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オフィスラブは禁止のはずですが ~天然部下に落ちた敏腕ディレクター~  作者: 蒼狐


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3/11

第3話 オフィスラブは禁止のはずですが、残業の夜に落ちた温もり

花見の打ち上げから一週間が経ち、プロジェクトは本格的な作業フェーズに入っていた。


藤原みおは夜の8時45分を過ぎたオフィスで、まだ自分のデスクに張り付いていた。

クリエイティブフロアは照明が半分以上落ちており、デスクライトだけがぽつんと明るく、静かな空間を作り出している。


「はあ……まだ全然終わらない……」


みおはため息を零しながらキーボードを叩いていた。

藍田朔から出された修正指示は、想像以上に細かかった。メインコピーのニュアンスを「もっと春らしく、軽やかに、でも力強く」と指定され、何度も書き直している。

入社3年目とはいえ、大型プロジェクトは初めて。プレッシャーと緊張で肩が凝っていた。


ふわっとしたロングヘアを無造作に耳にかけて、みおは集中しようとする。

しかし、天然な性格が災いして、つい先ほども「軽やかさ」の部分で誤字を発見し、全部書き直したところだった。


「藍田さん、絶対『チェックを徹底しろ』ってまた言われるよね……私、ほんとにダメだ……」


みおが小さく自分を責めていると、背後から低い、抑揚の少ない声が響いた。


「……まだ終わっていないのか」


びくっ!


みおは椅子ごと飛び上がりそうになり、慌てて振り返った。

そこに藍田朔が立っていた。

スーツの上着を脱ぎ、シャツの袖を軽くまくり、ネクタイを少し緩めた姿。

表情は相変わらず冷たく、目が鋭い。長身のシルエットが、デスクライトに照らされて影を長く落としている。


「藍、藍田さん! お疲れ様です……! もう少しで終わります!」


みおは慌てて背筋を伸ばした。

朔は無言でみおのデスクに近づき、モニターを覗き込んだ。

その距離が近い。みおは朔のシャツから漂う清潔な石鹸の香りと、男らしい体温を感じて、思わず息を詰めた。


朔は長い指でマウスを操作し、画面をゆっくりスクロールしていく。

無言の時間が続く。みおは隣で固唾を飲んで待っていた。


「……ここ」


朔が画面の一点を指差した。指先がみおの肩に軽く触れそうになる。


「『軽やかさ』という言葉が弱い。『舞い上がる軽やかさ』にした方が、桜のイメージと繋がる」


「え……あ、確かに! そうですね! 藍田さん、すごい……」


みおは目を輝かせてメモを取った。

朔の指摘はいつも的確で、冷たい声とは裏腹に、仕事に対する深い理解と情熱が感じられる。


「他にもある」


朔はそう言うと、みおの隣の椅子を引き、迷わず腰を下ろした。

突然の近さに、みおの肩がびくっと震える。


「藍田さん……ここに座って大丈夫ですか? 私のデスク、狭いし……」


「邪魔か?」


低い声で即答され、みおは首をぶんぶん横に振った。


「い、いえ! 全然! むしろすごく助かります……!」


朔は淡々と作業を始めた。

みおの書いたコピーを一つ一つ読み上げ、短い言葉で修正点を指摘していく。

その声は低くて抑揚が少なく、まるで氷のように冷たい。

しかし、説明は丁寧で、なぜその表現が良いのかを論理的に、時には具体的なイメージを交えて教えてくれる。


みおは隣で必死に頷きながら、時々朔の横顔をチラチラと盗み見ていた。


(……怖いのに、こんなに近くで教えてくれるなんて……藍田さん、ほんとにクールなのに……優しい……このギャップ、なんだろう……心臓がうるさい……)


時間が経つにつれ、オフィスはますます静かになった。

時計が9時20分を回った頃、みおが立ち上がった。


「あ、藍田さんもコーヒー飲みますか? 私、淹れます! ブラックで大丈夫ですか?」


「いらない」


即答だった。

みおが少ししょんぼりしていると、朔が小さく息を吐いた。


「……ブラックで」


「はい! すぐ淹れます!」


みおは嬉しそうに給湯室へ向かった。

戻ってきたとき、手に持っていたマグカップから湯気が立っている。


「どうぞ! 少し熱いので気をつけてくださいね」


朔は無言でカップを受け取り、一口飲んだ。

その瞬間、わずかに眉を寄せる。


「……熱いな」


「え? あ、ごめんなさい! 冷ましますか?」


みおが慌てて手を伸ばした瞬間、指先が朔の手に軽く触れた。


その瞬間、朔の動きがぴたりと止まった。

冷たい視線が、みおの指に落ちる。


みおは慌てて手を引っ込めた。


「ご、ごめんなさい! うっかり触っちゃって……本当に天然で……」


朔はしばらくみおを見つめていた。

その瞳は冷たく、しかしどこか熱を帯びているように感じる。

長い沈黙の後、朔が低く言った。


「……気をつけろ」


声がいつもより少し掠れている気がした。

みおの頰が熱くなる。


二人はそのまま作業を続けた。

朔が隣に座っているせいで、みおは自分の肩や腕が朔の体に触れそうになるたびにドキドキした。

朔の指がキーボードを打つ音、息遣い、時折みおの方に向けられる冷たい視線——すべてが近くて、意識せざるを得ない。


10時を少し過ぎた頃、ようやく全ての修正が終わった。


「これで……どうでしょうか?」


みおが恐る恐る聞くと、朔はモニターを閉じながらゆっくりと頷いた。


「ああ。十分だ」


「よかった……! 本当にありがとうございます、藍田さん! 一人だったら朝までかかってたと思います……」


みおはほっと胸を撫で下ろし、にっこり笑った。

その笑顔は無邪気で、疲れていても太陽のように明るい。


朔の表情が、一瞬だけ緩んだ。

すぐにいつもの冷たい仮面に戻るが、みおにはそのわずかな変化がはっきりとわかった。


朔が立ち上がり、コートを手に取った。


「送る」


「え?」


「遅い。一人で帰すわけにはいかない」


「い、いいです! 電車まだありますし……」


「電車は危ない」


朔の声は冷たく、拒否を許さない響きがあった。

みおはコートの襟をぎゅっと握りしめながら、小さく頷いた。


「じゃあ……お願いします」


オフィスを出ると、夜風が少し冷たかった。

朔は自分のコートをもう一度、みおの肩にそっとかけた。


「寒いだろ」


「……藍田さん、いつもコート貸してくれるんですね」


みおが照れながら言うと、朔は前を向いたまま、ぶっきらぼうに答えた。


「チームに風邪を引かれると面倒だ」


その言葉は冷たく聞こえるが、手つきは優しかった。

コートの重みと残る体温が、みおの胸を温かくする。


タクシーに乗り込む直前、朔が低く言った。


「藤原」


「はい?」


「……お前は、天然すぎる」


その言葉に、みおの胸がどくんと大きく鳴った。

冷たい視線と、ほんの少しだけ甘い響き。

その落差が、夜の街灯の下でみおの心を静かに、でも確実に揺らしていた。


タクシーのドアが閉まる瞬間、

みおは朔の横顔をもう一度、そっと見つめた。


オフィスラブは禁止のはずなのに、

残業の夜は、いつもより少しだけ温かかった。


(第3話 終わり)

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