第三話
アルゼリオは棺桶の中に先に逃がしたギモーブとモナカを腕に抱え、なんとか恐るべき神の下僕達から逃れ得た事を悟り、ほっと安堵の息を吐く。
失ったものはあまりにも多くそれに対する怒りは無限に湧き出でる泉のごとくだが、今は生きていてくれた家臣達の無事を喜びたかった。
死体のよう、あるいは氷のようと喩えられるほど、体温の低いバンパイアに強く抱きしめられて、ギモーブ達には寒い思いを強要しているかもしれない事に、ふとアルゼリオは思い至り、問いかけた。
「ギモーブ、モナカ、大事ないか? 如何にお前達でも私の近くにいては冷えよう」
アルゼリオの左腕に抱え込まれたギモーブとモナカがもぞもぞと動き、なんとか寝そべっている主人の顔を見上げ、蝙蝠達のくりくりとした円らな瞳が、アルゼリオに恐縮そうな視線を向ける。
「いいえ、私共こそ殿下の腕に抱えられるなど、畏れ多い事にございます」
「も、申し訳ありません。殿下」
「よい。お前達だけでも助ける事が出来て良かった。私はお前達に救われた思いなのだよ」
それは口にした通り、アルゼリオの偽りのない気持ちだった。
何もかもを失ったに等しいアルゼリオだったが、腕の中に抱えている小さな二つの生命は、確かに助ける事が出来たのだ。
その事実が、かろうじてアルゼリオを完全なる憎悪と狂気の嵐に飲み込まれるのを防いでいた。
もしそうなっていたなら、アルゼリオは見境も分別も良心も何もかも忘れて、目についた全ての生命の血を吸い、下僕へと変えてでも復讐を果たそうとしただろう。
「しかし、私とお前達三人だけか。ずいぶんと寂しくなったが、私は自分が口にした言葉を曲げるつもりはない。必ずやサルーシアン神遣帝国を滅ぼし、皆の無念を晴らす」
力強く断言するアルゼリオに、ギモーブとモナカはしばし言葉もなく感じ入っていたが、すぐに家臣としてあるべき態度を示す。
「御見事でございます、殿下。どうぞ悲願達成の為に、我らの力をお使いください」
「私も祖父と同じ気持ちです、殿下。どうぞ私達の命を御身の為にお使いください」
「二人の忠義、痛み入る。お前達の忠義を生涯忘れまい。とはいえこうも密着した状態では、いささか滑稽かもしれんが」
ギモーブとモナカへの感謝の念とそれよりもはるかに小さいが、もっとそれらしい場所でその言葉を聞きたかったな、という思いがアルゼリオの胸の内にはあった。
「恐れながら、アルゼリオ様」
「なんだ、モナカ。なにか疑問に思う事があるのなら遠慮せず問うがよい。この状況で遠慮しあっても、お互い得るものはなかろう」
あ、でも、催したとかだったらどうしようかと、アルゼリオはそんな抜けた事を考える一面があった。
「このお棺は一体今、どこにあるのでしょう。転移した以上、お城からどこか遠くへと行った事までは分かるのですが」
「ああ、その事か。追撃を防ぐ為に痕跡が残らぬように術を組んであるからな。
どこへ跳躍するかは跳躍してからでないと分からんのだ。これは本当に逃げるしかなくなった時の為のものだからな。
海を越えた先にある別の大陸かもしれんし、レヴランドの何処かかもしれん。今は神遣帝国から遠い地である事を祈るばかりだが、そろそろ出るぞ」
棺桶には周囲の状況を把握する感知系の魔法が施されていて、棺桶の主となったアルゼリオに常時情報を伝えている。
棺の蓋を押し上げ、アルゼリオはゆっくりと身を起こした。左手にはギモーブ達を抱えたまま、右手にはアンクロストを握っている。
棺が飛ばされたのは鬱蒼とした森林の只中だった。頭上は月の光も差し込まぬほど木々の枝が重なり合い、天蓋となっている。
足元には苔むした太い木の枝が何重にも絡み合って、瘤のように盛り上がっている箇所がいくつもあり、昆虫や鳥、獣達の息遣いと生命の気配が無数に感じられる。
「澄んだ風、清らかな水、無数の生命、幾つもの生と死が繰り返された豊かな土。よい森だが、木々や花にちらほらと見知らぬものがあるな」
清らかな森の中の空気を深く吸い込み、アルゼリオは周囲の木々を見回す。
故郷のレヴランドの王城は深い森の中にあり、また国土の大部分が森林地帯であったが、そこで見受けられなかった種類の木々をアルゼリオは認めていた。
「判断するには早いかもしれんが、まず悪くないところに飛ばされたと楽観的に考えていいかもしれん」
アルゼリオは棺の蓋を戻し、そこに腰かけて、腕の中のギモーブ達を解放した。ギモーブ達はすぐさま空中に飛び上がり、早速主の役に立つべく動き始める。
「殿下、私共はこの森を見て参ります。夜明け前までには戻ります故、吉報をお待ち下さい」
「行って参ります、殿下」
「ああ、気をつけて行ってくれ」
夜の森の中へと飛び立って行くギモーブ達を見送り、アルゼリオは最後に戦った最高位聖騎士ディアエルの姿を脳裏に思い描き、あの難敵と神遣帝国を滅ぼす為に必要なものを改めて考え始める。
バンパイアは他者の血を吸う吸血行為によって、相手の魂と肉体に祝福――他種族からすれば呪いなのだが――を与えて、同族へと生まれ変わらせる稀有な特性を種族単位で保有している。
そして血を吸った相手の知識や記憶、命を己のものとして能力を高める事も出来る。
ただ例え血を吸ったとしても、その相手の精神や魂の持つ祝福や加護といったものまでは己の物とする事は出来ない。
それでも十分に他の種族からすれば、反則だと言いたくなるような種族特性だ。
あのディアエルという信じ難いほどの強敵を討つには、アルゼリオが自身の腕を磨く事以外にも、より多くの強者の血を吸って己を高める事が肝要となるだろう。
配下の者を増やすのと同時に、各地の高名な戦士や魔法使い、あるいは魔獣や聖獣の類を支配下に置く事以外にも、アルゼリオ個人の強化としては失った装備に代わる物をどうにか調達しなければならない。
神遣帝国との争いでは、レヴランド王国で手に入る最高水準の防具で身を固めていたが、高位の聖騎士と司祭たちを葬る最中、何度も神の奇跡を受けた事で破損し、失ってしまっている。
少なくとも同等以上の水準の防具が欲しいが、レヴランド王国最高の鍛冶職人が最高の環境と道具、素材を用いて鍛えた鎧兜以上の物を再び得られるか、アルゼリオはほとんど期待していなかった。
神遣帝国は異教徒ならば同じ人間であろうが人間でなかろうが、問答無用で戦争を仕掛けた上に勝ち続けて、疲弊の色すら見えず拡大の一途を辿っている。
神遣帝国の総戦力は見ようによっては信徒全員といえる。
あらゆる方面に戦争を仕掛けている現状、全ての戦力が一か所に集中する事態はまずないにしても、常識的な戦争が通じる相手ではない。
それに他にもアルゼリオが知る国や軍のあり方から、あの神遣帝国は逸脱している点が不可解なほどに多い。
まっとうな、あるいはまっとうでない方法でも、軍として対等以上の戦力を用意するのは、極めて難しいと言わざるを得ない。
それこそ兵の全てをバンパイアで揃えて質で補っても、種族としての弱点を把握されている以上、レヴランド王国軍の二の舞になる可能性が高い。
「ありとあらゆる手段を講じて、多様な戦力を整えるか? あるいは彼らの信仰をくじく。
神殺し、あるいは捏造してでも彼らの信仰が誤りであったと思わせる事か。
手駒も情報も力も財力も、何もかもない状態からはじめねばならんが、ここまで来るといっそ清々しい」
レヴランド王国の生き残り達と出来る限りそう急に合流し、一定の戦力の確保を図りたいところではあるが、ここがどこかも分からぬ以上、この地で勢力を築いてレヴランドに帰還を図らなければならない。
アルゼリオが見上げた夜空には故郷と変わらぬ星々が瞬いている。
「我らを見守りくださる月と星々は変わらぬか。せめてもの慰めと思いたいが、命あっての物種ともいう。地に落ちたこの身、ならば後は天を目指して昇り詰めるのみ。
とは言ったものの、ここがどこかも分からぬ身では、目指す道の入り口を見つける事から始めなければな。ギモーブ達が戻って来るまで、荷物の確認でもしておくか」
下手に自分が動きまわって、ギモーブ達と入れ違いになっては仕方がない。そう考えたアルゼリオは、棺桶の蓋を開き、中に仕舞い込んである物の確認を始めた。
何もせぬままギモーブやモナカ達を待っているだけ、というのはいささか居心地が悪い。
生まれた時から支配者として育てられた割に、どうにも小市民的なところのあるアルゼリオだった。
緊急時の脱出手段である棺桶には、体積以上に多くの物を収納できる魔法が施された収納スペースがあり、そこにある程度の物資が蓄えられている。
財貨として延棒状の金銀や宝石、またそれらを用いて作られた細工物に品質ごとに分けられた絹をはじめとした布地に、予備の武具や防具、そしてバンパイアにとっては欠かせない不死の生命の源となる血液。
芸術品として鑑賞に堪え得る瀟洒な細工の施された五つの硝子瓶を、真っ赤な血液が満たしている。
硝子瓶に施された魔法により、血液は時間経過による劣化から守られ、常に人肌と変わらぬ温度を保っている。
アルゼリオの場合、血液を摂取せずに人間と変わらぬ食事を摂取すると七日程度なら飢えと渇きこそ感じるが、支障なく活動できる。
十日目にもなると血を吸いたくて堪らなくなり、飢餓感にガリガリと神経を削られる幻聴が聞こえてくるような状態に陥る。
皮肉な事にバンパイアが飢えで死ぬ事はない。骨と皮ばかりになろうとも、体中の水分が失われてミイラのように変わろうとも、気が狂うほどの飢餓感に襲われる事はあっても。バンパイアは死なない。
その為、レヴランド王国では重罪人への刑罰の中に一切血を与えず牢の中に何十、何百年と閉じ込めて、癒されぬ飢餓感に苛ませ続けるというものがある。
アルゼリオの体格なら酒瓶一つで三日は持つ。それが五本で十五日分。節約すれば二十日はもつだろう。
いざとなったらギモーブとモナカが自らの血を捧げるだろうが、忠臣の首筋に牙を突き立てる事は避けたいと、アルゼリオはそう思いながら硝子瓶の一つを手に取る。
蓋を取り、一口だけ硝子瓶の中の血で咽喉を潤す。食道を通じて胃の腑に入った血によって、全身に溜まっていた鉛のような疲労が消え去り、活力に満ちるのが分かる。
「道は険しいが諦める道理は何一つないな」
活力と同時に気力もまた満ち溢れてきて、アルゼリオは改めてディアエルとサルーシアン神遣帝国への復讐の念を固いものとした。
その後も棺桶の中の品を確認し、今着用しているコートなどの衣類も特別な魔法が施された強力な品で、棺桶の中に保管されていた防具で勝る物は特に見つけられなかった。
いよいよもって手持無沙汰になるな、とアルゼリオが困ったように眉根を寄せたところで、耳に慣れ親しんだ蝙蝠の羽ばたきが聞こえてくる。
ギモーブとモナカがそれぞれ別の方角から戻ってきたのだ。初めて飛ぶ森の中でも、遅滞なく優雅に飛ぶ姿に傷がない事に、アルゼリオは悟られぬよう小さく安堵の息を吐いた。