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 今でもたまに夢に見る。

 清砂の森のこと。

 冷たく湿った涼やかな空気。柔らかな光に照らされた、苔生す深い森の奥。

 外から侵されることもなく。

 外へ出て行く者もない。

 何もかもが平穏の中で朽ちていくだけの場所で、藍紗・天鵞絨は産まれ育った。

 特段思い入れがある訳ではなく、と言って別段悪い所だったと思う訳でもない。

 あそこは平和で穏やかで、争いも諍いもなかったし、やることだってそれなりにあった。

 広い図書館があって、小さいながらも畑があって、工芸品なんかも作った。

 数年に一度訪れる貿易商は山ほどの本を抱えてきて、お陰で読む本には不自由しなかった。

 不満は無かった。今もない。

 冥人として当たり前の全てが揃っていて、

 あそこは良い所だと、胸を張って言える。

 ならばどうして出てきてしまったのか――それを説明しようとしても、藍紗には分からない。

 外に出ずには居られなかったのだ。

 性向とか運命の流れとか、そんないい加減な言葉でごまかすくらいの何か。

 ただ思う。

 あの時旅立とうと思わなくとも、十年後か二十年後か、百年後かもっと先か――いずれ必ずそうしていただろうと、そんな確信が藍紗にはある。


 ふと、目が覚めた。

 半開きになったカーテンと、壁材の僅かな隙間から、寒々しい月光が漏れ出ている。

 深夜らしい。隣のベッドにライラが、奥のベッドには汰朱がいる。よく寝ているようだ。

 考えて見ればこうして夜寝るのも、しっかりしたベッドで寝るのも久しぶりだ。ライラは当然として、あれで汰朱も疲れているのだろう。

 藍紗はと言えば――完全に目が冴えてしまった。ごろごろしているのも勿論良いが、ここでそうするようだったら藍紗はそもそも旅になど出ていない。

 好奇心を満たす為、彼女はそっと立ち上がり、上着を羽織って部屋を出る。


 月明かりの所為だけではなく、オアシスの回りは薄明るい。所々に吊された光輝石こうきせきのランタンが冷ややかな光を振りまいているからだ。

 目を閉じるとほのかに届く、肉や野菜を焼く匂い。宿が密集するこちら岸と事なり、対岸はまだまだ人が起き、騒ぎ、動いているらしい。荒々しい炎の光も、人々のさざめきも、文字通り対岸のこととして遠く――けれど、何となく身近に届いてくる。

 良い空気だ、と藍紗は思う。あの燃えさかる炎の様に、清砂の森には無かった諸々。その何もかもが楽しくて、心地良い。

 目を開き何かを見るのも、目を閉じて匂いを感じるのも、風の音に耳を傾けるのも、それぞれに別の良さがある。

 ――だから、後悔はしていない。

 二度と故郷に戻れなくても、受けた『印』で地獄に堕ちても、藍紗にとってはどうでも良い。

 そう、罪や赦しの事よりも、冥人としての長い人生をどう送るか。その方がずっと重要だ。

 八年前、テンジンと汰朱と共に旅を始めたのも、旅それ自体が目的だった。この先行き着くところ、北の果て、世界で最も高い所にあると言う、『全ての罪が赦される場所』も、さして興味をそそらない。

 そこに行くまでが楽しくて。

 そこに行ければ良いというだけ。

 ライラには聞かせられない話だな、なんて思う。あの子はどうやら、とても強く赦しを欲しているようだから。

 心中でだけ苦笑して、ふと気付く。

 オアシスの砂浜、ナツメヤシの下に誰か居る。

 見知った影だ。耳は短く、角も翼も鱗もない。少し前から行動を共にするようになった原人の少年、ユーリ・塵芥ちりあくただ。

 こちらに気付いている様子はない。ただ一人、手元のナイフに目をやっている。

 月色の刀身に赤いまだらの入ったものだ。鞘から抜かれているのを初めて見たが、どんな素材なのか見当も付かない。

 それに、こんな夜中に一人ナイフに見入っている姿というのは、有り体に言って不気味である。

 刃物が好きなのだろうか?

 それにしては浮かない顔だ。正直なところ、よく分からない。付き合いも浅く、話したことも殆どない。

 だた何か、複雑なのだろうなと思う程度だ。

 そう、複雑だ。

 原人は他の種族とは異なり、金銭を扱う。為替だとか相場だとか取引だとか、ごちゃごちゃしたややこしいことを日々実践しているのだ。

 知識を得ることを好み、日々の恵みに感謝して長い命を生きるだけの冥人からすれば簡単に分かる相手な筈がない。

 ならばどうするかとなった時、藍紗が自然に選ぶのは、いかにも冥人らしい手だ。

 そっと歩み寄り、ユーリの隣に腰を下ろす。

 彼は少し驚いた顔をしたが、何も言わない藍紗に警戒心を抱いても無意味と思ったのか、軽く頷くような礼をした。東方領域の住民に普遍的な、儀礼的な挨拶だ。藍紗も同じように返し、言葉を続けることはしない。

 隣で、同じ時間を過ごす。寿命が長く、死に難い冥人にとって時間は一種の万能薬として扱われるフシがある。

 お互いに何を言うでもなく、何かをするでもない。

 ただ、風に揺れる葉の音や、遠く届いてくる活気の匂いに感覚を傾けているだけ。

 やがて落ち着かなかったのか、ユーリが何度か口を開いてけれど何も言わず、閉じては首を振るように視線を泳がせて、たまに手元のナイフを弄び。

「――僕は、いや、僕に」

 藍紗はそっとユーリの方を見る。彼の視線は手元を突き抜けて地面に刺さり、そしてきっと、どこも見ていない。

 長い沈黙。

 どこか気詰まりな時が過ぎるのを、藍紗はじっと感じている。

 しばらくして、ユーリは首を振り、

「――ごめん」

 誰に向けたのかもよく分からない、短い謝罪を口にした。

 立ち上がり、砂を払って歩き出す彼に軽く礼をすると、やはり同じ物が返ってくる。

 砂を踏む音が何度か響き、すぐに止み。後はただ、遠い喧噪に占められた静寂が残った。

 原人が難しいのか、彼が難しいのか、或いはそもそも世の中というものがそうなのか。

 考えても仕方のないことに、藍紗は楽しげな溜息を吐いた。

 この世にはまだ、興味深いことがいっぱいだ。

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