吸収
一人称目線
森の奥に竜がいると、大人たちは言った。俺は仲間たちと一緒に竜を探しに行くつもりだった。だけどあいつら、森の奥まで来て、すげぇ匂いがして来たら逃げて行きやがった。まあ、しょうがない。すっごい臭かったから、怖くなったんだろう。
俺は一人、森の奥へやってきた。臭いは相変わらず漂っていて、気を抜いたら吐きそうだ。色んな匂い、料理やお菓子や飲み物、酒や花の匂い、海の匂い、動物の匂いに、生ごみをブチ込んだみたいな・・・とにかく、臭い。腐臭ってこういうのかと思ったけど、とにかく何かに例えられないくらいは臭い。
そこに竜がいるはずなんだ。だからこんなに臭いんだ。きっとそうだ。
俺はここに絶対竜がいると分かった。臭いはだんだん強くなっていったからだ。
森はあんまり見たことのないツル植物が増えてきて歩きにくくなった。普段大人だって、人間は絶対に来ないところだ。それどころか動物も来ないんじゃないかってくらい、ものすごい木と草で歩きにくいったらありゃしない。
どうして動物が来ないんだ。どうしてこんなにうっそうとしてるんだ。どうしてこんなに臭いんだ。歩きにくい道をひたすら足を動かしながら、そんなことを考えた。考えたらなんだかちょっと怖くなってきた。今まではただ、竜を見てみたいとしか思ってなかったのに、森を見て臭いや雰囲気を感じたら、なんだか怖くなった。
竜を見てみたい、という思いだけで突っ走ってきたけど、頭が少し冷えたみたいだ。そうしたら、村の大人たちの言葉を思い出した。
『竜に食われるから、絶対に森の奥に行ってはダメだ。』
『森の奥に行って、帰ってきたものはいない。』
って、おかしくないか?帰ってきたヤツがいないのに、どうして竜がいるってわかるんだろう。矛盾してるじゃないか。だからきっと、ウソなんだ。大人たちが、単に子どもを森に行かせないためのウソだ。
そう考えながら歩いて行くと、藪をかき分けたところに空が見えた。今まであれほどうっそうとしていたのに、急にぽっかりと木がなくなっている。
変だな、と思って足を踏み出そうとして驚いた。
かなり大きなすり鉢状に、森が落ち込んでいたんだ。なるほど、だから目線に木がないんだ。俺は子どもだからこういうのが何て言うのかは知らない。えーっと、これって陥没?って言ったっけ?そんな感じ。俺流に言うなら、誰か大きな手がごっそり地面を持ってっちまったんだろうって言うかな。とにかく臭いはこのすり鉢から上がってくる。沼はきっとこの下だ。
これだけ大きなすり鉢だったら、沼もきっと大きいだろう。もしかするとこの下が全部沼かも知れない。気を付けて降りないと、沼に入ってしまうかもしれない。それに竜が住んでるんなら、相当大きな竜でも大丈夫だ。小型の竜がたくさんいるかもしれない。どっちにしろ、崖は高く、深い窪地だと思う。
俺は足元に気を付けながら、ゆっくりとその崖を降りて行った。下から風に乗って生臭い匂いが漂ってくる。それに、泣き声のようなものが聞こえた。鳴き声じゃなくて、泣き声だ。俺が見たいと思ってる竜の鳴き声ではなくて、人の泣き声みたいな声だ。気味が悪い。それともこの声が竜の声なのかもしれない。とにかく泣き声は休むことなく聞こえてきた。
俺は、大人たちの「森へ行ってはいけない」という言葉を思い出した。なに考えてんだ。ここまで来て、沼を見ないでは帰れないのに。あとちょっとじゃないか。とにかく遠目でも良いから竜を見て、帰ればいいんだ。そうしたら、俺が本当のことを村のみんなに教えてやるんだ。誰も帰ってきたものがいないなんて、バカなことを言って、本当のことを知らせない大人のやり方はずるいと思うんだ。
崖に生えた低い木とか木の根っこを掴みながら、俺は降りて行った。一生懸命下を見たけれど、窪地の中にもいくつか木が生えていて、なかなか沼は見えてこなかった。
やっとのことで俺が窪地の底に降り立つと、案の定沼があった。大きな暗い沼だった。沼の上には霧がかかっていた。幻想的っていうよりは、その霧が全部あの臭いだと思うと、そんなはずないのに黄色く見えた。あの黄色い空気に触ったらそこから腐りそうな感じ。とにかくその霧の中にうごめく大きな影が見えた。
竜だな?
やっぱりいたんだ。
デカい。相当デカい。これに見つかったらアウトだ。気を付けて、俺は見つからないように息を殺した。俺の近くに身を隠すような木がなくて、木のあるあっちまで走って行こうかちょっと考えたけど、見つかるよりは静かにしていたほうが良いと思って、そこから動かないでいた。
竜の方も歩いてこなかった。その場から動こうとしない。ただグニグニ動いてるだけで、うずくまってるようにも見える。寝ているのかもしれない。そうそう、アレが本当に竜だって確認しなきゃならない。どんな形の竜がいたって言わないと多分信じてもらえないからな。俺は目を凝らし、息をひそめながら少しずつ近づいて行った。
泣き声は相変わらず聞こえた。それどころか、だんだん大きくなってきた。ウチの犬が死んだ時の父ちゃんの泣き声みたいな、そんな声だ。
近づいて行って、俺はそのうごめく影の正体を見た。それは竜じゃなかった。俺はそれを見上げて、竜の皮膚だと思ったそれが違うものだと認識するのに時間がかかった。目が、釘付けになって、吐きそうになった。
それは、人間だった。人間がたくさん、腐ったり骨になったりして、団子のように固まっていたんだ。それが大きな岩みたいに山のようになって、全部がもがいているみたいにぐにゃぐにゃ動いていた。
人間の塊の下には、多分彼らが持っていた、袋や宝や剣が落ちていた。
骨になった人間たちは、身じろぐように動いて、そして泣いていた。聞こえてきた泣き声はこの人間たちの声だった。腐りおちているのに、動こうとして、でもそこにくっついてしまって、そうして、泣いているんだ。
おれはいきなり気づいた。
逃げなきゃ!
これはヤバい。そう思って逃げようとした。だけどどういうわけか、足が動かなかった。怖いからじゃない。腕にも足にも、何か俺を押さえつけるような力を感じたからだ。
その時、こちらに何かがやってきた。子どもの俺よりも小さな影だった。
「また人間がやってきた。何を探しに来たのか?」
「誰だ!」
俺は震えていたけど、それでもそこにいる変なヤツをじっと見つめた。変なヤツだった。小さな人間と言えばそうだけど、珍妙で黒っぽくて・・・違うんだ、見た目なんてどうでも良いんだ。それよりも、そいつの存在が変だった。生きることが面倒くさいかのような、嬉しいこととか知らないんじゃないかっていうみたいな、無感動な顔をしていて、人間だったらよっぽどつまらない人間だろうって思うようなヤツ。その無表情さが恐ろしかった。
「私はここの沼の主だよ。人間は私を見ると小鬼と言うが、さて、鬼かどうかは、私にもわからぬ。ただ、ここで、迷い込んだ動物や人間を食らうだけよ。」
「食らうって!俺を食べるのか!」
俺は逃げようとした。だけど俺は逃げられなかった。それどころか、俺の足はあの骨になった人間の塊に吸い寄せられて歩いて行った。自分の足じゃないみたいだ。ゴキゴキと抵抗するみたいに関節が鳴った。
そして、俺はそこにくっついてしまった。俺の意志じゃないのに俺の腕が万歳すると、骨になった手が、たくさん伸びてきて、俺を取りこんだ。逃げようともがいたけど、ダメだった。
嫌だ、嫌だ。
臭いよ。怖い。怖いよぉ!
どんなに叫んでも、もう言葉にならなかった。ただ、自分の声とは信じられない、力のない泣き声しか口から出てこなかった。
じっくりと恐怖にひたってそのまま俺の時は止まった。
俺は長い時間をかけて死んでいった。養分を鬼に吸い取られ生きながら腐りおちて骨になった。
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子どもが森で迷っている。
こっちへ来てはダメだ!こっちへ来ちゃいけない!
さあ、この臭いをかげ。臭いだろう、臭いだろう。来ちゃダメなんだ。わかってくれ。俺は泣きながら叫んだ。こっちへ来てはダメだと。沼には竜はいないんだと、俺は泣いた。