【異体】の攻撃は、真実目くらましであったのだ。散弾のように降り注いだ骨片に、ミノワが気を取られたその一瞬で、【異体】はナギの体を触手で絡めとり、力づくで投擲したのである。
ナギは甲高い悲鳴を上げながらすっ飛んでくる。慌てて受け止めようとして、逡巡した。ミノワがそのまま正面から受け止めては、むしろ彼女の肉体は、衝撃で強烈なダメージを負ってしまうだろう。彼は文字通りの意味で、鉄の男なのだから。固い壁に叩きつけられるのと同じだ。
「くっ」
ミノワは咄嗟に後ろへ飛びしさった。ナギを無事に受け止めるにはどのような動きが適切か、補助電脳が猛烈なスピードで計算を組み立てていく。その計算結果がデータとして、ミノワの思考過程へ介入してくる。そうして示される補助電脳からのサジェストをなぞるように、ミノワの体が動いた。彼はほとんど自分も後ろに飛んで行くように後退しながら、左手でナギの背を受け、体を回して衝撃を逃がしつつ、速度を殺していった。柔らかく、すくい上げるように。何もかも計算された動きである。
最後に、ナギが手摺りを飛び越えて二階から落下しないように、横の外廊下に向かって突き飛ばした。少女の体はミノワが誘導した通り、廊下にもんどりうって落ちた。多少ならず痛そうだが、あれくらいは我慢してもらわねば困る。
そう思った次の瞬間、【異体】の触腕がミノワの顔面に叩きつけられた。
硬質な、されど凄まじい衝撃をうかがわせる轟音が響き渡った。
「ミノワさん!」
身を起こしたナギの目にその光景が飛び込んできて、咄嗟に叫んでしまった。ミノワは大きくのけぞってよろけた。痛烈な一撃だった。
うねる触腕の先端、【異体】の黒い爪は半ばから砕けている。それほどの威力であった。常人がその身に受ければ、頭から真っ二つにかち割られていよう。ミノワはどうだろうか。確かに爪による斬撃はその堅固な鎧が防いだが、衝撃は内部まで届いているはずだ。たとえ鎧兜を被っていようが、剣で頭を殴られれば人は死ぬ。彼の外殻の内側は、無事なのだろうか?
たたらを踏むミノワ。その頭上で、もう一度触腕が翻った。第二撃が来る。
ひょう、という空気を裂く音。鞭のようにしなり、叩きつけられる巨大な腕。
それがミノワの頭頂まで残り数センチというところで、ぴたりと止まった。
彼の左手が、巨大な触腕を握り、受け止めていた。
「捕らえた」
大きな手指が万力にて触腕を握りこんだ。【異体】の肉が潰れ、血が噴き出す。ミノワはそれを思い切り後ろに引っ張った。あまりの怪力に、【異体】はとても拮抗し得ない。転がった怪物は、廊下のあたりまで引きずり出され、側壁に叩きつけられた。そこにミノワの右手が……リボルバーの銃口が向く。
発砲音。大口径の軟頭弾が怪物の口元に吸い込まれた。狙ったのは触腕の根本。血肉がはじけ、絶叫が轟く。【異体】の口腔から伸びていた触腕が、ミノワの射撃によってずたずたに破砕されたのだ。敵の大きな口からは、血のあぶくが湧き上がっていた。
間髪入れずに、ミノワは掴んだ腕をさらに力強く引っ張った。肉の筋が裂ける不気味な音とともに、巨大な触腕が根元から千切れて、勢いよく引き抜かれた。
「ミノワさん、大丈夫ですか!」
「離れていろ」
傍らの少女に言い捨てて、握っていた肉塊を放った。湿った音を立てて、巨大な腕が地面に落ちた。
乱杭歯の隙間から滝のように血を零しながらも、【異体】は戦意を喪失していないようだ。朱に染まった牙を剥き出しにして唸るその姿は、かつて犬の姿をしていた時の様子を思い出させる。
ここでミノワは、やにわにリボルバーを腰に提げたホルスターに仕舞った。その代わりに腰の後ろから引き出してきたのは、スパイク状の剣身をした、黒い短剣であった。その刃は光を反射しないように加工されている。ミノワの手の中で、鋭い剣身が街の闇に溶け出すようだ。
そうして両者、睨みあう。時間にして約二秒。
敵方が先に動いた。肉襞に埋もれていた四肢を躍動させ、全身に生える触手を使って、鈍重そうな体が信じられない速度で肉薄してきた。跳ね回るような不可思議な動きで、【異体】はミノワに向かって突撃を敢行した。その全身から、体表の肉を貫いて、無数の黒い杭が剣山のように突き出てきた。勢いのままに、こちらを串刺しにするつもりなのだ。
「受けて立つ」
地を跳ね、突進してくる【異体】を、ミノワは正面から受け止めた。甲高い金属音が反響する。両者はもつれあい、凄まじい勢いで背後の鉄柵に衝突した。
人の管理から離れた建物は、総じて脆い。錆の浮いていた鉄柵は、二つの巨体をとても受け止めきれず、あまりにもあっけなくひしゃげ、へし折れた。
落下する。
「ミノワ!」
ナギの視界から、鉄と肉、二つの巨体が消失した。
直後、轟音が響き渡る。
ナギは慌てて廊下の縁に駆け寄り、しゃがんで下を覗き込んだ。すると彼女の視線の先に映ったのは、怪物を組み敷き、とどめの剣を大きく振りかぶっているミノワの姿だった。
外廊下から投げされた直後、ミノワは【異体】を抱え込み、後転の動きで両者の天地の位置関係を入れ替えていた。結果、ミノワが馬乗りになる体勢で【異体】は地面に叩きつけられた。
決着はあっという間だった。衝撃で大きく開かれた【異体】の口腔に、短剣が深々と突き立てられた。しかし大砲のような銃撃にも耐える怪物が、こんな一刺しで怯むはずもない。【異体】はそのままミノワの右手を根元から食い千切ろうとした。
しかしその直後、異変が起きたのだ。怪物がミノワの腕に齧りついたまま、ぴたりと動きを止めた。その隙に、ミノワは腕と剣を強引に引き抜いて、後ずさった。油断なく短剣を構えているものの、ミノワが漂わせる雰囲気はすでに弛緩している。
【異体】は体を捩じってうつ伏せになり、再度起き上がろうとする。しかし、何か様子がおかしい。
「効いているようだな」
ミノワは満足げにそう言った。
【異体】の全身が痙攣し始めた。触手の群れが無秩序に暴れ狂い、口から大量の体液を、血と一緒くたにして吐き出している。
ここで、息を切らして階段を駆け下りてきたナギが、ミノワのもとに追いついた。彼女は【異体】の様子を一瞥して息を呑んだあと、「何をやったんですか?」と訊ねた。
ミノワは短剣を一振りし、答えていわく。
「こいつを使って、即効性の神経毒を注入したのだ」
スパイク状の刃は、体液でぬらぬらと濡れている。その剣の内部には猛毒が仕込んであった。注射器のように、それを相手の体内に直接注入したのだ。
苦悶の声をあげる【異体】が、地べたに倒れ伏したままとても動けぬ様子を見てとると、ミノワはすぐに剣を鞘に納め、もう一度リボルバーを引き抜いた。銃口を抜かりなく敵の頭部に向ける。その直後。
「タスケテ」
怪物の口から、白いあぶくとともに声が漏れ出した。ナギはぞっと背筋が寒くなった。【異体】の溶けた瞳が、じっとこちらを見つめている気がしたからだ。まるで縋るように。
「ナカマ」
発話と同時に、怪物の姿が変異する。触手が縮み、弛んだ肉が溶け落ちて、体毛が生えてくる。犬に戻ろうとしているのだ。しかし毒の影響か、その体は無秩序に変形するだけで、不格好な肉塊のままである。
ミノワが銃のトリガーに指をかけた。【異体】は生物の脳に寄生する。宿主の脳が壊れては活動できない。多少の損傷ならば、持ち前の治癒能力で回復させてしまうだろうが、もしも原型も留めないほどに脳を木端微塵にされてしまったら、それを修復する能力は彼らにはない。そしてミノワの持つ銃なら、それが出来る。
「待って、ください」
恐る恐る、ナギは言った。ミノワは驚いたように彼女へ振り向き、しばらく逡巡する様子を見せた後、渋々の体で肯じた。
「早く済ませろ」
トリガーから指が外れた。それを合図に、ナギは動けぬ【異体】に、少しずつ歩み寄っていった。彼女の顔を、崩れかけた怪物の瞳が見上げた。
「私は、あなたの仲間じゃないの。あなたを助けられない。ごめんなさい」
その言葉を、今はっきりと口にしておかなくてはいけないと、そんな気がした。それが自分にとってのけじめなのだと。そうして彼女は悲痛な表情のまま、顔を伏せた。
怪物の瞼が大きく見開かれた。その表情はまるで、筋肉と脂肪の内側の、奥の奥に、心とでも呼ぶべき何かがあるような、そんな想像をかき立てさせるものだった。するともう一度、怪物の口が開いた。
「ト……、ト」
何かを言おうとしている。伝えようとしている。ナギは顔を上げて【異体】の表情を見た。肉と、皮膚と、体毛と、骨と……それらのパーツを、幼児が滅茶苦茶に捏ね回したような造形物が、口のような裂け目を広げて、彼女に言葉を伝えた。
「トモダチ」
「……え?」
「ナカマ……チガウ。トモ……ダチ?」
その言葉には、ある種の無邪気ささえ宿っている気がして、ナギはたじろいだ。怪物の姿と野良犬の姿が、ナギの頭の中で重なっていく。その空想が、そのイメージが、ナギの思考を歪ませた。
――また、吐き気がする。
視界がぐるぐると回っている気がした。頭の中のゼンマイが、砂を流し込まれたように、ぎりぎりと軋んでいる。電子ドラッグをやれば、きっとこんな感じの気分になるのだろう。目の前の肉の塊が、それが放った一言が、ナギの正気を蚕食してしまったのだ。
「私は……」
よろよろと後ずさり、崩れ落ちそうになった瞬間、彼女の背中を、広く硬い手のひらが支えた。途端にはっとした。ミノワの手が背に添えられていた。
「目を閉じろ」
いつも通りのぶっきらぼうな命令が降ってきた。ナギは反射的に、その言葉に従って瞼を伏せていた。
瞬間、銃声。慌てて目を開けると、怪物の頭部が粉々に打ち砕かれ、路傍に赤黒い池をつくり出していた。
「ミ、ミノワさん!?」
「あまり、とらわれるな」
ホルスターに拳銃を収め、振り向いた。三つの赤い眼光が、ナギを射抜いた。
「戻ってこられなくなるぞ」
抽象的なその一言が、ナギの心を深く抉った。背中にあたる鎧の手が、ひんやりと冷たかった。
路傍に立ち尽くす鉄の巨人と、小さな少女。横たわる怪物の遺骸から、鮮血が溢れ、二人の間を貫く細い川の流れを生んでいた。
×××
その後の始末は、存外にあっさりしたものだった。
ミノワが【異体】にとどめを刺してすぐ、カノト会が保有するヒューマノイド部隊が現場に到着した。
「部屋の中に【異体】が拵えたと思わしきものが残っている。見つかっていなかった被害者たちの体の欠損部もそこだ。後の処理は任せたぞ」
ミノワは部隊の責任者にそれだけ告げて、もう現場への興味を無くしたようだった。
「ミノワさん……」
冷たく輝く頭部のセンサーに対し、ナギはまともに目を合わせられなかった。言いつけも守らず飛び出して、挙句このざま。どうして合わせる顔があろうか。
「ごめんなさい、私……」
「けがはないか?」
「え……?」
彼の視線を感じた。冷たい光がこちらを見つめている。「はい、どこも」と頷いた。
「そうか」
ぽつりとそれだけ呟いて、ミノワは首を後ろに回した。そこでは今まさに「辛」の一字を額に刻んだヒューマノイドたちが、遺骸と化した怪物を、蜘蛛型の多脚車両へと回収する作業の真っ最中であった。
ミノワの顔を見ると、頭部を覆う半透明の黒色カバーに、小さなひびが入っていた。投げ飛ばされたナギを庇った直後、【異体】に殴打されて出来た傷だ。
「ミノワさんは、大丈夫ですか?」
「……何がだ」
「ケガとか……ありませんでしたか? その、お顔にひびが」
ミノワは指をその傷にあてて、一度なぞった。
「表面のコーティングがやられただけだ。一時間の修復で元通りになる。それに……」
そこで彼はしばし言い淀んだ。視線はじっと、活動するヒューマノイドたちに注がれていた。
ヒューマノイド――二本の脚で直立する、人と同型のロボットたち。今回【カノト会】から送られたヒューマノイドたちは、作業用の目的で設計されているから、その外見は意図的に無機質なものにされている。のっぺりとした顔には、何の表情もない。そもそも彼らに感情は無いし、仮にそれに近い思考能力があったとしても、それを表出する機能を、彼らは持っていない。
ミノワは随分長く彼らの作業風景を眺め、もう一度、自分の顔に走る小さなひびをなぞって、それからようやく言葉を続けた。
「俺にはけがをする部品などない。肉も内臓も……脳も、遠くに置いてきた」
彼の手がヘッドカバーから離れた。同時に彼の視線も、ヒューマノイドたちからするりと外された。
そうして彼は前を見て、さっさと歩きだしてしまった。無言のままずんずん進んで、大通りに突き当たるあたりまで行ったときに、ちらりとナギの方を一瞥した。
「帰るぞ、ナギ」
言うだけ言って、彼はそれ以上待つ様子もなく、先に行ってしまう。
ナギはどういうわけか、胸の奥が熱くなってしまって、しばらく動けなかった。鉄の背中がかなり小さくなってから、ようやく「はい」と返した声が、自分の耳にも震えて聞こえた。彼女は速足で、彼の背中を追いかけていった。