封印
森の中に化け物がいる。娘を誘い娘を食らう化け物だ。
村では討伐隊を組んで化け物退治をする話が出た。しかし、その化け物は普通の生き物ではない。殺して死ぬものならどんなに良かっただろう。
「討伐隊など作っても死人を増やすだけ。やめなさい。」
魔女は村人に言った。
「でも、もうすでに娘たちが食い殺されているというのに。」
娘を失った母親が泣きながら訴えた。
そんなやりとりを繰り返した。村人たちは化け物を殺してしまいたかった。しかし魔女が言うには、人間にそれを殺すことはできないらしい。殺しても死なないからこそ、化け物なのだろう。そうして人間をおびき寄せては、その精気を吸って生きるのだ。殺そうと近寄れば、逆にその人間がエサとなってしまう。
「では、そうだね。これから私がまじないをかけるとしよう。化け物のいるところに村の皆がうっかり立ち入ることがないように、男と女と子どもと動物のために、木に印をつける。その4本の印より先へは行けなくなる。そうすれば、化け物は飢えて死ぬしかない。分かると思うが、私が付ける魔法の印を、壊してはいけないよ。」
魔女はそう言い残し、少しの準備をすると、森の奥へと向かった。
森はいつもの森だった。豊かに動物や村の人たちを育む、優しい森だ。木々は涼やかに葉を鳴らし、花は芳しく咲いている。花の香りに誘われて鳥たちが飛び交い、そうして魔女が歩くと、挨拶をするように囀った。
森の動物たちと語らいながら、ゆっくりと半日ほど歩いていくと、森の空気が変わったのが分かった。この辺りはもともと村の人間もめったにやってくることはない。時折狩りをする大人が来るだけで、人の気配はないはずだった。
しかし、そこは明らかに何かが息づいている気配があった。他のところより少しばかり土地が低く盆地になっている。
魔女は盆地内が良く見える高いところに立つと、大きく手を広げてまじないを叫んだ。魔女の声に応えるように、地面が揺れ動き、グーグーと低くうなるようなすさまじい音をさせて、地面が陥没した。何本かの木が音を立てて倒れ、大きな音を立てながら陥没した地面へ落ちて行った。鳥たちが高い声でけたたましく鳴きながら飛んで行った。その羽音だけでも空気が揺れた。
しばらくの間、地面も森の木々も低く振動していた。
森が静まるまで、魔女は両腕を広げてその落ち窪んだ地面をじっと睨みつけていた。歯を食いしばり少し震えて、そうして小さくまじないを唱えながら、そこに封印の魔法を施していった。それは数分のことであったが、魔女にとっては数時間にも感じるほどの労力を要した。
森はまた静まった。森は落ち込み、木々は折れ、大きな地震でもあったかのようであった。しかし森は静かだった。森が変わったことを知っていながら、それを認めたくないかのように、また知られたくないかのように、無理に平静を保つように静かだった。
魔女は大きく息を吸い込み、彼女の小さな杖を天に向け大声で叫んだ。
「フェアボーテン!」
魔女の声は良く通り、森を満たした。
そして彼女は、魔女の印を木に刻み付けた。
1本の印は男がここに立ち入らないために。
もう1本の印は女がここに立ち入らないために。
少し短い1本の印は子どもが立ち入らないために。
そして、少し太めの印は動物が立ち入らないために。
木にはまるで、動物の爪痕のような傷が付いていた。それが、魔女が渾身の力を込めて刻んだ、封印だった。
魔女はそれを見て満足して目を瞑った。力を出し切り、立っているのが辛いほどだった。しばらくそのまま、じっと立ち尽くしていた。
それから、その封印の奥の、落ちくぼんだ土地へと足を踏み入れた。彼女の仕事はこれだけではなかった。
魔女は窪地を降りて行った。
そこには沼があり、そして沼のほとりには若い娘の亡骸がいくつも積み重ねられていた。少し腐臭が漂っていた。
魔女は顔をしかめ、辺りを見回した。娘たちの亡骸は本当に死んでいるわけではなかった。少しずつ精気を失い、腐り落ちてもなお、生きて泣いていた。こんな風に苦しみ続けて彼女たちは化け物のエサとなっていたのだ。あまりの非道なことに魔女は身体が震えた。こんなことをさせておいてはいけない。魔女は気持ちを引き締め、杖を握り直した。
魔女が沼地の方へ歩いて行くと、沼の方から男が歩いてきた。妙に小さく見えるが、大人の男だとわかる顔をしていた。
「おや、今度は人間ではなく魔女がやってきた。何を探しに来たのですか。」
男は言った。男は無表情で冷ややかな顔をしていた。着ているものは貴族のように立派だったが、ダブついている上に、少し古く見えた。
「こんな風に、娘たちを生かしておかず、ひと思いに殺してやれば良いではないか。なぜ、こんなことをするのだ。」
魔女は怒りに震えた低い声で言った。
すると男は笑いながら答えた。
「人間がいつここに来るか分かりませんのでね、少しずつ食べているんですよ。それにね、次に来た娘が話し相手もいないと寂しがるでしょう。」
男は一度娘たちを見てニヤリと笑うと、また魔女の方を向き、魔女が怒るのを楽しむように話を続けた。
「この娘たちは、寂しいらしくてね、次の娘を呼ぶのですよ。あまりにも呼ぶので、昨日は恋人の男もやってきました。ええ、ここにいますよ。まだまだ新鮮ですから、しばらくは私の役に立つことでしょう。」
「そんなことを続けさせるものか!」
魔女は杖を男に向けた。杖から鋭い光りが発されたように見えると、男の身体が吹っ飛んだ。
男は土埃をたてて向こうに飛んだ。仰向けに転がり、それからすぐにギラリとした目をして、肩を押さえて立ち上がった。
「痛いじゃないですか。」
魔女は男が何事もなかったかのように立ち上がったのを見て、険しい顔をしてまた杖から呪文を放った。今度は男の腹に当たったが、男はほんの少し下を向いただけで、転ばなかった。そしてまたすぐに魔女に顔を向けた。男の肩と腹は確かに傷つき血を吹いたはずなのに、みるみるうちに傷はふさがった。
向こうでリュメルがうめく声が聞こえた。
「そんなことをしても無駄ですよ。知ってるでしょう?」
魔女はすぐに気づいた。そう、これは化け物。ただ殺そうとしても死なない化け物だ。魔女は沼のそばに走って行った。そして沼の中を鋭い目で見つめ、杖を向けた。
魔女が杖ともう一方の腕を大きく動かすと、沼の水が渦を巻いた。大きな波が立ち、まるで生き物のように沼の水がとぐろを巻いた。そして魔女が一気に引っ張ると、一筋の水が魚の形をして飛び上がった。
「やめろ!」
男は叫び、魔女に向かって剣を投げつけた。リュメルが持っていた剣だ。
その重たい剣が魔女の腕に当たり、魔女は杖を手放して転んだ。その途端に、彼女が操っていた沼の水はすべてがまた沼に叩きつけられるように戻り、大きなしぶきを上げた。
男はすぐに魔女の杖を取りに走った。
魔女が立ち上がると、男はもう魔女の杖を足の下に踏んでいた。
「危ない危ない。さすがに、あなたは力の強い魔女だ。私のこともよく分かっている。だけど、やらせませんよ。」
そう言うと、男は魔女の杖を力いっぱい踏みつけた。
魔女の杖は、ガラスを砕くような高い音を立てて割れた。そして火花を散らして砕け散った。
「アチ!」
男は足にやけどを負ったようだ。
しかし、それよりも、魔女は杖を失った。
魔女の呆然とした顔を見て、男は笑った。男は勝利を確信した。もう誰も、男の邪魔をしないのだ。ここにいる魔女はただの女と同じ、杖を持たない力のない魔女だ。
それでも魔女は気丈な顔をして男を睨んでいた。そして両手をまた沼に向けた。杖はなくとも、彼女は魔女だ。
魔女は先ほどと同じように、沼に向かって両腕を動かした。沼の水が少し動いた。とはいえ、先ほどのようにはいかなかった。
魔女は集中して、水の魚を探した。
男はそれを、ただ指をくわえて見ているわけではなかった。沼に向かっている魔女に襲い掛かったのだ。
「そうはさせるか!」
その声と気配に、魔女は水の中を探すことを途切らせ、男に向かって手を向けた。沼の水が細く男に向かって飛んだ。男はひるみ、腕で顔を隠すようにしながら、それでも一歩一歩魔女の方に詰め寄った。そして手を伸ばして魔女を引き倒した。
「ああ!」
男に襲い掛かられ、魔女は沼の中に倒れ込んだ。力が途切れ、沼の水はまた何の意志もなく沼に戻った。
沼の浅瀬で、二人はもみ合った。男は魔女を沼に沈めようと力任せに押さえつけ、魔女は必死に逃れようと暴れた。まじないを口にしようにも、水の中では何もできず、ただ、手足を動かすことしかできなかった。
それでも魔女が必死に蹴りだした足は、上手く男の身体を向こうに蹴り上げることができた。実際、男は普通の男よりも随分と小柄で、子どものようでもあった。その体格の差のおかげで、魔女は立ち上がることができた。
ぜいぜいと荒い息をつき、濡れ鼠になった魔女は走って逃げた。その間に何かないかとポケットを探した。この化け物に杖を壊されて、素手で戦うには疲れ果てていた。魔女はポケットからガラス瓶を取り出した。魔女の持ち物はもうこれしかなかった。
沼の泥水で濡れた黒い髪をかき上げ、肩で荒く息をつきながら、魔女はそのガラス瓶を男に見えるように腕を上げた。
「それは、生きる水か?」
男が聞いた。男はそれを欲している顔をしていた。
「いいや、毒だよ。」
魔女が答えた。
本当に毒だろうか。男は疑わしい目をした。しかし、たとえ生き物を殺すことのできる毒だったとしても、化け物である男がそんなもので死ぬかどうかは分からなかった。
男はリュメルの剣を拾い上げると、それで魔女を刺そうとした。魔女はもう走って逃げることもできなかった。
魔女は一瞬空を仰ぎ、空に向かって何かを言ったように見えた。
そして、あっけなく魔女は死んだ。
男は魔女のマントを刺しただけだった。
魔女は剣に刺される前に、もう力尽きていたのだ。魔女の身体は崩れて塵のようになり、そこに落ちると風に飛んだ。そして後には、マントと彼女の持っていたガラス瓶しか残らなかった。
魔女の印を木に刻んだことで、力を使い果していたのだ。それでも魔女は、娘たちを、そして男をなんとかしたかった。
だけど、もうその力はなかった。彼女は死んでしまった。
男は魔女の持っていたガラス瓶を拾い上げた。美しいガラス瓶には、ただの水のようなものが入っていた。透明な普通の水。ふたを開けて匂いを嗅いでも何も感じられなかった。本当に毒だろうか。それとも、男がそのガラス瓶を見たときに思った「生きる水」だろうか。魔女の持ち物ならばどちらの可能性もある。
男はそれを飲むことにした。あの魔女が毒など持っているだろうか。それだけはしない気がするのだ。
男は水を飲んだ。冷たくもない、何の味もしないそれがゴクリと喉を通った。
何も起こらなかった。それは毒ではなかったのだろう。ただの水だったのかもしれない。
その時、遠くから「ヨハン」と聞こえた気がした。
ヨハンとは誰だろう。聞き覚えのある名前のような気がする。男は思い出そうと記憶を探ったが、ヨハンが何かを思い出すことはなかった。
その水は確かに男にとって毒だったのだ。
ヨハンは自分のことを何もかも忘れてしまった。自分がヨハンだったことも、優しい母のことも。そして、自分が今何をしているのか、どうして生きているのかも。
魔女の水は、物忘れの水。それが、ヨハンにしてやれる精いっぱいだった。




