欺きの稽古
翌日のローレンス家は、穏やかな朝の気配を纏っていた。
……表面上は。
甘い残滓の匂いが、まだ廊下の隅に薄く漂っている。
昨日よりは弱い。
けれど――完全には消えていない。
(……少し楽になったけど……まだ“色が”にじむ)
母セリーヌの桃色は白く霞み、
兄エレンの青も輪郭が曖昧だった。
そんな中、背後から静かに声がする。
「クララ様、準備はよろしいですか」
振り返ると、イーサンが立っていた。
今日も彼の灰色は澄んでいる。
(……イーサンの色だけは、にじまない)
私は小さく頷いた。
⸻
私室に入ると、
アルフォンスが机に広げた資料に目を通していた。
老人は視線を上げ、まるで“見極めるように”私を見る。
「揺らぎのにじみ具合はどうだ?」
「……昨日よりはマシ。でも…境界が弱いです」
アルフォンスは短く息をついた。
「ならば、“にじむ日の対処法”を教えよう」
その声は厳しいのに、どこか優しさがある。
「クララ嬢。色が曖昧な日は……“色そのものではなく、揺れの速度を読め”」
「……揺れの、速度……?」
「感情は、色より“動き”に嘘が出る。君の祖母も、そうやって曖昧な日を乗り越えていた」
(……お祖母様……)
胸の奥がじんわり熱くなる。
イーサンがそっと言葉を添える。
「クララ様の視線が揺れる瞬間は、私が補います。長年見てきましたので」
(イーサン…すご…)
アルフォンスが指先で机を軽く叩いた。
「では、始めよう。“欺き”の稽古だ」
私は無意識に背筋を伸ばした。
⸻
“術にかかったふり”の練習
アルフォンスの指導は的確だった。
「まずは焦点を。目の奥だけを、ほんの少し…緩めるのだ」
私は視線をぼやかすように揺らした。
「…このくらい?」
イーサンが観察し、静かに首を振る。
「少し強いです。もう少し……眠気が差した時のように」
調整して、もう一度。
「……これは?」
「自然です」
(……)
アルフォンスも満足げに頷いた。
「次は呼吸。“浅く、ゆっくり”だ」
私は指示通り、ほう、と息を整える。
イーサンが言う。
「本当に疲れている時の呼吸と近い。…自然です」
胸の奥が少しだけ温かくなった。
⸻
仕上げは、エリオットへの“返答”
アルフォンスがクララの前に来る。
「良いか、クララ嬢。エリオットは必ず君に声をかける。“具合は?” “贈り物は気に入った?”などとな」
その名が出た瞬間――
イーサンの灰色に、シュッと赤が差した。
(……イーサン……やっぱり怒ってる……)
ほんの一瞬の赤。
だけどクララにははっきり分かった。
アルフォンスは続ける。
「その時の返事は…ただ一つ」
部屋がしんと静まる。
「“……はい。少しだけ”」
私は息を整えて復唱した。
「……はい。少しだけ」
「うむ。完璧だ」
「どうして“少しだけ”なんですか?」
「誘導術にかかった者が最も示しやすい“揺れ”だからだ。拒絶せず、しかし心を開ききりもしない…術者にとって都合のいい隙だよ」
イーサンが控えめに言う。
「クララ様はもともと言葉が少ないので…むしろ自然ですね」
⸻
何度も練習した頃、
アルフォンスがふと顔を上げた。
「………来るな」
「え……?」
老人は窓辺に近づき、外気を深く吸い込んだ。
そして低く呟く。
「……“甘い残滓の流れ”が強まっておる。しかも外から屋敷へ向かって押し寄せてくる気配だ」
(……エリオット……近づいてる……)
イーサンの灰色は、鋭い青を帯びた。
アルフォンスは静かに振り返り、宣告する。
「クララ嬢。覚悟はできているか?」
私は拳を握りしめ頷く。
揺らぎはにじむ。
怖い。
でも――
(……守る。この家を……イーサンを)
深く息を吸い、はっきり言った。
「……大丈夫。行けます」
アルフォンスが満足げに頷く。
「よし。君の牙を突き立てる時が来た」
静かな反撃は、いま幕を上げた。




