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外郭十五番街  作者: 山本謙星
スワンプ・ドッグ
7/10

5 ヒトの祭壇

 都市中央の【拝火塔】が光を取り戻す。


 朝である。


 地下【延命都市】十五番街、三丁目七番地。


 起床し身支度を整えたあと、事務所の入り口を開けたナギは、そこで吃驚の声をあげた。


「の、野良さん?」


 ドアの前に見慣れた姿が倒れ伏していた。昨日の朝にナギの部屋へ這入り込んでいた野犬だ。いつもの艶を帯びた毛並みはどこへやら、泥にまみれ、ぼろ雑巾のような姿になっている。


「わわ、どうしよう」


 慌てて駆け寄り、様子を見やった。息はある。どうやら今は眠っているようだ。しかしその呼吸の弱々しさたるや、今にも止まってしまいそうな気がしてくる。


「しっかりして」


 そう呼びかけて腹部に手を伸ばした。ひどく冷たくなっている。


「そんな、何てこと」


 ナギの表情が青ざめた。かすかに息はあるが、とても健全な状態とは思えない。病気なのかもしれない。しかしだからといって、ナギには彼をどうしたらいいか分からない。犬を飼ったことは一度もないし、治療経験など言うまでもない。


 そうしてひたすら狼狽えていたところ、ナギに触れられたことで目を覚ましたのか、野良がぱちくりと目をしばたたかせた。そして彼は何度も途中で頽れそうになりながらも、どうにか立ち上がろうとした。


「ちょっと、急に動いちゃ駄目だって」


 安静にしていろと諭すが、犬は人語を解しない。ようやく起き上がった彼は、ナギの顔に振り向くや、弱々しい声で吠えた。しかしその瞳は、ぼろぼろの体と対照的に、炎のような熱を宿していた。


「クン」


 力を絞るように一声鳴いて、野良は足を引きずって歩き始めた。


「えっ、ちょ、ちょっと待ってよ!」


 慌てて追いすがるも、立ち止まる様子はない。それどころか、野良はますます気勢を増して、今や付いて来いとでも言わんばかりだ。


「待ってったら」


 ナギが立ち止まると、野良も立ち止まる。そしてまた、あの熱のこもった瞳を向けてくるのだ。


「私を、どこかに案内しようとしてるの?」


「ワン!」


 その吠え声は、肯定の意味としか受け取れなかった。

 ナギは背後の事務所を振り返った。ミノワからは、不必要にここを動くなと命ぜられている。

 彼女の脳裏に「お前は帰れ」という冷淡な一言が浮かんできた。すると心が決まった。


「そこにいてね」


 一度事務所に取って返し、護身用の拳銃を引っ掴んで飛び出した。誰もいない路傍で、野良は微動だにせず彼女を待っていた。

 ナギが追いつくと、野良は再び歩き始めた。その様は数分前よりもぐっと元気になっているような気がする。目の前で左右に振れる尻尾を追いながら、ナギはいささかムキになっている自分を、心の隅で意識していた。首を横に振って、ポケットに押し込んだ拳銃に触れる。


――あれほど衰弱していた野良さんを、放っておけるわけないじゃない。


 自分に言い聞かせるように強く念じた。これは自分の、良心に従った結果の行動なのだと。

 ナギとの距離が開く度に、野良は振り返ってこちらを呼ぶ。やはり彼は、ナギをどこかに連れていきたいらしい。


――あんなぼろぼろの体で、どこへ?


 疑念と好奇心とを抱えつつ、ナギは野犬の導きに従っていった。


     ×××


「ええ、【異体】です。間違いありません。記録データを送りましょう」


 二番地街区の路地裏。【ホット・ビート】の隠れ家で、階段に腰かけ、ミノワは腕組みしたまま眠るように俯いていた。無論、本当に寝てしまっているわけではない。彼は今「さるお方」と通信をとっている真っ最中だ。


「会内部の犯行ではなかったようで。これで余計なボヤは防げますか」


『それははじめから疑っておらぬ。いくらあやつらでも、そこまでの莫迦はすまい』


 野太く、しわがれた男の声が答えた。老いを感じさせる声でありながら、同時にその響きは、黄金のように重く肚に圧し掛かってくる。永い年月を重ねて形作られた、巌のような威厳と老獪さが感じられた。


「まだ今回の件が【シティ・ガード】に感づかれた様子はありません。この機をむざむざ逃すいわれはないかと」


『もとよりそのつもりよ。よかろう、当分も必要に応じて、部下とうちの「備品」を動かす。さしあたっては一番地の調査かね?』


 通信の向こうで、老いた声が問うた。昨日の夜以降に行った調査で、この街の「一番地」が、敵の潜伏先として疑わしいことが判明していた。


「ええ、敵はあの一帯に潜んでいる可能性が高い。こちらは単独で動きますが、状況に応じて相談させていただきます。辛頭カノトノカミ閣下」


『その名はよせ。今や儂は警備隊の人間ではないと、何度言わせる』


「【カノト会】の頭領という意味なら、さほど間違ってもいないのでは?」


『ふん、減らず口を……』


 互いに短い声で笑った。


『貴様の腕は、儂が誰よりよく知っておる。だが、我が傘下からこれ以上の犠牲を出すつもりはない』


 ミノワの脳裏に、刺青男の最期の瞬間が浮かび上がった。こちらを向いたあの青白い顔。せり出すほどに見開かれた、虚ろな目が。


『宜しく頼むぞ』


「お任せを」


 噛み締めるように言い切った。通信を切る。街路の静寂が、装甲の表面から染み入ってくる気がした。


「ん?」


 するとその時、自分のアドレスに宛ててメッセージが届いていることに気が付いた。差出人はナギだ。彼女に持たせている携帯端末から送られてきている。訝しんで開くと、用件は「しばらく事務所を出る」という報せだった。はて、なるべくあそこを離れないように言いつけておいたはずだが。

 念のためにナギの端末の位置情報を探知した。すると。


「莫迦な」


 ミノワは思わず立ち上がっていた。補助電脳から送られてきた情報によると、ナギの現在地は、まさに十五番街三丁目の一番地。この一帯でとりわけ治安が悪く、しかも【異体】の潜伏地と目される場所だ。


「何故……」


 あまりにも不自然な行動だ。ミノワは事務所の監視カメラ記録にアクセスし、今朝の映像データを呼び出した。シティ・ネットワークの波に乗って、映像記録が補助電脳に送信されてくる。

 拡張識内に映し出されたのは、一人の少女と、一匹の野犬だった。事務所の入り口を映した両者の姿に、何かうそ寒いものを感じて数秒。


――この犬、どこかで……。


 少女が介抱しようとしている野犬の姿を、補助電脳に検索させた。結果は一秒と経たずに判明した。その瞬間に、ミノワは弾かれたように外へ飛び出していた。


「あの大莫迦が!」


 最早悠長に構えてはいられなくなってしまった。


――ナギが危険だ。


     ×××


 十五番街三丁目一番地。この地域は、かつてカノト会の保護下でカジノタウンとして栄えていた。しかしその繁栄も今は昔。この街区は、二丁目を根拠地とする武装勢力と、カノト会との抗争の現場になったことで、一気に荒廃した。かつての光の街並みも、今や一群の廃墟に過ぎない。二度と光を宿さぬ壊れたネオン管が、そこかしこに砕け、転がっており、過ぎ去った栄華の夢を偲ばせる。


 そんな荒廃した街の中で。


「どうしよう」


 ぽつねんと立つナギは、すっかり青くなっていた。こんなところまで来るつもりではなかった。ここは女一人で歩いていい場所ではない。

 かつての抗争で没落したこの一番地は、現在はカノト会を含む複数の武装勢力の緩衝地帯と化していた。様々な組織の思惑と、暗闘の影渦巻くこの街区は、人口過密著しい十五番街の中でさえ、好んで住む者のない土地だ。ここはいわば権力の空白地帯であり、故に多くの無法者、犯罪人、娑婆に縁遠い「いわくつき」が、隠れ家として潜伏する場所なのだ。


「ワン!」

 そんな事情を、野良は一顧だにしてくれない。そう、ナギは傷ついた彼を追ううちに、いつの間にかこんなところまで迷い込んでしまったのだ。


「ああ、もう」


 引き返すという選択肢が、何度も脳裏に閃いた。しかし彼女は、結局野良を追って前に進んでしまう。「何の収穫もなく、あの事務所に帰る」ということが、自分に対してどうしても許せなかったのだ。半ば自棄になっていたのかもしれない。


――役立たずのままは嫌だ。


 ふと頭に浮かび上がったその一言を――今そのことは関係ないじゃないか――と、首を振って追い出した。


――あの犬を放って帰るわけにはいかない。


 考えを上書きするように、そう強く念じた。

 おっかなびっくり歩いたが、幸いに何らか恐ろしい目に合うような事態には、陥らなかった。


 野良が、ある建物の前で足を止めた。


 目的地に着いたようだ。


「ここに連れて来たかったの?」


 旧カジノタウンの郊外にあるその建物は、どうやら古い複合住宅であるらしい。三階建てで、横に長い造り。塗装の剥げかけた、無味乾燥な灰色の壁面は、緩やかに滅びゆく一番地の廃墟群を象徴しているような気がした。


 振り返ってナギが追いついたことを確かめるや、野良は二階へと通じる外階段を駆け上っていった。今朝までとは比べ物にならない元気さだ。その著しい回復具合に、何か引っかかるような、釈然としないものを抱えつつも、ナギは従順に彼の後を追った。


「だから、待ってって」


 階段を上る。辿り着いた二階の廊下の先で、野良は一枚の扉の前に腰を下ろしていた。歩み寄り、そのドアを見る。


「二〇三号室……」


 無意識のうち、ドアナンバーを読み上げていた。野良は静かに佇んで、ナギの顔を見上げている。今朝はあれだけ衰弱していたのに、いつの間にか元気になってしまったような感じだ。

 ナギが扉に近づくと、野良は前脚でドアを叩く仕草をしてみせた。ここを開けてくれと言わんばかりだ。そう要求しているようにしかとれない。


 手のひらに汗を感じた。上着で拭おうとして、ポケットの中の拳銃に触れた。ひやりと冷たい。意味もなくグリップを握ると、しっかりとした重さが伝わってきた。

 もう片方のポケットには、連絡用の携帯通信機が入っている。何となく、そちらには手を触れなかった。

 ここまで来たのだから、最後までやってやる。そんな負けん気がむらむらと胸に湧いてきた。


「いいですとも」


 独りでに頷いて、ドア脇のインターホンを押し込んだ。


 沈黙。


 もう一度押し込んで、一秒、二秒。そこで、そもそもこのインターホンが今や機能していないことに気づいた。仕方なく、扉を直接ノックした。


 返事はない。


 廊下側の窓から中の様子を確認しようとしたが、厚いカーテンに阻まれて何も見えなかった。しかし人の気配は、微かにも感じ取れない。


「留守みたいだけど」


 どれだけやっても、一向に反応はない。すると野良は、今度はドアノブ目がけて前脚を振り回した。その仕草の意図を、否応なく悟ってしまう。


「まさか」


 といいつつ、破れかぶれで手をかけた。ガチャリ、ノブが回る。


「開いてる……?」


 恐る恐る扉を引いた。するとその間隙を縫うように、野良がするりと中へ這入っていってしまった。


「ああ、こら!」


 野良を呼び戻そうと慌てて扉を開けて、ナギはその場に凍り付いた。

 一丁目の街区は、十五番街のうちで高台に位置しており、「拝火塔」からの明かりをよく受ける。そしてこの建物は、部屋の玄関口が塔の方角を向いており、そのため入り口から覗き込んだナギの目には、部屋の中の様子まではっきりと映し出されてしまうのだ。

 見なければよかったなどと、後悔してももう遅い。


「えっ……あっ…………」


 そこには、ただ「おぞましい」としか形容しようがない、異物があった。


 はじめにナギを襲ったのは、視覚よりもまず臭いだった。この街の最外郭にある、穢谷レインボー・バレーの悪臭に近い。薬品と、腐敗したタンパク質の臭いだ。

 しかし、続けて彼女の視界に飛び込んできた光景は、嗅覚に訴えかける不快感を一瞬で忘れさせてしまうくらい、強烈で恐ろしいものだった。


「ひっ……」


 幽かな光を浴びて、深い闇の底から姿を浮かび上がらせるそれは、悪魔の似姿よりも、なおおぞましい。人類文明が築き上げてきた美の価値観とは、まるで対極。醜怪と狂気の産物だった。


 既知の生物ではない。


 それは異形だった。


 筆舌に尽くしがたい姿形をしているが、敢えて人語にて表すなら、それはいわば「肉腫の群れ」といったところか。動物の内臓と同じ色をした、大小さまざまのこぶが、泡のように無数に寄り集まって、それが部屋の奥の床をびっしりと埋め尽くしているのだ。こぶといっても、それは硬質なものではない。それらのひとつひとつは軟性に富んでいて、膨らんだり、縮んだりを繰り返し、決まった形には定まらない。

 肉腫たちの表面はぬらぬらと輝き、不浄なヘドロじみた赤黒い液体に覆われている。表面には紫色をした血管のようなものが、木の根のように這い回っており、どくんどくんと脈打っている。その律動に応じて、肉腫たちも絶えず蠕動を繰り返すのだ。


「う、うぶ……」


 ナギは一歩、二歩と後ずさった。しかしその視線は、部屋の奥の「物体」に吸い寄せられ、接着剤でも塗り付けられたように引き剥がせない。否が応にも、その姿の細部まで、目に焼き付けられてしまう。

 床を覆いつくす肉腫の海。その最も後方に、奥の壁と寄り添うような形で、大きく盛り上がっている部分があった。五十センチほどの高さで、台座の形をしていた。ナギはそれを一目見て「祭壇だ」と直感した。ここはきっと、人の世の理とはかけ離れた、異界の道理によって織りなされる聖域なのだ、と。ただの勘働きに過ぎないといえばそれまでだが、ナギには確信があった、


 何故なら、その「祭壇」には分かりやすく「捧げ物」がしてあったからだ。


 数は四つ。いずれも卵型をしていて、大きさは二十センチ強。表面に独特の凹凸があり、後面半分は繊維質のもので覆われている。それら四つの「捧げ物」を見て、その形状が「何に似ているのか」を脳が認識してしまった瞬間、ナギはその場で嘔吐した。

 胃の中のものをその場に全て吐き戻しながら、ナギは確信する。


――目が合った……。


――「彼ら」と、目を合わせてしまった……。


 端的に言って、それらは人の顔によく似ていた。表面の皮膚は酸を被ったように爛れ、一部は溶け落ち、内部の筋肉や骨を露出させていたものの、全体の形状は変わらない。少なくともそれが「人」だとわかるくらいには。

 しかも恐ろしいことに、ナギには四つ全ての顔に対して、見覚えがあった。


――三人の被害者。


 その記憶は即座に結び付いた。数日前ミノワに渡された資料で見た、一連の殺人事件の被害者プロフィール。そこに張り付けられていた顔写真に、それらはそっくりなのだ。


――犯人は全ての現場で、遺体の頭部だけを持ち去っている。


 しかし仮にそうだとしても、あの祭壇の上にある首の数は四つだ。数が合わない。

 もう一度恐る恐る顔をあげたとき、彼女はそこに、まだ新品同然の刺青男の顔があるのを認めた。【ホット・ビート】の隠れ家で会った男だ。堪え切れず、逆流した胃液がまたも喉奥から迸った。


 ぜえぜえと息が乱れる。胃が内側からせり上がる感覚がして、呼吸が苦しい。

 玄関の扉は立て付けが悪いせいか、大きく開いたまま軋みをあげている。ナギの視線は部屋の奥に縫い止められたままで、足の裏は釘で打ち付けられたかのように、その場から動かせない。恐怖に竦んでいるせいだろうか。それとも目の前にある「物体」のあまりのおぞましさに、魅入られてしまっているのだろうか。


 そんな彼女の目前で、見慣れた犬の姿が、悠然と部屋の中央に躍り出た。


「野良、さん……?」


 肉の海の只中へ、悪臭放つ粘液を踏み散らし、野良はそこに現れた。はらわたに似た鮮烈な朱色を背景として立つ彼は、優美な動作で振り向いた。その口が開き、白い歯列が輝きを放ち、赤い舌が垂れ、そして。


「ナカマ」


 と、言語を発した。


 その瞬間、野良の姿が変わった。体表の皮膚が内側からぶくぶくと膨らんでいったかと思うと、それが元の大きさの一・五倍程度に達するや、勢いよく裂けた。中から血肉が波濤となって溢れ出し、ドロドロに溶けていく。膨張して崩れた体のバランスを支えきれず、四つの足は折れ曲がって小さくなり、やがて肉襞の波にまぎれて見えなくなってしまった。その代わり、それらの肉の重なりの隙間から、無数の触手が次々生えてきて、空中でのたうち回った。眼球はどろりと溶けて顔の肉と同化し、乱杭歯の並ぶ口だけが、異様に大きく、奈落の底のように開かれた。

 その大きく開かれた口から、大きな舌が這い出して来る。いや、それは最早舌と呼べるサイズではなかった。巨大な腕だ。骨のない、軟体の腕。先端には四本の黒い爪が生えていた。口腔から飛び出したそれは、床に深々と爪を立て、削った。


「そ、そんな……」


 その姿、その異形。ナギは覚えがあった。


 かつて自分の人生を狂わせたものと同じ。


「【異体】」


 そして同時に思い出した。ミノワは今回の連続殺人事件を「何の仕業」と想定していたのか。

 彼女の目の前には、被害者たちの四つの首が飾られている。

 ナギは、自分が今どういう状況に置かれているのかを悟れないほど、愚鈍ではなかった。


「そ、んな……」


 硬直していた足がようやく動いた。一歩、二歩と後ずさる。それに対して、元は野犬の姿をしていたはずのモノが、口から触腕をくねらせて、こちらの方に伸ばしてきた。そして、いざなうような動作をする。


「いや」


 黒い爪が近づいてきた。よく見ると、触腕の先にも小さな口のような器官がついていた。その黒々とした孔に、意気を吸い取られそうな気がして、必死になって首を振った。


「ナカマ」


 もう一度【異体】からその言葉が放たれた。彼が少し前まで犬の姿をしていて、ナギによく懐いていたことが脳裏をよぎった。


「違う」


 しかしナギは、彼の言葉を肯定できなかった。【異体】の背後にある祭壇が、目の端に映っている。損なわれた「ヒト」の残骸が、今も目と口を開けて、こちらを見ているのだ。だからナギは首を縦に振らなかった。


「違うわ……」


 触腕がぴたりと動きを止めた。先端に開いた口のような孔が、二度三度、無意味に開閉した。触腕がゆっくりと【異体】の口腔に引き込まれていく。

 次の瞬間、鋭い風がナギの頬を掠めた。猛烈な速度で振り抜かれた爪が、すぐ隣の壁を抉っていた。言葉はなくとも、目の前の肉塊が怒っているのが伝わってきた。


 死んでしまう、と思った。膝から崩れ落ちそうになる。


 ふと、ミノワの背中が想起された。


 あの鉄の背中がなければ、自分はこうもか弱く、無力なのか。そう思った途端、肺腑の底で小さな炎が燃え上がった。その炎が、凍り付いていた思考と体を溶かしたのだろうか、逃げなければ、と気づいた。

 しかし時すでに遅し。【異体】はナギを逃がすつもりがなかった。彼女が背後に視線をそらした瞬間、無数の触手が伸びてきて、彼女の右足を絡め取った。足を引きずられ、彼女は尻からどんと落ちる。衝撃と痛みが背骨を駆け上って、一瞬息が止まった。その隙に、触手の群れが次々と伸びてきて、彼女の両足に絡みついていた。


「離して!」


 どんなに暴れても無意味だった。赤黒い触手はほとんど筋肉の塊だ。きつく体を締め上げて、びくともしない。そうこうしているうちに、彼女はずるずると部屋の奥に引きずり込まれてしまう。


「いやだ」


 廊下は平らで、手をかけるところが何もなかった。指先が冷たい床面を擦るだけだ。いつの間にか【異体】の顔が間近に迫っていた。自分の体は、肉腫の海のすぐ目の前にある。

 おぞましい色彩と、臭気の嵐が、ナギを吞み込んでいく。頭蓋に守られているはずの脳に、狂気が直接浸み込んでくる感覚。ここは悪夢の世界だ。抜け出す方法はない。

 【異体】の触腕が、彼女の首元に迫ってきた。黒い爪が鈍く光っている。あの四人の被害者も、こうして首を刈り取られたのだろうかと思った。そして自分もこのまま、あの祭壇で、彼らの仲間入りをするのか?


 狂気が氾濫する脳漿の海に、もう一度、ミノワの背中が浮かび上がった。


――死にたくない。


――死は、市民としての怠慢だ。


――私にはまだ、きっと為すべきことがある。


 ほとんど考える間もなく、ナギは上着のポケットから拳銃を引き抜いていた。ロックを解除し、トリガーを引く。二発、三発。普段から練習している通りの動作。射出された弾丸が【異体】の顔に風穴を開けた。

 しかし、彼女の携行していた拳銃では、余りにも火力不足だった。【異体】の治癒能力は並大抵でなく、少しの怪我なら立ちどころに治ってしまう。それが分かっていても、ナギは祈るように引き鉄を絞った。もうそれしか、彼女に抗う手段は残されていなかったから。


「痛ッ」


 風を切る音ともに、鞭のようにしなった触手が、ナギの拳銃を払った。重い音を立てて、彼女の唯一の武器は、あらぬ方向へ弾き飛ばされてしまった。途端に両腕まで触手に絡み取られ、床に組み伏せられてしまう。


――ああ、もうダメだ。


 諦念が彼女の心を侵した。


 白い歯の並ぶ【異体】の顔を見た。ナギの銃弾が穿った、複数の傷痕が残っている。それらの傷は盛んに収縮し、すでに治癒を始めていた。黒い体液が滝のように吐き出されている。何だか泣いているように見えた。

 黒い爪の生えた触腕が、ナギの首にかかった。生温い体温と、粘液が肌にかかった。力が込められていく実感がある。首の肌がぷつりと破れた。


 諦めが思考の全てを埋めて、彼女は天を仰いだ。


 ミノワの背中が遠ざかっていく気がした。


――もう少し素直に接していればよかった。


 ……次の瞬間。


「そのまま動くな、ナギ」


 野太い声が、背後から響いた。その声は電撃のように、ナギの全身を駆けめぐった。直後、グレネードのように強烈な爆音が背後から突き抜けてきた。銃火の音である。


 直後、【異体】の顔の右半分が、木端微塵に打ち砕かれた。血肉が勢いよく破裂して、ナギの全身に降り注いだ。しばらく現状が認識できずに、呆然としてしまった。やがてゆっくりと、今自分に何が起こったのかを理解していった。彼女は自分でも気づかぬうちに、目にいっぱいの涙を溜めて、それを濁流のように決壊させながら、背後の銃声に振り向いた。

 大きな、鉄の体が、拝火塔の輝きを背にして、そこにあった。


「ケジメをつけさせてもらうぞ、肉塊」


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