2 光の部屋
はるか昔、人々の頭上には「空」なるものがあったという。「空」は様々な色彩に溢れていて、ときには清らかな青に満ち、ときには鮮烈な朱を放ち、ときには底深い藍を滲ませて……、さながら若き乙女のように、その表情をころころ変えるのだとか。
しかしそんなものは、今や遠きお伽噺の世界のことだ。今この時代、人々の頭上を占める色はたったひとつ。
それは平坦な黒だ。無機質な漆黒だ。それが天に広がる色彩のすべてなのだ。
だからこそ、現代に慣れてしまった者からすれば、お伽噺に聞くような、色彩変える「空」というのは、ロマンチックというより気味が悪い。彼らにとっては漆黒の天上こそが日常なのだから。
さて、人類が「空」を失ったのは、単純な理由からである。彼らは地上を捨て、地下に居ついた。大地の下に広大な空洞を掘り、そこに都市を築いたのだ。以来彼らは「空」を知らない。星も、月も、太陽も、古き「空」に広がっていた何もかもを知らないのだ。
太陽なき暗闇の地で人々の生活を支えるのは、都市中央にそびえる【拝火塔】である。この塔から放たれる、陽光に近しい柔らかな光と、街中に張り巡らされた電線が運ぶ電子の灯。これらが現代の人々の生活を照らす、文明の篝火である。しかして文明の光は、都市人口三十万にあまねく届くわけではない。物事にはなべて優先順位というものがある。
地下【延命都市】外郭、そこにあるのは都市計画上存在しないはずの街。都市の明かりから見捨てられた暗黒の巷。
――そこは十五番街。大きな窪地の底にある、掃き溜めのような街。
この街は実質的に、シティ・ネットワークから放逐された落伍者たちによる、スラムと化している。金と暴力が支配する、原始的な世界だ。ここでは人の命など、ときには一杯の水よりも値打ちがない。
そんな土地にあっても、今回発生した一連の事件は異様だった。その手口の残虐性もさることながら、わざわざ【カノト会】傘下の人間を狙い撃ちしたのは如何なる存念か。これがもし外部の人間の犯行ならば、蛮勇ここに極まれりといったところだ。
【カノト会】は、十五番街で最も栄える歓楽街――三丁目二・三番地を支配下に置く大組織だ。金と暴力と売春を司り、その存在はこの街区における「法」そのものといってよい。彼らに喧嘩を売って無事に済む輩など、この地にいない。
そのはずだが、最初の被害者が出てからおよそ一か月。犯人は未だ尻尾を掴ませない。それほどのやり手なのか、はたまた度が過ぎた幸運を味方につけているのか。
ともかくもこのような状況のなかで【武装探偵】ミノワは依頼を受けた。その翌日の朝から、彼の捜査が始まることになる。
×××
「【ホット・ビート】ですか」
その名を繰り返すと、ミノワは小さな首肯を返した。ナギは首を傾げつつ、言葉の響きに思いを致す。
「聞いたことないです。どういう組織なんです?」
「群れたチンピラに過ぎん」
表通りの雑踏をかき分けて、ミノワはずかずか進んでいく。必死になって彼の背中に追いすがりつつ、矢継ぎ早に問いかけた。
「それと今回の事件とが、どう関わるんでしょう?」
「三人の被害者が、いずれもそのグループの構成員だったそうだ」
「はー、なるほど。で、その【ホット・ビート】というのが、例の【カノト会】の下請け組織だったというわけですよね」
「そういうことだ」
ぶっきらぼうな口調ながら、ミノワははっきりと肯定した。
「へえ。何だか、その情報だけで犯人が絞り込めちゃいそうなくらいですね」
「そう簡単に済めば、俺はいなくてすむのだがな」
話しながらも彼は、光を湛えたセンサーを四方に巡らして、何かを探しているようだ。つられてナギも低い背をめいっぱい伸ばして、周囲をきょろきょろと見てしまう。電線と排水パイプが蜘蛛の巣のように張り巡らされた街並み、うず高く積もったゴミの山。爛々と光る男たちの目、淫靡に誘う女たちの肌、飢えた子ども、唸る野犬。
――うん、いつも通りの十五番街。見慣れた日常の景色だ。
「ミノワさんは犯人について、どう推測しているんです?」
「……さあ?」
「さあって」
はぐらかす気だ、絶対。
再びむくれていたナギは、いきなりミノワが立ち止まったことに気づかなかった。そしてそのまま、彼の背中に正面からどんと衝突した。
「ぐぇっ」
潰れたような悲鳴が出た。直後、ぶつけた鼻に異変を感じ、彼女はハンカチを取り出してしゃがみこんだ。
「何をしている」
「鼻血が……」
忘れるべからず、ミノワの全身は堅固なる鎧に覆われているのだ。
「急に、立ち止まって……どうしたん、ですか……?」
ハンカチを無残な朱染めに変えながら、今日幾度目かの恨みがましい視線をぶつけた。しかしミノワは謝るでもなく、訥々と答えるだけだ。
「見つけたのだ」
「……何を?」
「探し物を」
そうしてまたもや彼は、ナギを置いてどんどん先へ行ってしまう。
「待ってくださいってば!」
まだまだ熱の引きそうにない鼻頭を押さえつつ、急いで後を追った。どうやら表通りを外れて、裏路地に回ろうとしているらしい。大きな体をめいっぱい縮めて、細い道を進もうとしている姿はどこか滑稽だった。
「随分奥まで行くんですね」
「奴らはそれほど怯えているのだろうな」
「はあ……?」
微妙にずれた答えが返ってきて、ぽかんとしてしまった。しかしどうせ彼は詳しい説明をしないだろうから、あえてこれ以上追求しない。
裏路地に入ってから、ナギはすっかり彼に追いついてしまっていた。こういった狭い通路では、ミノワと違って小柄なナギのほうがすいすい早く進める。だから置いて行かれる心配もなく、のんびりした心境でいた。
そのうち彼は「ここだ」という一言ともに、また突然に立ち止まった。ナギも慌てて急停止。折角さっきの鼻血が止まってきたのに、同じ轍を踏むのは御免だった。
ここは二番地の外れ。背の低いビル群に囲まれた狭い路地裏。立ち止まったふたりの前にあったのは、地下へと続く階段だった。
「行くぞ」
見るからに怪しい雰囲気が漂う場所。しかしミノワにはこれっぽっちの躊躇もない。一拍遅れて、ナギも慌てて後を追った。彼女のほうはにわかに緊張していた。
階段を下りた先で、一枚の丈夫そうな扉が二人を迎えた。ミノワがそこをノックする。独特なリズムのノックだった。
はじめは沈黙のみがあった。しかし何となく、扉のすぐ向こう側に人の気配がある気がした。もう一度ミノワがノックをすると、思った通り、今度はすぐに返事がきた。
「誰だ?」
「探偵のミノワだ。娼館の女王に紹介されてきた。連絡はされているはずだが」
すると内側から覗き窓の覆いが外され、そこにぬっと男の顔が現れた。顔中に刺青を施した彼は、一瞬驚いたように目を見開いたあと、まじまじとこちらを見つめた。
「パワードアーマーの男……。確かに、聞いている通りの風貌だ」
男の声は、息が詰まりそうなほどの緊張感を孕んでいる。男は背中に首を回して、背後にいるらしい誰かと目配せし、頷き合った。
「入れ」
そして重い扉が、がちりと音を立てて開かれた。
×××
カズサの紹介を受けて訪れたこの部屋は、今の【ホット・ビート】の隠れ家である。昼夜を問わず暗闇に沈んだ十五番街街区、その奥の奥の地下空間。光なき地に追いやられた男たちは、まるで下水道に巣食う鼠のようだ。
【ホット・ビート】の現在の構成員は三名。そのうちの二人が、ミノワとナギを出迎えた。全身に刺青した大柄の男と、ひょろりとした長髪の青年である。もう一人の構成員は、まだ姿を見せていない。彼らの話によれば、もともとこの組織は六人で構成されていたらしい。今回の事件の被害者は三名、つまり彼らのうちの半数が、一挙に殺されたことになる。
「犯人は明らかに、貴様らに照準を定めて行動している。心当たりはないのか?」
雑然とした狭い室内を見回しながら、ミノワが問う。二人の男は互いに顔を見合わせた。
「ありすぎてわかんねえよ」
二人の回答は、最早やけっぱちだった。
彼ら【ホット・ビート】は【カノト会】の庇護下で汚れ仕事を請け負い、収入を得ていた。会が「暴力」を行使するとき最前線に立つのが、彼らのような末端の組織の仕事だ。その性質上、被害者の恨みを直接的に買うのも、また彼らのような人間だった。
「最初の被害者が出たのは三週間前だったんですよね? その少し前ぐらいの期間に、話を限定すればどうでしょう。少しは心当たりが出てくるのでは?」
手持ち無沙汰に突っ立っていてもしょうがないから、無愛想なミノワに代わってナギも時折助け舟を出す。そこにいるだけで高圧的な雰囲気漂うミノワと、柔和で見目もよいナギによる二人掛かりの尋問は、自然とアメとムチの定型に嵌るせいか、存外に効果が高い。二人の男はほどなく警戒を緩め、訥々と話し始めてくれた。
彼らの言によれば【ホット・ビート】はここ最近目立った活動をしておらず、会の「集金」を代行するくらいが関の山だったという。
「ヤバい組織とやりあったわけでもねえ。一丁目にいる貧民どものケツを叩くのが精々さ」
それがどうしてこんな目にあうのかと、そう言葉を続けた長髪の青年の両手は、凍えたように震えていた。
「あれは、貧民の怨恨で出来るような犯行ではないな」
そのときミノワが小さく口をはさんだ。その言葉に、昨夜見せられた一連の犯行現場の写真を思い出してしまい、危うくナギは嘔吐きそうになった。
被害者の遺体は、三人とも見るも無残に損壊され、そのうえ全員が頭部を持ち去られていた。頭部を持ち去るという行為が何を示すのか。そして犯人は、誰に目撃されることもなく、どうやってそれをなし得たのか。いくら十五番街といえども、人の頭をもぎ取って持ち運ぶなど、そうそう目立たず出来ることではない。
それに何よりも、三人の遺体の損壊程度はあまりにも激しすぎた。まるで榴弾に打ち砕かれたような惨状。あんな情景を作り出せる人間が、貧民街などにそうはおるまい。ミノワがしているような戦闘用のパワードアーマーや、リミットを外した違法ヒューマノイドなどを所有する人間というのが、妥当な線だろうか。
そのときミノワが、急にぽつりと呟いた。
「しかし、『奴ら』なら」
あまりにも細く小さい声音で、すぐ隣に立っていたナギが辛うじて聞き取れたくらいだった。彼女は目を丸くして隣の男を見上げた。彼の瞳にあたる三つのセンサーは、いつも通り冷たい光を放つのみで、その内に潜む感情を量らせない。しかしナギはこのとき、彼がいったい誰を……否、何を犯人として想定したのか、ふいに察してしまった。
「ところで、お前たちにはもう一人仲間がいるはずだな? 姿が見えないが」
考え込んでいたナギははっとして視線を戻した。ミノワの問いかけに、男二人はまたも思案するように顔を見合わせている。
「ここにいないのか?」
「いや、いる。だがあいつは……」
刺青の男はそこまで口にして言い淀んだ。苦々しげに眉間へしわを寄せた彼に代わって、長髪の方が言葉を継いだ。
「あいつは気が狂っちまった。なんでも、こないだの事件現場に居合わせたらしくて」
「おい!」
刺青が慌てたように制止した。だがもう遅い。
「それは初耳だな。なぜ隠した」
ずいと身を乗り出したミノワの圧力は尋常でない。二人はみるみる狼狽し、すぐに口を割った。
「だってあいつ、あれ以来おかしいんだ」
「暗闇が怖いとかほざきだすし、近づけば大声で泣き喚く。挙句の果てには怪物がどうとか言い始めて、どうにも手が付けられなかったんだよ」
それを聞いた途端、ミノワは断固たる態度で言い放った。
「そいつに会わせろ」
身長二メートル強の旧軍式パワードアーマーから放たれる凄みに、耐えられる者など滅多にいない。怯えに近い震えを帯びた声が、ミノワの要求を受け入れた。
「話になるとは思えねえが」
「構わんとも」
そう言ってミノワは満足げに頷いた。
×××
「寄るな! こっちに来ないでくれ!」
厚い扉を抜けた先でミノワたちを迎えたのは、萎びた肺腑から力づくで絞り出したような、悲鳴じみた男の叫びと、そして溢れんばかりの白光だった。
「明るい……」
ナギは思わず感嘆の声を漏らした。部屋の隅から隅まで、いくつもの小型電灯が無秩序に設置されている。群立する光の数々が、彼女の視線を否応なく釘付けにした。何せここは、文明の輝きに見放された十五番街。この地で暮らす住民にとって「光」というのは、何よりもわかりやすいステータスシンボルなのだ。それをこうも惜し気なく使うというのは、金持ちの道楽か、あるいは何らかの偏執を胸に抱えているのか。
「暗くすると暴れるんだ」
刺青の男が、横から呆れた様子で注釈を加えた。
「相当お金がかかっているんじゃないですか?」
「ああ、無論あいつ本人に負担させているが……」
彼は憐れむように部屋の奥の男を一瞥し「長くは保たねえよ」と冷たく言い捨てた。
「うあああ、来るな、来るな」
目撃者の男――名をディノという――は、まるで自分がこの世のあらゆる地獄を背負っているとでもいうように、悲痛な叫びをあげていた。紫色をした唇から迸る声は、血を吐くように苦しげで、立ち枯れの木を思わせる。顔色は真っ青で、頬はこけ、眼窩はしゃれこうべの形に落ちくぼんでいる。お世辞にも健康的とはいえない容貌だ。
「出ていけ! 独りにしてくれ」
部屋の隅で小さく丸まった彼は、半狂乱で喚き続ける。
しかしミノワは、ディノの一切の主張を無視して部屋に踏み込んでいった。ディノにとってこの白い部屋は、自分を守る結界だった。それが今まさに、得体のしれない大男によって侵されていくのを見て、彼は首を絞められたような悲鳴を発した。
「帰れ! 帰れ!」
「貴様、仲間が殺された現場にいたそうだな」
喚く声を歯牙にもかけず、ミノワは平坦な声で一方的に詰問した。
「何を見た?」
「来るな! 帰れ! 俺は知らない!」
叫ぶたび、涎が泡となって零れているのにも、どうやら気づいていないらしい。一体どういう経験が、彼をこうまで追い詰めたのだろうか。ナギの心中にこらえがたく同情の念が湧く。
しかしてミノワは容赦しない。あまりにも大きな体が、小さく丸まったディノを上から睥睨した。彼は見るからに怯えている様子だ。
「憶えていないか?」
「知らない……知らない。俺は何も見なかった。見えなかった。あんな暗闇の中で、何が見えるものか。あんな、あんな、おぞましい……」
そこまで口にして男は口をつぐんだ。全身がガタガタと震えている。
「おぞましい……何だ?」
ミノワは腰を屈めて、ディノと視線の高さを合わせた。
「何だ、お前、サイボーグか?」
彼はここに至って、ようやく相手の奇妙な格好に気が付いたらしい。しかしミノワは取り合わなかった。
「お前は何を見た?」
「暗闇。暗闇だ。何も見てない。暗闇しか見えなかった。暗闇は嫌だ……」
ディノはますます身を縮こまらせた。幼児が見えざる空想の怪物に怯えるのと同じに、彼もまた心の底から来たる恐怖の魔物に、怯えきっているのだ。
「そうか、貴様は何も見なかったのだな」
「そうだ。ああ、見なかった。何も、何も」
ミノワはゆっくりと、噛み締めるように頷いた。ディノが僅かに弛緩した表情で彼を見た。
次の瞬間、ミノワの声音が、すうっと低く冷たく変貌した。
「だったら質問を変えようか。貴様は、犯人が人間だと思うか?」
二人のやり取りに耳を澄ませていたナギは、この言葉である確信を抱いた。
――ミノワさんは、この事件が「奴ら」の仕業だと考えているんだ。
「人間……? いや、いや」
ミノワの突拍子もない質問に接したディノは、これまでよりもはるかに狼狽した。咄嗟に頭を抱えてうずくまっているが、彼の両目がせり出すほどに見開かれているのがわかる。
「知らない。見えなかった。暗かった。何も見えなかった」
「気配で分かろう。人か? あるいは機械か? それともまったく別のものか?」
「違う、たぶん、違う。機械じゃなかった。あれは……、あれは何だったんだ? 人間……? 人間だったのか?」
自問自答を始めて、彼はがりがりと頭を搔きむしった。その爪先が、頭皮ごと髪の毛をむしり取っていた。尋常な様子ではない。ほんの少し傷つければ、今の彼の心は硝子細工のように砕けて、二度と元に戻らないのではないかと思った。
「ミノワさん、今回はこれくらいに……」
とても見ていられなくて、ナギは制止の声をかけた。その声にミノワは振り返り、ディノの様子をまたちらりと見返ってから、首を縦に振った。
「どうですか? やっぱり……」
「ああ」
男を置いて戻ってきたミノワに問いかけると、彼は何かを確信するように強く頷いた。
そうして去り際、背後の男を睨みつけ、こう所感を漏らした。
「少なからず、臭うな」