沈んだ家と色の意味
夜のローレンス家は静かだった。
家族はもう寝室に引き上げ、
廊下は白い月光だけが細く差し込んでいる。
私は窓の外を眺めながらさっきのことを思い出していた。
(あれ…本当に危なかったんだ)
あの甘い香りを思い出すだけで、胸がざわざわする。
ノックもなく、静かに扉が開いた。
音を立てないと言うより、“もともと足音を持たない人”のような入り方。
「クララ様」
イーサンだ。
「…調べてまいりました」
彼は布包みをそっと机に置き直す。
私は椅子を引いて姿勢を正した。
イーサンの揺らぎはいつも通りの灰色。
だけど何か、いつもより深い色をしている気がした。
「……わかった?」
「はい。術式の“癖”で、家が絞れました」
私は息をのむ。
イーサンは静かに続けた。
「この術……“心を緩める”効果を持つようです。主に医療用として使われるようです。」
「……医療用?」
「はい。患者の不安を軽減したり、痛みや恐怖を少しだけ鈍らせるためのものです。本来であれば、こう言った悪巧みに使われるものではありません。」
私は思わず布包みに視線を向けた。
(…そんな魔術…なんてこと)
「ですが、これは”粗悪品”です」
イーサンの声が硬くなる。
「術式の組み方が適当で、香りも本来なら出るはずのない“甘すぎる匂い”。素人が…“真似て作った”痕跡があります」
真似て作った——?
イーサンは小さく頷いた。
「術そのものを組んだのは、おそらく別の家ですが…“この紙”は、その術式を盗んだ者が、見よう見まねで再現したものだと考えています」
私は指をぎゅっと握りしめた。
「……盗んだ?」
「はい。この術式を使う家を探しました」
イーサンの灰色が少し沈む。
「——見つかりました」
私は息を止める。
イーサンは淡々と、しかし慎重に言葉を紡いだ。
「“アルテン家”という小貴族家です。医療系の魔術研究で知られた家でしたが…数ヶ月前に“内部崩壊”し、領地を手放しています」
「…内部…崩壊?」
「家の者が急に判断を誤り、財産を不自然に処分し出したという噂があります」
私は喉がつまる。
(なにそれ…洗脳みたいなもの…?)
イーサンは続けた。
「そしてアルテン家が没落する直前、“身元不確かな青年”が頻繁に出入りしていた、という記録も残っていました」
私は顔をあげた。
イーサンの瞳は静かで、揺らがない。
「名前は……“エリオット”」
部屋が、すっと冷えた気がした。
(…前の家…で術式を盗んだ……そして次のターゲットはローレンス家)
イーサンはクララの様子を確認しながら言葉を続ける。
「おそらく、アルテン家で術式の一部を盗み、粗悪な形で再現し……ローレンス家を次の標的にしたのでしょう」
胸の奥がズキッと痛む。
(だから……あんな濁った紫の色……)
エリオットが私を見るたびに混ざる赤。クララだけを見るとき、濁りが強くなる理由。
イーサンが低い声で言った。
「……クララ様。エリオット様は、あなたに“効かない”ことに気づき始めています」
心臓がドクンと跳ねる。
「“あなたは他の人と違う”。おそらくそう感じているのでしょう。それが…クララ様の言う赤い揺らぎなのだと思います。」
(……やっぱり)
「…だからなのね…。昨日…濁った黒紫に…赤い色が毒々しかった…」
私の声は震えていた。
「ええ。おそらくは…“興味”と“警戒”の混じったものなのでしょう」
興味。
警戒。
私は唇をかんだ。
「…イーサン…私…どうしたら…」
イーサンはゆっくり私の前に膝をついた。
いつもと同じ、静かで確実な動き。
「クララ様が思い悩む必要はございません」
(え…)
「私が、クララ様をお守りいたします」
その言葉は、揺らぎのない灰色だった。
嘘がない。
穏やかで、硬くて、まっすぐ。
胸の奥にあたたかいものが灯る。
(……ああ…昨日のイーサンの赤は…怖い赤じゃなかった…)
エリオットの赤は冷たく、ざらついていた。
でも、イーサンの赤は——
私は小さく、息を吐く。
「…イーサン。ありがとう」
「…いえ」
彼の灰色に、ほんの一瞬だけ青が混じった気がした。




