第七話
矢を射かけられ、槍を突き立てられ、斬り殺される人々。
飛び散る真っ赤な血。
燃える家屋。
耳にこびりついて離れない断末魔の悲鳴と、心の底から楽しいと感じている笑い声。
これまでずっと続き、これからも続いて行くだろうと思っていた、貧しくもなんとか生きていける慎ましい暮らし。
皆で助け合い、支え合い、そうする事で何とか暮らしていける
自分達だけでは生きて行く事が出来ない。だから力を合わせるしかない。そうする事で生きて行くのが、自分達が獣とは違う人間である事の尊厳を持てる唯一の術だった。
なのに、世界はどうしてこんなにも残酷なのだろう。
優しくはなくても厳しいのはいい。厳しいだけならばそれに耐えて生きて行けるから。
けれど、残酷な世界はどうすればいい。自分達の出来る全ての事を嘲笑って踏み躙る事を、厳しいとは言わないだろう。
なんて理不尽で、なんて残酷で、なんて無慈悲で、そして救いのない世界なのだろうか。
弟のトトルと二人生き残ったけれど、これから先どうすれば良いのか。腕の中のトトルのぬくもりを感じながらも、ネネリの胸には未来への希望などは、一縷の望みすらもありはしなかった。
「姉ちゃん」
「ん、なあに、どうかした?」
そんな姉の胸中を知ってか知らずか、トトルはにかっと笑うと、ぐう、という大きな音と共にこう言った。
「腹減った」
「もう、それなら遠慮なくお鍋をいただきましょう。えっと、蝙蝠さんは、いないみたいね」
もし気を遣ってくれたのだとしたら、ありがたい気遣いだ。
つい先ほどまでは絶望と諦観の海に腰まで浸かっていたネネリだが、手の中のお椀の温かさとトトルの存在、そして自分達を助けてくれた蝙蝠の主人の存在が、少しだけ生きる活力を与えてくれた。
希望を持っても何時だってそれを潰されてきたから、安易に希望を抱く事は出来ないが、まだ生きてみよう、そう思う位の事は許されるのではないかと、ネネリは縋るような思いでそう祈っていた。
トトルはまだ事態をきちんと理解していないからなのか、ネネリから渡されたお椀の中身を箸で勢いよく食べて、三杯もおかわりした。
行儀悪く頬を目一杯膨らませながら、トトルはしげしげと自分達が着替えさせられた服と、囲炉裏の上に渡された紐に引っ掛けられて乾かしている服とを見比べる。
「それにしてもすっげえなあ、この服。なあ姉ちゃん、これが絹ってやつなのかな? すごいすべすべしてる。これってすごい金持ちの商人か、士族の連中しか着れないんだよな。
じゃあおれ達を助けてくれたのも、士族の人なのか? 喋る蝙蝠を連れているって事は、よっぽどの物好きなんじゃないかな」
「どうかしら、私にも分からないわ。ただ助けて貰ったのは確かよ。きちんとお礼を言わないとね」
そうトトルを諭しながら、ネネリは着替えさせられたこの服の様式が、自分達が日常で来ている物とも、何度か見た事のある士族の者達の来ている絹の服とも大いに異なる事に気付いていた。
ひょっとしたら、この国の士族ではなくどこか違う国からやってきた物好きなのかもしれない。
いや、そうだとしてもこんな国の片隅にひっそりと存在しているような村にやって来る理由がない。
それこそこの村を襲った連中のように、わずかな食糧や蓄えを奪うか、あるいは無力な村人を殺しまわるのを楽しむ者でない限りは。
それからトトルがお腹一杯になるまで食べ続け、あまりにも滑らか過ぎて慣れない服を着替えてから、二人は家の外に出て蝙蝠の主人にお礼の言葉を告げる事を決めた。
外はすっかり夕暮れの底に沈んでいて、家屋に着けられた火は消えている。家屋の建材が燃えた臭いは残っているが、血と肉の焼ける臭いはまだ残っている。
鼻を突く臭いにネネリは顔を顰めたが、トトルは自分達が先程までいた家を振り返っていた。
「ここ、タタムさんの家だったんだね」
「そう、そうね。そうだったみたいね」
村の中でも広い畑を持ち、何かがあれば率先して先頭に立って皆を鼓舞してきた壮年の男性、それがタタムだった。ネネリとトトルもタタムに随分と世話になった憶えがある。
そしてそのタタムは真っ先に村を襲った者達の前に立ちはだかり、殺されてしまった。
ネネリは今もタタムが容赦なく袈裟斬りにされる瞬間が、鮮明に瞼の裏に焼きついてしまっている。 二人の心に感傷の風が吹き、しばらくの間そのまま今は亡きタタムの家を眺めた。
「トトル、行きましょう。私達を助けてくれたという方に、お礼を言わないと」
「うん。すぐ見つかるといけどね」
感傷を振り切り、二人はすぐにあの蝙蝠の女の子を探し始めた。幸い、蝙蝠は二人の事が気になっていたのか、すぐ近くに生えていた木の枝に止まっていた。
「二人とも、もういいのかしら?」
パタパタと翼をはためかせ、ネネリ達の前で滞空する蝙蝠の姿は、その大きさがおかしい事を除けば、まあまあ可愛らしい。
ましてや命の恩人らしいから、ネネリ達の対応も柔らかなものになる。これで命の恩人でなくて、言葉を話さない相手だったら、夕飯の材料にするべく狩ろうとしたかもしれない。
「はい、お互い怪我をしていませんでしたし、それに服もありがとうございました。あの、家の中に畳んで置いてありますから」
「めし、美味かったよ。ありがとう。おれはトトル、姉ちゃんはネネリだよ」
「そう、二人とも元気が出たみたいで良かった。私はモナカよ。それでどうかしたの? そのまま眠るかと思っていたのだけれど」
「実は私達を助けてくれたっていう、モナカさんのご主人さんにお礼を言おうと思って」
ネネリの言葉にモナカは考え込む素振りを見せた。夜明けにはまだまだ時間があるから、アルゼリオが棺桶の外に出て行動していられる時間はある。
村の中の様子からずいぶんと遠いところに来た事は判明しているが、バンパイアがこの地でどう扱われているのかを知りたかったが、ネネリ達の反応で分かれば都合がよい。
都合はよいが、折角助けた相手に怖がられるような事になるのはいやだな、と思い、モナカは少しだけ躊躇う気持ちを抱いていた。
主人のアルゼリオはその程度の事は気にしないようにも思えるが、意外と繊細なところがあるようにも思えるし……
「分かりました。私の主人のところへと案内するわ。村の端の方に居られるから」
モナカがパタパタと忙しく翼を動かして方向転換して、アルゼリオの下へと向かうのにネネリとトトル達は素直に従って行く。
そうする他ないと言うのもあるのが、自分達以外居なくなってしまったこの状況では、モナカの主人に頼るしかない。
歩き慣れた筈の、しかし見慣れない光景になってしまった村の中を進むと、共同墓地として利用している一角へと向かっているのが分かった。
墓地とはいっても、地面に穴を掘って亡き骸をそこに埋めて、土を盛った後に名前を彫った木の板を立てた程度の簡素な墓しかない。
普段なら床に就いている時間帯である事と墓場という場所から、言い知れぬ不安に心細さを覚えるネネリとトトルだったが、ほどなくしてモナカが転がっていた岩の上に止まり、案内を終えた事を悟ると、墓場の中に立つ青年――アルゼリオの姿に気付いた。
惨劇があろうと変わらぬ白い月光が降り注ぐ夜、死者が弔われた墓場の只中に立つアルゼリオの姿を見た時、ネネリは息をする事すら忘れて見入った。
まるで月光を纏っているように白く輝く肌は、どんなに美しい女でも嫉妬の感情を抑えきれないのではないだろうか。
彫り深く気品の漂う顔立ちはこの辺りでは見受けられないものであり、異国の雅趣薫るものだった。
夜の闇そのもののような外套やその下に着用している衣服も、アルゼリオの顔立ち同様ネネリの知らないものだったが、貸し与えられた服と同じく途方もない高級品である事は間違いない。
アルゼリオがその傍らに身の丈を越える槍を突き立てている事が、ネネリの不安を大きくさせたが、こちらを見るアルゼリオの赤い瞳は穏やかであった。
アルゼリオは自分を茫然と見つめるネネリ達に、静かな声音で話しかける。冷たいのでも暖かいのでもない静かな声は、アルゼリオの抱いている感情がなんであるか一切聴き取る事の出来ないものだった。
「二人とも目が醒めたか。モナカ、二人の介抱、大義であった。さて、私はアルゼリオという。井戸の底に居た君達を引き上げたのが、私とそこのモナカとギモーブだ」
「わ、私はネネリと申します。あの、助けていただいてありがとうございます」
「トトルです。姉ちゃんとおれを助けてくれてありがとう!」
深々と腰を折って頭を下げるネネリと元気良く礼の言葉を告げるトトルへ、アルゼリオはほんの少しだけ柔らかな光を赤い瞳に浮かべる。
「頼まれてもいない事を私が勝手にしただけの事だ。さてネネリといったな。君の方に少し確かめて貰いたい事がある。トトルはモナカとここで待っていなさい」
アルゼリオの声には穏やかな口調ではあったが、不思議と逆らえぬ力が込められている。
この時、ネネリはアルゼリオの口の動きと聞こえてくる言葉が一致していない事に、気付く事はなかった。
ネネリがアルゼリオの傍まで近づくと、アルゼリオはこちらを興味津々の様子で見ているトトルを一瞥してから、視線を足元の地面に向けて囁く声でこう告げる。
「可能な限り遺体を集めておいたが、私はこちらでの弔いの流儀を知らぬ故、掘った穴に横たえるに留めた。同じ村の仲間の君が弔った方が、彼らも喜ぶだろう」
どこかぼんやりとしていたネネリの思考は、アルゼリオの言葉によって雷に打たれたような衝撃を受け、足元の地面に視線を動かした。
ネネリの視線の先には、地面に掘られた穴に横たえられた村の皆の亡き骸があった。
アルゼリオがどう手を下したのかは不明だが、どの亡き骸も恐怖に塗れた表情は消えて穏やかな死に顔になっている。
アルゼリオがネネリに告げた野暮用というのが、村中に転がっていた亡き骸を弔う事だったのだ。
「弟には酷と思って呼び寄せなかった。君にとっても酷な事とは思うが、大丈夫か?」
「は、い。はい、大丈夫、です」
アルゼリオが悪いわけではない。悪いわけではないが、改めて自分の故郷が蹂躙された事実を突きつけられて、ネネリの瞳からは満月のように丸い涙が次々と零れ落ち始める。
肩を震わせて嗚咽を漏らすネネリに、アルゼリオはただ待つ事を選んだ。
死者を弔うの死者への礼儀ならば、死者を前に涙を流す生者に対し沈黙を守るのが生者への礼儀であると、アルゼリオは心得ていたから。