4 【異体】
青年ディノの脳髄には、今でもあの日の忌まわしい記憶が焼き付いている。あのとき感じた気配、臭い、音。それら全てが、濃密な存在感を放って、今もすぐ傍にあるような錯覚を覚えている。
あの日あのとき、三丁目二番地の路地裏で、ペンキを塗り固めたような黒色の闇の中から、それは現れた。
その姿をはっきりと目にすることは最後まで出来なかった。あらゆる凶行は暗闇の底で行われたのだから。
その日ディノは、【ホット・ビート】の仲間一人と連れ立って、大通りを外れた細道を歩いていた。この時点で既に、彼らの組織は二名の被害者を出していたが、ディノたちは臆することなく、むしろ仇を取ってやるのだと息巻いていた。
しかし、仇討ちなどと、そんな好機は一瞬たりとも訪れなかった。
予兆はほとんどなかった。強いて言えば、ほんのわずか、頭上から何か腐ったような臭いが漂ってきたくらい。次に瞬きしたとき、さっきまで隣を歩いていた男が、突然姿を消していた。それまで談笑していたはずなのに、いきなり相手の応答が途絶えたのだ。訝しんだディノが相手の方を見やると、そこには友人だった男の両足が……両足だけが……ぽつねんと放り出されていた。膝から上がすっぽりとどこかへ飛んで行ってしまったのだろうか。思いのほか小さな二本の足は、行き先を失念してその場に立ち往生していた。
そんな光景を目撃したディノが、現実を認識できずに呆然としていたその頃、背後の物陰では想像を絶する惨劇が繰り広げられていたらしい。ディノの友人は、悲鳴すらも上げる暇はなかったようだ。およそ人間の声らしきものは、何一つ聞こえてこなかった。
その代わりにディノの聴覚は、人の声とは違う――人間のものでは決してありえない音を捉えていた。
湿った音だと思った。粘性の高い液体をかき回しているような感じ。その音を聞いて、ディノは真っ先におかしな想像をした。羊の頭をした恐ろしい悪魔が、生きた人のはらわたにスコップを突っ込んで、その赤々とした中身をかき出している……そんな想像だった。そしてそんなことを空想した自分に驚き、ぞっとした。
何より不思議だったのは、背後からくる湿ったその音から、えも言われぬ魔性が感じられたことである。社会規範とか、人間性とか、そういったありとあらゆる普遍的な価値観を冒涜し、嘲弄し、踏みつけにするような魔性。きっとディノは、その音の放つ魔的な雰囲気にあてられてしまったのだろう。猟奇趣味でもないのに、何故か麻薬じみた魅力を感じていた。
しかしその魅力も、彼が「あること」に気が付いた途端、嘘のように消え失せた。
――嗤っている。
根拠など何もない、直感だった。彼はその、湿り気を帯びたおぞましい音が、何者かの笑い声なのではないかと思ってしまった。人ではない何か。世界を覆う「正気」という被膜を、一枚めくったその向こう側に潜んでいるもの。それがたてる、人理を超越した、おぞましい哄笑なのではないか、と。
そうして芽生えた恐怖と、狂気の隙間に、雪崩を打って「現実」が押し寄せてくる。
――友人を置いて逃げるわけにはいかない。
ごくりと喉を鳴らして、ディノは背後の闇と、隣に放り出されている両足を見比べた。途方もない葛藤が胸の内に沸き起こった。脳は痺れて働かず、肚の内に石が落ちてきたような心地がする。
しかしディノという青年は、この世の邪悪の何もかもから目をそらし、幸福に生きていくには、少しばかり情に厚すぎた。
彼は懐から護身用の拳銃を引き抜いて、そろりそろりと音のする方向へと向かっていった。どんどん近づいてくる冒涜的な嗤い声は、聴神経を刃物でつま弾かれるような不快感を催させた。
音源はもうすぐそこ。目の前にある交差路を、ひょいと右に覗き込めば、そこで行われている何もかもが明らかになるだろう。
あと二歩で。
あと一歩で。
……………………。
……そこからのことを、彼は憶えていない。記憶がちぐはぐになって、どこか遠いところへいって、無くなってしまった。
憶えていないということは、きっと、何も見なかったのだろうと思う。しかし、もしも仮に、そこで何かを目撃していたのだとしても、それはたぶん、記憶の底にしまい込んで、二度と思い出してはいけない類の光景なのだ。
この深き暗闇が支配する世界に、これ以上の深淵があってたまるか。そんな狂気の沙汰が存在してたまるものか!
そして、時は現在。ディノは光に包まれた部屋で一人膝を抱えている。光は文明の証左だから。人類の叡智だから。ここにいる限り、文明という輝きの盾が自分を守ってくれるのだと、彼は固く信じていた。
光だけが、自分を守ってくれる。
そのはずなのだ。
――だから、わからない。
――だから、理解したくない。
彼は血走った目で、脳を侵食する狂気に苛まれながら、自分の首を絞めるような心地で自問した。
――まさに今、部屋の天井を這う通気ダクトから。
――あの日、闇の中で聞いた哄笑を響かせて。
――俺の眼前に落ちてきたコレは。
――何だ?
×××
廊下の先にある扉から、耳をつんざく悲鳴が轟いたとき、ミノワは全てが手遅れであることを覚悟した。
依頼を受けてから三日目の夜。敵襲はあまりにも早かった。しかしミノワもこれを予想していなかったわけではない。だからこそ彼は、初日のうちから【ホット・ビート】の隠れ家に監視カメラを仕込み、接近するありとあらゆる人間を監視していた。それが出し抜かれたというのか?
「何があった」
「クソッ、ディノの奴、鍵かけてやがる! おい、開けろクソッタレ!」
細長い廊下の先、刺青の男がディノの部屋の扉を拳で叩いていた。ミノワも急いで彼の所へ向かおうとする。その瞬間、彼の鋭敏な聴音機構が、並々ならぬ音を捉えた。
――したたるような。
――湿り気を帯びて、這いずり回り。
――何もかもを嘲笑うが如き声が。
「貴様! 今すぐその扉から離れろ!」
叫べども、全ては手遅れであった。メキメキと、鼓膜を引き裂くような音が大音響で響き渡り、同時に何か大きな腕のようなものが、内側からドアを突き破ってきた。それの先端には、黒色をした、杭のように長く鋭い爪が四本生えている。ドアの前に立って、部屋の中へ呼びかけていた男に、逃げる暇などあるわけがなかった。
一瞬ののち、彼は扉から生えてきた黒い爪によって串刺しにされ、後ろの壁に縫い止められていた。四本の爪は、男の首、肩、腹、胸を貫通している。
「あ、あれ?」
刺青の男は、不思議そうに自分の体を見下ろしていた。今己の身に何が起きているのか、理解が追い付いていないらしい。一瞬の沈黙ののち、彼の口からごぼりと血の塊が吐き出され、喉を伝って滴った。
爪が引き抜かれる。胸と首に空いた孔から、赤い潮が噴水状に噴き出した。投げ出された男はそのまま崩れ落ちて膝立ちになると、くるりとミノワの方を向いた。青白い顔に変わっていた。
そして男が、何かを伝えようと口を開きかけた瞬間、風を切る音ともに大きな腕が横薙ぎに爪を振るった。男の頭が胴の上から消えた。赤い飛沫が噴き上がり、降り注ぎ、頭部を失った彼の全身を染めていく。
もぎ取られた男の頭は、ドアから突き出た腕がそのまま握りしめていた。よく見ると、それは腕というよりも、不格好な触腕というべき形状をしていた。うねうねと蠢くさまからは、とても骨が通っている様子が伺えない。
一瞬で人間の頭を刈り取った触腕は、その勢いのまま即座に腕を引っ込めた。冗談のような静寂の中、刺青の男の体がバランスを崩して横倒しになった。扉の前の廊下は、趣味の悪いことに、鮮烈な赤一色へ模様替えさせられることになってしまった。
「ひ、ひいっ」
背後から悲鳴が響いた。ちらりと視線をやると、そこで【ホット・ビート】の長髪男が、腰を抜かして倒れていた。
「死にたくないならそこを動くな」
そう言い放って、彼はコートの下から己の武器を取り出した。
それは巨大な、あまりにも巨大なリボルバー拳銃であった。ミノワの大きな手に包まれてなお、その鈍色の図体は常軌を逸した存在感を放っている。少なくとも生身の人間に扱える代物ではない。製作者の正気を疑う設計だった。
銃のロックを外し、右手に構えた。後ろで崩れ落ちたままの長髪男に対して、壁になるように立つ。
廊下は静寂に包まれているが、部屋の奥にはまだ濃密な気配が残っている。敵方に大きく動く様子はない。銃を構え、ミノワは慎重に扉に近づいていった。
――システム、戦闘モードに切り替え。
そう補助電脳に命ずるや否や、ミノワの拡張識の全リソースが、戦闘状況の分析にのみ傾けられるようになった。ネットワーク上に拡散していた意識が、小さな金型に力づくで押し込まれるように、目の前の状況に集中していく。
扉の向こうからは相変わらず、這いずり回るような不気味な音が聞こえてきている。それを捉えたミノワの拡張識は、今彼が認識しているありとあらゆる情報を収集し、猛烈な勢いで分析していった。そのうえで、まだ見ぬ標的の情報――位置、大きさ、重さ、形状など――も、視覚や聴覚、嗅覚などから得られる情報を元にシミュレートしていく。その予測結果を、これまで電脳が蓄積してきた様々なデータに照らして、立体的に組み上げた。
出来上がった敵の外見予想像は、あらゆる既知の生命体に近似していなかった。体長二メートル程度の、如何とも名状しがたい不定形の物体である。
――やはりな、と苦渋の思いが胸を占めた。
思った通りの相手だった。にもかかわらず、被害を防げなかった。自責の念が湧き上がるが、今はその感情に囚われている余裕はない。状況に集中しなければ。
補助電脳から提示された予想像を、今度はディノの部屋の構造データと合成していった。昨日のうちに、部屋の外観は全てスキャンしてある。そこに現在の敵手の予測状況を重ねていく。
ここまでに約一秒。そうして再度拡張識によりシミュレートされた状況分析の結果が、ミノワの視界に合成されてきた。予測されたヴィジョンは細い白線となって、彼の視界内に反映される。
そのデータを受け取った途端。
「おのれ」
もはや一片の躊躇たりとしている猶予はないと判明し、全速力でドアに駆け寄った。首のない死体を跨ぎ、血の池を踏み、波立てる。半壊しているドアも、材質は脆いものだ。鍵がかかったままだが、ミノワにとっては紙細工も同然。彼はドアノブのあたりをめがけて思い切り右足を叩き込んだ。
蝶番を変形させて、部屋いっぱいの光を封じ込めていた扉が、今こじ開けられた。リボルバーを手に一気に内部へ踏み込んでいく。そんなミノワの視覚に映し出された光景は、拡張識が弾き出した予測図とほとんど誤差はなかった。
はじめに、ドアの脇でうずくまる青年の姿を確認した。ディノと呼ばれていた男だ。小さくうずくまり、全身をガタガタと震わせているが、何と生きている。敵手はどういうわけか、彼を攻撃しなかったようだ。ただ、鋭敏になったミノワの感覚で彼の様子を分析するに、命に別状はないといっても、その精神が今どういう状況になっているかということに関しては、あまり楽観できそうもない。
しかし今は残念ながら、彼に構っている余裕はない。敵はすでに目の前にいるのである。
白光に満ちた部屋の隅、巨大な「物体」が壁を這い上っていた。それはもはや「物体」としか表現できない、不定形の肉の塊だった。赤黒い泥のような体。皮膚はなく、肉がむき出しになっていて、体表はぬらぬらとした粘液で覆われている。全身にいくつもの肉襞が垂れ下がっており、細かく蠕動するその肉群の隙間で、無数の触手が蠢いていた。まさにあらゆる生命の定形を冒涜し、嘲笑うが如き姿形である。これを常人がまともに目にすれば、あっという間に正気を蚕食されるに違いない。
そしてそんな「物体」は今、触手を器用に動かして垂直の壁をよじ上り、そこにある通気ダクトの孔から逃走しようとしていた。不定形の肉体を細長く伸ばし、全身をくねらせるように動かして、ぐんぐん孔の奥に進んでいく。すでに体の半分以上が、ミノワの視界から消えてしまっていた。
そんな状況を認めるや、ミノワは即座にリボルバーの引き鉄を絞った。大砲じみた大きさの銃口から、凄まじい発砲音が轟いた。一瞬の銃火とともに、大口径のホローポイント弾が射出される。狙い過たず、弾丸は通気口から露出した「物体」に吸い込まれた。
直後、その「物体」は絶叫した。きっと悲痛の叫びだったのだろう。ミノワの撃った弾丸は、マグナムの大火力もさることながら、敵の体内でマッシュルーム状に変形することで、体組織をズタズタに引き裂く。痛覚を持つあらゆる生物にとって、これほどの苦痛はあるまい。
しかし「物体」の叫びは、ただの悲鳴というだけでなく、兵器じみた破壊力をもっていた。耳孔に鉄釘を突き込まれるような、強烈な衝撃と嫌悪感をもたらす、狂気的な代物だ。生身の人間が近くで聞けば、きっと鼓膜が破れてしまうだろうし、何よりもその健常な精神を、一瞬にして狂わされてしまう。ミノワだからこそ耐えられたようなものだ。
ミノワは「物体」に向かって駆け出した。すでに三分の一ほどしか露出していない敵の体を、ダクトから引きずり出さなくてはならない。
しかし相手もそれを察したのだろう、間髪入れず新たな一手を打ってきた。弾丸に風穴を穿たれたことで、ナメクジのように力なく垂れさがる尾部を、勢いよく振り上げたのだ。
ミノワはその根元、ダクト内部を目がけてもう一度トリガーを絞った。
爆音。命中。再度の絶叫。だが「物体」は動きを止めなかった。
振り下ろされる尾部。瞬間、弾丸に引き裂かれた肉のつなぎ目が、ぶちりと切れた。敵は自分から、傷つけられた肉の一部を切り離したのだ。
切断された肉塊は人の胴ほどの大きさで、それが勢いをつけてこちらに投げ飛ばされてくる。ミノワの拡張識が、即座に反応して肉塊を観測、分析し、正体を判定した。一秒とかからず解析された結果を見、ミノワは驚愕と焦慮にて身を凍らせた。
拡張識の判定曰く、敵の投げ飛ばした肉塊は、いわば破片手榴弾のようなものである。落下の衝撃を受けて爆発し、内容物を周囲に撒き散らす。かつてミノワは、似たような攻撃手段をもつ近縁種と交戦したことがあった。今回の場合に撒き散らされるのは、先ほど見た黒い爪のような、硬質の小片であろう。
ミノワの全身は隙間なく旧軍式のパワードアーマーに覆われている。きっと爆発を受けても持ちこたえるだろう。しかし……。
「うああ! ひいい!」
彼の背後で男が一人喚いている。そう、部屋のドアの傍らで、どういうわけか生き延びたディノが、逃げようともせずに硬直しているのだ。
「畜生めが」
迷っている時間の余裕はない。ミノワは身を翻し、震える男の首根っこをむんずと掴み、部屋の外へと放り出した。その瞬間に、宙で弧を描いた敵の肉塊が、勢いよく床に叩きつけられた。
結果的にいうと、投擲された肉塊のもたらした被害は、ミノワの予測より少しばかり上回ることになってしまった。
着弾と同時に、肉袋は骨のような小片を無数に撒き散らしたが、これは想定通りだ。予想外だったのは、この時同時に肉塊が、小片の他に別の厄介なものを吐き出したことだった。それは圧縮された可燃性のガスであった。敵の体内で生成されたものをかき集めたのだろうか。そのガスが小片とともに部屋中に拡散した。
さてここで問題になったのは、この部屋に設置されていた無数の電灯である。小片の雨あられを受け、それらの多くは粉微塵に破砕された。当然ながら、電気を通わせていたそれらは、突然の破壊によりスパークをいくつも引き起こした。
空気の通りが悪い狭い部屋、充満するガス、そこに火源を与えてどうなるかは、それこそ火を見るより明らかであろう。発生したのは小規模なガス爆発である。元々明るかった部屋の中央に、より強烈な白光が現出し、直後その光が紅蓮の炎に変じて、ミノワの体を殴りつけた。彼は両手で顔をかばいながらしゃがみ込み、その爆発に耐える。パワードアーマーは伊達ではない。
轟音と爆圧は一瞬で過ぎ去った。間髪入れず立ち上がり、もう一度リボルバーを構えなおすも、すでに通気ダクトからあの「物体」はいなくなっていた。
「クソッ」
悪態とともに踵を返す。
「貴様らはそこを動くなよ」
通りすがり、生き延びた二人の男に命じて、地下を飛び出した。しかしもう手遅れだ。敵の姿は完全に消失し、どこをどう探しても影一つ見つけられなかった。
「してやられたか」
失意とともに、ミノワは闇の街路に立ち尽くす。ふと気付けば、特注のトレンチコートは先の爆発を受けた結果、破れ、焼け焦げ、見るも無残な有様に変貌していた。
「【異体】どもめ……」
完全に出し抜かれた。
ミノワは苛立たしげに、コートの焦げを手で払った。