【メモリーカードに刻まれた「空白の5秒」】
安物のコーヒーは、すっかり冷え切っていた。
深夜二時。バックアップ用の外付けHDDが、悲鳴のような駆動音を立てている。
警察の鑑識が「物理的破損により復旧不能」と投げ出した、大学生・佐藤健二のメモリーカード。佐久間は、独自の解析ソフトを使って、その奥底に沈んだ「断片」を掬い上げようとしていた。
突然、モニターのノイズが止まり、一枚の画像が浮かび上がる。
それは、失踪直前の彼が最後に撮ったであろう、現地の路地裏だった。
石畳の道、色褪せたレンガ壁。だが、何かが決定的に狂っている。
つい先ほどまで写っていた、市場の喧騒や物売りの声が、その一枚からは一切感じられない。
まるで、街全体が「剥製」になったような静寂。
「……影がない」
佐久間は呟いた。真昼の太陽が真上にあるはずなのに、建物の影も、路地裏のゴミ箱の影も消えている。そして、路地の突き当たり。そこには、白い防護服のようなものを纏った「集団」が立っていた。
彼らの顔の部分には、レンズのような黒い円形が一つあるだけだ。
彼らが手にしているのは、銀色に光る、針のように細長いメス。
佐久間はマウスを握り直し、次のファイルを開こうとした。
だが、そこには画像データではなく、わずか**「5秒間」の動画ファイル**が残されていた。
再生ボタンをクリックする。
(0:01)
画面は、健二の視点だ。手ブレが激しい。彼は走っているのではない。
ゆっくりと、吸い寄せられるように「白い集団」へと歩み寄っている。
(0:02)
不意に、音声が入り込む。
ズズッ、ズズッ……という、何か重い肉塊を引きずるような音。
そして、健二の「笑い声」が聞こえた。恐怖に歪んだ声ではない。
赤子が母親の胸に抱かれた時のような、深く、安らかな吐息だ。
(0:03)
画面中央の「白い男」の一人が、手を伸ばす。
その指先がレンズに触れた瞬間、映像が激しく乱れた。
色彩が反転し、空はどす黒い紫に、石畳は血のような赤に染まる。
(0:04)
この「1秒」が、佐久間の心臓を凍りつかせた。
健二の自撮りモードに切り替わったのか、一瞬だけ彼の顔がアップで写る。
彼の瞳は、すでに人間のものではなかった。
瞳孔が消失し、眼球全体が「透明な液体」で満たされた、ただの器。
その奥で、何かが泳いでいる。
(0:05)
暗転。
最後に記録されていたのは、音だけだった。
『――適合。抽出を開始します』
それは、人間の声ではなかった。
何千もの昆虫が同時に羽ばたき、不協和音を奏でているような、金属的な電子音。
そこでデータは途絶えていた。
佐久間はモニターから目を逸らし、震える手で煙草に火をつけた。
あの5秒間。健二はまだ生きていた。
だが、彼はその時すでに「人間」であることを辞めていた。
胃の奥から込み上げる吐き気を抑えながら、佐久間は画像を最大まで拡大した。
白い男たちが持っていたメスの表面に、小さな紋章が刻印されている。
それは、十年前。
「空っぽ」になって帰ってきた妹の、爪の中に残されていた皮膚片の形状と、忌々しいほどに一致していた。




