第10話 オフィスラブは禁止のはずですが、クーラーの効いたオフィスで
夏の本格的な暑さが続く7月中旬。
プロジェクトは佳境を迎え、残業が連日続いていた。
藤原みおは夜の9時を過ぎたオフィスで、まだデスクに張り付いていた。
クーラーが効いた室内はひんやりと涼しく、外の蒸し暑さとは別世界だった。
みおは白いブラウスに軽いスカートというシンプルな服装で、髪を一つにまとめていた。
汗ばんだ首筋を軽く拭きながら、コピーの最終調整を続けている。
「はあ……もう少しで終わるはずなのに……」
そこへ、低い声が響いた。
「……まだ終わらないのか」
藍田朔がデスクの近くに立っていた。
シャツの袖をまくり、ネクタイを緩めた姿。
クールな表情は変わらないが、疲れが見え隠れしている。
「藍田さん! お疲れ様です……もう少しだけです!」
みおは慌てて背筋を伸ばした。
朔は無言でみおの隣の椅子を引き、迷わず腰を下ろした。
二人の距離が急に近くなる。
「見せろ」
朔の声は冷たく短い。
みおはモニターを朔の方に向け、隣に座る彼の体温を感じながら説明を始めた。
「ここ、『甘く溶けるような夏の瞬間』をもう少し強くしたいんですけど……どうでしょうか?」
朔は無言で画面をじっと見つめ、長い指でマウスを操作した。
その指がみおの手の近くを通るたび、みおの心臓が小さく跳ねる。
「……ここは弱い」
朔が画面の一点を指差した。
指先がみおの手に軽く触れる。
「『溶ける』という言葉を活かすなら、もっと官能的に。夏の暑さを忘れさせるような、甘い余韻を残す表現にしろ」
その言葉は仕事の指摘だったが、声が低く掠れていて、みおの耳に甘く響いた。
「は、はい……! 官能的に……頑張ります」
みおが頰を赤らめながら修正を始めると、朔は隣でじっと見守っていた。
クーラーの冷たい風が二人の間に流れ、しかし朔の体から伝わる温もりが、みおを包み込む。
作業が続く中、みおがペンを落としてしまった。
慌てて拾おうと屈んだ瞬間、みおの肩が朔の胸に軽く触れた。
「ご、ごめんなさい!」
みおが慌てて体を離そうとすると、朔が低い声で言った。
「……動くな」
朔の大きな手が、みおの肩をそっと押さえた。
冷たい視線が、みおの顔を間近で捉える。
「藍田さん……?」
みおの声が少し震える。
朔は無言でみおの肩に置いた手をゆっくりと動かし、ブラウスに付いた小さな埃を払った。
その手つきは意外と優しく、クールな表情とのギャップにみおの胸が激しく鳴った。
「汗をかいていたな」
朔が低く呟き、ポケットからハンカチを取り出して、みおの首筋をそっと拭いた。
冷たいハンカチと、朔の指の温もり。
その落差に、みおは息を詰めた。
「藍田さん……その、手……」
「邪魔だ。じっとしていろ」
朔の声は冷たく、拒否を許さない響きがあった。
しかし、拭く動きは丁寧で、まるで大切なものを扱うように優しい。
みおの頰が熱くなり、視線を落とした。
「藍田さん……いつも冷たいのに、こんなに優しい……ドキドキします」
みおの素直すぎる言葉に、朔の動きがぴたりと止まった。
冷たい視線が、みおの唇に落ちる。
「……お前は、本当に天然だ」
低い、掠れた声。
朔の顔が、ほんの少しだけ近づいた。
クーラーの冷たい空気の中で、二人の息が混じり合うような距離。
その瞬間、みおの心臓が激しく高鳴った。
朔の瞳に、クールな仮面の下に隠された熱が、はっきりと見えた気がした。
朔はゆっくりと手を離し、いつもの冷たい表情に戻った。
しかし、耳の先がわずかに赤くなっている。
「続きをやれ。……早く終わらせろ」
「は、はい……!」
みおは慌ててキーボードに向かったが、指が少し震えていた。
朔は隣で静かに見守り続け、時折短い指摘を入れる。
11時を過ぎた頃、ようやく作業が終わった。
「これで……大丈夫ですか?」
みおが恐る恐る聞くと、朔は頷いた。
「ああ。良くできた」
その一言に、みおはほっと胸を撫で下ろした。
朔が立ち上がり、コートを手に取った。
「送る」
「え……またですか?」
「遅い。一人で帰す気はない」
朔の声は冷たく、しかし拒否を許さない優しさがあった。
みおは頷きながら、朔のジャケットの温もりを思い出した。
クーラーの効いたオフィスで、
冷たい視線と温かい手。
夏の夜は、二人の距離を甘く、静かに縮め続けていた。
オフィスラブは禁止のはずなのに、
この残業の夜は、特別に甘かった。
(第10話 終わり)




