序 執念の目覚め
黒々とした孔がある。
吸い込まれそうなその空洞から、たらりたらりと、赤い潮が零れ、広がる。
その様を、彼はじっと見ていた。
鏡を見るような心地で、じっと。
――目の前で、「わたし」が倒れて、死んでいる。
――だったら、今いるこの「わたし」は、いったい何者なのか。
彼は考えた。考えて、考えて、考え抜いて、結局何もわからなかった。それどころか、思考すればするほどに、頭の中に黒い靄が広がって、あらゆる認識が霧消してしまうのではないかという気さえした。
――誰かの記憶が這入ってくる。
――記憶が入れ替わる。
――私の心を侵すこれは、いったい誰の記憶なのだろう?
その新しい記憶が、ゆるやかに、やわらかに、かつての自分の思い出を上書きしていくのがわかった。
そうして、改めて、目の前に広がる光景を眺めた。
男が倒れて、死んでいる。
眉間に黒々と穴を穿たれて、死んでいる。
――「わたし」は、この男に愛されていた。
ふいにそんな想いが胸中に込み上げてきて、彼は居ても立っても居られなくなった。震える足に鞭打って、立ち上がる。自分の腹から、ぼとぼと音を立てて熱い液体が漏れ出す感触があったが、気にもしない。
――取り戻さなければ。
彼の胸の内には、ひたすらその思いだけが、どす黒い怨念のように、強く焼き付いていた。
――奪われたものを、取り戻さなければならない。
2017/02/09
読みやすいように、改行の仕方を工夫してみました。以降の章も同様。