第九話
アルゼリオの催眠眼から解放され、兵士達は軽く頭を振って意識に掛ったもやを振り払う。自分が何を口走ったのか、兵士達はほとんど記憶していなかったが、自分達が何かをされたと言う事は分かり、にわかに険を増してアルゼリオに槍の穂先を突きつける。
今にもアルゼリオが槍衾にされてしまいそうな光景に、ネネリやトトルは軽く息を飲む。アルゼリオやその実力を知るギモーブ達は慌てた素振りは見せないが、兵士達には関係がなかった。
「お前、おれに何をした? まじないかなにかか?」
「まじないか。外れではないがそのようなものだ。さて一度は助けた以上、そうそうあの姉と弟を傷つけられては沽券にかかわるのでな。お前達はここで寝ておけ」
アルゼリオの赤い瞳に不快と敵意が渦巻いている事を悟り、兵士達は全身を粟立たせながら、手の中の武器を動かした。
「殺せ!!」
果たして誰の口から出た言葉だったか。だが、実にシンプルな言葉は怯える兵士達を後押しするのに十分だった。
自分を半円状に囲い込む兵士達から突き出された十本の槍を、アルゼリオはつまらないものとしてしか見ていない。
訓練もろくに積んでいなさそうな兵士達だったが、突き出された槍はまあそれなりには速い。
「亀なら突けるな」
呆れたアルゼリオの声にわずかに遅れ、槍を黒い風のようなものが薙いだ。黒い風が吹いた後、兵士達は自分達の握る槍が随分と軽くなった事に気付き、半分ほどの長さになっているのを見た。
アルゼリオが左手を軽く払うと、翻したコートの裾が切り取った槍の半分が乾いた音を立てて地面に落ちる。
「つまらん手品だが、お前達から武器を奪う位の事は出来る。次はそのカタナか?」
兵士達はアルゼリオの言葉を受けてすぐさま刀に手を伸ばした者、呆気にとられて槍を見つめる者、逃げ出そうと手綱を操る者の三つに分かれた。
アルゼリオはそれらの兵士達を見回し、彼らの乗る鳥達と目があった。くりくりとした黒い目が、バンパイアの赤い目としばし見つめ合う。
「鳥に罪はないな」
再びコートの裾を翻し、刃の如く鋭いソレで鳥の首を跳ねるのを中止し、アルゼリオはふわりと柔らかく地面を蹴った。
重力をまるで感じさせない優雅な跳躍は、アルゼリオに対する恐怖を露わにした兵士達ですら心奪われるものだった。跳躍したアルゼリオの右手が一人の兵士の首筋に置かれる。
赤子をあやすように優しく手が置かれ、一部の神経と血管が圧迫された瞬間、兵士は痛みを感じる事もなく意識を失う。
アルゼリオが鞍の上に着地しても、鳥は大人しいもので、それはアルゼリオがまた次、その次の兵士達の下へと跳躍しても同じことだった。
最初にアルゼリオの催眠眼に支配された兵士は、悪い夢を見ている気分だった。
見た事もない上等な服を着た異国人らしい男が、目を話せない奇妙な動きを見せ、仲間達に触れる度にそいつらが眠るみたいに意識を失い、ぴくりともしなくなる。
気付けばどいつもこいつもトンタ――彼らの乗っている鳥の事だ――に倒れ込むように蹲っていた。
「ひ、なんだ、なんだ、お前、妖怪か!?」
「妖怪扱いとは心外な。安心しろ、貴様らのような者共の血など、一滴たりとも吸うつもりはない」
そう言ってアルゼリオが兵士の背後に降り立ち、そっと首筋に触れた時、その兵士は他の仲間達同様に意識を失い、腰の刀を抜く事は出来なかった。
鳥も兵士達も身じろぎひとつせず無力化された光景に、ネネリとトトルはなにが起きたのかまるで理解できずにいた。
兵士達がアルゼリオに槍を突きつけた時には、自分達の恩人が串刺しにされる光景を思い描き、顔色を青褪めさせたが、実際にはどうだ。
一体、なにがどうすればこんな事になる? アルゼリオはコートの裾がはためく音も、地面を踏む音も立てずに襲撃に参加しようとしていた兵士達を全て無力化させてしまっている。
「ある、アルゼリオさん、貴方は一体?」
瞳を恐怖で揺らすネネリの震える声に、アルゼリオは月を背におって威風堂々と答えた。
「バンパイアだ。私はバンパイアのアルゼリオ」
「バン、パイア……」
ネネリだけでなくトトルもまたアルゼリオの告げた種族の名を呟き、揃って首を傾げた。
「あの、バンパイアって何ですか?」
ネネリの口から出て来た言葉に、しばしアルゼリオは反応を見せず少ししてから小さく溜息を吐いた。彼が事前に思い描いた想像の数々の中に含まれていない答えが返ってきたからだった。
「そこからか」
*
翌朝の事である。アルゼリオの口からバンパイアという種族について聞かされたネネリ達だったが、そのような種族は聞いた事もないと言う答えを口にした。
とはいえネネリは辺境の村の少女に過ぎず、ネネリとトトルが知らないだけで呼び名の違うバンパイアが、こちらにもいないと決めつけられるものではない。
アルゼリオは村に残っていた荷車を見つけ出し、ギモーブと二人がかりで何とか荷台にそれらしい壁と屋根をつけ、陽射しを避けられるようにした。
これにあのトンタという巨大な鳥二羽に曳かせれば、馬車ならぬ鳥車の出来上がりである。
アルゼリオがどこかに隠していた棺桶と村から見つけて来た使えそうなものを荷台に乗せ、御者台にはネネリとトトルが座っている。
当座の目的地は、薬師であったネネリ達の祖母の弟子の一人が居るマネンの集落だ。アルゼリオがそこまでの護衛を約束してくれている。
御者台で手綱を動かすと、二羽のトンタ達は素直に脚を動かし始める。
朝を迎えて周囲が明るくなると一夜で滅ぼされた村の惨状がはっきりと見えてしまい、ネネリは目頭が熱くなるのを必死に堪えなければならなかった。
そしてトンタのけん引する鳥車に揺られていると、昨夜、タタムの家に戻ってからアルゼリオに伝えられた事が思い起こされる。
バンパイアについて説明されたが、ネネリは道理でアルゼリオに対して恐怖を拭えぬ筈だと納得する事が出来た。
怪力や再生能力なども恐ろしかったが、それ以上に他の生き物の血を吸って、同じバンパイアに変えるという話は、ネネリの背筋に冷たい汗を流させた。
ただ命を奪うのではなく別の生き物に変えてしまうなんて、なんて恐ろしい。もしバンパイアに変えられてしまったら、その魂は祖霊達の待つ浄土へ行く事も出来なくなるのではないだろうか。
知らずごくりと咽喉を鳴らし、ネネリはそれでもせめてトトルだけは何としても助けなければならない、それが残された最後の家族であり姉である自分の役目だと思っていた。
「姉ちゃん」
「あ、なに、トトル」
トトルは荷台の棺桶と二匹の蝙蝠を気にする素振りを見せてから、声を潜めて姉に話しかける。
「姉ちゃんさ、アルゼリオのお兄ちゃんの事、そんなに怖がらなくてもいいんじゃないの?」
どうやら弟にはネネリの心中などお見通しであったらしい。息を飲み、ネネリはしきりに荷台の方を気にしながら、弟を向き直った。賢いトンタは特に指示を出さなくても、道沿いに進んでくれる。
マネンの集落への別れ道までは、まだしばらくある。弟との話し合いに興じる時間はあった。
「トトル、あなた、そういう事は……」
「そりゃ、ばんぱいあっていう種族だってのには驚いたけど、命の恩人だし、村の皆を埋めてくれたし悪い人じゃないと思うよ」
「それはそうだけれど、でもひょっとしたら私の血が欲しいのかもしれないじゃない」
「姉ちゃんが言う通り、お腹が空いたらおれ達の血を欲しがるかもしれないけど、それでもあのまんまだったら、そろって井戸の底で死んじゃってたぜ。
だからそうだなあ、あのまま死んどきゃよかったって思うような目に遭うまでは、アルゼリオのお兄ちゃんを信じていいと思う。おれ達だけじゃマネンまで辿りつけるかわかんないし、村に残ってもどうしようもないし」
ネネリは弟がここまできっちりと現実が見えている事と、あまりにもはっきりと割り切っている事に驚きを隠せなかった。家の仕事こそ真面目にこなすが、村の子供達を引き攣れて悪戯をして回るガキ大将だったのに、よほどネネリよりも厳しい現実を直視しているではないか。
「それにさ、もしなんかあったらおれが姉ちゃんを守るよ。お兄ちゃんが血が欲しいって言い出したら、先におれを吸ってもらって、姉ちゃんだけは助けてくれって頼むしな!」
そういってにかっと笑うトトルが随分と無理をしている事を、流石にネネリは姉の観察力で気付いた。ネネリは姉としてトトルを守らなければと思っていたが、トトルも男として姉を守らなければと、幼いながら思っていたのだ。
ネネリは先程とは違う理由で目頭が熱くなるのを堪えなければならなかった。
「もう、馬鹿ね。そういうのはもっと大きくなってから言いなさい」
「へん、あっという間に姉ちゃんより大きくなるよ!」
そういう弟に向けて、ネネリは村が襲われてからようやく本当の意味での笑顔を浮かべるのだった。
御者台での姉弟達のやり取りを、荷台の中でギモーブが静かに耳を傾けていた。主人であるアルゼリオは棺桶の中で眠りにつき、モナカはギモーブと交代で睡眠を取っている。
横に渡した棒につかまりながら、ギモーブは主人の目指す目標へのこれからの道筋と、あの姉弟をアルゼリオがどうするつもりかと思案していた。
(種族を問わずあの手の子供らは、殿下の好まれる気性。今のやり取りもそうだが、今後もああであるのなら、殿下が眷属に取り立てる事もあるかもしれん。
この異郷の地で最初に得る眷属がこの姉弟とは、少々殿下には釣り合わぬが背に腹は代えられんか。だが、どうも殿下は気に入った相手を出来るだけそのままにしておこうとなさるし、さてさて、どうなることか)