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第六話

 意識の覚醒は夜の闇を払う朝陽のように鮮やかに訪れた。

 ネネリは鉛にでも変わったように重たく感じられる瞼を意思の力で開き、煤に汚れた見慣れた天井を真っ先に映した。

 ネネリが瞼を開くのにわずかに遅れて、とても柔らかくもふもふとした心地良い感触が離れて行く。


 羊? 記憶の中で最も近い感触を思い出しながら、ネネリは信じられないほど鈍い体と意識に何度も叱咤を入れる。

 まだ意識はぼんやりとしていたが、ここで再び気を失ってはならないと心のどこかが必死に叫んでいる。


 何か生き物の気配を感じてかろうじて首を右に動かすと、見た事がない位に大きな蝙蝠がこちらを覗きこんでいて、ネネリはひどく驚かなければならなかった。

 なぜかピンクのリボンを巻いていて、くりくりとした瞳はとても可愛らしいが、いかんせん大きい上に近い。


「目が醒めた?」


 ましてや言葉を口にするなど、ネネリには信じられない事だった。夢でも見ているのだろうか? 自分の勝機をネネリが疑う間にも、目の前の蝙蝠はこちらを落ち着かせるように言葉を重ねて行く。


「私はさる御方に仕えている執事見習いよ。私の主人が井戸の中で震えていた貴女とそっちの男の子を見つけて、解放するようにお命じになられたの。蝙蝠が喋るのが珍しい?」


 珍しくないわけがない。鳥も獣も人の言葉を口にはしないものだ。それが獣人や鳥人でもない限りは。

 だがそれよりもネネリの気を引いたのは、男の子という単語だった。それで朧雲に隠された月のようだった意識が、はっきりと覚醒に向けて焦点を定める。


 反射的に体を起そうとし、まるで他人の身体であるかのように言う事を聞いてくれず、ネネリはほんの少し身じろぎをしただけだった。

 そしてネネリはようやく自分が思わずうっとりするほど滑らかな肌触りの衣服に着替えさせられ、村長の家でも見た事がないほど美しい刺繍の施された掛け布団と毛皮に包まれていた事を知る。

 目の前の話す蝙蝠とその主人が、自分達を助けたのは間違いがないらしい。


「まだ動くのは無理よ。貴女の身体はまだ温まりきってはいないわ。それと男の子は貴女の左側に寝かせてあるわ」


 今更だが蝙蝠が可愛らしい女の子の声をしている事にネネリは思い至ったが、それよりも蝙蝠の口にした男の子の事が、意識の大半を占めていた。

 かろうじて首を左に回すと囲炉裏で燃える火の向こうに、まだ顔色は白みがかっているが、規則正しい寝息を立てている弟トトルの寝顔があった。


 ネネリと同じように一生縁がないような掛け布団や毛布の中に埋もれていて、当面命の危機とは縁がなさそうに見える。

 そうして弟の無事を確かめると、ネネリの脳裏にはどうして自分達がこのような目に遭ったのか、という記憶が津波のように押し寄せてきて、カチカチと歯の鳴らす音が零れる。


「貴女達にひどい事をした者達は、今はもうこの村には居ないわ。もう少し休んでいなさい。その後に私の主人と話をしてもらうことになると思う」


 人間の言葉を操る可愛いが奇妙な蝙蝠を振り返り、ネネリはなんとか言葉を出す事に成功する。体感的にはほんの少し前に味わったばかりの恐怖の残滓が、ネネリの心の中に残っていたが、目の前の蝙蝠はこちらに危害を加える相手ではない事は分かった。


「あり、がとう」


「お礼の言葉なら私ではなく、私の主人であるアルゼリオ様に」


 アルゼリオ、その名前を心の中で何度も呟いてから、ネネリは抗えぬ眠りの腕につかまれて、瞼を閉じた。

 再びネネリが目を醒ました時も、蝙蝠は変わらず自分の枕元に居て、どうやら囲炉裏の日の当番などをしてくれていたらしい。


「あの」


 今度ははっきりと声が出た。改めて蝙蝠を見ると、翼を広げたら自分の両手よりも広そうだ。ここら辺では見た事のないほど大きな蝙蝠で、言葉をしゃべる事を会わせて考えると魔獣の類なのかもしれない。


「今度はきちんと目が醒めたみたいね。体は起こせるかしら?」


 蝙蝠は歩くのに向いていない造りの足で器用に囲炉裏に掛けられている鍋に近づき、どうやってか翼を使って鍋に差し込まれていた匙を取り、炉端に置いてあった木の皿に鍋の中身をよそる。

 ネネリの鼻をかすかな香りがくすぐり、しばらく何も入れていなかったお腹の空き具合を否応なく意識させられた。


「お鍋や食器は残っていたものを勝手に拝借したけれど、お鍋の中身は私達で用意したものだから、気兼ねなく口をつけて」


 そうしてトコトコと近づいてきた蝙蝠は、身を起こしたネネリに木のお椀を渡す。おそるおそる受け取ったお椀には、小さな塊に切り分けられた人参や芋があり、汁は澄んでいる。

 ネネリ達が普段口にしている、野菜屑と申し訳程度の芋と塩で味付けしたものよりも、よほど美味しそうだ。

 状況から考えてこの蝙蝠が作ったのだろう。

 そう考えるとどうしても口をつけるのは躊躇するが、食べ物を目の当たりにした事で目覚めた腹の虫達の合唱には抗いがたく、ネネリは思い切って匙で芋と汁を掬い、口に運ぶ。


「あ、美味しい」


「そう、それなら良かった。起きぬけにすぐに食べられるように、味付けは薄くしておいたのだけれど、大丈夫かしら」


「は、はい。とても、美味しいです」


「あまり勢いをつけて食べるとお腹が驚いてしまうから、ゆっくりと食べてね。あら、男の子も起きたみたいね」


 鍋の匂いにつられてか、十分に体が温まったからか、トトルがううん、と小さな声を上げて身じろぎして、ゆっくりと瞼を開く。

 トトルの鳶色の瞳がネネリの顔を映すと、ぼんやりとしていた焦点がはっきりと結ばれて、同時に意識の覚醒が一気に進んだ。


「あ、姉ちゃん」


「トトル、目が醒めたのね、良かった。本当に良かった」


 ネネリは床にお椀を置いて膝立ちになってトトルへと近づいて、上半身を起そうとして弟を今出せるありったけの力で抱きしめた。

 そうする事でより強く、弟が生きていると言う実感を確かめたかったのかもしれない。


 そう肉が着いているようには見えないが、普段の野良仕事で鍛えられたネネリの腕力は見た目を裏切るものがある。

 そんなネネリに抱きしめられたトトルは、少しだけ苦しそうな素振りを見せるが、それ以上に照れ臭そうだ。


「苦しいって、姉ちゃん」


「あ、ごめんね。でも、大丈夫? どこか痛むところとかはない?」


 ネネリに解放されたトトルは、どうかな? と呟きながら肩や首を回し、自分の身体の具合を確かめる。時々、幼い顔が顰められるが、痛いという言葉が口を突いて出る事はなかった。男の子らしく我慢したものか。


「ううん、ちょっと肘とか痛むけど、大丈夫だよ。これくらいへっちゃらだよ」


「そう、そうならよかった。そうだ、お腹は空いていない? 美味しいし、温まるわよ」


「さっきからいい匂いがしてたから、腹が減って仕方なかったんだ。うわ、でっかい蝙蝠!」


 ネネリに勧められて、食欲を誘う匂いを発している鍋へと視線を向けたトトルは、そこに至ってようやく、ちょこんと佇んでいたモナカに気付いて大きな声で驚きを露わにする。

 姉と弟水入らず、と気を遣って口を噤んでいたモナカだったが、起きぬけにこれだけ元気な反応が出来れば大丈夫だ、と心の中では安堵していた。


「お姉ちゃんよりも随分と元気な子ね。お腹が一杯になるまで食べるといいわ」


「ええ、姉ちゃん、蝙蝠が喋ってるよ! なんで!? ええ~~」


「トトル、あんまり大きな声を出さないの。私も事情が分からないんだけれど、この蝙蝠の子と御主人の方? が私達を助けてくれたらしいの」


「え、あ、そっか、そういやおれ達、井戸ん中に隠れて……」


 トトルは自分達がどうしてここで眠っているのか、その前にどうしていたのか、村に何が起きたのかを思い出してしまったようで、見る見る間にその顔色が青ざめて行く。

 十歳にならぬかどうかの子供が、故郷と顔なじみの人々に突如として襲い掛かった理不尽を思い出せばどうなるかなど、想像するまでもないだろう。


「大丈夫、大丈夫よ、トトル。怖い人達はもう居なくなったわ。ここには私達にひどい事をする人はもう、いないわ」


 村の皆も、父さんも母さんも、とネネリは心の中でだけ付け足した。それは決していつかは弟に伝えなくてはならず、そしてそれは今日明日の事だった。

 どうして自分達がこんな目に遭わなければならないのか、日々を精一杯生きているだけなのに、満足に食べる事も出来ないけれどそれでも懸命に生きて、ある日突然、虫けらを潰すみたいに殺されても、それを受け入れるしかないのか。


 お互いを支え合うように抱き合うネネリとトトルを前に、モナカは物音一つ立てずにそっとこの場から席を外した。

 今ここで事情も知らぬ自分が何か口を挟める道理はないと、そう理解していたからだ。

 この村で生き残ったのはこの姉と弟だけ。何人かの村人は浚われていったようだが、それでも死んだ者の方が多いだろう。

 これから先、あの二人がどうするのか。そして主人のアルゼリオはどうするつもりなのか。その事をモナカは何度も何度も考え続けていた。

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