勇者の旅立ち
「勇者よ。魔王を、倒すのだぞ」
謁見の間。響く王の声に勇者は是、と応えて深々と頭を下げる。
それで終わりである。後は魔王を倒すだけ。
「待たんか、阿呆が」
刺々しい声が彼女の歩みを止める。用は終わったはず。怪訝な表情を浮かべた勇者に声をかけたのはこの国の王子である。
「貴様、そんなみすぼらしい恰好で旅立つ気か?」
勇者ははて、と首をかしげる。彼女にとってはこれが正装なのである。元修道女である彼女は身に纏っているのは修道服。清貧を旨とするのだ、他に服の持ち合わせなぞない。そしてその下には育ての親である神父がかつて身に纏っていた鎖帷子を身に付けている。完全武装と言っていいだろう。
「得物、これをやる」
王子はそう言って帯剣していたそれを鞘ごと放り投げる。
「あ……」
反射的に勇者はそれを受け取る。でも、これは受け取れない。
「だ、駄目だよ。これはだって王家に伝わる宝剣……」
「フン、それくらいないと勇者と言っても誰も信じないだろうが。それは我が国の沽券に係わる」
言い募る勇者に王子は更に嵌めていた指輪を投げつける。
「大体貴様、どうするつもりだったのだ?路銀の当てなぞなかろうに。迷惑なのだよ。勇者が行き倒れとなるなぞ、な。勇者を後援する我が国の沽券に係わる。どうせ教会に寝泊まりすればいいなぞと思っていたのだろうが」
図星である。勇者とはいえ数日前までは一介の修道女。であれば教会に頼ろうというのはごく自然な発想ではあるのだ。
「その指輪。刻まれた王家の紋章があればどこに行っても貴様は何不自由なく物資を整えられるしどんな高級な宿にだって泊まれる。くれぐれも野宿とかみすぼらしいことはするなよ」
「わ、ゆ、指輪?そんな、いいの?」
わたわた、と勇者は狼狽する。そんなもの、貰ってもいいのか、と。
「俺が俺の意思でいいと言った。くどい」
「……うん」
きゅ、と大事そうにその指輪を胸に抱きしめてから勇者は室を辞する。
「王子くん……好き。大好き。好き。好き。好き。好き。好き。大好き。やっぱり王子くんは優しいなあ。駄目だなあ。大好きだ。もう、大好き」
そう、きっと自分は彼の為に生まれてきたのだ。だったらこの命、彼の為に使おう。
勇者は決意も新たにいよいよ旅立つのであった。
「王子、感心しませんなあ」
豚がよくも人語を口にすることが出来るものだ、などというのが王子の率直な感想である。とは言え、仮にも一国の大臣。その言は聞かねばならない。
「あのような下賤なモノに伝家の宝剣、更には王家の印の刻まれた指輪など……。悪用されたら如何としますか」
困ったものだと大げさに天を仰いだのは肉塊。そう称するのが妥当であろう、と王子は改めて思う。よくぞそこまで私腹どころか実体まで肥やしたものだ。
「勇者だぞ?あまりにみすぼらしければ我が国の沽券にかかわる。違うか?大臣よ」
「勇者。勇者、ですか……」
フフン、と大臣は笑う。哂う。
「勇者なぞというものがなくとも我が王国は魔王軍と伍し、押してさえいるではありませんか」
事実、王国軍が魔族を相手取る戦線は比較的優勢という報告を受けている。
「まあ、軍部の要求を財務がきちんと受けていたら今頃は魔王とて討伐していたやも……おっと失礼」
わざとらしく言葉を切る大臣。
ああ、そう言えば大臣の娘は第一王位継承権のある叔父――王弟――に嫁いでいたかと王子は思いだす。
財政を預かる身として相当怨みを買っていたのだなと嘆息する。
「フン、言いたいことがあるならば言えばよかろう」
「おお、こわいこわい。私のような愚物が王子に何か物を言うことなぞできましょうや」
くだらん、と王子は内心吐き捨てる。
実際ひどいものだったのだ。勇者に与えたのは申し訳程度の金貨数枚。それで魔王討伐に向かえとは。旅費にもなりはしないだろう。だがそれも仕方ないことではある。
魔王。その災厄。
数百年に一度現れるそれ。それは女神が加護を与える勇者という存在に討ち滅ばされるというのがこれまでの慣例であった。だが、此度の魔王降臨に際して勇者は顕現しなかったのである。
活性化する魔物。その被害に動員されたのは無論軍である。五年の長きにわたって治安を、人類の版図を維持したこの王国の軍功については語るまでもない。そしてそれを指揮しているのが王弟。王位継承順位の第一位の人物である。その軍事的手腕は確かなものがあり、じり、じりとではあるが確実に戦線を押し上げている。
故に、勇者なぞというものに頼らなくとも魔王討伐は叶うのではないか、という空気がある。そしてその立役者である王弟。魔王を見事討伐したならば王がその地位を譲るなぞという噂もある。まあ、本当に魔王という脅威を除くことができたならばそれくらいでしか報いることはできないだろうが。故にある意味で王子が持つ王位継承権第二位という立場は微妙なものとなる。
なんとなれば、王弟は大臣の娘との間に男児をもうけているのだ。例え王弟にその気がなくとも、取り巻きが蠢動するであろう。王子を失脚させようと、だ。
目の前の豚はその筆頭。そんなに自分の孫が可愛いかと吐き捨てたくもなる。いや、可愛さだけではないか。その血のつながりがもたらす権益、いかほどのものか。
さて、今日はどんな無理難題を吹っかけられるのやら。
内心で罵詈雑言を数ダース吐き出しつつも王子は表情筋はぴくりとも動かさず。静かに彼の戦場に向かうのであった。
「うーん。柔らかいなあ。逆に落ち着かないなあ」
よし、とばかりに勇者は床に毛布を敷いて横たわる。ここは魔王軍との最前線にほど近い街の宿。本来ならば一番安い雑魚寝の部屋、いやさ馬小屋でもよかったのだが。王家の紋章の入った指輪を見た途端、この最上級の部屋に通されたのだ。勇者にとって宿なぞただ寝るだけの場所。壁と天井があればそれでよかったのだ。
「大体、部屋がいくつもあったって持て余すもんね」
まあ、それでも湯を思う存分使えるというのは実にありがたかったが。
「それもこれも、王子君のおかげだよね……」
何より、夕食の質と量が凄かった。満足、満腹である。
「明日はいよいよ前線かあ。頑張らなくっちゃ」
そう、いよいよ接敵するのだ。数万の魔物を相手に陣取る最前線へ到着するのだ。いよいよ戦いというものと
「王子君、見ててね。私、頑張るから」
くぁ、と軽く欠伸をして勇者は夢の世界へ旅立つ。想い人に夢で逢えたら、いいなあと思いながら。