1 女王の依頼
十五番街三丁目の路地裏で、ある男の遺体が発見された。
その遺体は身元などとても判別つかぬほど、徹底的に損壊せられていた。一見してわかる他殺体。しかし下手人をして、ここまでの凶行に至らしめるのは、いかなる怨恨のなせる業か。
からだの上半は扁平に潰れ、白骨砕け、肉零れ……、膝から下は引っこ抜かれて十メートルは遠方へ散乱している。首から上はいったいいずこへいったやら、現場にないので検討もつかぬ。
これほどの凶行、犯罪の影満ちるこの十五番街でもそうはない。およそ人理の外にある犯行。故にこそ、本件が人心に与えた衝撃は尋常ならず、その迷惑を最大に被ったのは、犯行現場にあたる二番地付近の歓楽街であった。
「最近は客足も減ってよう」
「裏通りの事件のせいよ」
「誰かどうにかしてくれねえか」
活気が引くも無理はない。何せこの一連の事件の被害者は、今回でついに三人目。にもかかわらず、この地域の支配者たる【カノト会】でさえ、犯人の正体を毫も掴めず、今に至っているのだから。
三人もの丈夫を惨殺した犯人は、今やいずこに消えたやら。十五番街三丁目の各街区は、なお一層暗澹たる気配に包まれつつあった。
×××
佳い女は、煙草をふかす姿もさまになる。瀟洒な黒檀風のテーブルを文字通り尻に敷いて、娼館【チキンズ・キャッスル】の若き女支配人――カズサは細く長く紫煙を吐いた。
「以上がこの事件のあらまし。どう? あんた好みのヤマじゃない?」
艶やかな笑みがこちらを向いた。対するミノワに表情はない。
「相変わらず何を考えているんだかわからない顔ね」
当然だろうが、と。そんな思いを込めて睨みつけれども、カズサはどこ吹く風だ。そもそもミノワが「睨んでいる」ことさえも、彼女には伝わるまい。何故なら彼の体は、頭からつま先まで、まさしく「鉄」そのものであるからだ。
このミノワという男は、実に異様な姿をしていた。全身を旧軍式のパワードアーマーで覆い、いかなる趣味でか、その上から特注のトレンチコートを着込んでいる。顔面は黒色のカバーに覆われていて、一切の感情を滲ませない。辛うじて表情らしきものを伺えるとすれば、それはカバーの奥で輝く、三つの赤い、瞳のようなセンサー類からだけだ。
だからこそ、彼の不満も苛立ちも、他人には一切伝わらない。彼の装甲は感情を表出する機能を備えていないのだ。
「資料は?」
訊ねるミノワの口調には、わずかに棘が混じっていたが、カズサは気にもしなかった。
「今から送る」
言葉通り、すぐにミノワの補助電脳へ、シティネットを介して事件の詳細なデータが送信されてきた。
「これはどこからの情報だ?」
「我らが偉大なる庇護者さまから」
「【カノト会】か。警備隊はどうした」
「それ本気で聞いてる?」
呆れた表情を返され、ミノワは肩をすくめた。十五番街は【非市民】の吹き溜まりだ。この地が都市警備隊から見放されていることは、住民にとり周知の事実だった。
「そもそも、ここら一帯はカノトの縄張りだろうに。わざわざ俺に依頼する理由はなんだ」
「いろいろと複雑なのよ」
深いため息とともに、紫煙が女の唇からたなびいた。
「今【カノト会】の内部がきな臭いことになってるのは知ってるでしょう?」
「派閥抗争か。ほとんど冷戦状態だそうだな」
「ええ。それで、さっき送った資料にも書いてあるんだけれど、今回の事件の三人の被害者は、全員が会のさる大派閥の傘下の人間でね。今、これが新たな火種になりかねなくなっているのよ」
「身から出た錆だな」
「まあまあ、そう冷たいことは言わないでよ。とにかく、そんな状況だから、カノトは今派閥間の足の引っ張り合いで忙しくて、とても犯罪調査どころじゃない」
カズサの口からぷかりと白い煙の玉が浮いた。
「そこで、あらゆる派閥抗争に無縁で、有能な外部人材であるあなたの出番ってわけ」
先ほど受け取った事件データを、外部電脳による拡張識で読み込みながら、ある程度得心いったミノワは嘆息に似た排気音を全身から発した。
「いいように使われているな」
「怒った?」
「いや。これも仕事だ」
するとカズサの表情に苦笑が交じった。
「娼館街も今回の件で随分打撃を受けてるの。頼むわ、ミノさん」
「承知した」
眼前の女とは懇意にしている。今ここでその信頼をふいにするつもりはなかった。
「さすが、頼れる男ね」
カズサはまなじりを下げ、煙草の灰を落とした。
×××
「何が助手よ」
一方そのころ、淫蕩の城――娼館【チキンズ・キャッスル】の裏手にて。遠くに表通りのけばけばしいネオンサインの群れを望みながら、その光の届かない闇の街路で、少女ナギは完全に不貞腐れていた。
「勝手にいなくなるなーとか、目の届くところにいろーとか、好き放題言ってたくせに。結局置き去りじゃない」
散々ひとりで愚痴をこぼしてから、対面する話し相手に同意を求めた。
「ねえ、野良さん?」
そう語りかけた先、彼は訳知り顔で鼻をひくつかせていた。がっしりとした四肢、豊かな体毛、凛とした双眸。そこにいるのは、この地域にしては不自然なほど健康的な体つきをした犬だった。野犬だろうか。それにしては人間に対して物怖じしない。
「おいで」
手招きすると、素直にとことこと寄ってきて、顎や背を撫でさせてくれる。何とも愛らしい。
「あなたはどこの、どちらさま?」
ナギは一転して上機嫌になり、鼻歌交じりで問いかけた。犬は人語を解しない。答えの代わりに、湿った鼻を腕に押し付けられた。ナギはますます気分良く、犬の体を撫でまわした。
「どこの犬だ?」
そのとき背後から野太い声が。裏口の扉から、身長二メートルを超す大男がのっそりと姿を現した。鉄の体、鉄の顔。特注のトレンチコートを翻し、【武装探偵】ミノワが少女の許に戻ってきた。
「知りません。野良犬じゃないですか? ここで莫迦みたいに待ちぼうけていたら、寄ってきてくれたんです」
意図せず口調に棘が混じる。そんな心の機微が伝わっているのか、いないのか、ミノワは文字通り鉄のような顔を動かさず、「そうか」と低く応えるのみだった。
「まったくもう……」
ナギはむっつりと頬を膨らませ、犬の方へと首を回した。するとどうだろう、いつの間にかあの野良犬は忽然と姿を消しているではないか。
「あれ? 野良さん?」
頓狂な声で呼びかけると、やけに遠方から力ない吠え声が返ってきた。見ると路地の向こうの物陰に、そろりとこちらを伺う犬の頭がある。彼の耳はみじめなほど小さく畳まれていた。
「おーい」
手を振ってやるも、野良はいよいよ怯え、せつない声をあげていずこへか去ってしまった。
「あーあ」
肩を落とし、恨めしくミノワを睨んだ。無論、彼に伝わっている様子はない。
「それで、用は済んだんですか?」
「ああ」
「依頼ですか」
「ああ」
すると、いつにもまして平坦な声が上から降ってきた。
「お前は付いてこなくてもいいぞ」
思わずカチンときて、ナギは一言「嫌です」と一刀両断してやった。
「何?」
「私は助手です。あなたが言ったことじゃないですか。私は自分の職務を果たすだけですから」
有無など言わせるかとまくし立てた。ミノワの頭部にある三つのセンサーが、まじまじとこちらを見た。
「急にどうした」
「どうもしません」
憤然と言い放ってから、肩越しにちらりと様子を見た。さしもの鉄の男も、これで少しは人の心情に気を回してくれるだろうか。
「……勝手にするがいい」
少し不機嫌そうな口調だったが、言質は得た。ミノワはつかつかと歩き出し、ナギがその大きな背中を追いかけた。彼女の手は小さくガッツポーズを作っていた。