触れてはいけない香り
翌日のローレンス家は、不自然なほど静かだった。
(……黒紫のもやの残り、まだある)
廊下の壁、手すり、扉の取っ手。
昨日エリオットが通った場所に、薄く濁った色がこびりついている。
(誰も気づいていない…まあ、当たり前か)
私はゆっくり呼吸を整えながら、色を追っていった。
その後ろを、イーサンが無音でついてくる。
「クララ様。…痕跡を、お調べになるおつもりですね。」
「……うん」
短く返すと、イーサンは静かに頷いた。
黒紫の残滓を追って辿り着いたのは、客間の奥、飾り棚の前だった。
(ここ…昨日もちょっと濁ってたな)
私はしゃがんで、棚の下段に指を伸ばす。
その奥……薄く紙の色が見えた。
(……紙?)
その瞬間、鼻先にふわりと甘い香りが流れ込む。
花と蜂蜜を混ぜたような……
でも、どこか頭がぼんやりする匂い。
(……変な……香り……)
私は無意識に、その紙へ手を伸ばした。
そのとき——。
「クララ様——!」
少しだけ驚くくらいの力で手首を掴まれた。
イーサンの指が食い込む。
腕に温度が走る。
私が驚いたのは、その接触よりも、彼の揺らぎに対してだった。
普段は濁りのない“灰色”のはずのイーサンが……私の前で、一瞬だけ。
燃えるような“赤”に染まった。
(……え…?)
その赤は、怒りとも苛立ちともつかない、炎のような赤だった。
「……申し訳ございません。乱暴にお止めしてしまって…」
声はいつも通り低く落ち着いているのに、色だけはまだ微かに赤を滲ませていた。
イーサンは私の手首をそっと離す。
「……それに触れては、いけません」
私は息を整えながら、棚の奥の紙を見つめた。
黒紫の濁りが渦巻き、赤い線がちらちらと浮いている。
(……これ、見ただけで気分悪い…)
甘い香りが部屋に残っている。
さっきより強く、まとわりつくように。
イーサンは棚に近づき、紙に触れないよう距離を保ちながら観察した。
「……香りがしますね。甘く、とても不自然です」
「……頭が、ぼーっと……する……」
私が言うと、
イーサンがわずかに目を見開いた。
「クララ様。先ほど手を伸ばされたのは…その影響かもしれません」
(……そうかも……)
色は見えていたのに、触れようとしてしまった。
冷静になって恐怖が湧いてきた。
イーサンは棚の下をさらに慎重に覗き込む。
「……魔術式が、仕込まれているようです」
「魔術……?」
「ええ。紙自体に、簡易的な術式が。読めば“心が開く”……そんな類でしょう」
(……心が開く、つまり口が軽くなる…?)
胸が冷える。
「クララ様が仰っていた“黒と紫と赤”…その色は、まさにこういった魔術に使われる色です」
胸の鼓動が早くなる。
イーサンは紙に近づくことなく、手袋をはめた指先で紙を少しだけ引き出した。
甘い香りがふわっと強くなり、イーサンの表情がほんのわずかに曇る。
「……クララ様。これは“外の者”が持ち込むものではありません」
「……え?」
「どこかの家……もしくは貴族社会で流通している“手段”です。エリオット様が独断で作れる類ではないように見受けられます。」
(……つまり……裏に誰か……?)
エリオットの揺らぎが昨日より濃かった理由。
今日さらに赤が混じっていた理由。
全部、線で繋がる。
イーサンは紙を布で包み、遠ざけるように机の上に置いた。
「触れたり、読んだりすれば…クララ様は“家の秘密”を話してしまう。そういう仕掛けです」
私は胸を押さえた。
(危なかった……本当に……)
イーサンが私の名前を呼ぶ。
「……クララ様」
顔を上げると、イーサンの揺らぎはいつもの灰色に戻っている。
でも——
赤が消えた今だからこそ、先ほどの色が頭から離れない。
(……イーサン……あんな色、初めて……)
イーサンは静かに言った。
「私は……クララ様が“危険に触れようとした”と、
そう感じただけです」
……“だけ”と言うには、あの赤は鋭すぎた。
私はそっと視線を落とす。
(……危険だから……止めてくれた。それだけなのに……)
(……守る。この家も。家族も。そして……)
イーサンを
甘い香りがまだ微かに残る部屋で、
私は小さく息を吐いた。




