1/white sands
そして、これを手につけて印とし、目の間に置いて覚えとしなければならない。
強い風に吹かれた硝子質の砂が、擦れ合って耳障りな音を立てる。
見渡す限りの砂漠は、月の光を反射して明け方にも似た様相だ。
ライラは数度羽ばたいて翼に絡んだ砂を振り落とすと、忌々しげな溜息を吐いた。
酷く疲れた。全身が熱を持って重く、だるい。冷気を阻んでくれているローブすら、今は鬱陶しい。柔らかなベッドが恋しかった。翼を伸ばしてゆっくりしたかった。
どれほどの時間、どれだけの距離を歩いてきたのか。ライラにはまるで分からないが、未だ月の高い夜だなんて信じられない。
ひょっとしたら、自分一人知らない内に夜が明け始めているんじゃないか――そんな風にすら思う。
もう随分と長く聞こえていた砂の音が、不意に止んだ。
その意味を考える気力も無く、ただ疑問だけを浮かべていると、
「待てテンジン。手羽先ちゃんがへばった」
背後からの大声に言い返そうと顔を上げて、ようやくライラは気が付いた。
うつむいて足を止めていた。前が全く見えていなかった。
先頭を行く竜人の男、テンジンが振り向いて、じっとライラのことを見る。
「なるほど随分疲れているようだな少々遅れているが悪いペースではないここらで小休止を取っても良いだろう汰朱こちらへ来てくれ藍紗とユーリはライラックを頼む」
ライラは思わず身を竦ませる。竜人の喋り方は苦手だ。骨に響く低音も、呪文のような抑揚も、ふいごのような途切れのなさも、まるで慣れるような気がしない。
そちらに気を取られていた所為だ。
ごつい手が翼を撫でるまで、近付く足音に気付かなかった。
「まー、手羽先ちゃんにしては頑張ってるよ、うん。気にすんなって」
誰が、と怒って見せる暇もなく、魔人、汰朱は脇を抜けて行く。
――あの巻き角、いつかへし折ってやりますわ。
思いはするが出来る気はしない。テンジンに比べれば小さいとは言え、それでもライラの倍ほどもある背丈。体重に関しては十倍以上だろう。加えて歴戦の旅人と箱入り娘とあってはもう勝負になると考える方がおかしなくらいだ。
再びうつむいて溜息を吐き、汰朱の広げていったボロ布に腰を下ろす。
冷たく、乾ききった空気が肺に凍みる。
本当に、疲れた。これまで十六年生きてきて、果たしてこれほど身体を酷使することがあったろうか。
決まってる。ある訳がない。
勝手に漏れて整わない息。熱を持った身体。重い四肢と翼。重くて粗末な布地のローブにじゃりじゃりと座り心地の悪い地面。
見通しが甘かったのは確かだ。意地とプライドでこの道を選んだのも間違いない。
とはいえ、不運が付きまとっているのも事実だ。
端的にはあの、汰朱という魔人の女。
粗野で下品で乱暴で、気遣いも慎みもまるでない。魔人というのは皆こうなのだろうか? とにかく、一緒に居て疲れるのだ。
何度目にもなる溜息を吐いた時、頬に冷たい何かが触れた。背筋が跳ねる。
「お嬢様。どうぞお飲み下さい」
声と共に差し出されたのは水を入れた瓶だ。ほとんどひったくるように受け取って、ライラは相手を浅く睨む。
何を考えているのかよく分からない、張り付いたような無表情と、暗い目をした原人の男。印を受けて旅に出て不満に思うことは数あれど、その最たるものがこいつ、ユーリだ。
そも、第一印象が最悪だった。人の顔を見るなり嘔吐するなど、失礼にも程がある。
流石に二度目は無かったが、以来いつもむっつり押し黙っていて、たまに話しかけてきたと思えば皮肉なまでに慇懃な口調で話す。
印付き同士だからと言ってあんまり無礼な態度ばかり取る汰朱は気に食わないが、こいつのように奴隷のままという態度は不快と言うより薄気味悪い。
原人だから他の話し方を知らないのかと思いもしたが、そんな筈はなかった。事実、こいつはテンジン達に対してはごく普通の言葉と態度で接している。
表情からも行動からも、意図がまるで読めない。その上、こいつの罪は『翼人殺し』だと言う。
そんなのと共に行動するなんて、寒気がする。
万一のことがあった時、体格で劣る自分では抵抗もままならない。しかもその万一は次の瞬間かも知れないのだ。とあれば、気を許せる道理なんてどこにもなかった。
そうしてしばらく睨んでいると、一体どう解釈したのだろう。
「飲まないと身体に障りますよ」
そう言う顔は相変わらずの鉄面皮だ。
分かっている。ただ、お前が気に食わないだけだと――思うばかりで口にはしない。
夜気によく冷えた水を飲み干すと、少しだが落ち着きは戻ってくる。
「ん、あら、感謝しますわ」
それで、翼が軽いことに気が付いた。ちらと見れば、冥人の少女、藍紗が支えてくれている。
彼女は小さく会釈を返すと、伺う様な目でこちらを見る。
「お願いしますわ」
翼の先から付け根まで、次いで背中から全身へ。痺れるようなむず痒さと少しの痛みが走り抜ける。心地好い。力が抜ける。
ぼんやりとして、思い出す。
実家の雇い人にも冥人の癒し手はいたが、それも藍紗ほどの腕ではなかった。旅をしていると技術も向上するのだろうか。
ともあれそれは彼女の仕事だ。自分は自分の仕事をせねば、と、ライラは空になった瓶に蓋をして中央辺りに目を向ける。
幸いこの辺りは霊素が濃い。さほどの集中も必要無く、瓶の中身はすぐに水でいっぱいになった。
「お気遣い、痛み入ります」
ユーリは深々と礼をして、話し合うテンジンと汰朱の元へ歩いていく。
イライラが少し再燃した。
本当に、気に食わない。
荒い溜息が聞こえたのだろう。翼の先を引く感触に振り向くと、悲しそうな目がこちらを見ていた。
――心配をかけてしまいましたわね。
ライラはそっと苦笑する。
「大丈夫ですわ。個人的なことですのよ」
藍紗は肯いて見せたが、長く尖った耳の先を見るに今一つ納得が行かないと言った様子だ。
それには気付かないふりをして、ライラは再び前を向く。
広大だ。
どこを見ても、地平の果てまで白く乾いた砂があるだけ。その中で息をして動いているのは自分達五人だけなのだ。
空には満月といっぱいの星。何もかも失って得たものがこの景色だけとは、何とも割の合わない話だ。
自嘲気味に笑い、ライラは軽く翼を震わす。忌々しい、宵闇のように真っ黒な翼。
――好奇の目もなくなったのも、まあ、収穫ですわね。
藍紗の手が離れたのを確認し、テンジンに向けて手を挙げる。
心の疲れは抜けないが、身体の方は全快だ。今はそう、休んでばかりもいられない。
ボロ布を拾い、逆の手で藍紗の手を取って――ライラはまた、歩き始めた。
2013年6月25日1時8分編集
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2013年7月16日10時37分編集 前書きの追加